学位論文要旨



No 126637
著者(漢字) 久方,瑠美
著者(英字)
著者(カナ) ヒサカタ,ルミ
標題(和) 空間処理と運動処理の相互依存性に関わる視覚処理過程
標題(洋)
報告番号 126637
報告番号 甲26637
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1054号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 村上,郁也
 東京大学 教授 石垣,琢麿
 東京大学 教授 岡ノ谷,一夫
 東京大学 教授 八田,秀雄
 東京大学 教授 新井,仁之
内容要旨 要旨を表示する

第1章 本研究の目的:人の視覚処理の初期では、色、運動、奥行き、形などさまざまな視覚特性をそれぞれ独立に処理すると考えられている。知覚される世界の座標系を得るための処理である視覚系の空間処理、網膜像の輝度分布から時空間相関を算出しそこから運動情報を検出する視覚系の運動処理は、それぞれ独立で階層的な構造があると考えられてきた。本研究では空間・運動処理の相互依存性に原因を持つと考えられる錯覚現象の解明を通じて、視覚特性処理間にどのような相互関係があるのかを解明する。

第2章 運動処理が空間処理に与える影響の検討:運動処理が空間処理に影響を与える錯視現象として「運動による位置ずれ」現象を取り上げた。運動による位置ずれ現象とは、静止輪郭内に運動情報が存在する場合、その輪郭が内部の運動方向へずれて知覚される現象である。これは,物体位置を定義する輪郭に関係のない運動情報が輪郭へ影響することを示す現象であり、運動処理から空間処理への影響を示すものである。本章では運動処理の階層性の、どの段階の運動が空間処理へ影響するのかを解明するために実験を行った。まず、運動処理後期に処理されるパターン運動が位置ずれを引き起こすのか検討した。パターン運動は2つ以上の異なる運動方向の要素運動を重ねて知覚される統一的な運動である。実験の結果、位置ずれはそれぞれの要素運動方向ではなく知覚されるパターン運動方向へ引き起こされ、その位置ずれ量は要素運動独立で引き起こされる位置ずれ量からは説明できなかった。この結果は運動処理の比較的後期の運動情報が空間処理に影響することを示している。次に、運動による位置ずれが統合運動によって引き起こされるのか実験により検討した。統合運動は、パターン運動と同じように複数の異なる運動方向の要素運動から成り立つが、それぞれの要素運動が空間的重なりを持たないものである。しかし知覚される統合運動方向は要素運動方向の足し合わせによって決定される。統合運動刺激による位置ずれを測定した結果、やはり位置ずれは知覚される統合運動方向へ引き起こされた。パターン運動による位置ずれの実験と同様、要素運動が統合される運動処理の後期以降が空間処理に影響を与える結果となった。最後に視覚系の座標変換が行われる前の運動情報が位置ずれに重要なのかどうかを検討するため、追跡眼球運動をさせた状態で位置ずれ量を測定した。その際、刺激輪郭の運動、刺激内部の運動、眼球運動の3つの要素をそれぞれ独立に操作した。その結果、網膜上で刺激輪郭が静止している場合には、位置ずれは刺激内部の運動速度に従って発生した。しかし網膜上で刺激輪郭の運動がある場合には、刺激内部の運動が輪郭と逆方向に運動する時により大きな位置ずれが発生することが明らかになった。この結果は、位置ずれ現象において網膜中心座標の刺激内部の運動情報が重要であること、また刺激内部の運動が引き起こす位置ずれ量に網膜上の刺激輪郭の運動が影響を与えることを示している。これらの実験結果から、空間知覚へ影響を与える運動処理段階は運動が統合される後期以降であることが言える。また、網膜中心座標の運動情報が位置ずれに重要であるという可能性を考慮すると、網膜中心座標をもつ領野の神経活動が物体位置の表現に関わるのではないかと考えられる。このことから網膜部位再現をもつ脳領野の、さまざまな種類の運動へ選択性をもつ細胞の受容野位置が運動情報によりシフトすることで位置ずれが発生するという仮説を提案した。

第3章 空間処理が運動処理に与える影響の検討:視覚系の空間処理から運動処理への影響を示す現象として「蛇の回転錯視」についての実験的検討を行った。蛇の回転錯視とは、静止画である刺激図形が動いて知覚される錯覚現象である。この錯視には固視時に発生する微小眼球運動が関与していると言われており、視覚系の空間処理から運動処理への影響を示す現象だと言える。本章では蛇の回転錯視に重要な視覚系の空間特性および時間特性を検討した。まずこの錯視現象に対する視覚系の空間特性を検討するため実験を行った。Hisakata & Murakami (2008)において、蛇の回転錯視は刺激呈示偏心度が大きくなるほど錯視量が多くなることが明らかになっている。偏心度が大きくなるにつれて視覚系の空間解像度が粗くなる(神経細胞受容野が大きくなる)ことが知られており、コントラスト感度やさまざまな視覚処理はこの大きくなる受容野サイズに従って呈示刺激サイズを変化させることによって、異なる偏心度でも同じ感度のパフォーマンスを得ることができることが明らかになっている。この操作は空間スケーリングと呼ばれる。偏心度によって異なる錯視量になる蛇の回転錯視にも空間スケーリングは可能であろうか。刺激サイズおよび呈示偏心度を操作し錯視量を測定した。その結果、刺激サイズを操作することにより偏心度による錯視量の違いはなくなった。この実験から蛇の回転錯視が空間スケーリング可能であることが明らかになり、この結果は偏心度によって錯視量が増加するのは機能的な処理の違いを反映しているわけではなく、同一処理内の受容野サイズの増加を反映しているだけだということを示している。さらに蛇の回転錯視に対するスケーリング係数を求め、先行研究で得られたさまざまなスケーリング係数と比較した結果、錯視に対するスケーリング係数は初期の視覚処理やV1、V2など初期視覚野のスケーリング係数と一致する傾向にあった。これらの結果から、蛇の回転錯視に関わる視覚処理は初期に存在する可能性が示唆された。次に、蛇の回転錯視の時間特性を検討した。Hisakata & Murakami (2008)において、蛇の回転錯視と網膜照度、網膜照度に伴い変化する視覚系の時間応答特性との関係が明らかになった。本研究ではこの研究結果を元に、さらに視覚系時間応答特性と錯視量の関係を検討した。視覚系の時間特性には主に過渡系と定常系の2種類が存在すると考えられており、先行研究で測定した時間応答特性はこの2つの加算により得られていると考えられている。先の研究で得られた時間応答特性を過渡系成分と定常系成分に分解し、網膜照度ごとのそれぞれの割合を算出した。その結果、蛇の回転錯視は視覚系の時間特性のうち過渡系成分の割合とよく関係する傾向にあった。このことから、視覚系過渡系応答成分が蛇の回転錯視に重要であることが示された。本研究結果は、視覚処理初期の過渡系応答時間成分を含む処理メカニズムが蛇の回転錯視を引き起こすことを示唆している。固視時の微小眼球運動に関与する視覚系空間処理は、初期の処理段階において運動処理へ影響を与えている可能性がある。これらの結果から、固視時の微小眼球運動を網膜像から取り除く補正メカニズムが錯視運動を発生させるという可能性を論じた。

第4章 総合考察:物体位置の表現に影響を与える運動処理は比較的後期であり、運動知覚に影響を与える空間処理は比較的初期に存在する可能性が示された。ここから、各視覚特性に対する処理の相互関係もそれぞれの処理の階層性を保って影響を与え合っていることが示唆される。さらに物体の空間表現には、網膜中心座標系での表現が重要であることが示された。色や形、運動などの各視覚特性を処理する脳内の領野はそれぞれ網膜部位再現(レチノトピー)をもつ。脳内の視覚処理には2つの経路があり、腹側経路(色や形などの処理)と背側経路(運動の処理)という。これまでの先行研究から、運動や位置の処理には背側経路の視覚野の活動が重要であることが示されている。本研究結果と過去の生理学や行動実験の研究結果から、網膜部位再現をもつ背側経路内領野の、神経細胞の受容野位置が知覚位置の脳内表現に重要であることが考えられる。しかしそれぞれの領野で処理される各視覚特性の位置表現はどのように統合されるのだろうか。視覚特性処理間の相互関係は感覚統合問題に関わるものであると言える。ある生理学の研究では、初期視覚野からのフィードバックが外側膝状体の神経活動同期に重要であることが明らかになっている。これと同様に、それぞれの領野から網膜位置を手がかりに各視覚野にフィードバックがあることにより、異なる領野の同刺激に対する神経活動が同期し、この神経発火同期が感覚統合に重要な役割をもつのではないだろうか。物体に関わるさまざまな視覚特性間の統合や相互関係には、視野上の位置、特に網膜中心座標系での位置がその結びつきに重要な役割を担っていると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、人間の視覚系のメカニズムについて2方向から解明を迫った実験心理学研究に関するものである。第1に、運動処理が空間処理に影響を与える事例に関する実証研究、第2に、空間処理が運動処理に影響を与える事例に関する実証研究である。

本論文の最初の章では、それらの事例を取り上げた研究動機として、先行知見から明らかになっている視覚情報処理の階層性と並列性を概説したうえ、それらの多段階処理の中でいかなる責任中枢がいかなる処理を行うのかを心理物理学の手法で明らかにするための方法を論じてから、具体的な研究動機の記述を詳細に行い、扱った視知覚現象の紹介をした。心理物理学においては、呈示された刺激によって惹起された心的過程に基づいて観察者が行った判断から、入力と出力の間の関係をデータ化し、間に存在する視覚情報処理過程においてどのような計算が行われているのかを推定する。視知覚の複数処理過程の相互作用を調べるには唯一といってもよい研究パラダイムであり、今回の研究テーマには最適の方法であるといえる。

第1の研究では、「運動による位置ずれ」現象をとりあげた。運動による位置ずれ現象とは、静止輪郭内に運動情報が存在する場合、その輪郭が内部の運動方向へずれて知覚される現象である。本現象は視覚情報処理のどの段階に責任中枢があるかいまだ明らかではない。そこで、パターン運動と呼ばれる、複雑な計算過程を経て生じるとされる運動によって位置ずれが生じるかを調べた結果、画像中に含まれる単純な運動によって予測されるよりはるかに大きな錯視量の位置ずれが生じ、その量はパターン運動による予測と一致した。次に、運動による位置ずれが統合運動によって引き起こされるのか調べた。統合運動は、パターン運動と同じように複数の異なる運動方向の要素運動から成り立つが、それぞれの要素運動が空間的重なりをもたないものである。調べた結果、やはり位置ずれの錯視量は局所的な運動からは説明がつかず、知覚される統合運動から予測される大きさとなった。

さらに別の研究動機として、網膜中心から環境中心へと座標変換が行われる前と行われた後のどちらの運動情報が位置ずれに重要なのかを明らかにするため、追跡眼球運動をさせた状態で位置ずれ量を測定した。このことにより、刺激輪郭の運動、刺激内部の運動、眼球運動の3つの要素をそれぞれ独立に操作することができた。その結果、基本的には位置ずれは輪郭と内部刺激との間の相対運動が主な決定要因となっていること、それに加えて網膜上で刺激輪郭の運動がある場合には、刺激内部の運動が輪郭と逆方向に運動する時により大きな位置ずれが発生することが明らかになった。したがって座標変換前後のいずれかという問いには明確な解答が与えられないものの、環境内の運動でなく網膜上の運動の寄与することは確かに認められた。これらの実験結果から、空間知覚へ影響を与える運動処理段階は運動が統合される後期以降であり、相対運動が錯視の方向を決定し、網膜中心座標をもつ領野の神経活動が重要であるという結論に到った。

第2の研究では、「蛇の回転」錯視をとりあげた。蛇の回転錯視とは、静止画である刺激図形が動いて知覚される錯覚現象である。蛇の回転錯視に重要な視覚系の空間特性を調べる実験を行った。刺激の呈示位置を視野中心から離すにつれて錯視量が多くなることを申請者は修士論文で明らかにした。この偏心度効果が空間スケーリング可能であるということを新たに発見した。空間スケーリングとは、偏心度ごとの測定データの違いが単に実効的な刺激サイズの違いに帰すのであれば、大きい偏心度の刺激は小さい偏心度の刺激よりも脳の受容する刺激サイズが実効的に小さくなるので、そのような刺激サイズの偏心度依存性を反映させて測定データを説明するかできるかをみるという解析方法である。刺激サイズと偏心度を独立に操作して錯視量を測定し、空間スケーリング可能性をみた結果、刺激サイズを操作することにより偏心度による見かけの錯視量の違いはなくなった。スケーリング係数を求め、先行研究で得られたさまざまなスケーリング係数と比較した結果、錯視に対するスケーリング係数の偏心度依存性の傾きは初期の視覚処理が関与すると思われる知覚課題において推定されたスケーリング係数やV1野・V2野など大脳視覚領野の初期視覚野の受容野サイズの偏心度依存性と一致する傾向にあった。これらの結果から、蛇の回転錯視に関わる視覚処理は初期に存在する可能性が示唆された。

次に、網膜照度の減少に伴って蛇の回転錯視の量が減るという効果を申請者は修士論文において見出していたが、その内部メカニズムを推定するために、ダブルパルス法にて調べた網膜照度ごとの視覚系の時間インパルス応答関数を時間ローパス型と時間バンドパス型の応答関数の混合として解析し、網膜照度の減少に伴いバンドパス型の相対的寄与率が下がること、その相対的寄与率の変化と錯視量の変化が同じ形状の網膜照度依存性を示すことを見出した。これらのことから、視覚系初期過程に存在する過渡系応答成分が蛇の回転錯視に重要であることが示された。

本論文の最終章ではこれらの実証研究の成果を踏まえて視覚系の階層性・並列性に加えて相互作用がどのようにはたらくのかを議論した。視覚系の空間処理・運動処理の相互依存性について、今回とりあげた例だけでなくより俯瞰的な視点から議論を展開し、また現象的意識や視覚的注意が成立するために必要な計算過程とそれらの情報処理過程がどのような関係をもつのかを論じて、本論文が締めくくられた。

本論文は大部な実験研究群を抱えていながら、空間処理と運動処理の相互依存性というキーワードを基軸に論旨が組み立てられているせいで、一貫性を損なわない論文構成に仕上がっている。それぞれの実験研究に関しても、明確な研究動機の下に注意深い手続きで実験が行われ、明解な意味をもつ実験データが示されて、錯視研究として有意義であるだけでなく、視覚系内部の情報処理メカニズムについて意義深い提案がなされた新たな知見といえる。本審査会においては、文字通り視覚に訴えるプレゼンテーションとともに論旨が明解に説明され、審査委員の試問に対してすべて適切な返答がなされた。審査委員からは本論文の成立可否にかかわる重大な論点の指摘はなく、本論文の完成度をさらに高めるための助言がいくつかあった。

本審査会の口頭試問にて提起された問題は概略以下のごとくである。

一、統合運動を刺激として採用したことの利点をもっと詳しく知りたい、また特定の刺激パラメーターを選らんだことの根拠が書かれていない。

一、試行数などの具体的な数字が書かれていない。

一、研究の大きな目的と今回選んだ錯視との関係性をより明確にしてほしい。

一、錯視量の個人差や結びつけ問題のような、今回の実験のスコープから外れる内容も最終章でふくらませて論じてもよい。

一、今回主張した処理段階の生理的実体について想像できることを記述してもよい。

一、図註の誤植、引用文献リストの書式の不整合など、字句の修正が必要である。

これらの問題点を総合判断した結果、マイナーな改稿を要求したところ、すべての点について本文・図版・引用文献リスト等において必要十分な改稿がなされたのを最終確認するに到った。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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