学位論文要旨



No 126649
著者(漢字) 橋,宏
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ヒロシ
標題(和) 集合体界面を利用した自己生成反応促進と集合体内部を利用した自己生成反応制御
標題(洋)
報告番号 126649
報告番号 甲26649
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1066号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,滋
 東京大学 教授 尾中,篤
 東京大学 准教授 若本,祐一
 東京大学 講師 豊田,太郎
 東京大学 名誉教授 菅原,正
内容要旨 要旨を表示する

ここ20年の間に超分子科学と呼称される分野に関心が集まり、クラウンエーテルに代表される環状ポリエーテル、クリプタンドのようなカプセル分子、さらに籠状のクラスター分子を用いたホストゲストの化学が発展した。ナノカプセルを用いた化学反応の制御機構では、共有結合により形成された剛直なカプセルに、基質分子が特異的に取り込まれ、制御を受けた空間を利用することで、化学反応の反応性や選択性が高まる。これに対し、分子集合体の反応性や、集合体、会合体を含む分子システムの反応特性といったものは、未開拓な領域が多い。例えば、分子集合体であるベシクルやミセルも、化学反応に対して興味深い影響を与えると考えられる。ベシクルのような両親媒性分子からなる分子集合体は、表面の電荷、二重膜の流動性を利用し、ベシクル表面、ベシクル内水相や二重膜内を反応場とすることで、均一溶液反応とは異なる予想外の化学反応系を構築できると期待される。

筆者は、このような両親媒性分子集合体を利用した、集合体構成成分の生成反応系の構築を目指してきた。本論文では、両親媒性分子集合体が、集合体の構成成分を作り出す化学反応に与える影響を追跡し、その化学的な意義と、反応が作り出すマクロなダイナミクスの意義について論じたい。

ベシクル表面プロトンを利用した、膜分子の自触媒的生成反応

自触媒反応とは、化学反応の生成物が、自身を作り出す反応を触媒する反応系である。第二章では、両親媒性分子の自己集合体であるベシクルからなる自触媒反応系の構築を目指した。さらに、そのような反応系におけるベシクル表面の役割について議論している。

筆者が構築した化学反応系は、水中に分散させたベシクル膜分子前駆体(V*)から、ベシクル構成成分である膜分子(V-・を作り出す反応系である(図1, 左)。この反応系では、生成したV-が自発的に水中でベシクルを形成する。このベシクルが、自身の構成成分である膜分子の生成にどのような影響を与えるかを検討した。紫外可視吸光光度計を用いてV*の加水分解に伴うV-の生成を追跡した結果、V-の生成は、シグモイド様の生成曲線を描いた。このことは、V-ベシクル非存在下では反応が遅いのに対して、ベシクルが形成されると反応が速くなることを示している (図1, 右)。さらに、V*の加水分解の初期V-濃度依存性の実験から、V-の初期濃度が大きいほど、V*の加水分解が速く進むことがわかった。これらの結果から、第二章で構築したベシクル反応系は、V-ベシクルが触媒となる自触媒反応系であることがわかった。

また、V-ベシクル触媒能の機構を解明するための実験を行った。様々なpHのリン酸緩衝液で形成させたベシクル分散媒中でのV*の加水分解追跡、およびV-ベシクルの・-ポテンシャル測定から、第二章で構築した化学反応系では、リン酸緩衝液中でアニオン性ベシクル表面の対イオンが、カリウムイオンからプロトンに置き換わることで、ベシクル表面のプロトン局所濃度が高くなることが分かった。そして、ベシクル表面のプロトンが、ベシクル分散媒に添加されたV*から膜分子V-を生成する反応を加速することを見出せた。

ベシクル膜の自触媒的生成とベシクル自己生産系との関係

ベシクル表面での膜分子前駆体の加水分解で生成した膜分子は、元ベシクルに取り込まれる。膜分子の取り込みにより、元ベシクル外膜が肥大し分裂する。その結果、反応系内のベシクル数が増える。このような現象は、ベシクルの自己生産系と呼ばれており、細胞膜の分裂モデルとしても興味深い。第三章では、顕微鏡及びフローサイトメータを用い、筆者が第二章で構築したベシクル膜自触媒的生成系におけるベシクルの形態変化の観測を行い、ベシクル自己生産系との関係について議論した。

位相差及び蛍光顕微鏡で、V*の加水分解に伴うV-ベシクル数の変化を観察したところ、反応前後でベシクルの数が増えていることがわかった。次に、反応に伴う個々のベシクルの形態変化を位相差顕微鏡で観察した結果、V-ベシクルはpeeling的なダイナミクスでその数を増やすことが分かった。さらに、フロサイトメータを用いて、ベシクル膜内に取り込ませた蛍光分子(ローダミン誘導体)の強度に関するヒストグラムの時間変化を追跡した(図2, 左)。その結果、時間経過に伴い、個々のベシクルの蛍光強度を示すヒストグラムが小さい方向へシフトすると共にその分散が広がった。これは、元ベシクルから新たに形成されたベシクルへの蛍光分子の流れ込みが起こったことを示している。これらの実験から、新たなベシクルが元ベシクルから生まれたことが明確になった。即ち、本研究で構築したベシクル反応系には、a.アニオン性V-ベシクル表面でのV*の加水分解→b.膜分子V-生成→c.元ベシクルへの取り込み→d.ベシクルが増える→aに戻る、という化学反応のサイクルが存在することになる。これは、本反応系が、ベシクル自己生産系と密接な関係のあるauto-poieticな概念で説明できる化学反応系であることを示している。

さらに、フローサイトメータを用いた測定から、V*投入直後のベシクルの大きさの分布と、V*投入120分後のベシクルの大きさの分布が変わらないことを見出した(図2, 右)。これは、ベシクル増殖系において、元ベシクルの曲率が、新たに形成されたベシクルに影響を与えた場合に見られる現象である。上で述べたように本系では、ベシクルはpeeling的なダイナミクスで増えている。これは、元ベシクルを土台とした増殖様式であり、新しく出来るベシクルが、元ベシクルと大きさが変わらないという結果は、合理的と考えられる。

第二章と、第三章で構築したアニオン性ベシクルからなる化学反応系では、自己集合体であるベシクル表面のプロトンを利用したベシクル膜の自触媒生成という点で、分子集合体の化学としての意義を明確にすることが出来た。また、本反応系のマクロなダイナミクスを観測することで、ベシクル自己生産系との関わりを示すことが出来たと考えている(図3)。

集合体内部を利用した集合体構成成分の生成反応制御について

第二章、第三章では、ベシクルに焦点を当てた研究を展開したが、第四章では、より一般的な両親媒性分子集合体に焦点を当て、ベシクルのように定まった形を持たない集合体であっても、集合体構成分子の生成反応を集合体レベルで制御できるかについて議論した。第四章では、活性カルボン酸部位を持つ両親媒性分子1と、アミノ基を末端に持つ四級アンモニウム塩型両親媒性分子(2a,2b)がそれぞれ水中で自己集合化し、かつ生成物(3a,3b)が反応物より優れた自己集合能を持つ縮合反応系を設計し、その水中での反応挙動を追跡した (図4, 左)。なお、このアミド結合が形成される反応の追跡には液相クロマトグラフィーを用いた。また、反応物及び生成物の限界ミセル濃度は、ナイルレッドを指示薬として用い測定した。

反応追跡の結果、得られた知見を概念図で示す(図4, 右)。反応物A,Bの片方のみ、もしくは両方が水中に単分散しているときには、反応の進行に伴い、反応速度定数が低下した。これは、生成物が自己集合体(Cn)を形成し、反応物の片方(例えばA)を選択的に取り込み (AnCn)、目的物の生成反応を抑制するためであろう。これに対して、反応物A及びBの濃度がそれぞれの限界ミセル濃度より高い時には、反応が抑制されないことが分かった。これは、反応物同士が混合ミセル(An,Bn)をつくることで、その中で目的物が生成しても、反応が阻害されないためであると考えられる。さらに、原料のアルキル鎖を長くし、原料からなる集合体の疎水性を増すと、反応が非常に促進されることも分かった。第四章で得られた結果は、反応物の初期状態(反応物からなるミセルの有無)を利用した化学反応制御の可能性を示唆している。これは、集合体や集合体形成能を持つ反応物同士の反応制御を考える上で貴重な一石を投じるものと思っている。

本研究の意義

筆者は、両親媒性分子集合体(ベシクル、ミセル)からなる化学反応系の構築と、そのような反応系における集合体の影響について興味を持ち、研究を続けてきた。本論文で構築した両親媒性分子集合体を組み込んだ化学反応系では、反応目的物が自発的に分子集合体を作り出し、形成した分子集合体が目的物を作り出す反応に影響を与えることがわかった。このような反応系は、分子から分子集合体へと、反応の階層を一段挙げている点で反応化学的に意義のあるものであると筆者は考えている。さらに、本研究で得られた知見(ベシクル表面の触媒能、自触媒反応に伴うベシクルのダイナミクスの変化、両親媒性分子集合体の組成による反応の制御の可能性)は、集合体の化学に新たな展開を与えうるものと言える。

図1; 膜分子前駆体V*の加水分解に伴う膜分子V-の生成

図2; フローサイトメーターを用いたベシクルの蛍光及び大きさの変化の測定

図3;膜分子の自触媒的生成と、ベシクル増殖のサイクル

図4; 第四章で構築した化学反応系とその反応系への重合体の効果

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、分子集合体を反応場とする新しい有機化学反応系の構築と、その解析に関するものである。本論文は5章から構成されており、第1章では本論文における研究の背景が説明され、第2章では両親媒性分子の自己集合体が形成するベシクルを反応場とする自触媒反応系の構築に関する研究成果が述べられている。続く第3章では、第2章で構築した反応系について、ベシクルの形態変化を直接観測した結果が議論されている。第4章では、前章とは対照的に、集合体構成分子の生成反応が集合体形成によって制御される反応系について、その研究成果が説明されている。第5章では、本論文の研究を総括するとともに、分子集合体の化学における本研究の意義が述べられている。

従来の有機化学反応の機構的研究は、分子が集団として均一に振舞う溶液中で行われてきた。しかし近年では、超分子化学と称される分野に関心が集まり、分子集合体が形成する特異な反応場を用いた化学反応に興味が持たれるようになっている。特に、水中において多数の両親媒性分子が、弱い相互作用によって集合化することにより形成されるミセルやベシクルといった分子集合体における反応は、均一溶液中とはまったく異なった様相を示すことが推測される。それは、分子集合体の疎水場や表面といった不均一な環境が反応場になり、濃縮効果や表面電荷の効果といった特異な相互作用が反応に影響を与えることが期待されるためである。このような環境を反応場とする化学反応系の構築とその解析は、我々の生体を形成する細胞がまさにそのような分子集合体であることを考慮すると、生命現象を物質の観点から解析することにつながる研究といえる。しかし、現在においてそのような研究は、まったく未開拓の領域であるといってよい。本論文の第1章では、分子集合体に関するこれまでの研究が要約され、本論文が目的とするミセルやベシクルを反応場とする反応系が提示されている。上記の通り、本論文で構築しようとする反応系は、従来の有機反応化学ではほとんど対象とならなかった系であり、その意味で本論文は、きわめて挑戦的な研究であると評価された。

本論文では、題目が示すとおり、2つの対照的な反応系について研究成果が述べられている。一つは、ベシクルを反応場とする集合体界面を利用した自己生成反応の促進であり、これは第2章と第3章で詳細に議論されている。もう一つは、ミセルを反応場とする集合体内部を利用した自己生成反応の制御であり、これについては第4章で述べられている。前者は、水中に分散させたベシクル構成分子前駆体が、加水分解によってベシクルを形成する反応系である。第2章では、まず目的とする系を構築するための分子設計とその合成法が述べられ、反応過程の速度論的な解析の結果が示されている。精密な解析の結果、反応過程はシグモイド様の生成曲線を描くこと、またあらかじめベシクルが存在すると反応が加速することを見い出し、この反応が自触媒反応であることを明確に示した。さらに、この反応機構を解明するために、反応速度のpH依存性を検討し、ベシクルのゼータ電位の測定を行った結果、ベシクルの触媒機能は、ベシクル表面におけるプロトンの局所濃度の増大によるものであることが判明した。このような不均一な反応場における有機化学反応を解析した例はほとんどなく、学術的に価値の高いものであると評価された。

この反応によってベシクル表面で生成した分子はベシクルに取り込まれるため、ベシクルは肥大化するはずである。この点に注目して、反応の進行に伴うベシクルのダイナミクスを直接的に観測した結果が、第3章に述べられている。ベシクルを位相差および蛍光顕微鏡により観測したところ、加水分解反応の進行とともに確かにベシクル数が増加することが確認された。また、この観測結果からベシクルの増殖は、ベシクル外膜の肥大化によって外側から剥がれるようなダイナミクスにより起こるものと推定した。さらに、フローサイトメータを用いて加水分解に伴うベシクルの集団的な形態変化を追跡したところ、その推定と矛盾しない結果が得られた。このように、溶液中で進行する自触媒反応を、従来の速度論的な解析にとどまらず巨視的な視点から解明しようとする点は、生命現象の化学的な理解につながるものであり、新たな分野を切り開く研究であると評価された。

第4章では、生体内における基本的な反応の一つであるアミド形成反応を用いて、反応における分子集合体の影響を調べた結果が議論されている。この系では前章までの系とは対照的に、反応の進行とともに反応速度定数が低下した。この理由を、詳細な速度論的検討に基づいて、生成物が反応物よりも高い自己集合能をもつことにより生成物のミセルが形成され、その中に反応物が取り込まれることによるものと推定した。本章で得られた成果は、生成物が分子集合体形成能をもつ反応において、反応速度を制御できる可能性を示唆している点で注目される。

第5章に総括されているように、本論文で議論された有機化学反応系は、反応物が自発的に分子集合体を形成し、それが反応に主体的にかかわる反応である。本研究は、従来、均一溶液中の分子の間で進行する反応がおもな題材であった有機反応化学の研究領域を、分子集合体へと階層を一段高めた点で、価値の高いものである。また、この研究は、反応生成物が分子集合体を形成するように精密になされた分子設計と、それを実際に合成する高い有機合成技術に裏付けられたものであり、反応系のユニークさとともに、それらについても高く評価された。

なお、第2、3章の成果は学術論文として英国化学会速報誌に投稿、受理され、すでに出版されている。当該論文は本論文提出者が筆頭著者になっており、本論文提出者が主体的に行った研究成果と認められる。

以上の理由により、本審査委員会は本論文を、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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