学位論文要旨



No 126646
著者(漢字) 影澤,幸一
著者(英字)
著者(カナ) カゲサワ,コウイチ
標題(和) 集積型金属錯体における動的スピン平衡と協奏的連鎖物性の研究
標題(洋) Study on the dynamic spin equilibrium and the succeeding concerted phenomena for assembled-metal complexes
報告番号 126646
報告番号 甲26646
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1063号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 小川,桂一郎
 東京大学 准教授 錦織,紳一
 東京大学 教授 前田,京剛
 東京大学 准教授 野村,貴美
内容要旨 要旨を表示する

物性化学の分野において、光物性、伝導性、磁性などの異なる機能を同時に併せ持つ、多重機能性の発現を目的とした研究開発が盛んに行われている。近年、ジチオオキサレートを架橋配位子とした鉄混合原子価錯体 (n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3] (dto=C2O2S2)において、120 K付近でスピンエントロピーを駆動力とした電荷移動相転移が起こることが報告された[1]。図1に示すように、(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]はFeIIとFeIIIがdtoを介して交互に配置された二次元のハニカムネットワーク構造を有し、この[FeIIFeIII(dto)3]∞の層と対カチオンの層が交互に積層した層状構造を形成している[2]。この物質は120 K以上の高温相においてFeIIIS6は低スピン状態、FeIIO6は高スピン状態であるが、120K以下の低温相になるとFeIIとFeIIIの間で電子が一斉に飛び移り、FeIIS6は低スピン状態、FeIIIO6は高スピン状態になる。

前述のように、FeIIIS6は低スピン状態、FeIIIO6は高スピン状態をとることが一般的に知られている。モノチオオキサレートで架橋された集積型金属錯体A[MIIFeIII(mto)3] (A=対カチオン; M=Zn, Mn, Fe; mto=C2O3S)はFeIIIサイトが3個の酸素原子と3個の硫黄原子に囲まれたFeIIIO3S3の環境であるため、上述の理由からスピンクロスオーバー領域に位置すると考えられる。実際にFeIIIO3S3のサイトを有する単核金属錯体iron(III)tris(monothiocarbamato)において、高スピン状態と低スピン状態が入れ替わるスピン平衡が確認されている[3]。また、集積型金属錯体は金属イオン、配位子、対イオンの組み合わせを変えることで様々な機能を発現することが報告されている。本論文では、この集積型金属錯体A[MIIFeIII(mto)3]のFeIIIO3S3のサイトにおけるスピン平衡とそれに連鎖して起こる新規の物性現象に関する研究成果について述べる。

本論文は全六章から構成されており、第一章では研究背景として金属錯体を主体とする分子磁性体全般とそれに関する物性現象について述べ、本研究の背景と目的について述べている。

第二章では、(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]のFeIIIO3S3サイトにおける速いスピン平衡について述べる[4]。図2に示す(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]のX-band 電子スピン共鳴(ESR)分光の結果から、FeIIIO3S3環境のスピン状態は高スピン状態と低スピン状態が共存するスピン平衡状態であることがわかった。図3に(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]の57Feメスバウアースペクトルを示す。ESR分光からFeIIIO3S3の電子状態が高スピン状態と低スピン状態の共存状態であることが確認されているにもかかわらず、57Feメスバウアー分光では1本のダブレットのみが検出された。これはFeIIIO3S3サイトにおいて高スピン状態と低スピン状態が57Feメスバウアー分光の時間尺度(10-7秒)よりも速い時間で入れ替わっているためである。上述のように、(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]のX-band ESR分光と57Feメスバウアー分光測定から、FeIIIO3S3環境における速いスピン平衡(動的スピンクロスオーバー現象)が10-10 < τ < 10-7 秒の時間尺度で起きていることが確認された。これは速いスピン平衡が集積型金属錯体で起こることを示した初めての報告例である。

第三章では、(n-CnH2n+1)4N[ZnIIFeIII(mto)3] (n=2-4)の合成と層間のカチオンサイズの変化がFeIIIO3S3サイトにおけるスピン平衡に及ぼす影響について議論する。磁気測定とESR分光法から、カチオンサイズの減少に伴いFeIIIO3S3サイトにおける低スピン状態の割合の増加が確認された。これはカチオンサイズの変化がハニカム格子の伸縮を伴い、FeIIIO3S3サイトの配位子場に影響を与えていることを示唆する。さらに、57Feメスバウアースペクトルから、カチオンのサイズによってスピン平衡の時間尺度が変化することを明らかにした。

続いて、(C6H5)4P[MnIIFeIII(mto)3]におけるスピン平衡を媒介にした特異な磁気相転移について第四章で述べる。(C6H5)4P[MnIIFeIII(mto)3]はFeIIIO3S3サイトで速いスピン平衡が起こり、図4に示す磁気測定の結果から30 K以下で磁気秩序化が起こることが確認されている。一方、57Feメスバウアースペクトルでは23 K以下でFeIIIの磁気秩序化が観測された。これは30 KにおいてFeスピンは速いスピン平衡によるフラストレーションのため長距離秩序が発生せずMnスピンのみが整列し、23 Kで初めてFeスピンが整列すると考えられる。

最後に第五章において、(n-C4H9)4N[FeIIFeIII(mto)3]におけるスピン平衡を媒介にした電荷揺動について述べる[5]。磁気測定から、(n-C4H9)4N[FeIIFeIII(mto)3]がTN=38 Kのフェリ磁性体であることがわかった。また、室温におけるχMTの実測値が、FeIII (S=5/2)-FeII (S=2)とFeIII (S=1/2)- FeII (S=2)の中間の値であることから、FeIIIO3S3 サイトにおいて、S=5/2とS=1/2のスピン平衡が起きている可能性が示唆される。実際に、ESRスペクトルから、FeIIIの高スピン状態と低スピン状態の共存が、広い温度領域に亘って確認されている。さらに、それぞれ片側のみを57Fe同位体に置換した、(n-C4H9)4N[57FeIIFeIII(mto)3]と(n-C4H9)4N[FeII 57FeIII(mto)3]の57Feメスバウアースペクトルの解析から、常磁性相においてFeIIとFeIIIの間で電荷移動が確認された。(n-C4H9)4N[FeIIFeIII(mto)3]は、FeIIIO3S3 サイトの低スピン状態を媒介とすることで速いスピン平衡と価数揺動の協奏現象が起きていることが明らかとなった。

[1]N. Kojima, W. Aoki, M. Itoi, Y. Ono, M. Seto, Y. Kobayashi and Yu. Maeda, Solid State Commun. 120, 165 (2001).[2]M. Itoi, A. Taira, M. Enomoto, N. Matsushita, N. Kojima, Y. Kobayashi, K. Asai, K. Koyama, T. Nakano, Y. Uwatoko and J. Yamaura, Solid State Commun. 130, 415 (2004).[3]K. R. Kunze, D. L. Perry, and L. J. Wilson, Inorg. Chem. 16, 594 (1977).[4]K. Kagesawa, A. Okazawa, M. Enomoto and N. Kojima, Chem. Lett. 39, 872 (2010).[5]K. Kagesawa, Y. Ono, M. Enomoto and N. Kojima, Polyhedron 28, 1822 (2009).

図1:(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]の結晶構造[1]。

図2:(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]のESRスペクトルの温度依存性[4]。

図3:(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]の57Feメスバウアースペクトルの温度依存性[4]。

図4:弱磁場下における(C6H5)4P[MnIIFeIII(mto)3]の磁化の温度依存性。■:磁場冷却過程、●:ゼロ磁場冷却過程、▲:残留磁化過程。

審査要旨 要旨を表示する

金属イオンのスピン状態がスピンクロスオーバー領域にある集積型混合原子価錯体では、電荷移動転移とスピンクロスオーバー転移が連動した特異な相転移を起こす可能性を持っており、従来のスピンクロスオーバー現象を超える新現象が期待される。近年、このような観点からdithiooxalato (dto)を架橋とする鉄混合原子価錯体(n-C3H7)4N[FeIIFeIII(dto)3]が合成され、この物質において、スピンと電荷が連動して発現する電荷移動相転移と呼ばれる新しい型の相転移が発見された。この物質は120 K以上の高温相においてFeIIIS6は低スピン状態、FeIIO6は高スピン状態であるが、120 K以下の低温相になるとFeIIとFeIIIの間で電子が一斉に飛び移り、FeIIS6は低スピン状態、FeIIIO6は高スピン状態になる。一般にFeIIIS6は低スピン状態、FeIIIO6は高スピン状態をとることが知られている。モノチオオキサレート(C2O3S)で架橋された集積型金属錯体A[MIIFeIII(mto)3] (A=対カチオン; M=Zn, Mn, Fe; mto=C2O3S)ではFeIIIサイトが3個の酸素原子と3個の硫黄原子に囲まれたFeIIIO3S3の環境であるため、上述の理由からスピンクロスオーバー領域に位置すると考えられる。実際、FeIIIO3S3のサイトを有する単核金属錯体iron(III)tris(monothiocarbamato)において、高スピン状態と低スピン状態が10-7 sより速い時間スケールで入れ替わる動的スピン平衡が確認されている。本論文は、FeIIIサイトのスピン状態がスピンクロスオーバー領域にある集積型混合原子価錯体A[MIIFeIII(mto)3] (A=対カチオン; M=Zn, Mn, Fe; mto=C2O3S)を開発し、メスバウアー分光法、電子スピン共鳴分光法(ESR)、磁気測定、誘電応答測定などの物性測定手段を用いて、FeIIIO3S3のサイトにおける動的スピン平衡とそれに連鎖して起こる新規物性現象に関して系統的な研究を行ったものであり、本論文は6章で構成されている。

第1章では研究背景として金属錯体を主体とする分子磁性体全般とそれに関する物性現象について述べ、本研究の背景と目的について述べている。

第2章では、(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]のFeIIIO3S3サイトにおける速いスピン平衡について報告している。(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]では、X-band 電子スピン共鳴(ESR)分光の結果から、FeIIIO3S3サイトのスピン状態は高スピン状態と低スピン状態が共存するスピン平衡状態であることを明らかにしている。57Feメスバウアースペクトルでは、ESR分光からFeIIIO3S3の電子状態が高スピン状態と低スピン状態の共存状態であることが確認されているにもかかわらず、1本のダブレットのみが検出された。これはFeIIIO3S3サイトにおいて高スピン状態と低スピン状態が57Feメスバウアー分光の時間尺度(10-7秒)よりも速い時間で入れ替わっているためである。上述のように、(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]のX-band ESR分光と57Feメスバウアー分光測定から、FeIIIO3S3環境における速いスピン平衡(動的スピンクロスオーバー現象)が10-10 < τ < 10-7 秒の時間尺度で起きていることを明らかにしている。これは速いスピン平衡が集積型金属錯体で起こることを示した初めての報告例である。

第3章では、(n-CnH2n+1)4N[ZnIIFeIII(mto)3] (n=2-4)の合成と層間のカチオンサイズの変化がFeIIIO3S3サイトにおけるスピン平衡に及ぼす影響について報告している。磁気測定とESR分光法から、カチオンサイズの減少に伴いFeIIIO3S3サイトにおける低スピン状態の割合の増加を確認しているが、これはカチオンサイズの変化がハニカム格子の伸縮を伴い、FeIIIO3S3の配位子場に影響を与えていることを示唆している。さらに、57Feメスバウアースペクトルから、カチオンのサイズによってスピン平衡の時間尺度が劇的に変化することを明らかにしている。

第4章では、(C6H5)4P[MnIIFeIII(mto)3]におけるスピン平衡を媒介にした特異な磁気相転移について報告している。(C6H5)4P[MnIIFeIII(mto)3]では、57Feメスバウアー分光法からFeIIIO3S3サイトで速いスピン平衡が起こっていること、磁気測定の結果からは30 K以下で磁気秩序化が起こることを明らかにしている。ところが、57Feメスバウアースペクトルの解析では、磁気秩序が生じる30 KではFeIIIO3S3サイトのスピンは常磁性状態であり、23 K以下でFeIIIのスピンは磁気秩序状態を示すことを明らかにした。このことは、30 KではFeスピンは速いスピン平衡によるフラストレーションのため長距離秩序が発生せずMnスピンのみが整列し、23 Kで初めてFeスピンが整列すると推論している。

第5章では、(n-C4H9)4N[FeIIFeIII(mto)3]におけるスピン平衡を媒介にした電荷揺動について報告している。磁気測定からは、(n-C4H9)4N[FeIIFeIII(mto)3]がTN=38 Kのフェリ磁性体であることを明らかにしている。また、室温におけるχMTの実測値が、FeIII (S=5/2)-FeII (S=2)とFeIII (S=1/2)-FeII (S=2)の中間の値であることから、FeIIIO3S3 サイトにおいて、S=5/2とS=1/2のスピン平衡が起きていることを指摘している。実際、ESRスペクトルから、FeIIIの高スピン状態と低スピン状態の共存を広い温度領域に亘って実証している。さらに、(n-C4H9)4N[FeIIFeIII(mto)3]におけるFeIIサイトおよびFeIIIサイトのうち、片側のみを57Fe同位体に置換した、(n-C4H9)4N[57FeIIFeIII(mto)3]と(n-C4H9)4N[FeII 57FeIII(mto)3]の57Feメスバウアースペクトルの解析から、常磁性相においてFeIIとFeIIIの間で電荷移動に伴う原子価揺動が生じていることを明らかにしている。これらの結果より、(n-C4H9)4N[FeIIFeIII(mto)3]では、FeIIIO3S3 サイトの低スピン状態を媒介とすることで速いスピン平衡と価数揺動の協奏現象が起きていることを証明している。

第6章は、第2章から第5章における特筆すべき重要な成果をまとめて、今後の展望について述べている。

以上のように、本論文では、集積型金属錯体(C6H5)4P[ZnIIFeIII(mto)3]においてFeIIIO3S3サイトにおける速いスピン平衡(動的スピンクロスオーバー現象)が10-10 < τ < 10-7 秒の時間尺度で起きていることを見出したこと、(n-CnH2n+1)4N[ZnIIFeIII(mto)3] (n=2-4)においてカチオンのサイズおよび温度によってスピン平衡の時間尺度が劇的に変化することを見出したこと、(C6H5)4P[MnIIFeIII(mto)3]においてFeIIIO3S3サイトにおける速いスピン平衡(動的スピンクロスオーバー現象)がFeスピンの磁気秩序化を抑制し、MnIIスピンとFeIIIスピンが異なる温度で磁気秩序化を起こすことを見出したこと、(n-C4H9)4N[FeIIFeIII(mto)3]においてFeIIIO3S3 サイトの低スピン状態を媒介としたFeIIIO3S3サイトの速いスピン平衡とFeII-FeIII間原子価揺動の協奏現象が起きていることを見出したことなど、FeIIIサイトのスピン状態がスピンクロスオーバー領域にある集積型混合原子価錯体A[MIIFeIII(mto)3] (A=対カチオン; M=Zn, Mn, Fe; mto=C2O3S)の動的スピン平衡とそれに連鎖して起こる新規物性現象に関して系統的な研究を行ったものであり、分子磁性をはじめとする関連分野への貢献は多大なものがある。なお、本論文中の研究は全ての章にわたって論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

よって、本論文は博士(学術)の学位申請論文として合格と認められる。

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