学位論文要旨



No 126652
著者(漢字) 渡邉,賢太郎
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ケンタロウ
標題(和) ベシクルを反応場とする人工光合成に関する研究 : 白金触媒を用いる光水素発生系の構築
標題(洋)
報告番号 126652
報告番号 甲26652
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1069号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,滋
 東京大学 教授 小川,桂一郎
 東京大学 教授 平岡,秀一
 東京大学 教授 真船,文隆
 東京大学 准教授 佐藤,守俊
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、「ベシクルを反応場とする人工光合成に関する研究:白金触媒を用いる光水素発生系の構築」と題して、自然界で営まれている高効率的な光‐化学エネルギー変換系である光合成を基礎として、それをモデル化したシステムの人工的な構築に関する研究を述べたものである。

第1章では、研究の背景となる自然界の光合成について述べた後、光合成を人工的に模倣した人工光合成系、および光水素発生系に関するこれまでの研究例を紹介した。光合成は、緑色植物やシアノバクテリアが行う非常に高度な光エネルギー変換系である。光合成では、太陽光エネルギーを用いて二酸化炭素がグルコースとして還元的に変換されており、この過程によって光エネルギーが化学エネルギーに高効率に変換されていると見ることができる。緑色植物の場合、光合成の光化学的な過程は葉緑体内部のクロロフィルを含むチラコイド膜において行なわれている。その過程における一連の反応により、水が酸素に酸化され、強い還元力を持つNADPHが合成される。さらに、光化学的な過程によって、チラコイド膜にプロトン濃度勾配が形成され、そのエネルギーを用いてADPからATPが合成される。このようにして合成されたNADPHとATP双方により、二酸化炭素のグルコースへの還元が行われる。光合成は、以上のような複雑なシステムであるが、大きく三つの過程で理解することができる。それらは、(1)アンテナ複合体による光エネルギー捕集、(2)反応中心における電子移動反応による電荷分離状態の形成、(3)安定化学種の生成による電荷分離状態の持つエネルギーの固定の三つである。

システム化された一連の光反応を用いて、この過程をより簡潔な形で人工的に再現し、さらには電荷分離状態が持つエネルギーを安定な化学種として固定することは、太陽光エネルギーを有効に利用する系の構築との関連から有意義なことであろう。本論文では、光合成の本質を模倣する視点から、安定な電荷分離状態を光化学的に形成する系を人工的に構築することを「人工光合成」と定義する。一方、人工光合成をより意義のあるものにするためには、光により形成された電荷分離状態がもつエネルギーを、我々が利用できる形として取り出すための仕組みを作る必要がある。その方法のひとつとして、物質変換が考えられる。これは、自然界の光合成と同様に光エネルギーを化学エネルギーに変換して固定することを意味している。その中で、光エネルギーによる水の還元による水素発生は広く研究が行われているが、これまでの研究のほとんどは、電子供与体として一電子酸化体が不可逆的に分解する犠牲試薬を用いたものである。水素を生成するために犠牲試薬を用いている限り、系の循環は不可能であり、真の意味での光‐化学エネルギー変換系と言うことはできない。

筆者は、人工光合成は、光合成の本質から導き出される次の5つの条件を満たすべきであると考えている。すなわち、(1)電荷分離状態の生成における電子移動過程の自由エネルギーの変化△Gが正であること、(2)進行する酸化還元反応が可逆的であること、(3)電子移動反応が方向性を持っていること、(4)可視光により反応が進行すること、(5)電荷分離状態が持つエネルギーを利用可能なエネルギーとして取り出せること、である。これらをすべて満足する系は、現在のところ報告されていない。当研究室における光誘起電子輸送系は、ベシクル構成分子として卵黄ホスファチジルコリン (EPC)を用いて、ベシクル疎水場に取り込まれたピレン誘導体に光照射を行うことで、内水相のアスコルビン酸イオン (Asc-)から外水相のメチルビオロゲン (MV2+)へ方向性を持った電子輸送を進行させ、ベシクル膜の内外にアスコルビン酸ラジカルAsc-とメチルビオロゲンラジカルカチオンMV-+の電荷分離状態を形成させようとするものである (Fig. 1)。この反応全体の自由エネルギー変化△Gは正の値をもち、また、Asc-、およびMV2+はいずれも可逆的な酸化還元反応を行う電子供与体、および電子受容体である。この系は、上記の5つの条件のうち、(1)、(2)、(3)を満たしており、さらに、触媒を用いる光水素発生系と連結すれば、(5)の条件も満たす人工光合成系が構築できることになる。本論文は、このような観点にもとづいて、ベシクルを反応場とする光水素発生系を構築することを目的とするものである。

第2章では、これまでの白金コロイドを触媒とする光水素発生系に関する研究を背景に、ベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系と白金コロイドを触媒とする光水素発生系の連結を試みた。単にベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系に、白金コロイド溶液を添加するだけでは、水素発生は進行しなかった。しかし、白金コロイドの種類や調製法、緩衝液の種類や濃度、および電子供与体、電子受容体の濃度などの諸条件の検討を行うことにより、ベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系を利用した水素発生系を構築することに成功した(Fig. 2)。この系では、方向性を持った光誘起電子輸送反応とベシクルを用いた電荷分離状態の長寿命化が、可逆的な酸化還元反応を行う試薬であるアスコルビン酸ナトリウム(AscNa)を電子供与体とする光水素発生を可能にしており、この点において新規性の高い光水素発生系である。しかし、この系における電子伝達体メチルビオロゲン(MV2+)の一電子還元体MV-+の白金コロイドによる水素への変換効率は2.9%であり、高い値ではなかった。このため、この系の高効率化を検討したが、ベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系と白金コロイドが共存できる条件が限られているため、水素発生効率を向上させるための反応条件のさらなる最適化は困難であると判断し、光水素発生系における触媒として用いるための白金(II)錯体の開発に着手した。

第3章では、Sakaiらが報告した光水素発生の触媒として働く白金(II)錯体に関する研究を背景に、ベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系を利用した光水素発生系の触媒として用いることのできる、3種類の増感剤連結型白金(II)錯体1-3の設計と合成を行った。さらに、これらの水素発生触媒としての有用性を評価するため、1-3それぞれについて有機溶媒中で犠牲試薬トリエチルアミン(TEA)を電子供与体として用いた光水素発生を検討した。メタノール中において1-3の光水素発生の触媒としての機能を検討したところ、1-3すべてが電子伝達体を必要としない一成分光水素発生系の触媒となることが判明した。増感剤連結型白金(II)錯体による光水素発生系はSakaiらが報告した数例が知られているのみであり、しかも有機化合物を増感部位として持つものは現在のところ報告されていない。さらに、この系についての機構的研究を行い、Sakaiらの報告でも詳細に述べられていなかった増感剤連結型白金(II)錯体を触媒とする光水素発生についての反応機構を推定した(Fig. 3)。以上の研究から、増感剤連結型白金(II)錯体1-3の光水素発生の触媒としての有用性が確認できたため、ベシクルを反応場とする電子輸送系を利用した水素発生系への応用を検討した。

第4章では、まず、第3章で光水素発生系の触媒としての有用性が確認された増感剤連結型白金(II)錯体の中で最も優れた触媒として働いた3を用いて、ベシクルを反応場とする光水素発生を検討した。しかし3は、MV2+と犠牲試薬の存在下、ベシクルを反応場とする光水素発生系の触媒として機能したものの、光誘起電子輸送系を利用した水素発生系における触媒にはならなかった。これは、3がベシクルを反応場とする光誘起電子輸送反応の効率のよい増感剤として働かなかったことが原因と考えられる。そこで、光誘起電子輸送反応の良好な増感剤として知られている1-ヒドロキシメチルピレン(PyCH2OH)を増感剤とし、ベシクル二分子膜との親和性を高めるために長鎖アルキル基を導入した白金(II)錯体(4)を新規に設計、合成し、4を触媒とする光水素発生系を検討した。この結果、4はベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系を用いた光水素発生系の良好な触媒として働くことが判明した。また、この系の電子伝達体MV2+、および白金錯体4の濃度依存性を検討したところ、水素発生量はこれらの濃度に大きく依存することが判明した。最適なMV2+、および白金錯体4の濃度条件におけるMV2+の一電子還元体MV-+の水素への変換効率は65%以上と推定され、ベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系を利用した水素発生系における触媒として、4の有用性は非常に高いことがわかった。この系の反応機構をFig. 4に示す。

本論文における研究の結果、人工光合成系が満たすべき5つの条件のうち、当研究室におけるベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系が元より持ち合わせていた、(1)、(2)、(3)の条件に加えて、(5)の条件も満たす系が構築されたことになる。また、現在までに報告されている分子システムを用いた光水素発生系において、逆電子移動を抑制することにより、可逆的に酸化還元反応を行う電子供与体を用いているものは他になく、光水素発生系の観点からも新規性の高い系の構築に成功したと言うことができる。

Fig. 1 EPCベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系の模式図

Fig. 2 DPPCベシクルを反応場とする光誘起電子輸送系を用いた光水素発生系

Fig. 3 TEAを犠牲試薬とする有機溶媒中における増感剤連結白金(II)錯体3を用いる光水素発生の推定反応機構

Fig. 4 疎水場にPyCH2OHと白金錯体4、内水相にAscNa、外水相にMV2+を含むベシクル溶液に対する光照射による光水素発生の推定機構

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、植物が営む光合成を適切にモデル化することにより、光を用いて水を還元し水素を発生させるシステムを構築する研究に関するものである。本論文は5章からなり、第1章では本論文における研究の背景が説明され、第2章では従来から知られている白金コロイドを触媒とする光水素発生系の構築について述べられている。その結果を受けて第3章では、新規白金(II)錯体の設計、合成とその触媒機能の評価、さらに第4章において、白金分子触媒と光誘起電子輸送系を連結した光水素発生系の構築が説明されている。第5章では、本論文の結果が総括され、本論文で構築した光水素発生系の光‐化学エネルギー変換システムとしての意義が述べられている。

緑色植物の光合成は、高効率的な光‐化学エネルギー変換システムと見ることができる。すなわち、光エネルギーは植物の優れた分子システムによって電荷分離エネルギーに変換され、最終的に二酸化炭素がグルコースに還元的に変換されることによって化学エネルギーとして固定される。このようなシステムを人工的に構築しようとする研究は、一般に人工光合成とよばれ、現在も活発に研究が進められている。本論文に述べられている研究は、植物がもつ分子システムの本質を抽出して適切にモデル化することにより、光‐化学エネルギー変換システムとしての光水素発生系を構築することを目的とするものである。第1章では、自然界に見られる光合成を分子科学的な視点から概観したのち、光合成の人工的模倣に関するこれまでの研究が要約されている。特に、本論文では、様々な意味で用いられる人工光合成という言葉を明確に定義し、それを実現するための条件を明示したことは注目に値する。さらに、光水素発生系に関するこれまでの研究を紹介するとともに、人工光合成の観点からそれらの系の問題点を指摘している。本論文において反応場に用いたベシクルとは、両親媒性分子が水中で形成する小胞状の二分子膜である。ベシクルの疎水場に光感応性分子、ベシクル内外の水相に電子供与性物質と受容性物質を配置すると、光によって電子がベシクル内部から外部へ輸送されるシステムを構築することができる。本論文では、この光誘起電子輸送システムが人工光合成としての重要な条件を満たしており、目的とする光水素発生系を構築するために、このシステムを用いる必要性が明記されている。これらの点から、本研究は、着想に至る経緯や先行研究との違いが明確に位置づけられた研究であると評価された。

第2章では、ベシクルを反応場とする光誘起電子輸送システムの外側に、従来から水素発生反応の触媒機能をもつことが知られている白金コロイドを配置することにより、光水素発生系の構築を試みた結果が述べられている。検討の結果、ベシクルと白金コロイドが共存できる条件が極めて限られていることが判明したが、白金コロイドの種類や調製法、緩衝液の種類や濃度、および電子供与体や受容体の濃度などの諸条件を検討することにより、目的とする光水素発生系の構築に成功した。この系は、可逆な酸化還元過程を行う電子供与体を用いた光水素発生系の最初の例であり、この点で意義のある成果である。しかし、電子伝達体から触媒を介して水素が発生する段階の効率は2.9%であり、けっして高い値ではなかった。本論文ではこの成果に満足せず、大胆な発想の切り替えによって次章以降に述べる研究を展開しており、この点が高く評価された。

第3、4章では、白金コロイドにかわる水素発生触媒として、白金(II)錯体を用いた系に関する研究成果が述べられている。これは近年活発に研究されている分子触媒に注目して、それをこの系に取り入れたものであり、本論文提出者の情報収集能力と着眼点のよさを示すものである。まず、第3章では、先行研究を参考にして、水素発生触媒作用が期待される3種類の増感剤連結型白金錯体を設計し、その合成を達成した。さらに、犠牲試薬を用いた有機溶媒中の反応により、それらの触媒作用を確認した。単独で光水素発生触媒機能をもつ白金錯体の例は極めて限られており、これらの新規錯体を合成した意義は大きい。

次いで第4章では、ベシクルを反応場とする光誘起電子輸送反応システムを用いた、白金錯体を分子触媒とする光水素発生系の構築について議論されている。第3章で検討した増感剤連結型白金錯体はベシクル系では期待した結果が得られなかったが、その原因を解析することによって、増感剤と白金錯体を切り離すことを着想するに至った。ベシクル疎水場への溶解性を高めるための分子設計を施した新たな白金錯体を設計し、それを合成することにより、ついに目的とする光水素発生系の構築に成功した。電子伝達体から触媒を介して水素が発生する段階の効率は65%以上と飛躍的に増大し、触媒回転数も30と十分な値が得られた。このように、様々な問題点を一つ一つ解決することにより目的に到達した研究の過程と成果は、高く評価された。

第5章に総括されているように、本論文で新たに構築された光水素発生系は、光源として可視光を利用できないことを除けば、植物の光合成を忠実に模倣している点において、これまでの研究にはないユニークなものである。特に、可逆的に酸化還元反応を行う物質を電子供与体として用いていることから、この光水素発生系は、数少ない人工的な光‐化学エネルギー変換システムとよべるものであり、学術的のみならず、今後の応用的な展開が期待される点からも価値の高いものである。

なお、第2章の成果は学術論文として光化学の専門誌に投稿審査中であり、第3、4章の成果の一部を記載した論文は日本化学会速報誌に受理されて印刷中である。いずれも本論文提出者が筆頭著者になっており、本論文提出者が主体的に行った研究成果と認められる。

以上の理由により、本審査委員会は本論文を、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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