学位論文要旨



No 126771
著者(漢字) 李,佶勲
著者(英字)
著者(カナ) イ,キールン
標題(和) 近世江戸の代地に関する都市史的研究
標題(洋)
報告番号 126771
報告番号 甲26771
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7412号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 清水,英範
 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 准教授 大月,敏雄
内容要旨 要旨を表示する

江戸の都市空間のうち、明地と代地を主な分析対象とする本論文の目的は、第一に明地を設定し代地を与えることについて幕府と町人の論理を明らかにすることであり、第二に代地という江戸特有の土地システムをキーワードとし、江戸町人地の名主支配、空間構造、社会関係を解明することであり、第三に明地と代地という土地の入れ替えを通じて江戸の拡大の様相を再検討することであった。

近世江戸の代地の半分は火除明地のための収公により与えられた。このような代地の発生過程が本論文で明地と代地を同時に扱った理由である。近世江戸の都市史研究において代地という町地の研究はいかなる意味を持つのか。代地は町地の一部分であるにもかかわらず、その移動は江戸全体を通して行われている。第三章の江戸全体における代地の移動を調べた結果、代地として与えられた土地は町地に限ってはおらず、支配管轄の異なる武家地により多く与えられていた。したがって代地の移動は単なる町中でのでき事ではなく、江戸全体での移動であり、代地を通して江戸の都市空間の推移を考察することは意味をもつ。

1.空ける政策としての明地、埋める政策としての代地

火除明地の設定は確かに都市の防火性能を高める政策の一環として捉えることができる。しかし、火除明地の設定に伴い生じた代地が江戸の都市空間のなかで計画的な意思で行われたのかについて検討した。

第三章では、収公と代地の授受が最も活発に行われた元禄期と享保期の代地の移動を検討した結果、代地が町地の場所柄に基づいて移転されたことが明らかになった。時期別の特徴として、元禄期には深川・本所に数多くの代地が与えられ、享保期には外堀内側にあった武家屋敷を外縁部に移転し、その跡地を代地として与える手法が読み取れた。また代地が与えられる経緯を検討した結果、代地とする地域にあった武家地や町地を他所に移転する整備過程が明らかになった。以上の三点から、代地を与えるという作業が一定の計画的意思に基づいて行われたことが判明する。代地をいかなる場所に移動させるかは、幕府のなかである程度の全体像を把握し、町人の願い出により調整されながら、決められていたと推測される。

明地は幕府の明地を設ける政策の下で設定された公地であった。本論文では、このような公地に対する幕府と町人の異なる立場について考察した。幕府にとって明地は防火という機能の維持のため管理を必要する対象であり、町人にとって明地は管理の名目で「使用権」が得られる対象であった。明地をめぐるこのような一連の管理システムは両者に収入の増大をもたらした。このような幕府と町人の利害関係により明地は管理され、空間的に変容していったのである。一方、町人において代地は半ば強制的に移転させられた土地であったが、願い出によって良い条件の土地に替えていくことが可能な対象であった。幕府は代地を介して江戸の都市空間の再編成を果たしていた。

2.近世江戸における代地

・名主支配を通してみる代地

名主支配下に置かれた町が収公により元地と代地に空間的に分断された際、名主支配にはいかなる変化がみられるのか。さらに、名主にとって代地はどのようなものであったか。元地と代地の距離が隔たっても76%の名主は支配を維持しようとしていた。管理者としての名主の仕事は元地との関係もあり訴訟などの処理が増えてはいるが、代わりに収入も増えていたため、結果的には代地による支配の拡張は名主にとって利潤を生むことであったと判断される。名主の権威は現実的には町々の地主たちによって支えられていたため、名主にとって地主が増えるということはその権威の強化でもあった。

・元地と代地の空間構成とその社会構成員

明地と代地により、江戸の都市空間は再編成されつつ、土地の性格も変えていた。再編成の過程で一つの町はいくつかの代地や性格の異なる空間(上納地、蔵地など)で構成されることになる。代地が与えられることで、一つの町の空間構成は変容する。その空間構成の変容が幕府の土地管理システムと町人の所有意志からもたされたことは前述した。それにともない、このような町の収公と代地の授受は社会構成員にも変化をもたらした。第六章では代地へ住民のどの階層が移転したかについて検討した。実際代地に移転したと推測される者は家持、家守で他の住民階層は他地域に組み込まれたと考えられる。代地は江戸の都市空間に変形的な空間を生み出しながら、その構成員を分散する結果をもたらした。

・元地と代地の町人同士の社会関係

第六章の元地と代地の屋敷の移動から、代地が空間的に散在するが一つの町として役を勤めていたことが読み取れた。代地における町とは空間よりも構成員である社会集団によって維持されていたことが明らかになった。

一方、第五章では代地が与えられることで元地と代地がいかなる社会関係を結ぶかについて三つのパターンで説明した。元地と代地が空間的に隔たることにより、代地の町人は元地と従来の社会関係を維持するか、新しい町に入るか、新しく町として独立するかという三つの様相がみられた。しかし前述した三つの様相をもって、江戸の元地と代地の町人同士の社会関係を説明できるわけにはいかない。このような三つの様相は単純に分けられない、多様な社会関係が重畳されているといえるだろう。

元地と代地の町人関係の一つの指標になるのは役をどこに勤めているかである。しかしながら南大工町に関して元地と代地の町人の関係は役負担のみでは判断できない元地と代地がつながっている「御能拝見」のような関係も存在したことが判明された。

3.元地に対する代地の認識の変容―町共同体の変容

本論文では、代地の移動は主に元禄期、享保期を対象に分析をし、「町人諸願之部」のなかで代地に関わる町人の願い出も三件が享保期で、一件のみが天保期である。天保期の願い出からは元地から独立しようとする代地の動向が読み取られた。

代地が与えられた当時の願い出や明地になった元地を獲得しようとする町人の動向からは元地に対する町人の執着があらわれている。元地に執着する理由の一つは町共同体の維持のためであるだろう。しかしながら代地が明地となった元地に戻れた例は数少ない。結局、代地に定着するか、より良い土地を求めることで再び移転している。

近世初期の町は、住民によって支えられ、また住民の生活を根底から規定するもっとも基礎的な共同体であったが、都市において様々な周辺的諸身分が形成されていく近世後期は、住民にとってそのような絶対的な存在であった町が相対化されていく。前述した元地に対する執着が代地での定着に変わっていく様子は町共同体の位相変化の過程のなかで読み取りたい。近世初期の町人である家持は減少し、そこには家守に代替えた町の住民構成の変化と多様な職縁的仲間や組合の登場は町をこえてその領域を広域にした。

代地の移転は主に幕府と地主の論理であった。地主が不在化した近世中期以後の町中において、代地は単なる屋敷の移動で、実際は誰も移転していなかった可能性もある。近世中期にかけての町共同体の変容と地主の不在化、階層分化は代地という土地システムが定着するのに大事な役割を果たしたと考えられる。

4.開発されていく都市空間―江戸の拡大

17世紀から18世紀中期にかけて近世の三都は巨大化されていく。先行研究によると近世の新地開発と再開発から三都の巨大化や都市域の拡大を説明する見解もある。そのなかで伊藤毅氏は江戸の再開発を「単に市街地を郊外へ拡大させただけではなく、既成市街地の高密化を促した」と説明した。

本論文での明地の設定と代地の移動は郊外への拡大と内部からの高密化の連動作用として読み取ることができる。元禄期には深川・本所に数多くの代地が与えられる郊外への拡大、享保期には外堀内側にあった武家屋敷を外縁部に移し、その空いた土地を代地として与える内部の高密化といった二つの手法で江戸は拡大されていった。空けられた明地は明地で変容を繰り替え、与えられた代地は代地で変容を繰り替えしながら江戸の都市空間は再編成されていく。明地と代地といった点としての再開発が面としての江戸の拡大に展開する。

江戸の拡大という構想図は幕府の計画下で行われたと考えられる一方、明地の設定や代地の移動という点としての再開発は誰の主導で行われたのかについて注目しておきたい。明地の設定や代地の移動は幕府の各機関(町奉行・寺社奉行・普請奉行・勘定奉行など)で決めていたことが判明した。しかし、明地の設定後、明地の使用における変容には町人が関わっており、また代地の移転においても幕府の各機関と町人の間で調整により決められたことがうかがえた。

江戸の都市開発は火災を契機に新たな展開に向かう。新たな展開の一つが本稿で注目した明地と代地である。幕府は、高密化による都市空間の不足の一方で明地を設けなければならないという矛盾に直面する。幕府にとって、代地という手段はこうした状況を解決するひとつの方策であり、これによって土地不足と明地の確保という二つの要請を同時に解決したと考えられる。その一方、代地または代地のために収公した武家地を用いた所有権の移動は、結果的に江戸の都市域の拡大をもたらす。このような明地と代地の大規模な展開は、拡大しつつあった江戸の都市空間を背面から支えている論理であった。

以上は幕府の論理からみた明地と代地についての一考察である。幕府の論理に注目すると、明地・代地が都市政策という側面をもつ一方で、明地の用途に一定の自由度を認めたり、町人の請願を受けて代地をさらに移動させるなど、実状においては町人など土地所有者の論理が対立的に現われる場面が認められた。こうした際に明地や代地のシステムが柔軟に運用されている過程をみると、これらの土地制度が対立する利害を調整しつつ江戸の都市機能を維持し、空間の持続的な活用を促してゆくある種の触媒として機能していたことが伺われる。

審査要旨 要旨を表示する

本論は巨大都市・江戸の「代地」と呼ばれる特殊な土地の動向に焦点を絞って、その近世中期の展開過程を明らかにした都市史研究である。

近世都市は居住者の身分に応じて、武家地、寺社地、町人地、百姓地に居住することが定められていた。都市内の土地の大部分は所有され、その所有は身分と分かちがたく結びついていたのである。その一方で、都市には「明地」と呼ばれる空地が存在した。江戸はしばしば大火に見舞われ、その度ごとに甚大な被害を受けた。幕府はとくに享保期以降、この大火対策に本格的に乗り出し、都市内各所に積極的に明地を設置するようになる。すでに居住している場所に明地を設定するためには、従前の土地所有および利用形態に鑑みて、その所有者に代替地、すなわち「代地」が与えられたのである。本論はこの代地の動向について、はじめて本格的にメスを入れた意欲的な論考であって、既往の近世江戸研究に重要な貢献をしている。

本論は史料上判明する明地と代地の時代と位置を地図上にマッピングしていう作業を基本に据えながら、その動向から読み取れる幕府の意図と代地を受け容れつつ変化を遂げる町人側の論理を浮き上がらせようとする。

国会図書館旧幕引継書に断片的に記された明地・代地のリスト、町鑑などの史料を駆使しながら、代地を逐次的に追跡してゆくと、幕府は江戸の高密化による都市空間の不足の一方で火災対策のために明地を設けなければならないという矛盾に直面し、幕府は代地または代地のために収公した武家地を用いて所有権の移動を行う。このことは土地の玉突き現象を惹起し、結果として江戸の都市域の拡大をもたらすことになる。このような明地の設定と代地への移動の大規模な展開は、拡大しつつあった江戸の都市空間を背面から支えている論理であったことが説得力あるかたちで実証される。

幕府は火除けのための土地として明地と代地を設定するために、これが一見すると上からの一方的な都市計画のごとくみえるが、実は個々のケースを分析すると明地の用途に一定の自由度を認めたり、町人の請願を受けて代地をさらに移動させるなど、実状においては町人など土地所有者の論理が対立的に現われる場面が認められる。すなわち明地や代地は、近世都市において利害を柔軟に調整しつつ江戸の都市機能を維持し、空間の持続的な活用を促してゆくある種の触媒として機能していたことがうかがわれる。本論は都市計画と都市形成の中間に位置するような都市の微調整論理として明地・代地を捉えており、この視角が本論をきわめて魅力的にしている。このことは、単に近世都市分析にとどまらず、現代都市に対する示唆となっており、論文として大いに評価できる点である。

一方、代地への移動に直面する町人側にとって、土地の収公と代地の授受は社会構成員に大きな変化をもたらしたことはいうまでもない。本論は代地へ住民のどの階層が移転したかについて具体的に検討し、実際に代地へ移転したと推測される身分は地主、家守で、その他の住民階層は他地域に組み込まれたと結論づける。

著者によると、「町人諸願之部」のなかで代地に関わる町人の願出は、3件が享保期で、1件のみが天保期である。天保期の願出から元地から独立しようとする代地の動向が読み取れる。代地が与えられた当時の請願や明地になった元地を獲得しようとする町人の動向からは元地に対する町人の執着が露見していると評価している。町人が元地に執着する理由の一つは、町共同体の維持のためであるが、具体的な事例にあたると、元地に戻れた町はごく少数である。むしろ代地に定着するか、より良い土地を求めることで再び移転しているケースが多いという注目すべき指摘が行われている。

近世初期の町は、住民によって支えられ、また住民の生活を根底から規定するもっとも基礎的な共同体であったが、都市において様々な周辺的諸身分)が形成されていく近世後期は、住民にとってそのような絶対的な存在であった町が相対化されていく。元地に対する執着が代地での定着に変わっていく様子は町共同体の位相変化の過程として位置づけられる。近世初期の町人である家持は減少し、そこには家守に代替えた町の住民構成の変化と多様な職縁的仲間や組合の登場は町をこえてその領域を広域にしたのである。

また著者によると、明地の設定と代地への移動は単なる町中での動向ではなく、武家地、寺社地といった土地区分を超えて行われていた事実が判明している。このような明地の設定と代地への移動は江戸の都市空間が巨大化するなかでの一つの様相として捉えることができる。

以上のように、本論は近世江戸の代地について、はじめて一次史料にもとづきながら、その全貌を明らかにした研究としてきわめて重要であり、これまでの厖大な江戸の都市史について重要かつ貴重な貢献をした力作である。また巨大都市のなかの土地のやりとりという現象は、現代都市にも通ずるきわめて示唆深い論点を提供している。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

以上

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