学位論文要旨



No 126707
著者(漢字) 池田,恒平
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,コウヘイ
標題(和) 金星大気放射伝達モデルの開発と大循環モデルを用いたスーパーローテーションの数値実験
標題(洋) Development of Radiative Transfer Model for Venus Atmosphere and Simulation of Superrotation Using a General Circulation Model
報告番号 126707
報告番号 甲26707
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5652号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中島,映至
 東京大学 教授 高橋,正明
 東京大学 准教授 岩上,直幹
 東京大学 准教授 今村,剛
 東京学芸大学 教授 松田,佳久
内容要旨 要旨を表示する

金星大気のスーパーローテーションは、地表面付近から中層大気までの領域で大気全体が自転速度を超える速さで回転する高速の東西循環である。探査機の観測によると、東西風速は地表面付近から単調に増加して雲頂高度(高度70km付近)で100m/sに達し、これは赤道での自転速度の約60倍にも相当する。スーパーローテーションの維持機構はまだ未解明であるが、これまでの研究から重要であると考えられる力学過程がいくつか提案されている。「平均子午面循環と波による南北運動量輸送(Gierasch機構)」や、「雲層で励起される熱潮汐波」、「下層から伝播する波動(重力波や赤道ケルビン波)」に着目する説があるが、観測データは限られており、こうした力学過程については、ほとんどわかっていない。一方で、大気大循環モデル(AGCM)は、スーパーローテーションの維持機構を理解するのに有効な研究手法と考えられる。しかし、これまでの物理過程を簡略化した金星AGCMによる研究によると、現実的な条件下ではスーパーローテーションの再現は困難であることが指摘されている。スーパーローテーションの成因として、Gierasch機構を挙げる研究もあるが、これらの金星AGCMでは放射伝達過程がニュートン冷却近似で簡略化されており、現実の金星大気において妥当かは不明である。そのような現状のため近年では、金星AGCMを用いてスーパーローテーションに重要な力学過程を理解するためには、適切な放射伝達モデルを導入することが必要であると考えられるようになってきている。そこで本研究では、まず新しく独自に、赤外から紫外域まで全ての波長を取り扱える金星大気力学モデル用の放射伝達モデルの開発を行った。そして、それを金星AGCMに導入して、スーパーローテーションの数値実験を行った。

高温高圧のCO2大気に対応するために、金星大気放射伝達モデルの気体吸収過程では、吸収線データと吸収線形の取り扱いについて留意する必要がある。本研究ではCO2の吸収線データには、高温下(1000K)でのデータベースであるCDSD-1000を用いた。その他の気体(H20,SO2,0CS,CO)については、HITRAN2004の吸収線データを使用した。CO2の吸収線形の性質については、これまでの金星大気の放射伝達計算では十分に考慮されてこず、Voigt線形で25cm-1でカットオフする方法が用いられてきた。しかし、この方法ではCO2による吸収を過小評価してしまうことが指摘されている。高温高圧の金星下層大気におけるCO2の吸収特性は現在のところ十分わかっていないが、放射対流平衡実験から吸収線形による温度構造への影響を調べるという研究が行われている(Takagie七aL,2010)。本研究では、Fukaboriet al.(1986)のsub-Loren七z線形を使用した。その他の微量気体については、Vbigt線形を用いた。また全ての気体について、far wingでのカットオフは行わずに吸収係数を評価した。CO2の連続吸収として、分子同士の衝突に伴う圧力励起帯(Pressure-Induced Absorption)による吸収を導入している。この吸収は吸収係数が圧力の2乗に比例するため、高圧の下層大気において重要となる。

金星は濃硫酸液滴を主成分とする厚い雲によって全球を覆われている。このエアロゾル粒子の粒径分布は、3モードの対数正規分布であることが知られている。各モードの光学特性は、75%H2SO4の複素屈折率を使用して、Mie散乱理論に基づき求めた。プローブによる太陽光フラックスの観測によると、雲層の中で太陽光の吸収が主に生じているのは上層雲、すなわち高度57km以上においてである。しかし、硫酸エアロゾル及び気体ではこの吸収は説明がつかず、Unknown UV absorberと呼ばれる、なんらかの吸収物質の存在が指摘されている。本研究では先行研究と同様に、波長0.32-0.78μmにおいて、モード1による吸収を仮定して、その吸収の強さ(吸収効率因子の値)は、観測による反射率のスペクトルに合うように決定した。気体及び大気微粒子による吸収・散乱過程を取り扱う放射伝達計算の基礎方程式は、Nakajima et a1,(2000)に従う。気体吸収については相関k-分布法を使用し、全波長を28バンドに分けている。

まず、新しく開発した金星大気放射伝達モデルを用いて、1次元放射対流平衡実験により、全球平均的な温度の鉛直構造を調べた。全ての微量気体成分と雲を含めた標準実験と、微量気体の影響を調べるために、それぞれを除いた場合について計算を行った。微量気体の中では、まずH20の寄与は大きく、ついでSO2の影響も特に下層大気において大きかった。H20とSO2をそれぞれ取り除いた場合の地表面温度の変化は、116K及び36Kであった。SO2の温室効果は数K程度と見積もった先行研究も存在するが、CO2の吸収線形としてsub-Lorentz線形を使用した場合には、金星大気の温度構造の維持にSO2も不可欠であることが示唆された。OCSとCOの影響は1K以下と小さかった。標準実験における成層度は、1地表面付近から高度約40kmにおいて対流が生じ、中立成層となっていた。また、雲層内の高度50km付近も中立になっており、これは高温な下層大気からの熱放射を下層雲が吸収するために生じていると考えられる。

本研究で使用する大気大循環モデルは、CCSR/NIES/FRGCM AGCM5.7bである。水平分解能はT21、鉛直方向には、高度95kmまでを52層に分けた。放射伝達過程として、新しく構築した金星大気放射伝達モデルを組み込んだ。雲層における太陽光加熱率の鉛直分布は、特に熱潮汐波に対して大きな影響を与えると予想されるが、高度64km以上では観測がなされていないため、この領域においては放射モデルによる推測が行われてきた。上層雲中のUnknown UV absorberの分布の違いにより、太陽光加熱率は大きく異なった分布になることが指摘されている(Crisp,1986)。しかし、これまでの力学モデルでは、この点にっいて言及されたことが無く、太陽光加熱率の鉛直分布の違いが力学に及ぼす影響はわかっていない。そこで本研究では、太陽光加熱率の違いによる影響を調べるため、2つのケースに実験を行った。すなわち、吸収物質が高度57-65kmまでに存在するとした場合(Low UV)と高度57-70kmに存在するとした場合(High UV)である。

Low UVの場合は、帯状平均した東西風速は高度67kmで最大となり、赤道上で、約50m/sに達するスーパーローテーションが生じる。また、中緯度には50m/sを超えるジェットが存在する。赤道から30°での運動量のバランスを見積もって調べたところ、太陽光の吸収が大きくなるところで熱潮汐波による加速が効いていることがわかった。熱潮汐波が加速している高度は、高度60-70kmと高度50-54kmの2つ分かれていた。上層雲と中層雲の境目(高度57km)では、減速となっており、これは雲が薄くなっている高度と対応していた。High UVの場合は、上層雲での熱潮汐波の加速の強さは約30%弱くなっていた。それと対応して、赤道での最大風速は、約30m/sでLowUVと比べて、20m/s程度遅かった。このように、吸収物質の異なる分布に伴う太陽光加熱率の違いから、熱潮汐波による加速の違いが生まれ、スーパーローテーションに影響することがわかった。

高度45km以下での平均東西風は、観測と比べて非常に弱いままである。雲層のより下の高度では、平均子午面循環の強度は弱く、角運動量の上方輸送が効率よく行われていないものと考えられる。下層大気での平均子午面循環の時間スケールは、約60地球年でGierasch機構に必要な条件を満たしていなかった。そこで本研究では、下層大気のスーパーローテーションを維持するためには、重力波による運動量輸送が必要であると仮定して、その影響を調べる数値実験を行った。複数の位相速度をもった重力波の運動量を下端から強制し、鉛直拡散と放射による減衰をパラメタリゼーションとして評価した。その結果、正の位相速度を持った重力波が臨界高度で吸収され、平均東西風を加速することにより、下層のスーパーローテーションが維持できることが示された。また、負の位相速度の重力波は雲層よりも上層まで伝播し、上層での減速に重要な役割を持つことが示唆された。

本研究ではまず、金星大気大循環の理解に重要な課題と考えられてきた金星大気力学モデル用の放射伝達モデルの開発を行った。この放射モデルを使用した1次元放射対流平衡実験により、各微量気体成分の影響について調べた。先行研究と異なる吸収線形(Fukabori et a1.,1986)を使用した本研究の放射モデルでは、SO2は金星大気の温度構造の維持に重要な効果を持つことが示唆された。また、この放射モデルを金星大気大循環モデルに導入し、スーパーローテーションの数値実験を行った。雲層上端付近では、熱潮汐波に伴う加速により数十メートルの平均東西風が維持されることが示された。また、熱潮汐波による加速の強さは未知の紫外域吸収物質の分布の違いによって影響を受けることが示唆された。下層大気での平均子午面循環の時間スケールからGierasch機構によるスーパーローテーションの維持は困難であることが示唆された。Gierasch機構とは別のメカニズムとして、重力波による運動量輸送が重要であると仮定し、その効果を調べるための数値実験を行った。重力波による運動量輸送はパラメタリゼーションとして導入して、それぞれの位相速度の重力波がもつ影響を評価し、下層大気においては観測に近い平均東西風が再現された。

審査要旨 要旨を表示する

論文提出者は、新しく赤外から紫外域まで全ての波長を取り扱える金星大気力学モデル用の放射伝達モデルの開発を行ない、それを金星AGCMに導入して、東西風の維持に重要と考えられている力学過程について新たな知見を得る研究を行った。特に、地表面付近から中層大気までの領域で大気全体が自転速度を超える速さで回転する金星大気特有のスーパーローテーション現象の維持機構について詳細な解析を行っている。

論文は、5つの章からなっている。第1章は序で、これまでの研究と問題の背景が述べられている。第2章では、新しい金星大気放射モデルの開発と研究をおこなっている。高温高圧のCO2大気に対応するために、CO2の吸収線データには、高温下(1000K)でのデータベースであるCDSD-1000を、その他の気体(H2O, SO2, OCS, CO)については、HITRAN2004の吸収線データが使われている。高温高圧のCO2の吸収特性については、深堀他のsub-Lorentz線形が使用されている。その他の微量気体についてはVoigt線形を用いている。全ての気体についてfar wingでのカットオフは行わずに吸収係数を評価した。CO2の連続吸収として、分子同士の衝突に伴う圧力励起帯(Pressure-Induced Absorption)による吸収を導入している。濃硫酸液滴を主成分とする厚い雲によって全球が覆われ、雲粒子の粒径分布は3モードの対数正規分布で、各モードの光学特性は75% H2SO4の複素屈折率を使用している。雲層の中で太陽光の吸収が主に生じているのは上層雲、すなわち高度57km以上においてである。しかし、硫酸エアロゾル及び気体ではこの吸収は説明がつかず、未知のUV absorberと呼ばれるなんらかの吸収物質の存在が指摘されている。波長0.32-0.78 μmにおいて、モード1による吸収を仮定し、その吸収の強さ(吸収効率因子の値)は、観測による反射率のスペクトルに合うように決定している。気体吸収については相関k-分布法を使用し、全波長を28バンドに分けたモデルである。

第3章では、開発した金星大気放射伝達モデルを用い、1次元放射対流平衡実験により、全球平均的な温度の鉛直構造を研究している。全ての微量気体成分と雲を含めた標準実験と、微量気体の影響を調べるために、それぞれを除いた場合について計算を行っている。微量気体のH2OとSO2を取り除いた場合の地表面温度の変化は、それぞれ113 K及び36 K低く、金星大気の温度構造の維持にSO2も不可欠であることが示唆された。標準実験における成層度は、地表面付近から高度約40kmにおいて対流が生じ、中立成層となっていた。また、雲層内の高度50km付近も中立になっており、これは高温な下層大気からの熱放射を下層雲が吸収するために生じていると解釈された。

第4章では、放射モデルを金星大気大循環モデルに組み込み、高速東西風の維持に関した研究を行っている。雲層における太陽光加熱率の違いによる熱潮汐波の影響を調べるため、吸収物質が高度57-65kmまでに存在する場合(Low UV)と、高度57-70kmに存在する場合(High UV)の実験を行った。Low UVの場合、帯状平均した東西風は高度67kmで最大となり、赤道上で約50 m/sに達する風が生じる。赤道から30°での運動量バランスを見積もると、太陽光の吸収が大きくなるところで熱潮汐波による加速が効いていることがわかった。High UVの場合、赤道での最大風速は約30m/sであった。吸収物質の異なる分布に伴う太陽光加熱率の違いから、熱潮汐波による加速の違いが生まれ、高速東西風に影響することがわかった。

高度 45km以下での東西風は、観測と比べて非常に弱い。雲層より下の高度で平均子午面循環の強度が弱く、角運動量の上方輸送が効率よく行われていないことが示された。下層大気の高速東西風を維持するために、重力波による運動量輸送が必要であると仮定し、重力波に伴う運動量輸送をパラメタ化して実験を行った。正の位相速度を持った重力波が平均風を加速することにより下層の高速東西風が維持できること、負の位相速度の重力波は上層まで伝播し、そこでの減速に重要な役割を持つことが示唆された。第5章は全体のまとめとなっている。

CO2のfar wingでの吸収を考慮し、微量気体成分と雲による散乱・吸収・射出をk分布法を用いて精度よく取り扱った金星放射モデルの開発は世界的にも初めてである。また、それを用いた放射対流平衡実験も本研究が初めてである。1次元放射対流平衡実験により、SO2が金星大気の温度構造の維持に重要な効果を持つことが示唆された。金星AGCMに導入し、未知の紫外域吸収物質の分布の違いによる力学への影響を初めて調べている。平均子午面循環による高速東西風の維持は困難であることが示され、また下層大気においては重力波による運動量輸送を仮定した実験では、観測に近いスーパーローテーションが再現された。これらは、独創性が高く優れた研究と評価できる。

なお、本論文の2、3、4章は、高橋正明氏との共同研究であるが、論文の主な部分は論文提出者が主体的に行っており、寄与は十分であると考えられる。

したがって、論文提出者に博士(理学)の学位を授与できると認める。

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