学位論文要旨



No 126824
著者(漢字) 李,憲之
著者(英字)
著者(カナ) リ,ノリユキ
標題(和) シュレーディンガーの猫状態の量子テレポーテーションの研究
標題(洋)
報告番号 126824
報告番号 甲26824
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7465号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古澤,明
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 永長,直人
 東京大学 教授 香取,秀俊
 東京大学 准教授 井上,慎
 慶応義塾大学 講師 山本,直樹
内容要旨 要旨を表示する

1925年のHeisenbergの行列力学、1926年のSchroedingerの波動方程式による量子力学の定式化以来、量子力学の解釈に関して盛んに議論が行われてきた。その議論の中で、量子力学に対する疑義として、二つの思考実験が1935年に提出された。一つは、Einstein、Podolsky、Rosenが量子力学から導き出したEPR相関と呼ばれる非局所長距離相関現象、もう一つは、Schroedingerが量子力学の基本原理である重ね合わせの原理を基にして考え出したシュレーディンガーの猫と呼ばれる思考実験である。彼らは、これらの量子力学が許す不思議な現象を持ち出すことで、その不完全性を指摘しようとした。

現在においても量子力学の解釈についての議論は続いているが、その一方で、現在に至るまでに、量子力学を利用して様々な科学技術が発展してきた。その中でも量子情報処理の分野は現在も発展途上であり、様々な物理系において盛んに研究が行われている。量子力学の特性を直接的に利用することで、量子計算においては、ある種の計算を古典的なコンピュータを上回る速さで行えること、量子通信においては、原理的に絶対盗聴不可能な通信が可能となることが知られている。そこで利用される量子力学の特性とは、先述の二つの量子力学に対する疑義において強調された、量子力学特有の「不思議な現象」に代表される。一般的に言えば、EPR相関は量子エンタングルメントの一つ、シュレーディンガーの猫とは巨視的な状態の重ね合わせの一つであり、この「量子エンタングルメント」と「状態の重ね合わせ」をいかに上手く利用することが出来るかが、量子計算、量子通信において重要な要素となっている。

量子エンタングルメントの生成は1982年にAspectによって実験的に確認されて以来、光、原子など様々な系において生成が実現されている。その量子エンタングルメントの応用例として代表的なのが、量子テレポーテーションである。本研究のテーマでもある量子テレポーテーションとは、リソースとしての量子エンタングルメント及び古典情報の転送を用いて、任意かつ未知の量子状態を転送することが出来る量子情報処理プロトコルである。理想的な量子テレポーテーションでは入力状態と出力状態は一致するので、量子テレポーテーション自体は恒等演算である。しかし、量子テレポーテーションの要素技術を応用することによって、様々な量子情報処理のプロトコルが可能になることが知られており、量子テレポーテーションをある物理系で高い精度(フィデリティ)で行うことが出来るようになれば、その物理系での量子コンピュータの実現に繋がると目されている。そして、その量子テレポーテーションのフィデリティを向上させるためには、リソースとして使用される量子エンタングルメントの実効的な相関の強さをできるだけ向上させる必要がある。

一方、状態の重ね合わせに関しては、連続量量子情報処理の分野で、「シュレーディンガーの猫状態」と呼ばれる光の量子状態に関する研究が現在活発に行われている。量子的な重ね合わせの状態というのは、その状態の系の規模が大きいと外界とのデコヒーレンスによって急速にいずれかの状態に収縮してしまうので、マクロな系では実現は難しいとされている。量子光学において最も単純な重ね合わせの状態というのは2つの位相の異なる光の状態の重ね合わせの状態であり、これがシュレーディンガーの猫状態と呼ばれている。このシュレーディンガーの猫状態を生成するためには3次以上の非線形性が必要だが、単一光子レベルの微弱光に対してそのような高次の非線形光学効果を十分な強さで持つ光学媒質は現在に至るまで発見されていない。ところが、1997年にDaknaによって量子エンタングルメントと光子検出による量子状態の射影を用いて、実効的に高次の非線形性を誘起する方法が提案され、この方法を用いることで、2004年以降に実験的にシュレーディンガーの猫状態を実験的に生成することに成功したという報告が相次いだ。この状態は疑似確率分布の1つであるWigner関数の形が非ガウス型となるのが特徴であるが、条件によっては負の値を取り得る。Wigner関数が負の値を取ることは、ガウス型状態操作だけでは実現できない量子状態であることの十分条件であり、状態が非古典的であることの強力な証拠となる。

ところが、上記のシュレーディンガーの猫状態を用いて、何らかの量子状態操作を行ったという報告は未だ成されていない。量子情報処理の分野において、上記のシュレーディンガーの猫状態の生成に使われた3次以上の非線形性は非常に重要である。1999年にLloydとBraunsteinによる提案によると、3次以上の非線形性をガウス型操作と組み合わせれば任意の量子状態操作が可能になるという。ガウス型の量子状態操作に必要な要素技術は量子テレポーテーションに集約されており、3次以上の非線形性を用いて生成された量子状態であるシュレーディンガーの猫状態に対し量子テレポーテーションを実現することは任意の量子状態操作を実現する上で非常に重要である。

本研究では、光子検出による測定誘起法を用いてシュレーディンガーの猫状態を生成し、これの量子テレポーテーションを行うことに取り組んだ。シュレーディンガーの猫状態は、その生成過程に光子検出という時間に依存した過程を持つため、生成された状態は光子検出が行われた時刻の周辺に局在しており、時間領域での取り扱いが必要になる。すると、フーリエ変換における時間と周波数の関係から、状態はその局在する時間幅に応じて、周波数の領域では広い帯域幅を持つことになる。従来の連続量量子情報処理における量子テレポーテーションでは、狭帯域なサイドバンド成分のみを扱うことが主流だったので、シュレーディンガーの猫状態の量子テレポーテーションを実現するには、新たに量子テレポーテーションの広帯域化が必要となる。また、シュレーディンガーの猫状態の持つ特徴であるWigner関数の負の値は、状態の非古典性の強力な証拠となるものの、排反的に、ロスなどの外界とのデコヒーレンスに対して非常に脆弱である。量子エンタングルメントが有限であることによる量子テレポーテーションの不完全性もまた状態を劣化させるが、理論的に量子テレポーテーションのフィデリティがno-cloning limitと呼ばれる2/3以上でないとWigner関数の負の領域を送ることは出来ないことが分かっている。そこで、量子テレポーテーションのリソースとなる量子エンタングルメントの広帯域化及び必要な帯域におけるノイズの除去に取り組むことによって、広帯域かつ高フィデリティの量子テレポーテーション系を作製した。そして、入力状態として高純度のシュレーディンガーの猫状態を生成し、量子テレポーテーションを行った結果、出力状態においてもWigner関数の負の値を観測することに世界で初めて成功した。

審査要旨 要旨を表示する

連続量量子情報処理の分野において、シュレーディンガーの猫状態と呼ばれる、マクロスコーピックな2つのコヒーレント状態の重ね合わせによって成り立つ状態が近年注目を集めている。このシュレーディンガーの猫状態の最大の特徴は、Wigner関数が負の値をとるということである。この特徴は、状態が非ガウス型であることの十分条件であり、また量子テレポーテーションにおいてフィデリティ2/3以上でないと負のWigner関数を転送することが出来ないことから、状態の非古典性を示す証拠となり得る。一方、量子テレポーテーションは最も基本的な量子情報処理プロトコルとして知られている。量子テレポーテーションの構成要素に全てのガウス型操作が含まれていることから、量子テレポーテーションを高いフィデリティかつ様々な入力状態に対して行うことが、種々の量子状態操作を実現することに直結する。しかし、これまでに報告されている量子テレポーテーションでは、入力状態としてガウス型の状態のみが用いられている。非ガウス型の状態に対する量子状態操作は、量子テレポーテーションも含めて報告されていない。この理由は2つ考えられる。1つは、シュレ-ディンガーの猫状態を含めた、これまでに実験的に生成が実現されている非ガウス型の状態は、その生成過程から時間領域において測定を行う必要があり、従来のように周波数領域におけるサイドバンド成分を用いて実験を行うことができないことである。もう1つは、状態の非古典性を示す負のWigner関数がデコヒーレンスに対して脆弱なため、これを量子テレポーテーションするためには高いフィデリティが要求されることである。本研究は、非ガウス型の状態であるシュレーディンガーの猫状態の量子テレポーテーションを実現するため、これらの実験的な問題を解決し、負のWigner関数を量子テレポーテーションの出力において観測することを目指したものである。

本論文は以下の5章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、シュレーディンガーの猫の思考実験や量子エンタングルメントなど、本研究の背景となる量子力学の発展の経緯に触れながら、本研究で扱うシュレーディンガーの猫状態の特徴と、この状態の量子テレポーテーションを実現することの意義を述べている。

第2章では、本研究に関する量子光学の理論を述べている。その中で、シュレーディンガーの猫状態の最大の特徴として非古典性が負のWigner関数によって表されること、またその負のWigner関数を量子テレポーテーションするために必要なフィデリティについて述べている。さらに、シュレーディンガーの猫状態がその生成過程により時間領域で定義されること、時間領域で高フィデリティな量子テレポーテーションを実現する上で量子エンタングルメントの広帯域化が必要であることを述べている。

第3章では、本研究の実験において行ったことを述べている。特に、時間領域の量子テレポーテーションを高フィデリティ化するために、量子エンタングルメントを生成する光共振器の広帯域化、古典チャンネルの広帯域化、長距離光路の安定化、補助光由来のレーザーノイズの対策のために行った位相制御のサンプルホールドやノイズイーターについて、それらに必要な機器の作製や、具体的な運用の方法について解説している。

第4章では、得られた実験結果をまとめて示している。まず、量子エンタングルメントが広帯域で生成されていることと、それが時間領域の量子テレポーテーションにおいて有効であることを示している。続いて、真空状態を入力として量子テレポーテーションを行い、時間領域においてフィデリティ0.83が得られたことを示している。最後にシュレーディンガーの猫状態の量子テレポーテーションを行った結果を示している。入力状態としてシュレーディンガーの猫状態を生成し、その状態が負のWigner関数(最小値-0.171±0.003)で表される非古典性を持っていることを示している。さらにそのシュレ-ディンガーの猫状態の量子テレポーテーションを行い、出力において負のWigner関数(最小値-0.022±0.003)を観測し、非古典性の量子テレポーテーションに成功したことを示している。

第5章では、本研究をまとめ、今後の展望を示している。

以上のように、本研究では時間領域において高フィデリティな量子テレポーテーションを実現した。得られたフィデリティは、従来のサイドバンド成分の量子テレポーテーションにおいて得られたフィデリティのうち、すでに論文として報告されているものの中で最高の値に匹敵するものである。また、負のWigner関数を持つシュレーディンガーの猫状態を生成し、この状態を入力として時間領域で量子テレポーテーションを行い、出力においても負のWigner関数を観測した。負のWigner関数で示される非古典性をもつ量子状態に対し、量子テレポーテーションのような量子状態操作が可能であることを始めて示したものである。本研究の成果を用いれば、シュレーディンガーの猫状態の他にも、単一光子状態のような時間領域で生成される量子状態も同様に扱うことができ、また量子テレポーテーションを応用することで可能になる様々な量子状態操作(ユニバーサルスクイーザー、クラスター計算、量子非破壊測定など)を、それらの量子状態に対して行うことが可能となる。本研究の成果は新たな量子状態操作の実現への可能性を示しており、ユニバーサルな量子情報処理を実現する上で重要な意義があるものと認められる。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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