学位論文要旨



No 126639
著者(漢字) 吉江,路子
著者(英字)
著者(カナ) ヨシエ,ミチコ
標題(和) ピアノ奏者の演奏不安に関する生理心理学的研究
標題(洋) Psychophysiological Study on Music Performance Anxiety in Pianists
報告番号 126639
報告番号 甲26639
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1056号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中澤,公孝
 東京大学 准教授 渡會,公治
 東京大学 准教授 柳原,大
 埼玉医科大学 教授 村越,隆之
 東京大学 名誉教授 大築,立志
内容要旨 要旨を表示する

第1章:序論

演奏不安とは,音楽の公演場面で喚起される状況特異的不安(Salmon, 1990)であり,主観・生理・行動レベルでさまざまな症状を引き起こす。これまで,演奏不安の研究は主に欧米で行われてきており,我が国の演奏家における不安やストレスの実態は明らかでなかった。そこで,本研究ではまず,日本人のクラシック音楽演奏家278名を対象に,質問紙調査を実施した。その結果,全体の63.7%もの演奏家が演奏不安に悩まされていることが明らかとなった。また,参加者の演奏不安尺度(Cox & Kenardy, 1993)得点より,プロ演奏家に比べてアマチュア奏者,そしてアンサンブル奏者に比べてソロ奏者のほうが演奏不安が高いことが示された。楽器別に見ると,鍵盤楽器奏者の演奏不安が最も高かった。さらに,多くの演奏家が,演奏不安以外にも,練習時間の不足やスランプ等のさまざまな心理的ストレスを抱えていることが示された。一方で,心理療法や精神科診療等の専門家による介入を受けたことのある演奏家は,全体の11.2%に止まった。

本調査結果より,日本人演奏家においても,演奏不安が深刻な問題であることが確認された。演奏不安は,演奏の質(パフォーマンス)を低下させてプロ演奏家の生活を脅かすだけでなく,さまざまな障害や疾患にも発展し得る。そこで本博士論文では,公演でのパフォーマンス低下を防ぐための実践的示唆を得ることを目指し,演奏不安がピアノ奏者のパフォーマンスに与える生理心理学的機構を検討した。

第2章:実験1

従来の演奏不安研究は,演奏者の主観のみに焦点を当てた質問紙調査が主流で,生理指標の計測も心拍数のみに限られていた(例:Brotons, 1994)。一方,スポーツ心理学や産業医学の分野では,心理的ストレス下における筋活動の上昇が報告されている(例:Visser et al., 2004)。そこで本研究では,実験室環境でピアノ奏者に中程度の心理的ストレスを与え,主観的不安,自律神経系反応,筋活動,単純な演奏課題のパフォーマンスに及ぼす影響を検討した。

方法

アマチュアピアノ奏者12名(男7,女5,平均21.9±3.3歳)に,審査あり(ストレス)/審査なし(コントロール)の2条件下で課題曲(アルペジオ)を演奏してもらい,演奏直前の主観的不安,演奏中の平均心拍数,精神性発汗量,前腕・上腕・肩の筋活動,電子ピアノからのMIDI(musical instrument digital interface)信号を測定した。

結果と考察

審査なし条件に比べ,審査あり条件では主観的不安,心拍数,発汗量が増加し,適切に心理的ストレスを誘発できたことが確認された。さらに審査あり条件では,腕や肩の筋活動強度及び上腕/前腕の拮抗筋同士の共収縮レベルが有意に高まり,スポーツ動作等と同様の結果となった。さらに筋活動強度の上昇によって,打鍵強度も高まった。筋活動増加に起因する音量制御の阻害が,演奏不安によるパフォーマンス低下の一因であることが示唆された。

第3章:実験2

実際の音楽公演場面では,実験室環境で行われた実験1よりも心理的ストレスが高いと想定される。そこで本研究では,実験を兼ねた本格的なピアノコンクールを開催し,出場者の生理心理学的反応を観察した。

方法

熟練ピアノ奏者18名(男7,女11,平均26.7±6.3歳)に,2条件で自由曲を演奏してもらった。参加者は,コンクール(ストレス)条件では41名以上の聴衆と5名のプロ審査員の前で演奏し,リハーサル(コントロール)条件では練習室内で1人きりで演奏した。実験1と同様,演奏直前の主観的不安,演奏中の平均心拍数,精神性発汗量,前腕・上腕・肩の筋活動,審査員の採点したパフォーマンス得点を条件間で比較した。図1は,全波整流し,最大力発揮中の値(MVC)で標準化した,演奏中筋電図の波形例を示している。

結果と考察

リハーサル条件に比べて,コンクール条件では主観的不安,心拍数,発汗量が増加し,適切に心理的ストレスを誘発できたことが確認された。特に心拍数は,コンクール条件で平均34.2拍/分の増加が認められ,ストレス下で5.0拍/分の増加が認められた実験1に比べて,交感神経系活動がより亢進したことが示された。また,実験1と同様に,コンクール条件では筋の活動強度及び共収縮レベルが有意に高まった。共収縮レベルの上昇は,実験1で用いられたような単純な課題では,インピーダンスを高めることで動作の安定性向上に寄与すると考えられるが,本実験で用いられた複雑なピアノ楽曲演奏においては,重力等の外力の効率的利用を阻害し,パフォーマンス低下を招いたと推測される。

第4章:実験3

随意運動の準備及び遂行中には,感覚運動関連皮質上のβ帯域律動波(いわゆるμ波)が抑制される事象関連脱同期化という現象が観察される(Pfurtscheller & da Silva, 1999)。本研究では,心理的ストレスがピアノ演奏中の事象関連脱同期化に与える影響を検討した。さらに,実験1・2で考慮されなかった演奏不安レベルの個人差が,ストレス下における生理心理学的反応やパフォーマンスにどのように影響するかを検討した。

方法

事前に295名の演奏家に演奏不安尺度(Cox & Kenardy, 1993)に回答してもらい,低演奏不安群8名(男2,女6,平均25.3±7.6歳)と高演奏不安群9名(男3,女6,平均24.1±6.5歳)をリクルートした。参加者に,ストレス/コントロールの2条件下で課題曲(トリル)を演奏してもらい,演奏中の主観的不安,平均心拍数,前腕と肩の筋活動,脳波,演奏後の唾液コルチゾール濃度を測定した。

結果と考察

両群ともに,コントロール条件に比べてストレス条件では心拍数が有意に増加したが,主観的不安,筋活動,唾液コルチゾール濃度は高不安群のみで増加が認められた。また,本研究で新たに考案した筋脱力率という指標から,高不安群のみにおけるストレス下での前腕筋脱力率の低下が示された(図2)。腕の脱力は,ピアノ演奏の芸術的表現において非常に重要である(Caland, 1921)ため,脱力率の低下は,通常の楽曲演奏におけるパフォーマンス低下を招く恐れがある。さらに両群の反応の違いの背景として,高不安群のみにおいて,ストレス下での演奏中に,低β帯域(13-16Hz)におけるμ波事象関連脱同期化の抑制が認められた。β帯域事象関連脱同期化は,固有受容感覚の効率的処理を促進し,現在の感覚運動状態を維持する機能に関連することが示唆されている(Engel & Fries, 2010)。心理的ストレス下では,運動系神経回路に皮質脊髄路の興奮性上昇等(Hajak et al., 2007)の変化が生じ,新たな感覚-運動連関を再学習する必要がある(Pijpers et al., 2003)。μ波事象関連脱同期化は,拮抗筋同士の共収縮と同様,末梢感覚情報処理を促進することで,動作を安定させ,ストレス下でのパフォーマンス低下を防ぐ機構を反映したものだと推測される。

第5章:総合考察

本研究結果から,演奏不安によるパフォーマンス低下を防ぐための実践的示唆が得られた。第一に,ストレス下での自律神経系反応は,必ずしもパフォーマンスに悪影響を与えるわけではないことが示された。演奏者は,ステージ上での心拍数増加を公演に随伴する反応として捉えるべきである。第二に,演奏不安によって,腕や肩の筋活動が増加するとともに,拮抗筋同士の共収縮レベルが高まり,脱力率が低下することが示された。こうした筋活動変化には,インピーダンスが高まることで動作が安定するという利点がある一方で,外力の効率的利用を妨げ,疲労を蓄積させることで,長時間にわたるピアノ楽曲演奏ではパフォーマンスを低下させたり,演奏関連筋骨格系障害の発症リスクを高めたりする危険性がある。よって,筋の脱力を意識しながら遅いテンポで演奏する練習や筋電図バイオフィードバック等を利用し,ストレス下の演奏でも練習時と同様の筋活動を再現できるように訓練することが重要だと考えられる。第三に,μ波事象関連脱同期化が,ストレス下での音楽演奏における情報処理過程の指標として有用であることが示唆された。本指標に基づき,従来の演奏不安治療/介入法の効果を客観的に評価できるとともに,脳波ニューロフィードバックを利用した新たな介入法を開発できる可能性がある。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、演奏に対する不安がピアノ奏者のパフォーマンスに与える影響を生理学的・心理学的視点から検証し、公演でのパフォーマンス低下抑止につながる実践的な示唆を得ることを目的とするものである。

第一章では、日本人演奏家における演奏不安の実態を明らかにするために質問紙法を用いた調査を実施した。その結果、全体の6割強の演奏家が演奏不安に悩まされていることが明らかとなった。とりわけ、プロ演奏家に比べてアマチュア演奏家、アンサンブル奏者に比べてソロ奏者の演奏不安が高いこと、楽器別では鍵盤奏者の演奏不安が最も高いことが判明した。この結果を受け、第二章から四章では実際に演奏家を対象として実施された生理心理学的実験の結果がまとめられた。

実験1(第二章)では、実験室においてピアノ奏者に中程度の心理的ストレスを与え、主観的不安、自律神経系反応、筋活動、単純な演奏課題の遂行に及ぼす影響が検討された。その結果、ストレス下では、主観的不安、心拍数、発汗量が増加するとともに、上肢の筋活動強度の増加、上腕と前腕の拮抗筋共収縮レベルの有意な増加が確認された。さらに筋活動強度の増大は、打鍵強度の上昇を招いていた。これらの結果から、ストレス下では不適切な筋活動の増加が音量制御を阻害し、結果としてパファーマンスの低下につながることが示唆された。

実験2(第三章)では、実験室環境より心理的ストレスが強いと想定される本格的なピアノコンクールを開催し、出場者の生理・心理学的反応を計測した。熟練ピアノ奏者がリハーサル(コントロール)条件とコンクール(ストレス)条件の2条件で演奏した際の主観的不安強度、心拍数、発汗量、上肢の筋活動が計測された。その結果、コンクール条件では、主観的不安、心拍数、発汗量の増加が認められ、それらが心理的ストレスに起因することが示唆された。さらにコンクール条件では、実験1同様に上肢筋の活動強度の増大、拮抗筋間の共収縮レベルの増加が観察され、これらも心理的ストレスによって誘発されたものと考えられた。

実験3(第四章)では心理的ストレスがピアノ演奏中の脳波に影響を及ぼすのか否かが検討された。この実験では、事前に行った質問紙調査から参加者を演奏不安が高い群と低い群の2群に分けた。各参加者はストレスとコントロールの2条件で課題曲を演奏した。その際の、主観的不安、心拍数、上肢の筋活動に加えて、脳波および演奏後の唾液中コルチゾール濃度が測定された。その結果、両群ともに、コントロール条件に比べてストレス条件において心拍数が有意に増加したが、主観的不安、筋活動、唾液コルチゾールは高不安群のみで増加した。さらに、筋の持続的な緊張度を評価するために考案した筋脱力率について調べたところ、高不安群のみでストレス下での前腕筋脱力率の低下が認められた。脳波信号の解析結果から、ストレス下での演奏中に高不安群でのみ、低β帯域(13-16Hz)におけるμ波事象関連脱同期化の抑制が認められた。μ波事象関連脱同期化とは、随意運動の準備および遂行中に感覚運動関連皮質上のα~β帯域律動波が抑制される現象で、固有受容感覚の効率的処理を促進し、現在の感覚運動状態を維持する機能に関連する。高不安群のストレス条件下で事象関連脱同期化が減弱したことは、心理的ストレスが感覚情報処理系に何らかの影響を及ぼすことを示唆すると考えられた。

第五章の総合考察においては、実験によって得られた結果が総合的に論議された。そしてそれらが実際の演奏不安によるパフォーマンス低下を防ぐためのどのような方法につながるのかが提案された。例えば,演奏不安にともなう拮抗筋間の共収縮に対しては、筋の脱力を意識しながら遅いテンポで演奏する練習や筋電図バイオフィードバック等を利用する方法が効果的と考えられた。また、本研究ではμ波事象関連脱同期化が,ストレス下での音楽演奏における情報処理過程の指標として有用であることが示唆されたことから、本指標に基づき,従来の演奏不安治療/介入法の効果を客観的に評価できるとともに,脳波ニューロフィードバックを利用した新たな介入法の開発可能性が提案された。

審査会においては、本研究が演奏不安とパフォーマンスの関係という定量化が難しい問題に対して、巧みに統制され工夫された生理心理学的実験を用いてアプローチし、重要な発見に成功した点が高く評価された。さらに本研究の成果あるいは引き続き展開されるであろう今後の研究は、演奏不安のみならずフォーカルジストニアに代表される演奏家の心身の問題に対して、従来困難とされた科学的解決の道を切り開くことが期待される。

このように全体として本論文に対する評価が高い一方で、新たに得られた結果の解釈については論理の飛躍がある箇所があり、修正が求められた。具体的には、1)演奏中の脳波解析から得られた結果の背後にある生理学的機序の解釈とその妥当性、2)拮抗筋間の筋活動に観察された共収縮の機能的意義、等についての再検討と必要な点の修正が求められた。しかし結果自体の信頼性が高く、その価値が損なわれるものではないことから、結果の解釈にかかわる数箇所の修正が為されれば博士(学術)の学位に十分値することが全会一致で承認された。本論文の結果の一部は、既に主要な国際誌3編に原著論文として掲載されている。この事実は関連する学会からもその学術的価値が認められたことの証左であって、本論文の学術的意義をゆるぎないものとしている。

以上を総合的に審議した結果、本審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいと認定するものである。

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