No | 126780 | |
著者(漢字) | 江口,久美 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | エグチ,クミ | |
標題(和) | 1890年代から1930年代の古きパリ委員会による歴史的環境保全に関する研究 : 歴史的記念物をめぐる都市的視点の導入と展開 | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 126780 | |
報告番号 | 甲26780 | |
学位授与日 | 2011.03.24 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(工学) | |
学位記番号 | 博工第7421号 | |
研究科 | 工学系研究科 | |
専攻 | 都市工学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文は、1897年設立のパリ市の諮問機関である古きパリ委員会(CVP)が、考古学的・芸術的目録(CAA)の作成を通じて、いかに歴史的記念物保全に都市的視点を導入し、その後の歴史的環境保全制度の展開への基点となり得たのかを明らかにすることを目的としている。 第1章では、研究の背景及び目的を整理し、記念物周囲500m規制制度(1943年)、保全地区制度(SS、1962年)、建築的・都市的・文化財的保護区域(ZPPAUP、1983年)という歴史的環境保全制度は、1913年法による歴史的記念物制度を基礎としており、現在のフランスの豊かな都市景観の維持に大きく貢献していることを指摘し、そうした歴史的記念物制度の面的展開の基点として、CVPの取り組みが位置づけられるのではないかという視点を示した。 第2章では、18世紀のフランス革命以降の社会背景と歴史的記念物の出現の経緯及びオスマニズムによる「パースペクティブ」な視点の出現と、ポスト・オスマン期のヨーロッパにおける「ピクチャレスク」な視点への回帰に関して明らかにした。 1789年のフランス革命以後、歴史的建造物は取り壊され、フランスの風景が一変した。こうした風潮をヴィクトル・ユゴーは厳しく非難した。 世論による批判を受けて、七月王政の期間中に、1830年に歴史的記念物総監のポストが創設され、1837年に歴史的記念物審議会(CMH)が創設され、建造物のリスト化が開始された。 1853年にセーヌ県知事に指名されたジョルジュ・ウジェーヌ・オスマンは、体系化的に都市を「整序化」し、為政者によるパースペクティブな視点から、規則性、直線、幾何学性を重視した。しかし、厳格な構成に疲弊したため、カミロ・ジッテは、ピクチャレスクな不規則で、幾何学的ではない構成からなる都市計画を求めていた。ジッテの影響の下、19世紀末の欧州では、ピクチャレスクな都市景観が指向された。また、ベルギーにおいても、ブリュッセル市長シャルル・ビュルスによって、古典主義以前の中世の特徴を有する、ピクチャレスクな都市景観を目指した都市保全が行われた。 一方、イギリスでは、ピクチャレスクさが、不規則性や過去への連想を促す田園美として、田園都市において実現された。 第3章では、オスマン期にかけての歴史的記念物制度の課題とセーヌ県による都市史研究に関して明らかにし、記念物保全を巡る組織と、民間のパリ記念物愛好会(SAMP)が果たした役割に関して明らかに 1840年には、CMHによって歴史的記念物の公式リストが刊行されたが、CMHは地方での活動に力を入れていたため、パリの記念物は一つも指定されていなかった。ラザール兄弟により、セーヌ県の都市史研究が行われ、1849年に『パリの街路及び記念物に関する行政歴史事典』が編纂された。オスマンも市歴史局を設立したが、研究成果は実際の都市計画にはほとんど反映されなかった。 パリの歴史的環境が危機に瀕していた19世紀後半、それらを擁護する多くの民間の組織が設立された。 1884年に設立された、SAMPの活動目的は、芸術品とパリの記念碑的な様相を監視していくことであった。メンバーのアルフレッド・ラムルーはシテ島開発への意見から、今後のパリのあり方として、「「ピクチャレスク」な景観を保全しながらも、合理性を確保すべきである。」と考えていた。SAMP設立者のシャルル・ノルマンは、考古学に関心の高い建築家であり、ピクチャレスクな景観の保全の必要性を示した。 第4章では、1897年のCVPの設立と「ピクチャレスク」な都市風景への視点、歴史的記念物の点的保全制度による「古きパリ」の保全とCVPへの都市的視点の萌芽を明らかにした。 SAMPを参考として、1897年、CVPが設立され、歴史的記念物審議会(CMH)の活動の補完のため、パリ市の諮問機関として位置づけられた。CVPの目的は、「古きパリを調査し、目録化し、できれば保全し、市民に存在を伝えること」であった。 ラムルーによれば、CVPの活動目的は、SAMPの活動目的と同様に、パリの「ピクチャレスク」な外観を保全することであった。「ピクチャレスク」の基準は、一体的な調和、古い自然発生的な形状の建造物群による創りだされる親密さ、歴史的都市の特徴的な形状であった。 CVPは設立当初から、危機に瀕した歴史的建造物を、歴史的記念物として保全することについて考え、積極的に活動していた。マレ地区のロアン館は、国立印刷局の移転に伴う、改変の危機に瀕していた。そこで、CVPは適切な評価を行い、国及び市への勧告を通じて、ロアン館は歴史的記念物として保全された。 CVPはパリ4区のサンス館に関して、20世紀初頭に、周辺環境との関係を捉える、都市的視点によりランドマークとしての価値を評価し、その重要性をパリ市に認めさせた。 第5章では、1916年のCVPへの考古学的・芸術的目録(CAA)の作成と景勝地制度の関連性、CAAから読み取れる、CVPの都市的視点、CVPの都市的視点によるヴォージュ広場の面的保全について明らかにした。 建築・美・拡張技術課総監であったパリ市の建築家ルイ・ボニエによって、1916年に作成されたCAAは、パリ市の新たな道路拡幅計画に対して、市の建築課に送付し参照される為の目録制度であった。作成当初は、1906年の自然景勝地法にかわって、都市の面的な歴史的環境を保全することについても検討された。 1区のCAAについて見てみると、19の建造物及び地区に関して、周辺環境との調和、また地区と一体になった景観に関連する記述があり、それらに価値を見いだしていることが明らかになった。その内容としては、角地のピクチャレスクさ、固定された眺望点からのピクチャレスクな眺望、建造物の通りとの調和、広場との関係性、隣接する建造物との調和、大建造物の都市の中における様々な見え方があり、歴史的記念物についての空間的な概念である都市的視点について、世に示してきたことが明らかになった。 また、ヴォージュ広場について、CVPが地役権の法的な有効性を主張しながら、広場の調和のとれた対称性・一体性に価値を見いだし、勧告を通じて、一体的な保全を成功させていった経緯が明らかになった。 第6章では、1927年の国の歴史的記念物補助目録(ISMH)への影響、1929年の国のパリ記念碑的眺望委員会(CPM)への影響、1943年以降の面的保全制度の展開について明らかにした。 CAAの経験を踏まえて、アンドレ・モリゼによる上院での演説の効果もあり、1913年法は、1927年7月23日に修正され、第2条において、直ちに指定の要請を正当化しないが、保護に十分に値する考古学的価値を有する全時代の公共または民間の建築物は、芸術担当大臣のアレテにより、ISMHに登録できるようになった。都市的視点による建造物の評価・保全の為の特別な仕組みも準備された。これは面的保全には十分に活用されなかったが、CVPは公共教育芸術大臣から、ISMH作成に対する全面的な協力を要請された。 CVPは以上の活動により、歴史的記念物による歴史的環境保全の可能性を増大させる、登録制度の創設とそこへの都市的視点の導入に大きな役割を果たした。 1929年に、美術閣外相補佐官の発意により、1919年法による都市景勝地の監視のため、パリ記念碑的眺望委員会(CPM)が設置された。CVP事務局長エリー・ドビドゥールが代表を務めた。1933年前後に、(1)CVPによる過去の記念物の保全、(2)とりわけ、民間所有者及び、その権力濫用に起因するリスクに対処することを目的とする監視、(3)芸術・歴史・記憶の価値がある、シテに拡散された断片全体に注意を払うこと、を目的とした第一小委員会から、保護すべき都市景勝地がレポートとして発表され、CAAに記載されていた項目が、都市的視点を持った景観として挙げられた。セクション2には、記念碑的眺望と建造物群、セクション3には、都市景観が記載された。 また、1943年には1913年法が改訂され、歴史的記念物周辺の500m規制が成立した。 終章では、各章の考察を踏まえ、パースペクティブからピクチャレスクへの視点の移行について、ヨーロッパの大きな都市美の流れの中での位置づけ、及び現代日本における都市保全のあり方への示唆を整理した。 CVPは、都市を認識する視点として、オスマンによるパースペクティブな眺望を重視した都市改造への反動から、「ピクチャレスク」な都市風景に価値を見出し、面的な都市保全への扉を開いた。これは、為政者から生活者への視点の変化であり、全体計画に部分を従わせる視点から、ここの場の発見を都市全体の価値につなげる視点への転換であった。 日本では、2008年に、地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律が施行され、歴史的都市環境を包括的に保全・育成する仕組みが整えられた。個性と厚みのある歴史まちづくりを行っていく上で、生活者の視点から都市風景を価値付け、単体建造物にとどまらない、面的保全を促していったCVPの取り組みに学ぶべき点は多いと言えよう。 | |
審査要旨 | 本論文は1890年代から1930年代のフランスにおいて歴史的記念物の保存の視点にいかにして都市的な観点からの評価が導入され、面的保存の萌芽が見られたのかに関して、古きパリ委員会(CVP)における詳細な議論の内容をCVP議事録などの一次資料を基に明らかにすることを目的としたものである。 論文は、7つの章から成っている。第1章においては、研究の枠組みと目的、方法を述べ、さらに既往研究の概要を述べている。 第2章と第3章は、CVP出現に至る19世紀のフランス、とりわけパリにおける歴史的環境保全の運動史を総括している。このうち第2章は、フランス革命後の国家的なアイデンティティの形成という課題の中で19世紀における歴史的記念物保全の思想が生成したこと、オスマニズムによるパースペクティブな視点と国際的な伝播とその後のポスト・オスマニズム期における中世的なピトレスクな視点への回帰の流れをまとめている。第3章は、パリに焦点を当てて、1840年のフランス最初の歴史的記念物リストがパリを対象としていなかったこと、同時にオスマン期のパリが古記念物の破壊を推し進めたことからパリ記念物愛好会が1884年に設立され、ピトレスクな都市景観を評価する視点が次第に確立し、これが1897年のCVPの設立につながったことを明らかにしている。 続く第4章は、CVPの活動とその背後の思想を1899年から1934年までのCVP議事録を中心に詳細に明らかにした章である。古きパリとしてピトレスクな特徴を示す都市の一部を評価する視点が確立していく過程を明らかにしている。同時期の国の歴史的記念物保全制度が単体としてのランドマークのみを対象としていたのと比較して、パリにおいては、CVPの運動の成果によって都市生活者の視点から、地区的なランドマークとして歴史的環境を捉える視点が生成していったことを実証的に明らかにしている。 後半の第5章と第6章は、CVPの提唱のもとに地区的な視点を有した歴史的環境保全の制度がいかにフランスの中に定着していったのかを制度史の観点から明らかにした章である。第5章では、CVPによって1916年に作成された考古学的・芸術的目録(CAA)の内容と作成プロセスを明らかにすることによって、ピトレスクな視点がいかに評価基準として用いられていったのかを詳細にあとづけ、ヴォージュ広場などいくつかの事例について実地の調査分析を行った章である。第6章は、CAAが1920年代以降の国の保全制度へといかに反映されていったのかを明らかにしている。とりわけ1927年に作成が開始された国の歴史的記念物補助目録に対する明確な影響を指摘し、さらに都市景勝地の保存が関心を呼ぶようになり、都市景観上の配慮が1920年代以降なされるようになる過程を明らかにしている。これが1930年法および1943年法の保全制度へとつながっていったのである。 結論をまとめる終章では、1850年代から1870年代にかけてのオスマニズムによる都市計画における規則性の重視、直線や幾何学性の重視の反動から中世的な有機的秩序を重視するピトレスクという表現に代表される都市景観を再評価する視点が生成してきたことを実証的に明らかにし、その具体的な過程をパリ市を対象に具体的に跡づけている。 以上、本論文はこれまでまとまった論じられることのなかったフランス、特にパリにおけるポスト・オスマン期における歴史的記念物保全における地区的視点の萌芽を実証的に明らかにし、その根底にピトレスクという用語に象徴されるような都市を見る視点が存在していたことを明らかにした研究として有用であり、この分野の研究に新しい考察の視点を提供するものとして高く評価することができる。 よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。 | |
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