学位論文要旨



No 126641
著者(漢字) 堀部,直人
著者(英字)
著者(カナ) ホリベ,ナオト
標題(和) 履歴をもつ生物及び無生物システムが示す運動の数理的解析
標題(洋) Theoretical Analysis of Living and Non-living Systems with Memory Structure
報告番号 126641
報告番号 甲26641
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1058号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,正和
 東京大学 教授 池上,高志
 東京大学 准教授 吉田,丈人
 東京大学 講師 豊田,太郎
 理化学研究所 チームリーダー 谷,淳
内容要旨 要旨を表示する

第1章 序論

運動することが生物であることの必要条件とはいえない。しかしながら、生物を含む局所的な系が非平衡であることは重要であり、それゆえ、運動することも生物の重要な特徴の一つであるといえる。もっとも単純な運動の例としてブラウン運動を挙げることができるが、一般に生物の運動の多くは履歴に依存しておりブラウン運動ではない。つまり、履歴を持った運動こそ生物にとって重要な特徴の一つである。そしてしばしば、生物の運動は自律的(autonomous)であると表現される。

運動を解析する方法は大きく2通りである。一つは運動の物理的あるいは生理的メカニズムを解明することであり、もう一方はその運動の適応的な意義を解明することである。前者はロボットや生体分子など無生物の運動についても適用可能なアプローチであるが、後者は生物を対象にしたときに特有のアプローチであり、行動生態学の成功が目覚ましい。自己複製の自然な帰結として競争と淘汰が生じることを考えると、適応的な運動に生物の自律性(autonomy)が宿るといえるかもしれない。

しかし一方で、無生物の運動の中にも自律性の萌芽が認められる[1]。本論文では、生物の運動と無生物の運動、双方を解析・比較することで生物の自律性について考察を行った。同一の刺激に対して多様な反応を行うことは自律性の条件の一つである[2]ことから、自律運動にはなんらかの形で履歴の効果が影響するはずである。また多様な反応が可能であることは、適応進化の上で有利に働くと考えられる。さらに生物は、刺激を受動的に関知するだけではなく、自ら運動することで能動的に刺激を受け取り、反応する。これらの事項と自律性の関連を解析することを念頭に実験系を設計した。

解析は、運動の結果残された運動軌跡を主な対象とした。これは、生物が運動した結果残された軌跡にはその生物の自律的な運動メカニズム、外部環境の影響を受けての意志決定過程が反映されており、この軌跡を解析していくことで生物の生理状態や適応戦略を明らかにすることが可能だと考えられるためである。無生物の運動につても同様で、移動軌跡からその運動メカニズムや環境との相互作用を推測することができる。運動軌跡を解析することは、その運動を行った物体(生物を含む)の理解を進めることが期待されるにもかかわらず、定量的に軌跡を解析する技法は確立していない(その一つの試みが例えばmovement ecology[3-4])。そこで、軌跡を定量的に解析する一般的な手法の開発も同時に行った。

第2章 動画解析システムの開発

物体の運動軌跡を記録することでその運動の基本情報を得ることができる。大型の動物であれば野外でGPS受信機を組み込んだテレメトリー発信器による記録が一般的である。一方、小型動物や粒子の追跡にはビデオ録画とその動画解析が有効であるが、動画解析には高度な技術や高価なソフトウェアが必要となる。そこで、動物行動学者・生態学者になじみのある統計言語「R」を用いて、無料かつ簡便に扱える動画解析プログラムを開発した。これは、1個体の追跡、カラーマーキングを行った複数個体の同時追跡、色情報の統計処理などが可能な汎用性の高いシステムであり、以後の章で解析に用いた。

第3章 ショウジョウバエ運動軌跡の解析

生物の運動は自律的である。また、その運動は適応進化の産物でもある。遺伝学のモデル生物であるキイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)では、記憶に障害のある系統が存在しており、それゆえ生物の自律性と履歴の効果ならびに適応進化の影響を考察するのに適した材料である。

そこでまず、第2章で開発した装置を用いて、野生型ならびに短期記憶に障害があるキイロショウジョウバエによる餌探索行動の運動軌跡を取得した。

次に、運動軌跡の中から特徴的な運動パターンを見つけ出すために時系列解析を行った。局所定常自己回帰分析[5]、ならびにリカレンスプロット[6]による解析から、運動軌跡が少なくとも2つの運動要素から構成されていることが明らかとなった。その2つとはアクティブに動き回るモードと、制止あるいはごく限られた領域を比較的低速度で運動するモードである。後者のモードには、探索ターゲットに遭遇した直後に見られる地域集中型探索と自発的に運動を抑制していると考えられる場合の双方が含まれていた。また、各運動モードを生成するメカニズムとして、前者にはノイズ様の、後者にはカオティックな機構が存在する可能性が示唆された。また、運動要素をさらに詳細に分類するため、自己組織化マップを用いた解析を行った。その結果、8つの運動要素が特定され、それらの間の遷移確率の中に直線運動へと切り替えていく指向性が認められた。これは、適応的な運動要素の切り替えなのかもしれない。

そこで、運動軌跡の適応性を調べるためにgo/stop解析を行った。その結果、適応的であるとされるLevy walkと、乱雑な運動の帰無モデルであるrandom walkのちょうど中間の運動であることが支持された。これは、直線運動を継続することでLevy的に振る舞い、採餌効率を高めようという指向と、有限の記憶力と運動持続能力しか持てないという身体性ゆえにrandom walk的にしか振る舞えないという制約の影響と考えられる。実際、記憶力の制約がより強いと考えられる記憶の変異体で直線運動の継続時間が短くなる傾向が存在した。さらに、変異体の運動から、同じ領域を繰り返し歩いた結果として「穴」が生じた。

本章で得られた自律性と履歴と適応という3者の関連についての新たな知見の意義については、第4章の解析結果とあわせて第5章で詳細に論ぜられる。

第4章 自律運動を行う油滴の解析

化学反応を行う油滴から"自律"運動の萌芽を見ることができる[7-8]。本章では、無生物システムにみられる"自律性"から生物の自律性を考えていくために、油滴の系を用いた一連の実験を行った[9]。まず、位相差顕微鏡下で油滴内部の対流を観察することで、油滴が界面での化学反応に起因する小規模な対流が自発的に対称性を破って成長した結果生じる大規模な対流によって駆動されることを確認した。

次に、油滴に反応性のないニトロベンゼンを混合することで系を改良し、油滴サイズの調整を可能にした。そして、第2章で開発した装置を用いて運動軌跡を記録・分析した。その結果、油滴のサイズに依存した軌跡の多様性が確認された。小さいサイズだと異常拡散、中程度だと直線運動、大きくなると不安定な振動運動と、複数の運動様式を記述することができた。これは主にサイズに依存した油滴の形状と対流の安定に依存している。さらに、油滴の運動要素を特定するために第3章と同様に自己組織化マップを用いた分類を行った。その結果、fluctuating, circular, directional, vibratingという4つの運動モードが特定された。サイズに依存してどういった割合でこれら4つの運動モードを含んでおり、どういった遷移パターンを見せるかが大きく異なっていた。小さな油滴は主にfluctuatingとdirectionalという二つのモードの間で遷移を繰り返し、中程度の油滴は初期にはdirectional modeを主に示し、時間がたつにつれてcircularからfluctuating modeへと移っていく。大きなサイズは主にvibrating modeを示し、時折他の三つのモードのいずれかへと遷移する。中程度のまでのサイズの増加は対流の安定化に伴い運動も安定化し、ある閾値を超えるサイズの増加は対流を不安定化し、運動も不安定化させると考えられる。油滴はその表面が外界のセンサーであると同時に運動の原因である対流を生み出すモーターとしても働くセンサー-モーターカップリングを備えた系であり、本実験によりセンサー-モーターの状態に依存した運動の多様性を示すことができた。

さらに本系が協同現象を示すことを確認した。それは、対流が比較的安定していると考えられる小~中サイズの油滴同士における引力相互作用である。これは、ある油滴の運動モードが他の油滴の運動モードを引き込み、お互いの運動を強めあったためと考えられる。この引力が、対流が弱くなると考えられる実験の後半や対流が不安定な大サイズの油滴には存在していないことはその傍証である。

本実験と解析は、化学反応と物理的な実体がカップリングしただけの単純な系から高度に複雑な運動様式が生成されることを発見する共に、その相互作用から一段階上の階層の秩序が生成しうることを示した。このポテンシャルゆえに油滴の運動には"自律性"が感じられるのかもしれない。

第5章 総合考察

軌跡を解析する一般的手法として、従来行われていた確率過程の当てはめだけでなく、運動要素の抽出とその要素間での遷移状態の解析という手法を確立した。ひとたび運動要素の分類に成功すると、各運動要素が生成されるメカニズムや遷移が起こるときの内部・外部環境の評価が可能となり、運動の理解に大きく貢献することとなる。

本研究の結果から、生物の運動に見られる自律性には二つの側面があることを指摘できる。第一に、自律性はただ単に複雑な行動にではなく、適応的な行動に宿るということだ。例えば多重振り子のような複雑な運動を見せられても、そこに自律性を感じることはない。逆に、単純な行動であってもそこに適応的な説明が与えられると自律性が感じられる。しかし一方で、ここで取り扱った油滴や、ボイド[10]、あるいは佐山らの化学モデル[11]からも自律性が感じられる。これはそこに適応性が、あるいは少なくともその可能性や萌芽が存在するからだろう。自律性に関する第二の指摘はまさにこの点である。すなわち、複雑な運動に適応性の欠片が存在すると判断するのは、観察者の主観である。

我々がどのような運動の中に適応性を見いだしているのか、完全に適応の産物であるが自律性が感じられない運動は存在するのか、適応進化がシステムにもたらす一般的な性質とは何か、こういった問いに答えていくことが、自律性を理解する次のステップとなるだろう。

1.Hanczyc, M.M., et al., Fatty acid chemistry at the oi-water interface: self-propelled oil droplets. Journal of the American Chemical Society, 2007. 129(30): p. 9386-9391.2.Rosslenbroich, B., The evolution of multicellularity in animals as a shift in biological autonomy. Theory in Biosciences, 2005. 123(3): p. 243-262.3.Nathan, R., An emerging movement ecology paradigm. Proceedings of the National Academy of Sciences, 2008. 105(49): p. 19050-19051.4.Nathan, R., et al., A movement ecology paradigm for unifying organismal movement research. Proceedings of the National Academy of Sciences, 2008. 105(49): p. 19052-19059.5.Takahashi, H., et al., Analyzing the house fly's exploratory behavior with autoregression methods. Journal of the Physical Society of Japan, 2008. 77: p. 84802.6.Eckmann, J.P. and et al., Recurrence Plots of Dynamical Systems. EPL (Europhysics Letters), 1987. 4(9): p. 973.7.Hanczyc, M.M., et al., Chemistry at the oil-water interface: Self-propelled oil droplets. Journal of the American Chemical Society, 2007. 129: p. 9386-9319.8.Toyota, T., et al., Listeria-like motion of oil droplets. Chemistry Letters, 2006. 35: p. 708-709.9.Horibe, N., M.M. Hanczyc, and T. Ikegami, Shape and motion dynamics in self-moving oil droplets. Proceedings of the 3rd Mobiligence conference, 2009: p. 367-371.10.Reynolds, C.W., Flocks, herds and schools: A distributed behavioral model. SIGGRAPH Comput. Graph., 1987. 21(4): p. 25-34.11.Sayama, H., Swarm chemistry. Artif. Life, 2009. 15(1): p. 105-114.
審査要旨 要旨を表示する

本論文では、生物と無生物それぞれの運動軌跡を対象として、同じ実験手法と解析法を適用して比較することで、生物の運動の自律性について考察を試みたものである。生物は代謝・恒常性・栄養分の取り込み(摂食)・自己複製・増殖などの特性を備えており、これらは生物と周囲の環境との相互作用で成り立つものである。それを支えている生物の性質として運動や行動がある(主に細菌・原生生物・粘菌・動物など)。一般に生物の運動や行動は環境からの履歴情報に依存しており、ブラウン運動ではない。履歴を持った運動こそ生物にとって重要であり、これにより生物の運動は自律的(autonomous)であると表現される。生物の自己複製と繁殖の帰結として競争と淘汰が生じることを考慮すると、適応的な運動にこそ生物の自律性 (autonomy) が宿るといえる。一方で、無生物系にも、油滴やミセル、コアセルベート等のように環境との相互作用による履歴情報をもった複雑な動きを示すものがある。生物を無生物と比較することで、生物の持つ自律性の本質を問う試みである。

生物は変異系統が多く揃っているキイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)を材料にし、無生物系としては水溶液中の無水オレイン酸の油滴を対象とした。生物の運動軌跡にはその生物の自律的な運動メカニズムや外部環境の影響を受けての履歴情報が反映されているはずで、この軌跡を解析していくことで、生物の生理状態や適応戦略を明らかにすることが可能と申請者は着想した。これは無生物の運動についても同様で、運動軌跡からその運動メカニズムや環境との相互作用を推測することができる。しかし、定量的に運動軌跡を解析する技法は確立しておらず、軌跡を定量的に解析する一般的な手法の開発も同時に行っている。

1章の序論に続いて、2章として動画解析システムを独自に開発している。これは統計言語Rを用いており、1個体の追跡だけでなく、カラーマーキングによる複数個体の同時追跡、色情報の統計処理などが可能な汎用性の高いシステムとなっている。

この動画解析システムを用いて、3章ではキイロショウジョウバエの野生系統(Canton-S)ならびに短期記憶障害系統 (rutabaga 系統)による餌探索歩行の運動軌跡の画像を取得した。ここから得られる時間ステップごとの速度と角度の時系列データについて局所定常自己回帰分析 (ARモデル)を適用することで、アクティブに動き回るモードと、ごく限られた領域を比較的低速度で運動するモードの、2つが抽出できた。後者のモードには、探索目標 (砂糖水の水滴)に遭遇した直後に見られる局所集中型探索と、自発的に運動を抑制している状態の両方が含まれる。また、自己相関のリカレンスプロットも同様の結果を示し、これら2つの運動モードは、大域探査運動は目立った構造がなくノイズが多いが、局所探査運動はカオス構造を持つ特徴が明らかになった。次に、運動要素を分類するための自己組織化マップ (SOM)の解析により複数の運動要素が検出され、要素間の遷移確率分布をみると停止/抑制状態に留まる状態から直線運動へと切り替えていく指向性が認められた。この切り替えは適応的である可能性が示唆される。

そこで、運動軌跡の適応性を調べるために時系列データのgo/stop 解析を行っている。これは、環境から情報が得られない状況での最適採餌行動とされるLevy walkと、乱雑な運動の帰無モデルであるrandom walkとで、当てはまりの良いモデルを選択する解析法である。Akaike weightの結果がちょうど中間の運動であることが分かった。これは、一定方向運動をある程度持続することでLevy walkして採餌効率を高める指向性と、現実には有限の記憶力と運動持続能力しか持てない身体性の制約による混合状態と見なしている。実際に、記憶力がより希薄と考えられる変異系統では、一定報告運動の継続時間が短い傾向があり、(Levy 係数がより高い) 、通過しない歩行軌跡の「穴」が表れたのは、同じ方向への緩い角度を継続した結果として生じたと考えられる。その具体的な生理メカニズムはまだ明らかではないが、記憶力が不完全である身体性の影響の解析は今後の興味深い大きなテーマとなる可能性が高く、この点の発見は評価が高い。

第4章では、オレイン酸アルカリ溶液中で複雑な運動を示す無水オレイン酸の油滴の運動を対象とした。この油滴系は、界面での化学反応に起因する小規模な対流が自発的に対称性を破って成長した大規模な対流によって駆動されることが先行論文で報告されている。第2章で開発した装置を用いて運動軌跡を記録・分析したところ、油滴サイズに依存した軌跡の多様性が確認された。小さいサイズだと異常拡散、中程度だと一定方向運動、大きくなると不安定な振動運動と、複数の運動様式が確認できた。さらに、SOMを用いた分類を行い、振動(fluctuating)、円運動(circular)、一定方向の前進 (directional) 、小さな振動 (vibrating)という4つの運動モードが特定された。サイズに依存して要素間の遷移確率は大きく異なっており、特に興味があるのは中程度のサイズである。初期には一定方向への前進を主に示し、時間が経つにつれて円運動から振動へと移っていく。さらに本系が協同現象を示すことも確認できた。具体的には、対流が比較的安定している小~中サイズの油滴どうしで、ある油滴の運動モードがもう一方の油滴の運動モードを引き込み、お互いの運動を強めあう傾向である。この現象は新発見であり、この協同運動を解析した点は大いに評価される。

第5章は総合考察であり、生物と無生物の運動軌跡を統一して解析する共通の解析法を確立したことが述べられている。生物には環境からの履歴情報を持つ個体に対して自然選択がかかることで自律的な進化的適応が備わってきたが、無生物系は環境からの履歴情報に依存して複雑な運動を示したとしても、そこには自然選択による進化的適応は見られない。それでも、環境の履歴情報に依存して複雑な運動を示す系を解析し、生物系と無生物系とを比較した申請者の新しいアプローチは、生物学者も物理学者も化学者も魅了させるものである。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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