学位論文要旨



No 126756
著者(漢字) 河合,喬文
著者(英字)
著者(カナ) カワイ,タカフミ
標題(和) キンギョ嗅覚情報処理機構における神経修飾作用の研究
標題(洋) Studies on the Functions of Neuromodulation during Information Processing in the Olfactory System of Goldfish
報告番号 126756
報告番号 甲26756
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5701号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡,良隆
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 竹井,祥郎
 東京大学 准教授 吉田,学
 東京都医学研究機構東京都神経科学総合研究所 副参事研究員 市川,眞澄
内容要旨 要旨を表示する

序論

多くの脊椎動物は周囲の環境情報を各種感覚神経系によって受容し、外界の刺激に適応した行動を行う。なかでも嗅覚系は、フェロモンやエサなどの匂い情報を処理することにより、本能的脳機構において重要な役割を担っている。

嗅覚系において、匂い情報は最初に嗅上皮中の嗅細胞によって受容され、次にこの情報が嗅覚情報の一次中枢である嗅球の神経回路において処理されるという過程を辿る(図1)。そしてその嗅球神経回路からの出力が個体の行動に影響を及ぼすと考えられるが、このような嗅覚応答性は個体の置かれた環境に関わらず、常に固定化されたものなのであろうか。従来の行動学的研究から、個体の嗅覚応答性は、自らが置かれた環境に応じて柔軟に制御されていると考えられる。

そこで今回私は、嗅球神経回路の情報処理機構を環境に応じて適切に調節する因子として、嗅球内に存在する二つの神経修飾物質(GnRH,ドーパミン)に焦点を絞って研究を行った。

第一に、以下に挙げられるような特徴を持つ終神経GnRH系に焦点を当てた研究を行った。

1.神経修飾作用をもつと考えられる、生殖線刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)を合成・放出。

2.脳内の嗅覚・視覚・体性感覚を司る領域から終神経GnRHニューロンへの神経入力が存在。

3.終神経GnRHニューロンから嗅球への密な軸索投射が存在。

以上のような知見から、終神経GnRH系は、各種感覚入力を統合し、それに応じてGnRHを嗅球神経回路へと放出することで、個体の嗅覚応答性を調節することが考えられる。そこで、第一章と第二章では、GnRHが嗅球神経回路の情報処理機構を修飾する仕組みに着目した。

次に第三章では、嗅球内に内在することが知られているドーパミンニューロンに焦点を当てて研究を行った。ドーパミンは、神経修飾物質として脳内で幅広くその作用が知られている因子でもあるが、脳内の様々な領域においてGnRHの機能と密接な関連をもつことが知られる因子でもある。本研究ではこのようなドーパミンが嗅球神経回路に対して及ぼす修飾作用に関して検証を行った。

なお、実験動物には(1)終神経GnRH系に関する知見が豊富であり、(2)嗅覚系に関する知見が豊富、かっ(3)生理学的な実験に適しているといった利点を併せもつ、硬骨魚キンギョを選択した。

第一章.キンギョ終神経GnRH系で発現するGnRHの分子種とその嗅球内投射

まず第一章では、終神経GnRH系によるキンギョ嗅球神経回路への神経修飾作用を調べるための、分子生物学的・形態学的基盤を整えた。最初にキンギョ終神経GnRH系において発現しているGnRH分子種をin situ hybridization法によって検証した。その結果、終神経GnRH系はサケ型GnRH(sGnRH)と呼ばれる分子種のmRNAを主として発現していることが明らかとなった。次にGnRH線維の嗅球内投射を調べるため、sGnRHペプチドに対する抗体を用いて免疫組織化学法による形態学的解析を行った。その結果、sGnRH線維は、嗅球内の内側領域・外側領域及び、僧帽細胞層・顆粒細胞層のいずれにも幅広く投射していることが明らかとなった。

私はさらに、キンギョ嗅球内におけるGnRH受容体の発現に関しても解析を行った。従来キンギョにおいてGnRH受容体は二種類(GnRHRA,GnRHRB)しか同定されていなかったが、これに加えて未知のGnRH受容体が存在する可能性を検証したところ、新たに2種類の受容体の配列が明らかになった(GnRHRC,GnRHRD)。そしてこれらに関して嗅球内におけるmRNA発現をRT-PCR法によって調べたところ、4種類全てのGnRH受容体の発現が認められた。以上の結果より、終神経GnRH系は嗅球神経回路における匂い情報処理に広く関わっていることが強く示唆された。

第二章.キンギョ嗅球神経回路に対するGnRHペプチドによる神経修飾作用の電気生理学的解析

次に私はGnRHの嗅球神経回路における作用に関して、電気生理学的な解析を行った。まず、匂いの識別に極めて重要な役割を果たすとされる僧帽細胞→顆粒細胞間のシナプス伝達(図1)に着目し、このシナプス電位を集合電場電位として計測しながら薬剤投与を行うことが可能なin vitro実験系を確立した。そしてこの系を用いたsGnRH投与実験の結果から、GnRHは僧帽細胞→顆粒細胞間のシナプス伝達効率を濃度依存的に高めることが明らかとなった(図2A)。またこのような作用はGnRH受容体のアンタゴニストであるAntideを投与することにより阻害されることから、GnRH受容体に特異的な作用であることも確認された。次に詳細な電気生理学的解析の結果から、GnRHは僧帽細胞のシナプス前終末に作用し、シナプス小胞の放出確率を増大させていることが示唆された。さらにキンギョの僧帽細胞は、外側嗅索、内側嗅索のいずれかに軸索を伸ばしており、各々が異なる匂い情報を処理していることが示唆されているが、今回行った実験ではどちらの僧帽細胞群においてもGnRHによる効果が見られたことから、GnRHは特定の匂い情報に寄与しているのではなく、比較的広いカテゴリーの匂い情報処理を調節しているものと考えられた。以上の結果より、終神経GnRH系は嗅球神経回路における情報処理に対し、それを正の方向に制御する役割を果たしているものと考えられた。

第三章.キンギョ嗅球神経回路におけるドーパミンニューロンの特徴とその神経修飾作用

まずキンギョ嗅球内におけるドーパミン作動性ニューロンの分布と投射を、免疫組織化学法により詳細に調べた。その結果、ドーパミンニューロンはキンギョにおいては僧帽細胞層に細胞体が散在しており、豊富な線維が僧帽細胞層に認められた。また、ドーパミンニューロンは嗅神経層にも細かい突起を多数伸ばしており、嗅覚情報を直接受容しているものと考えられた。

次に、前述したinvitro実験系を用いてドーパミンのキンギョ嗅球神経回路に対する作用を電気生理学的に検証したところ、ドーパミンは嗅球神経回路に対してGnRHと逆の修飾作用をもつことが示唆された。すなわち、ドーパミンは、僧帽細胞→顆粒細胞のシナプス伝達を抑制しており(図2B)、またその作用は僧帽細胞からのシナプス小胞の放出確率の抑制に起因すると考えられた。最後に、嗅球神経回路において匂い応答を記録し、この応答に対するドーパミンの作用を検証するという実験も行った。その結果、ドーパミンは匂い応答を明らかに抑制している様子が確認され、ドーパミンは嗅球神経回路における情報処理に対し、それを負の方向に制御する役割をもつと考えられた。

まとめと考察

終神経GnRH系はsGnRHを主として産生し、その線維を脳内に幅広く投射しているが、嗅球内にも密に投射が存在する。また、嗅球内には脳内に存在する4種類全てのGnRH受容体が発現しており、終神経GnRH系によるsGnRHを介した嗅球神経回路の修飾機構の存在が強く示唆された。そこで生理学的解析を行ったところ、GnRHは嗅球神経回路内のシナプス伝達を増大していることが明らかとなり、GnRHが嗅覚情報処理を促進するような神経回路の修飾作用をもつと考えられた。

一方で、嗅球に内在するドーパミンニューロンから放出されると考えられるドーパミンは、上記シナプス伝達に対してGnRHとは逆の作用を及ぼし、匂い応答を抑制した。嗅球内ドーパミンニューロンは嗅覚情報を受け取りながら嗅球神経回路に対して抑制を行うという負の内因性調節機構として働くと考えられる。このような機構に対し、過去に報告があるような、個体の内的環境によるドーパミン合成量の調節、遠心性入力によるドーパミンニューロン神経活動の修飾といった作用が影響を及ぼし、ドーパミン放出量を変化させることで、嗅覚応答性の柔軟な調節が可能になると思われる(図3)。

以上のことから、キンギョ嗅球内にはGnRH、ドーパミンという異なる経路の修飾機構が存在しており、個体はこれらの神経修飾を介して自らの置かれた環境に対して適応的にその嗅覚応答性を調節しているものと考えられる(図3)。

図1嗅球神経回路の模式図

嗅上皮で受け取られた匂い情報は、嗅神経を通して嗅球へと運ばれる。次に嗅球内の相反シナプスを介した神経回路で情報処理を受け、高次中枢へと運ぱれる。相反シナプスでは、まず僧帽細胞は顆粒細胞に対して興奮性の入力を伝え、穎粒細胞はそれに応じて抑制性の入力を僧帽細胞へと戻す。

図2sGnRH(A)、及びドーパミン(B)投与による集合電場電位の変化

嗅球集合電場電位に対するsGnRHとドーパミンの神経修飾作用。sGnRHを投与することにより応答が増大し(A)、ドーパミンの投与により逆に減少した(B)。

図3本研究結果による作業仮説

GnRH、ドーパミンという異なる神経修飾機構の存在によって、個体は自らの嗅覚応答性を適応的に調節しているものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は3章からなる。この論文では、キンギョ嗅球神経回路を研究対象として、神経ペプチドであるGnRHと脳内アミン物質であるドーパミンに着目し、それらの神経修飾作用を系統的に解析している。まず第1章では、中枢神経系で神経修飾作用をもつと考えられている終神経GnRH神経系に着目して、第2章においてキンギョ嗅球神経回路への神経修飾作用を生理学的に解析するための分子生物学的・形態学的基盤整備を行った。その結果、サケ型GnRHペプチドを産生する終神経GnRHニューロンの神経線維、および今回新たに見出されたものも含めて計4種類のGnRH受容体の全てが嗅球神経回路全体に広く分布していることがわかった。以上の結果より、終神経GnRH系は嗅球神経回路における匂い情報処理の修飾作用に広く関わっていることが強く示唆された。

第2章では、GnRHの嗅球神経回路における神経修飾作用に関して、電気生理学的な解析を行った。その結果、GnRHが嗅球の構成ニューロンである僧帽細胞から顆粒細胞へのグルタミン酸作動性シナプス伝達の効率を、GnRH特異的な受容体を介して濃度依存的に正の方向に制御することがわかった。また、この神経修飾は、特定の匂い情報に寄与しているのではなく、エサ物質からフェロモンにいたる比較的広いカテゴリーの匂い情報処理を調節しているものと考えられた。

第3章では、キンギョ嗅球内におけるドーパミン作動性ニューロンの分布と投射を免疫組織化学法により詳細に調べ、それらが嗅神経層にも細かい突起を多数伸ばしており、この領域において嗅覚情報を直接受容し、かつそこで神経修飾作用をもつ可能性が考えられた。そこで、in vitro実験系を用いてドーパミンのキンギョ嗅球神経回路に対する作用を電気生理学的に検証したところ、ドーパミンは嗅球神経回路に対してGnRHと逆の修飾作用をもつことが示唆された。すなわち、ドーパミンは、僧帽細胞から顆粒細胞へのグルタミン酸作動性シナプス伝達の効率を抑制しており、またその作用は僧帽細胞からのシナプス小胞の放出確率の抑制に起因すると考えられた。また、そうした神経修飾の結果、ドーパミンは、実際に記録される匂い応答を抑制していることが確認され、ドーパミンは嗅球神経回路における情報処理に対し、GnRHとは逆に、それを負の方向に制御する役割をもつと考えられた。

以上のことから、キンギョ嗅球内にはGnRH、ドーパミンという異なる経路の修飾機構が存在しており、個体はこれらの神経修飾を介して自らの置かれた環境に対して適応的にその嗅覚応答性を調節しているものと考えられた。これらの論文の各章で示された研究成果は中枢神経系、特に、嗅覚系における神経修飾の機構を理解する上で大変重要な知見であり、論文提出者の研究成果は博士(理学)の学位を受けるにふさわしいと判定した。

なお、本論文第1章~第3章は、阿部秀樹、赤染康久、岡良隆との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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