学位論文要旨



No 126754
著者(漢字) 上野,貴之
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,タカユキ
標題(和) ミツバチ働き蜂の分業に伴う下咽頭腺の構造・機能変化の分子機構に関する研究
標題(洋) Molecular mechanisms of structural and functional changes of the hypopharyngeal gland associated with the role change of worker honeybees
報告番号 126754
報告番号 甲26754
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5699号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 竹井,祥郎
 東京大学 教授 岡,良隆
 東京大学 教授 藤原,晴彦
 東京大学 准教授 朴,民根
内容要旨 要旨を表示する

<序論>

社会性動物では社会を構成する各個体が育児や採餌、防衛などの役割を分担することで適応度を上げている。社会性昆虫であるセイヨウミツバチでは、働き蜂が羽化後の日齢に伴って、育児から採餌へと齢差分業する。この分業に伴い、働き蜂の下咽頭腺(頭部外分泌腺)の構造と機能は顕著に変化する。育児蜂の下咽頭腺は発達し、幼虫の餌となるMajor Royal Jelly Proteins(MRJPs)を合成・分泌するが、採餌蜂では退縮し、花蜜をハチミツに転換するためのα-glucosidase等の糖代謝酵素を合成・分泌する(図1)。この下咽頭腺の変化は働き蜂の分業に伴って起きることから、その分子機構の解析は齢差分業を支える分子基盤、ひいては社会性昆虫一般において個体の役割と生理状態が連携して変動する仕組みの解明に繋がると期待される。

修士課程で私は、下咽頭腺の変化に関わる候補因子を同定する目的で下咽頭腺で分業依存に発現変動する遺伝子をディファレンシャル・ディスプレイ法と定量的RT-PCR法を用いて検索し、育児蜂選択的に発現する遺伝子としてわ励、採餌蜂選択的に発現する遺伝子としてmatrix metalloproteinase 1(MMP1)を同定した(図2)。buffyはbcl-2タンパク質の1つで、ショウジョウバエではカスパーゼ依存のアポトーシスを抑制する。採餌蜂の下咽頭腺ではわbuffyの発現が低下し、カスパーゼが活性化すると予想されるが、下咽頭腺ではアポトーシスは生じないことから、buffyは下咽頭腺の構造・機能変化に関わる新規なシグナル経路に関わる可能性がある。MMPIは細胞外マトリクス分解酵素であり、採餌蜂における下咽頭腺の退縮に関与する可能性がある。博士課程では、コロニーの状況やホルモン投与に応じて、これら遺伝子が下咽頭腺でどのように発現制御されるか調べることで、ミツバチ社会において個体が社会行動を行う上での「社会的文脈」に応じた下咽頭腺の機能調節の分子機構の解明を目指した。

〈結果と考察〉

実験1.buffyとMMP1の発現の組織選択性

先ず、buffyとMMP1の分業依存の発現変化が下咽頭腺選択的かを検証するため、育児蜂と採餌蜂の各組織・部位における遺伝子の発現解析を行った。その結果、採餌蜂では、buffyは下咽頭腺でのみ発現低下し、MMP1は下咽頭腺と中腸で発現上昇していた(図3)。buffyとMMP1の発現変動は下咽頭腺を含む限られた組織で生じることから、組織選択的な転写制御機構の存在が示唆された。中腸においても下咽頭腺と同様に何らかの分業依存な構造・機能変化が生じている可能性がある。

実験2.シングルコホートコロニー(ほぼ同齢の働き蜂から構成される)を用いた遺伝子の発現解析

通常の齢差分業では加齢に伴って分業が進行するため、buffyとル1MP1の発現変化が働き蜂の日齢と行動のどちらと相関するかは分からない。この点を解明するため、約3000匹の働き蜂新成虫(全て0-2日齢)と1匹の女王蜂から構成される「シングルコホートコロニー」を作出した。数日後にはほぼ同齢であるにも拘わらず、育児を行う個体と、採餌を行う個体(早熟な採餌蜂)が現れるので、これら働き蜂を採集し、両遺伝子の発現を解析したところ、それぞれ育児蜂と早熟な採餌蜂に選択的に発現し(図4A、B)、両遺伝子が日齢ではなく行動と相関して発現することが判明した。また、下咽頭腺の機能自体が日齢と行動のどちらと相関するか調べるため、mrjp2とα-glucosidaseの発現を解析したところ、それらもそれぞれ育児蜂と早熟な採餌蜂に選択的に発現し(図4C、D)、「シングルコホートコロニー」の働き蜂では、下咽頭腺機能は行動と相関することが示された。このことは、働き蜂の行動と下咽頭腺の機能を連動して制御する機構の存在を示唆している。

実験3.育児蜂と採餌蜂の下咽頭腺におけるエクダイソン情報伝達関連遺伝子の発現比較

ショウジョウバエの変態期ではbuffyとMMP1はエクダイソン情報伝達系で発現制御されること、及び当研究室の知見として、働き蜂脳でエクダイソン情報伝達関連遺伝子(エクダイソン受容体EcR、E74、Mblk-1)が発現することが知られていることから、行動と下咽頭腺機能を連動して制御する機構としてエクダイソン情報伝達系を考えた。そこで下咽頭腺における上記遺伝子の分業依存の発現変動を調べたところ、いずれも採餌蜂下咽頭腺で発現増強していた(図5)。採餌蜂下咽頭腺ではエクダイソン情報伝達系が活1生化している可能性がある。

実験4.20-ヒドロキシエクダイソン(20E)注射が各遺伝子の発現に及ぼす影響の解析

エクダイソン情報伝達系がbuffy、MMP1の発現や下咽頭腺の機能変化に関与するかを直接的に検証するため、育児蜂頭部に20E 2.5μgを注射し、1~3日間容器で飼育した後、下咽頭腺での各遺伝子の発現を解析した。その結果、注射後3日目でbuffyの発現が20E注射依存に有意に低下した(図6A)。耀加2の発現も20E依存に低下する傾向があった(図6C、p=0.07)。MMP1やα-glucosidaseの発現は変化しないことから、20Eは育児蜂の下咽頭腺機能を規定する遺伝子の発現を抑制する一方で、採餌蜂の下咽頭腺機能は別の因子で制御される可能性が考えられた。EcRとMblk-1は注射後1日目で20E依存に有意に発現低下したが(図6E、F)、これはこれらの遺伝子発現が負のフィードバックによる調節を受けた可能性存示唆している。

〈まとめと今後の展望〉

今回、シングルコホートコロニーを用いた実験により、下咽頭腺機能が働き蜂の行動と関連することを初めて示した。buffyとMMP1の発現も、それぞれmrjp2とα-glucosidaseの発現と付随して変動したことから、buffyとMMPIが下咽頭腺の構造・機能変化に関わる候補と考えて矛盾しない。また20Eの投与実験から、育児蜂と採餌蜂の生理状態がそれぞれ20Eと、20Eに依存しない様式で制御される可能性を示唆した。先行研究で、幼若ホルモン(JH)が育児から採餌への行動変化の促進作用があること、また下咽頭腺の退縮を引き起こすことから、JHが採餌蜂の下咽頭腺機能を規定する可能性がある。従ってエクダイソンとJHの2つのホルモンの協調的な制御によって下咽頭腺の生理状態が変化すると考えられる。今後は、それぞれの制御様式の解明と下咽頭腺の生理状態が行動と連動して制御される仕組みの解明が重要な課題である。

図1働き蜂の齢差分業と下咽頭腺の構造・機能変化

図2育児蜂と採餌蜂の下咽頭腺で発現量に差のある候補遺伝子の発現量解析

縦軸は育児蜂の値を1としたときの相対発現量を表すn=4(9~14匹を1ロットとした)*ウェルチのt検定(p<0.01)

A)buffry B)matrix metalloproteinase 1 (MMP1)

図3各部位・組織におけるbuffyとMMP7の発現量解析

軸は育児蜂の下咽頭腺の値を1としたときの相対発現量を表す。n=8(2-3匹の働き蜂を1ロットとした)(*p<0.05,t-test)

A: buffy B: matrix metalloproteinase 1 (MMP1)

図4シングルコホートコロニー(ほぼ同齢の働き蜂から構成)から採取した育児蜂と早熟な採餌蜂の下咽頭腺における遺伝子発現量解析縦軸は-20E群の値を1としたときの相対発現量を表す。

A: mrjp2 B: a-glucosidase C: buffy D: MMP1 (*p<0.05, t-test)

図5エクダイソン情報伝達系関連遺伝子の育児蜂と採餌蜂下咽頭腺での発現量解析

縦軸は-20E群の値を1としたときの相対発現量を表す。

A: EcR B: E74 C: Mblk-1 (*p<0.05, t-test)

図6 20-ヒドロキシエクダイソン(20E)注射が各遺伝子の発現に及ぼす影響の解析

20E 2.5μgを頭部に注射した後、インキュベーター内(33℃)で飼育し、注射後1、3日目にサンプリングを行った。下咽頭腺での各遺伝子の発現量を定量的RT-PCR法により解析。縦馳は-20E群の値を1としたときの相対発現量を表す。

+20E=20E注射 -20E.溶媒のみ注射 (*p<0.05, t-test)

A: buffy B: MMP1 C: mrjp2 D: α-glucosidase E: EcR F: Mblk-1

審査要旨 要旨を表示する

社会性昆虫であるセイヨウミツバチでは、雌が女王蜂(生殖カースト)と働き蜂(労働カースト)に分化する。さらに働き蜂は羽化後の加齢に伴い、ローヤルゼリーを分泌して幼虫に与える育児から、巣の外で花蜜や花粉を採集する採餌へと齢差分業する。このとき、頭部分泌腺である下咽頭腺は育児蜂ではローヤルゼリーの主要タンパク質(MRJP)を主に合成するのに対し、採餌蜂では花蜜をハチミツへと加工するためのα-グルコシダーゼを主に合成する。この下咽頭腺の機能転換は個々の分泌細胞レベルで生じるため、動物の行動変容に伴って生理状態が変化する仕組みを調べる上で格好の研究対象である。これまで、幼若ホルモン(JH)の投与により働き蜂の齢差分業が促進され、下咽頭腺でα-グルコシダーゼが発現増強することから、JHの齢差分業への関与が指摘されていたが、m合成器官を摘出しても、分業は遅れながらも正常に起きることから、JHだけでは齢差分業の制御は説明できていなかった。またその機能転換の仕組みについても不明であった。論文提出者は修士課程において、下咽頭腺の機能転換に関わる因子の候補として育児蜂の下咽頭腺で選択的に発現するBuffy(アポトーシスに関わるBcl ファミリータンパク質の一種)と、採餌蜂の下咽頭腺で選択的に発現するmatrixmetalloproteinase 1(MMP1)の遺伝子を同定した。博士課程では、これら遺伝子の発現解析を通じて、下咽頭腺の機能転換の仕組みと、その制御に働く内分泌系を提案している。

本論文は2章立てで構成されている。第一章では、まずbuffyとMMP1の育児蜂と採餌蜂での発現変動が組織選択的に起きることを見出し、各々が育児蜂と採餌蜂の下咽頭腺に固有な機能をもつことを示唆した。さて通常、齢差分業は働き蜂の加齢に伴って生じるため、育児蜂と採餌蜂の下咽頭腺の生理状態変化が、日齢と労働のどちらに伴って起きるのかは分からない。そこで女王蜂と、日齢の揃った3000匹の若い働き蜂からなるsingle cohor colonyを作成した。このコロニーではやがて一部の働き蜂が「早熟な採餌蜂」になる。そこで、この同齢の育児蜂と早熟な働き蜂の下咽頭腺における遺伝子発現を解析した結果、育児蜂では〃吻とわ励、採餌蜂ではα-glucosidaseとMMP1が発現充進していることが判明した。このことは、育児蜂と採餌蜂に固有な下咽頭腺の生理状態は、日齢ではなく労働に伴って制御されることを示している。また、BuffyとMMPlがそれぞれ育児蜂と採餌蜂の下咽頭腺の生理状態を規定するとの仮説をさらに支持する結果でもあった。論文提出者はこの結果に基づき、働き蜂の行動と生理状態を協調的に制御する因子として内分泌系を想定した。

第二章では下咽頭腺の機能転換における内分泌系の役割を解析している。昆虫の主要な内分泌系としてエクダイソンとJHがある。論文提出者の所属研究室では、多くのエクダイソン関連遺伝子がミツバチでは脳で発現することから、エクダイソン情報伝達系がミツバチの行動制御に関わる可能性が提唱されていた。そこでエクダイソン関連遺伝子の下咽頭腺での発現を調べたところ、いずれも育児蜂より採餌蜂で有意に強く発現していた。さらにJH関連遺伝子についても同様に育児蜂より採餌蜂で有意に強く発現することが見出された。このことは、採餌蜂の下咽頭腺ではエクダイソンとJHの両方の情報伝達系が機能する可能性を示唆する。そこで、エクダイソンを育児蜂に投与し、経時的に下咽頭腺の遺伝子発現を調べたところ、育児蜂(mrjpとbuffy)と採餌蜂の下咽頭腺に選択的な遺伝子(α-glucosidaseとMMP1)のいずれもが無処理群に比べ、有意に発現低下することが判明した。一方、mrjpとbuffyの発現には影響しない一方、α-glucosidaseとMMP1の発現を有意に低下させることが判明した。このことは、エクダイソンが下咽頭腺で育児選択的遺伝子の発現を抑制し、JHが採餌蜂選択的遺伝子発現を亢進させることで、その生理状態を協調的に制御する可能性を示唆している。

本研究はミツバチ働き蜂の分業に伴う生理状態変化にJHだけでなくエクダイソンが協調的に働くこと、またその制御因子の候補を同定した初めての例である。特に、エクダイソンとJHについて、従来の変態や生殖制御に加えて新しい役割を見出した点で学術的な意義が大きく、昆虫行動生理学における独創的な研究成果といえる。

なお、本論文の研究は中岡貴義、竹内秀明、久保健雄(東京大学)との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験を計画し、遂行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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