学位論文要旨



No 126730
著者(漢字) 藤,泰子
著者(英字)
著者(カナ) トウ,タイコ
標題(和) シロイヌナズナのヒストン脱アセチル化酵素HDA6による遺伝子抑制機構の分子基盤と環境ストレス応答機構の解明
標題(洋) Molecular mechanisms of gene silencing and environmental stress response mediated by Arabidopsis histone deacetylase HDA6
報告番号 126730
報告番号 甲26730
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5675号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,隆司
 東京大学 教授 渡邊,嘉典
 東京大学 教授 福田,裕穂
 東京大学 教授 横山,茂之
 東京大学 准教授 杉山,宗隆
 理化学研究所 チームリーダ 関,原明
内容要旨 要旨を表示する

環境ストレスは, 植物の成長, 生命維持に重大な制約を与えるとともに, 作物の生産性減少など農業においても重大な被害をもたらす. また, 環境ストレスは植物の炭素固定能にも影響を与えるため, 植物のもつ環境ストレス耐性機構の解明は, 地球温暖化を始めとする地球環境変動の対策, および食糧増産に繋がる形質転換植物体の作出のためにも重要な意味をもつ.

植物は動物と異なり環境の急激な変化から逃れることができないため, ドラスティックな遺伝子発現変動を引き起こしてストレス耐性を獲得する. ストレスを感知すると植物は, 様々な転写因子を中心としたシグナル伝達経路を介してゲノムワイドに遺伝子発現パターンを変化させ, 環境変化に適応するための遺伝子群を誘導することが知られている.また, 真核生物において, 遺伝子発現の制御はヒストンの化学修飾と密接に関わっている. しかし, これらヒストン修飾による遺伝子発現制御機構の, 植物の環境ストレス応答機構における役割は未だ明らかでない.

本研究を始めるにあたり, ヒストン修飾による制御機構が植物においても重要な機能を果たし, 環境ストレス応答機構を制御する可能性があると考えた. そこで,モデル植物シロイヌナズナのヒストン修飾酵素遺伝子変異株を用いて, 予備的に環境ストレス耐性スクリーニングを行ったところ, ヒストン脱アセチル化酵素Histone deacetylase 6 (HDA6)の変異株が乾燥ストレスに対し強い耐性を示し, HDA6が乾燥ストレス耐性機構に関与することが示唆された. そこで本研究では, HDA6に着目し, その定常状態でHDA6がもつ遺伝子抑制機構の機能メカニズムと, 乾燥および凍結ストレス条件下での機能解析を行った.

1.HDA6による遺伝子抑制機構に関する研究

hda6変異株を用いた全ゲノム発現解析の結果から, 同定されたHDA6制御下にある遺伝子領域は, small interfering RNA(siRNA)の生成に関与するRNA dependent RNA polymerase 2 (RDR2)に依存的な24nt siRNAの塩基配列と相同な配列を多く有していた. しかしながら, それらHDA6制御下にある遺伝子の転写レベルは, 多くの場合rdr2変異によって大きく影響を受けなかったことから, HDA6による遺伝子抑制機構は, siRNAを介したRNA依存的DNAメチル化機構に独立して作用すると考えられた. また, HDA6により抑制される領域は, DNAメチル化酵素Methyltransferase 1 (MET1)により抑制される領域と高度に重複することが明らかとなった. さらに, HDA6直接標的遺伝子上のヒストン修飾は, hda6変異によりヘテロクロマチン修飾からユークロマチン修飾への推移をひきおこすことが示されるとともに, ヒストンH4K16を除くヒストンH3およびH4 N末端に位置する全てのリジン残基において, hda6変異株でアセチル化レベルの著しい上昇が見られた. 興味深いことに, hda6変異株における標的遺伝子上のDNAメチル化の状態は, 2つのパターンに大別された. 一つは, 周囲に他のメチル化DNA領域があるHDA6標的上で, 野生株に見られる強いCG配列のメチル化はhda6変異株においても残留するもの,これに対して, 周囲のメチル化DNA領域から隔絶されたHDA6標的上では, 野生株に見られる強いCG配列のメチル化はhda6変異株において完全に消失するものであった. またどちらの場合も, 野生株に見られる非CG配列のメチル化は, hda6変異株において消失した. さらに, HDA6は, HDA6標的の周辺領域には結合せず, HDA6標的に特異的に結合していることが確認されたことから, HDA6は高い標的特異性を有することが示唆された. 以上の結果より, HDA6はMET1と協調的に領域特異的なヘテロクロマチン抑制を制御し, それに続く非CGメチル化のための抑制的クロマチン構造形成の基盤構築を担っていることが示唆された.

2.HDA6の乾燥ストレス条件下における機能解析

hda6変異株を用いて乾燥ストレス耐性試験を行った結果, hda6変異株は乾燥ストレスに対し強い耐性を示すことが明らかとなった. しかしながら, 乾燥ストレスに連動して気孔の開閉を制御する植物ホルモン, アブシジン酸に対する応答性および乾燥ストレス条件下における水分損失量を調べた結果, 野生株と変異株の間に顕著な差は認められなかった.

乾燥ストレス条件下でのゲノムワイドな発現解析の結果, 酢酸発酵に関与する遺伝子Pyruvate Decarboxylase 1 (PDC1) およびAldehyde Dehydrogenase 2B7 (ALDH2B7)が, 野生株において乾燥ストレスにより発現誘導され, hda6変異株においてはさらに強く誘導されることが明らかとなった. また, pdc1変異株およびaldh2b7変異株は,ともに乾燥ストレスに対して感受性を示し, これら遺伝子が植物の乾燥ストレス耐性機構に正に寄与することが明らかとなった. さらに, 酢酸発酵経路の最終産物である酢酸の, 乾燥ストレス条件下における植物内在量の定量を行った. その結果, 乾燥ストレスに応答して内在酢酸量は, 野生株において増加し, pdc1およびaldh2b7変異株においては顕著な増加は認められず, hda6変異株においては野生株よりさらに増加することが明らかとなった. また, 定常条件下において, HDA6タンパク質のこれら遺伝子領域に対する直接結合が確認されたことから, HDA6は定常条件下でこれら遺伝子を直接的に抑制していることも示唆された. 以上の結果より, PDC1およびALDH2B7遺伝子を含む酢酸発酵経路の活性化が, 植物の乾燥耐性獲得に必須であること, また, HDA6はこれら遺伝子に直接的に作用し, その遺伝子発現を定常条件下で抑制的に制御していることが示唆された.

3.HDA6の凍結ストレス条件下における機能解析

植物は低温条件下で多くの遺伝子発現を変動させてその後の凍結ストレスに備え, その結果凍結耐性を獲得することが知られている. この機構は低温馴化と呼ばれ, 複雑な経路で制御されている. 本章では, HDA6のシロイヌナズナにおける凍結ストレス耐性機構への関与について解析を行った. 発現解析の結果, HDA6遺伝子は低温処理により転写誘導されることが明らかとなり, HDA6が低温耐性に関与することが示唆された. hda6機能欠損株を用いて凍結耐性試験を行ったところ, 低温前処理を行ったhda6変異株は, 低温前処理を行った野生株と比べて凍結感受性を示すことが明らかとなった. さらに, 凍結処理後の漏出電解質量を測定し, 凍結による葉の損傷度を検証したところ, 低温前処理を行った場合において, hda6変異株は野生株に比べて多くの電解質を漏出することが明らかとなり, 電解質漏出試験においてもhda6変異株の凍結感受性が示された. 一方, 低温前処理を行わない場合では, 凍結ストレス処理後の生存率や漏出電解質量において野生株との顕著な差は認められなかった. このことから, HDA6は低温馴化の過程に関与することが示唆された. そこで, マイクロアレイを用いた低温条件下でのゲノムワイドな発現解析を行い, 低温処理後, hda6変異株と野生株の間に発現量の差が認められる遺伝子群を同定した. その中には, 凍結ストレス耐性に寄与すると考えられる脂肪酸不飽和化酵素や脂質輸送タンパク質LTP3などの脂質代謝関連遺伝子が多数変異株において下方制御されることが明らかとなった. 以上の結果より, HDA6は凍結ストレス耐性を獲得するための低温馴化過程において, 遺伝子発現変動の制御に重要な役割を担うことが示唆された.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなる。第1章は、イントロダクションであり、クロマチンの化学修飾を介した遺伝子抑制機構および植物の環境ストレス応答機構について、網羅的な説明がなされている。

第2章では、シロイヌナズナのピストン脱アセチル化酵素HDA6による遺伝子抑制機構の分子基盤について述べられている。hda6変異株を用いた網羅的な遺伝子発現解析や、HDA6タンパク質の直接標的遺伝子の同定、およびそれら領域におけるピストンの化学修飾やDNAメチル化の状態を詳細に解析することにより、HDA6はMET1と協調的に領域特異的なヘテロクロマチン抑制を制御し、それに続く非CGメチル化のための抑制的クロマチン構造形成の基盤構築を担っていることを提示している。

第3章では、HDA6の乾燥ストレス条件下における機能解析について述べられている。本研究により、鮒86変異株が乾燥ストレスに対し強い耐性を示すことが明らかとされている。また、HDA6を介した乾燥ストレス応答機構は、乾燥ストレス応答機構に関与する、植物ホルモンアブシジン酸や既知の転写因子群を介したシグナル伝達機構とは、異なる経路であることが示唆されている。さらに、ゲノムワイドな発現解析により、酢酸発酵に関与する遺伝子Pyruvate Deacarboxylase 1(PDC1)およびAldehyde Dehydrogenase 2B7 (ALDH2B7)が、野生株において乾燥ストレスにより発現誘導され、hda6変異株においてはさらに強く誘導されること、また、pdc1変異株およびaldhab7変異株は、ともに乾燥ストレスに対して感受性を示すこと、さらに、乾燥ストレスに応答して酢酸発酵経路の最終産物である酢酸の植物内在量は、野生株において増加し、pdc1およびaldh2b7変異株では顕著な増加は認められず、hda6変異株では野生株よりさらに増加することが明らかとされている。また、定常条件下において、HDA6タンパク質のこれら遺伝子領域に対する直接結合が確認されている。以上の結果より、PDC1およびALDH2B7遺伝子を含む酢酸発酵経路の活性化が、植物の乾燥耐性獲得に必須であること、また、HDA6はこれら遺伝子に直接的に作用し、その遺伝子発現を定常条件下で抑制的に制御していることを提示する、非常に新規性の高い報告がなされている。

第4章では、HDA6の凍結ストレス条件下における機能解析について述べられている。発現解析の結果、HDA6遺伝子は低温処理により転写誘導されることが示され、これはHDA6が低温耐性に関与することが示唆する。また、hda6機能欠損株を用いて凍結耐性試験を行い、低温前処理を行ったhda6変異株は、低温前処理を行った野生株と比べて凍結感受性を示すこと、一方、低温前処理を行わない場合では、凍結ストレス感受性において野生株との顕著な差は認められないことが明らかとされている。また、マイクロアレイを用いた低温条件下でのゲノムワイドな発現解析から、低温処理後に力hda6変異株と野生株の問に発現量の差が認められる遺伝子群が同定され、その中には、凍結ストレス耐性に寄与すると考えられる脂肪酸不飽和化酵素や脂質輸送タンパク質などの脂質代謝関連遺伝子が多数変異株において下方制御されることが明らかとされている。以上の結果は、HDA6は凍結ストレス耐性を獲得するための低温馴化過程において、遺伝子発現変動の制御に重要な役割を担うことを提示している。

第5章では、第2章、第3章、第4章の結果をもとに、HDA6が持つ機能、また環境ストレス応答とクロマチンの化学修飾との関係性について、総合的な討論がなされている。

本研究では、ピストン脱アセチル化酵素HDA6が、植物の乾燥および低温ストレス応答機構を制御することを初めて明らかにした。それらHDA6が制御するストレス応答機構は、既知のストレス応答機構と異なる新たなストレス応答機構を提示している。さらに、HDA6による遺伝子抑制機構の分子メカニズムの詳細な解析もなされている。したがって、本研究は、当該分野における全般的知識を十分に有しており、かつ学術的にも意義のあるものと判断する。

なお、本論文の第2章に相当する研究は、東京大学理学系研究科の横山茂之教授、理化学研究所の関原明博士、篠崎一雄博士、金鍾明博士、松井章浩博士、栗原志夫博士、豊田哲郎博士、遠藤高帆博士、大阪大学の木村宏准教授との、また第3章に相当する研究は、東京大学理学系研究科の横山茂之教授、理化学研究所の関原明博士、篠崎一雄博士、金鍾明博士、神戸大学大学院の松田史生准教授との、第4章に相当する研究は、東京大学理学系研究科の横山茂之教授、理化学研究所の関原明博士、篠崎一雄博士、金鍾明博士、中南健太郎博士との共同研究であるが、各章の内容に関しては、論文提出者が主体となって実験の計画の策定、遂行、分析、検証および論文執筆を行っていることから、論文提出者の寄与が十分であり、論文提出者は独自に研究を遂行できる能力を有していると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク