学位論文要旨



No 126663
著者(漢字) 矢木,拓也
著者(英字)
著者(カナ) ヤギ,タクヤ
標題(和) 格子QCDによる中間子 : 中間子散乱長の計算
標題(洋) Calculation of meson-meson scattering lengths from lattice QCD
報告番号 126663
報告番号 甲26663
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5608号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 准教授 浜垣,秀樹
 東京大学 准教授 筒井,泉
 東京大学 教授 松井,哲男
 東京大学 教授 久保野,茂
内容要旨 要旨を表示する

我々の住む世界は主に原子によって構成されている。そして原子は,その中心に位置する原子核とその周囲に束縛された電子によって特徴付けられる。原子核は中性子・陽子といった核子によって構成されており,核子間に働く相互作用は原子間に働く電磁気力とは全く異質の核力によって記述される。核力の源は,核子を構成する素粒子であるクォーク間に働く強い相互作用をその源とし,強い相互作用はクォークを特徴付けるカラー量子数についての対称性,SU(3) ゲージ不変性によって決定される。これを量子色力学(Quantum Chromo Dynamics: QCD)と呼ぶ。QCDは,その代表的な性質である漸近的自由性によって,高いエネルギー領域では結合定数は減少し,摂動論的手法によって物理量の計算を行うことが出来る。一方で,低いエネルギー領域ではゲージ場の結合が発散し,摂動展開による物理の記述は破綻する。摂動論に頼らない手法は,少数だが存在し,中でも近年の計算機の発展に伴って注目を集めているのが,格子QCDシミュレーションである。本論文においては,格子QCDシミュレーションを用いて,粒子間の相互作用を特徴付ける散乱長の計算を行い,QCDの非摂動論的な側面が本質的な役割を果たすハドロン相互作用の物理を,第一原理から明らかにすることを目標とした。

本論文に於いては,まず格子QCDシミュレーションを理解する上で不可欠な基礎を説明する。その後,本論文の根幹部分である,格子QCDシミュレーションによる中間子間の散乱長の計算についての議論を,2章に分割して行った。実際に計算を行った系は,以下で説明するように,カイラル対称性によって相互作用が決定される軽い中間子の系と,チャームクォークを含む重い中間子の系に大別できる。

中間子の中でも特にパイ中間子のような軽いハドロンに目を向けると,粒子間の相互作用が,クォークの対称性、所謂カイラル対称性によって完全に決定されていることが知られている。もちろんQCDで記述されるグルーオンの交換が相互作用の起源では有るが、そこからカイラル対称性のみを切り出し,有効ラグランジアンを構築すれば,QCD そのものに頼らずとも散乱振幅は記述できる。

一方で格子QCDシミュレーションにおいては,その黎明期以来,有限の格子上でカイラル対称性を持つフェルミオンを作ることは出来無いとされてきた。この問題に対するブレイクスルーが格子上での厳密なカイラル対称性であるギンスパーグ・ウィルソン関係式とそれを満たすオーバーラップフェルミオンである。このフェルミオンは非常に計算機コストが掛かることが問題であったが,近年の計算機の進歩や,数値計算の技術的な発展を通じて,主にJLQCDコラボレーションによって現実的な計算が成されるようになった。

そこで,このオーバーラップフェルミオンを用いて,JLQCDコラボレーションによって生成された,2フレーバーの動的な約200個のゲージ配位の下で,アイソスピンI=2のチャンネルのパイ中間子散乱(π++π+ → π++π+)の散乱長の計算を行った。ゲージ配位は,格子単位a=0.12 [fm]であり,空間方向の体積をV ,時間方向の長さをTとすると,V ・ T=163 ×32の格子点を有した有限空間である。シミュレーションで得られた物理量を現実世界の物理量へと外挿するためには,mπ~140 [MeV] へののカイラル外挿が必要となる。十分信頼できる精度の外挿を行うために,クォーク質量は現実世界でのストレンジクォークの質量をmsとしてms/6 からmsに渡る6点で計算を行った。計算により得られた相関関数には,時間方向の境界条件に由来する余分な項が存在し、エネルギー固有値の読み取りを妨げる。また,パイ中間子のコンプトン波長が箱の大きさに対して無視できない場合には,物理量に対する有限体積効果が有意に存在する可能性がある。このため,時間方向の境界条件に由来する項や、有限体積効果の影響を評価し,注意深く取り除いた。最終的に,得られた散乱長にカイラル摂動論による第3 主要次数(NNLO)の記述を用いてカイラル外挿を行った。外挿の結果,NNLOでの記述と整合性が良く取れていること,また外挿された散乱長や,フィッティングにより得られるカイラル摂動論の低エネルギー定数の値は,実験より得られた現象論的な値と非常に良い精度で合うことが解った。

このチャンネルは格子QCDを用いて散乱長を計算する上で最もシンプルなチャンネルであり,試験場としての側面も有る。格子QCDを用いてハドロン相互作用を計算する際の基礎的な方法論をこの研究から学び,より一般の系に対して研究を行う上での礎とした。

次に,チャームクォークを含むような重い中間子の系に目を向ければ,パイ中間子のようにカイラル対称性の議論から相互作用が完全に記述されるのではなく,QCDの異なった側面によってハドロンの相互作用は記述されている。従って,格子QCDシミュレーションの様な,QCDによる第一原理計算による相互作用の理解が不可欠なものと成る。

チャームを含む中間子系において,近年特に注目を集めているのが,主にKEKのBelle コラボレーションによって発見されてきた,エキゾチックハドロンと呼ばれる豊かな構造を持ったハドロン群である。その中でも,2007年に同コラボレーションによって発見されたZ+(4430)は,その崩壊チャンネルよりc, c, u, dの4つのクォークにより構成されていると期待される,とりわけ重要なエキゾチックハドロンである。

Z+(4430) が,中間子の分子状態として記述される可能性を調べるため,2つのD 中間子D1D*(IG(JP)=1+(0-))の散乱長と,Z+(4430)と結合するその他のチャンネルの散乱長の計算を行った。ゲージ配位には,自分たちで生成した,クエンチ近似を施したa=0.07 [fm]の2000個のV ・ T=243×48のゲージ配位と3000個のV ・ T=163×48のゲージ配位を用いた。そしてクォーク伝搬関数には,チャームクォーク,アップ,ダウンクォークいずれにもウィルソンフェルミオンを用いて計算を行った。計算の結果,D1D*を含めたD 中間子散乱のチャンネルには,束縛状態を作り得ることを示唆する程の強い引力が観測され,軽い中間子とチャーモニウムのチャンネルにも引力的な散乱状態が確認された。とりわけ,D 中間子散乱は軽いクォークの質量依存性が顕著にあらわれることがわかった。

これらの研究を通して次の知見が得られた。軽いパイ中間子の系とチャームクォークを含む重い中間子の系では,得られた散乱長の振る舞いに顕著な違いがある。パイ中間子散乱に対して得られた散乱長は,物理的極限近傍ではa(I=2)(ππ)~-0.06 [fm]と非常に小さく斥力的であった。これは,カイラル対称性を反映したカレント代数から理解することができて,m2πに比例すると考えられる。それに対して,チャーム中間子散乱においては引力的であり,その大きさはパイ中間子散乱よりずっと大きい。χc1 (1P)ρ やJ/ψ a1のチャンネルでは,束縛状態は作らないがa ~1 [fm]で,統計精度の範囲ではパイ中間子の質量に対する依存性もほとんど見られなかった。さらにD 中間子散乱のチャンネルに至っては,束縛状態を作りうるほどの強い引力が見られた。このことは、ハドロン間の相互作用においてはQCDの非摂動論的効果が重要であるが,軽い中間子の間の相互作用と重い中間子の間の相互作用を特徴付ける,非摂動論的効果の側面,すなわち物理が異なることを意味する。軽い中間子の間の相互作用ではカイラル対称性がその物理であるのに対して,重い中間子間の相互作用では,我々はまだその物理を十分に理解していない。重い中間子の相互作用は,強い相互作用の新しい存在形態であるエキゾチックハドロンと密接に関係しているように,豊かな物理が潜んでいる可能性が存在する。重要なことは,軽い中間子の系と重い中間子の系に対して,それぞれ異なる有効理論や模型を適用するのではなくて,同じ枠組み,すなわち第一原理であるQCDに基づいた,非摂動論的なアプローチを行うことによって初めてその違いを明らかにしたことである。本研究を通して学んだことを糧とし,さらに発展させ,ハドロンの相互作用の統一的理解へと迫っていくことが今後の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章から成り、第1章では、緒言と研究の背景が述べられている。第2章では、本論文で使用される格子QCDシミュレーションの物理的・数学的背景について述べられている。特に、この章では、本論文で用いられるウィルソン-フェルミオンおよびオーバーラップ-フェルミオンの理論形式、格子シミュレーションによるハドロン間相互作用と位相差の決定法、格子上で計算された数値データにおける系統誤差に関する一般論が議論されている。

第3章と第4章は、本論文の核心部分となっている。第3章では、軽いクォークからなるパイ中間子同士の散乱が、クォークの真空偏極を考慮して計算されている。このとき、格子上でカイラル対称性を可能な限り反映させたオーバーラップ-フェルミオン形式が用いられ、複数のクォーク質量で計算した散乱長および低エネルギー定数を現実のクォーク質量へカイラル摂動論を用いて外挿することで、実験値との良い一致が得られている。

第4章では、重いチャームクォークを含む中間子同士の散乱が、重いクォーク系を高精度で計算するのに適したウィルソン-フェルミオン形式を用いて調べられている。特にD中間子同士の相互作用については、数値シミュレーション結果をカイラル外挿した結果、

50MeVから80MeV程度の束縛エネルギーを持つ束縛状態が存在する可能性が示されている。第5章では、結果のまとめと今後の展望が、また補章A,B,C,Dでは、中間子相互作用の研究の基礎となるクォーク4点関数の理論的計算の詳細、カイラル摂動論に基づく外挿公式の導出、数値シミュレーションの高速化技法の詳細が述べられている。

本論文では、格子QCD計算により低エネルギーハドロン相互作用の詳細な研究が行われ、特に、カイラル対称性を尊重したパイ中間子散乱の計算による実験結果の再現、D中間子散乱における束縛状態が存在する可能性の指摘が初めてなされた。格子QCDによる精密計算を進展させるとともに、その予言能力の可能性を拓くものとして本論文は高い意義を持つ。

UTokyo Repositoryリンク