学位論文要旨



No 126731
著者(漢字) 小木曽,由梨
著者(英字)
著者(カナ) オギソ,ユリ
標題(和) Dppモルフォゲン活性勾配の安定性
標題(洋) Mechanisms ensuring robustness of the Dpp morphogen activity gradient
報告番号 126731
報告番号 甲26731
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5676号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,雄一
 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 教授 三浦,正幸
 東京大学 教授 能瀬,聡直
 東京大学 教授 多羽田,哲也
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

発生過程において、均一な細胞集団から特定の構造が形成される機構はパターン形成と呼ばれており、発生生物学の中心的な課題である。パターン形成において、モルフォゲン分子は限局した細胞群から拡散して濃度勾配を形成し、濃度依存的に細胞に位置情報を与えている。近年、外的環境の変化や遺伝子異常があっても、モルフォゲンによって再現性のある安定したパターンが形成される機構に焦点が当てられ始めている。理論的な解析によりモルフォゲンの濃度勾配の安定性が示唆されてきたが、実験的な証拠はほとんど得られていない。本研究では、ショウジョウバエの翅を用い、BMPホモログであるDecapentaplegic (Dpp)の活性勾配の安定性に焦点を当てた。

2. Dppモルフォゲンはショウジョウバエ翅の前後方向のパターンを制御している

ショウジョウバエの成虫翅は翅原基と呼ばれる上皮組織として幼虫期に用意されており、成虫の翅で見られる翅脈などのパターンは翅原基の段階で得た位置情報に基づいて構成される。翅原基は前部領域と後部領域に分かれており、Dppは前後方向のパターン形成を担っている。Dppは翅原基の前後境界付近の数列の前部細胞で発現し、周囲に拡散し、翅原基全体にわたり山なりの濃度勾配を描いている(図A)。Dppが受容体Thickveins (Tkv)に結合すると、細胞内因子 Mothers against Dpp (Mad)はリン酸化により活性化され、リン酸化Mad (pMad)は核に移行し、標的遺伝子の発現を制御する(図B)。このように、pMadの量はDppシグナルの細胞内活性量を反映している。ところが、pMadの量はDpp発現細胞で低くなっており、これはDpp発現細胞でTkvの発現量が抑制されていることが原因と考えられている(図A)。このように、Tkvの発現量に依存してpMadの勾配が形成されると考えられているが、一方で、tkvのヘテロ変異体では翅のパターン形成に異常が見られないことも分かっている。

3. Tkvの発現量を人工的に変化させることのできる系を構築

本研究では、Tkvの発現量がpMadの勾配形成に及ぼす影響を詳細に解析するため、Tkvの発現量を生理的なレベルで人工的に変化させることのできる系を構築した。これはユビキチンプロモーターの下流でHAタグのついたtkvを一様に発現させるトランスジーンをtkvの機能欠失変異体に導入することで行った。Tkv-HAを翅で一様に発現させると、pMadの量はDpp発現細胞で最も高く、山なりの勾配を形成することが分かった(図C)。また、Tkv-HAの発現量をDpp発現細胞で抑制すると、その細胞でpMadの量は低くなり、2つのピークを持つ勾配が形成されることが分かった(図D)。これらの結果より、この実験系においても、Tkv-HAの発現量に依存してpMadの勾配が形成されることが確認された。

4. Tkvの局所的な発現量の増加によりpMad量は増加するが、Tkvの全体的な発現量の増加はpMad量に影響を与えない

次に、Tkv-HAの発現量を翅全体で増加させる実験を行った。Tkv-HAの発現量を2倍にすると、pMad量は増加することが予想されたが、予想外にも変化は見られなかった(図E)。一方で、モザイク解析により、Tkv-HAの発現量が1倍の細胞群と2倍の細胞群を誘導すると、2倍の細胞群の方がpMad量が高くなっていることが分かった(図F)。これらの実験結果から、二つの疑問が生じた。(1)なぜ、翅全体でTkv-HAの発現量を増加させてもpMad量は増加しないのか。また、(2)なぜ、Tkv-HAの発現量を翅全体で変化させた場合と、局所的に変化させた場合とで、pMadの勾配形成に対する影響が異なるのか。

5. Dadによる負のフィードバック機構とDpp発現量の調節機構によりTkvの全体的な発現量の変化が補償される

(1)の原因を調べるため、我々はDppシグナルの標的遺伝子の一つでMadのリン酸化を抑制するinhibitory Smadホモログであるdaughters against dpp (dad)に着目した(図B)。Tkv-HAの発現量を翅全体で増加させた時、Dadによる負のフィードバック機構によりpMadが一定量に維持されると仮定すると、dad遺伝子欠失下でTkv-HAの発現量を増加させるとpMad量は増加するはずである。そして予想通り、dad遺伝子欠失下ではpMad量は有為に増加することが分かった(図G)。次に、我々はDppの発現量に着目した。翅全体でTkv-HAの発現量を2倍にすると、Dppの発現量が減少することが分かった(図H)。以上の結果より、Tkv-HAの発現量を翅全体で増加させても、少なくとも、Dadによる負のフィードバック機構とDppの発現量の調節機構によりpMadが一定量に保たれることが明らかになった。

6. Tkvの局所的な発現量の差を増強する機構の存在が示唆

ところが、これらの機構によりpMadの量が制御されているにも関わらず、局所的にTkv-HAの発現量を変化させるとpMad量は変化する(図F)。これらの結果より、Tkvの局所的な発現量の差による影響を増強する機構の存在が示唆される。この機構として、2つの可能性を考えている。Tkvは細胞外のDppと結合し、Dppの拡散を抑制するように働いていることが知られている。そのため、Tkvの発現量を翅全体で増加させると、Dppの拡散範囲は狭まり、Dpp発現細胞付近の細胞外Dpp量は増加すると考えられる。しかし、この差はDadによる負のフィードバック機構やDpp発現量の抑制などにより補正することができると考えられる。一方、局所的にTkvの発現量を増加させた場合は、発現量が高い細胞と低い細胞との間に細胞外Dpp量の大きな差が生じる。この差は、フィードバック機構などによって補正できる範囲を超えており、結果としてpMad量の差として現れると考えられる。2つ目の可能性として、Dppシグナル依存的な二次的なシグナルが周辺の細胞におけるpMadの量を抑制していることが考えられる。翅全体でTkvの発現量を増加させると、Dadによる負のフィードバック機構などに加え、二次的なシグナルがpMad量を全体的に抑え、最終的にはpMadが一定量に保たれる。一方で、Tkvの発現量を局所的に変化させた場合は、発現量の高い細胞に囲まれた、発現量の低い細胞に強い抑制シグナルが入り、結果として両者の間にpMadの大きな差が生じると考えられる。

7. 結論

Dppシグナルの細胞内活性であるpMadの量を制御する2種類の機構の存在が示唆された。1つめは、Tkvの全体的な発現量の変化を補正する機構で、2つめはTkvの局所的な差による影響を増強する機構である。前者の機構として、少なくとも、Dadによる負のフィードバック機構とDpp発現量の調節機構があげられる。これらの機構により、内在性の複雑なTkvの勾配に依存した、安定性のある複雑なpMadの勾配が保証されると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章からなる。第1章は序論、第2章は材料および方法、第3章は結果、第4章は考察、第5章は結論、第6章は謝辞、第7章は引用文献について述べられている。

生物の発生過程において、モルフォゲンで総称される一群の分泌蛋白質の濃度勾配によって形態形成のパターンが形成されることが知られている。しかしながらモルフォゲン及びその信号伝達の構成因子の遺伝子のコピー数が変化しても、最終的なパターンは安定に保たれることが知られている。これはモルフォゲンの活性レベルによる体構造の決定機構と矛盾するように思われる。これまで、理論的な解析により、遺伝子量変化にかかわらず、安定な体構造を形成する機構が示唆されてきたが、実験的な証拠はほとんど得られていない。本論文の申請者、小木曽はショウジョウバエの翅を用い、代表的なモルフォゲンであるBMPホモログ、Decapentaplegic (Dpp)の受容体thickveins(tkv)遺伝子の発現量を変化させた時の、Dppモルフォゲンの補償機構を研究した。本研究ではDppシグナルの伝達因子であるMothers against dppのリン酸化(pMad)レベルをモルフォゲンの指標として用いた。

野生型からtkv遺伝子を1コピー減らすとpMadのレベルは変化するが、tkv遺伝子を1コピー増やしてもpMadのレベルは変化しないことを見いだした。この知見をより深く解析するために更に高いレベルのtkvを発現する実験系を構築した。この系ではtkv変異のバックグラウンドで、ubiquitin遺伝子のプロモーター下でtkv-HA(ubi-tkvHA)を一様に高レベルで発現させるとともに、その発現量をHAに対する抗体を用いて定量することができる。この実験系では、Dpp発現細胞におけるtkvのレベルは内在性のそれのレベルの約10倍になっている。この系でpMadのレベルを測定すると、tkvが遥かに高いレベルであるにもかかわらず、野生型のレベルとほぼ同じであることを示した。また、ubi-tkvHAのコピー数を更に2コピー、3コピーと増やしても、pMadのレベルは一定に保たれることを見いだした。これらの結果から、tkvの発現レベルを野生型より大きく増やしてもpMadのレベルは一定に保たれることを明らかにした。

この機構を説明するために小木曽は、pMadのレベルを一定に保たせる補償機構としてInhibitory Smadであるdaughters against dpp (dad) 遺伝子に着目した。dadはDppシグナルにより活性化され、Madのリン酸化を抑制する因子で、これによりネガティブフィードバック機構を形成すると考えられてきた。dad変異下で、tkvのコピー数を増加させたところ、pMadのレベルが増加することを見いだした。更に、tkvのコピー数増加に伴い、dad-lacZのレベルが増加したことから、tkvのコピー数が増加するに伴い、Dadのレベルが増加し、ネガティブフィードバックの効果が大きくなるため、pMadは一定に保たれることが示唆された。本論文は、Dadの発見以来、提唱されていたモルフォゲンの作用におけるネガティブフィードバック機構が実際に機能することを初めて実験的に示したものであり、その生物学における寄与が評価されるものである。

また、tkvのコピー数を全体的に増加させてもpMadは変化しない一方で、体細胞クローンを用いてtkvを局所的に増加させるとpMadも増加することを示した。この結果から、全体的なコピー数の変化は補償するが、局所的なコピー数の変化は体構造に反映させるような機構の存在が示唆された。このことはモルフォゲン機能の2面性を示している。すなわち、局所的なシグナル強度の変化に対応して体構造を形作る一方、コピー数の変化のような全体の変化に対しては補償機構を作動させることにより、発生メカニズムをロバストに保っている。この違いを生み出す機構については今後の課題としている。

理論、実験の組み立ては十分高い水準にあり、実験結果は明快なデータによって示されている。本論文の成果は、ショウジョウバエだけに限らず、パターン形成の安定性を司る普遍的なメカニズムの解明に資するところが大きい。なお本論文は常泉和秀博士、増田直紀博士、佐藤純博士、多羽田哲也博士との共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、本研究は博士(理学)の学位に値するものと考える。

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