学位論文要旨



No 126859
著者(漢字) 鳴海,拓志
著者(英字)
著者(カナ) ナルミ,タクジ
標題(和) Illusion-based Realityの研究
標題(洋)
報告番号 126859
報告番号 甲26859
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7500号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 教授 堀,浩一
 東京大学 教授 相澤,清晴
 東京大学 教授 森川,博之
 東京大学 准教授 渡邊,克巳
 東京大学 講師 谷川,智洋
内容要旨 要旨を表示する

人間はさまざまな感覚によって外界からの情報をとらえ,それらを統合することで世界を認識している.人間の多様な感覚に対して情報を提示することで,コンピュータによって生成された現象が現実に存在するかのような機能・効果を作り出し,現前にない現象に対するリアリティを生起させるのがバーチャルリアリティ(VR)技術である.

人工的にリアリティを生み出すためには,人間がどのように感覚情報を処理しリアリティを感じているかを考慮する必要があるため,VR技術は生理学や心理学分野と強く結びついている.VRの登場以来,生理学や心理学分野での基本的な知見がシステム構築のために使われたり,システム評価のために生理学・心理学的な指標を用いたりという取り組みがおこなわれてきた.

一方で近年の認知科学的アプローチによって,従来扱われてきた顕在的な人間の情報処理メカニズムへの理解が進んだだけでなく,今まであまり考慮に入れられることのなかった潜在的な人間の情報処理メカニズムが徐々に明らかになってきている.VRという言葉が初めて登場した1989年から現在までの約20年間,情報技術分野の発展とともにVR技術も発展を遂げてきた.しかし,第一世代のVR技術の原理でできることの多くはやられ,できないことは依然取り残されたままというのが現状である.人間理解の深化にあわせて「人間観」すら変化しつつある中で,旧来の機械論的人間観に基づいたVR構成法を見直すべき時が来ている.

本研究では最新の認知科学の知見をVR技術に積極的に取り入れることでVR技術に質的転換をもたらし,次世代のVR構成法を提案する.この次世代のVR構成法によって,第一世代のVR技術では解決不可能とされてきた問題を解決し,VR技術の新たな地平を切り開くことを目的とする.VRの三要素は"Presence","Interaction","Autonomy"と定義されているが,本論文では,その中でも特に直接的に人間と関わる"Presence"と"Interaction"に関する問題について,人間の情報処理特性によって起こる「イリュージョン」を利用することで解決を図る.

イリュージョンとは,人間が外界からの刺激を受けた際に,実際にはその刺激の物理特性どおりではない知覚がなされたり,無意識的に刺激が運動系に働きかけ行動が引き起こされたりすることで,自己や外界に対する認識・理解が変化する現象である.イリュージョンを適切に引き起こす技術を構築することで,従来は複雑なシステムを用いなければ作り出すことができなかった現象や,そもそも提示することが難しかった現象を,簡易なシステムで体験させることができるようになると考えられる.

本論文では,イリュージョンを引き起こすことでVRを構成する"Illusion-based Reality"という概念を提案する.心理学・認知科学の知見をベースとし,イリュージョンを生起させるための方法論について考察をおこない,イリュージョンを利用したインタフェース構成のための方針を明らかにする.さらに,得られた方針に従ってイリュージョンベースの情報提示インタフェースを構築し,その効果の評価をおこなう.

第1章「序論」では,本論文の背景と目的を述べ,本論文でのイリュージョンを定義し,イリュージョン生起のために本研究が採用する二つのアプローチについて述べている.イリュージョンの生起は,知覚が変化することに起因する場合と,ある行動が起こりそれが解釈されることによる場合の2種類の過程を考えることができる.前者は感覚→知覚の間の潜在的な過程においてイリュージョンが起こったあと,知覚→認知→自己や外界の認識→行動という意識的・意図的・顕在的な認知過程を経るという時間的順序を前提にしたメカニズムであると考えることができる.一方,後者は感覚や知覚によって自己や外界の認識に先立って行動が起こり,前者とは逆の順序をたどって,行動から自己や外界の認識が起こるというメカニズムに基づいたもので,前者より無意識的・自動的・潜在的な認知過程であると考えることができる.ここでは前者のメカニズムに基づくイリュージョンを利用したものをPerception-based Interface,後者のメカニズムに基づくイリュージョンを利用したものをReflex-based Interfaceと定義している.

第2章「人間の情報処理メカニズムとVirtual Reality」では,VRの基礎となる人間の感覚・知覚・認知のメカニズムと,そのメカニズムで起こるイリュージョンに関する知見を整理し,これまでのVR研究と生理学・心理学研究との関わりについて述べている.その上で,従来のVRインタフェースの課題をまとめ,Illusion-based Realityという考え方を軸にこれらの課題を解決する方法を検討している.

第3章「Perception-based Interface:感覚間相互作用を用いた嗅覚・味覚ディスプレイ」では,「感覚間相互作用」という知覚のメカニズムで発生するイリュージョンを利用したインタフェースについて論じている.具体例として,五感のうち多様な嗅覚・味覚を提示できるディスプレイが存在しないという"Presence"に関する問題を取り上げ,提案するイリュージョンベースの手法で,少ない種類の化学物質から多様な匂い・味を提示できる嗅覚・味覚ディスプレイの提案と構築をおこなった.

視嗅覚ディスプレイでは,視覚と嗅覚の相互作用に基づく視嗅覚ディスプレイの手法を提案した.匂いの類似性を考慮したシステムを実現することで,4種類の香料から平均13種類の匂いを感じさせることできた.

味覚ディスプレイでは,視覚・味覚・嗅覚間の相互作用を利用し,プレーンクッキーの上に味の異なるクッキーの見た目を重畳表示するとともに,異なるクッキーの匂いを提示するシステムを構築した.実験により約七割の被験者に狙い通りの味を認識させることができた.

第4章「Reflex-based Interface:五感情報提示による行動と心理の誘導」では,「反射」という行動に基づいたイリュージョンに着目し,不随意の反射的な行動を誘発するインタフェースを用いて人間行動を支援する手法について論じている.ここでは"Interaction"に関し,ユーザ負荷が低くインタラクティビティの高い行動支援を実現することを目標に,感覚情報提示によって人間に意識させることなく行動を傾向づける手法の提案と構築をおこなった.

"Thermotaxis: defined"では,温度で非明示的な情報場を作り出し,人間の空間中での位置をコントロールする手法の構築をおこなった.ユーザ観察により,温度情報場が人々の空間中での位置や振る舞いに影響を与え特定の範囲に誘導できることを明らかにした.

この知見を応用し,温度情報提示の効果によって対人間の物理的距離を縮め,対人間の心理的距離を縮めることを狙ったシステム"Thermotaxis: society"を構築した.このシステムでは対人学の知見を基に温度場が体験者の周囲に動的に生成され,ユーザ間の物理的距離が通常は心理的に抵抗のあるエリアまで縮まるように設計されている.ユーザ観察の結果から,温度情報提示の効果によって,人間の空間中での位置が制御されるだけではなく,心理的抵抗感の判断までも変化させることができる可能性を示した.

第5章「Illusion-based Reality」では,第3章と第4章で述べたPerception-based InterfaceとReflex-based Interfaceという二つのアプローチとその成果をまとめることで,本研究で提案したIllusion-based Realityという概念を整理している.

Illusion-based Realityは,従来のVR構成法のように,個々のモダリティをモジュールのように捉えたり,感覚刺激→知覚→認知→運動という時系列的に一方向な情報処理過程を仮定したりといったような,機械論的人間観に立脚していない.感覚刺激と知覚の関係は必ずしも一対一対応ではないこと,人間にとっては自分の身体・運動系すら認知の対象であり,知覚・認知・運動の間には一方向ではない相互作用が起こっていることといった,脳の潜在的情報処理過程を考慮してVRを構成する手法が"Illusion-based Reality"であるということを示した.この新しいVR構成法のメリットを,必ずしも精度の高い感覚刺激提示が必要ではないこと,ユーザの自由意志に反せずに行動が制御できること,主観的リアリティが提示できる可能性があること,の三つの観点から捉え,その可能性と今後の研究で明らかにすべきことの整理をおこなった.

第6章「結論と今後の展望」では,本論文を通して得られた結果をまとめ,本論文で提案したIllusion-based Realityの応用先や今後の展望について述べている.今後,本論文で提案したIllusion-based Realityを適応することで,従来のような複雑な機構を用いずとも,簡易な機構によってVRを構成できるため,これまでVRが積極的に導入されてこなかった領域でもVRの利用が進むと考えている.

図1 Illusion-based Reality構成のための二つのアプローチ

図2 視嗅覚ディスプレイ

図3 味覚ディスプレイ「メタクッキー」

図4 Thermotaxis: defined

審査要旨 要旨を表示する

人間の多様な感覚に対して情報を提示し,コンピュータによって生成された現象が現実に存在するかのようなリアリティを生起させるのがバーチャルリアリティ(VR)技術である.本論文では最新の認知科学の知見を取り入れ,VR構成のための潜在的な情報処理過程を含んだ人間モデルを提案している.また,この人間モデルに基づいたインタフェース構成法を提案することで,VR技術の新たな地平を切り開くことを目的としている.VRの三要素は"Presence","Interaction","Autonomy"と定義されているが,本論文では,その中でも特に直接的に人間と関わる"Presence"と"Interaction"に関する問題について,人間の情報処理特性によって起こる「イリュージョン」を利用することで解決を図っている.

イリュージョンとは,人間が外界からの刺激を受けた際に,実際にはその刺激の物理特性どおりではない知覚がなされたり,無意識的に刺激が運動系に働きかけ行動が引き起こされたりすることで,自己や外界に対する認識・理解が変化する現象である.本研究では,イリュージョンを引き起こすことでVRを構成する"Illusion-based Reality"という概念を提案し,イリュージョンを利用したインタフェース構成のための方針を明らかにしている.さらに,得られた方針に従ってイリュージョンベースの情報提示インタフェースを構築し,その効果の評価をおこなっている.

第1章「序論」では,本論文の背景と目的を述べ,本論文でのイリュージョンを定義し,イリュージョン生起のために本研究が採用する二つのアプローチについて述べている.イリュージョンの生起は,知覚が変化することに起因する場合と,ある行動が起こりそれが解釈されることによる場合の2種の過程を考えることができる.前者のメカニズムに基づくイリュージョンを利用したものをPerception-based Interface,後者のメカニズムに基づくイリュージョンを利用したものをReflex-based Interfaceと定義している.

第2章「人間の情報処理メカニズムとVirtual Reality」では,VRの基礎となる人間の感覚・知覚・認知のメカニズムと,イリュージョンに関する知見を整理し,これまでのVR研究と生理学・心理学研究との関わりについて述べている.その上で従来のVRインタフェースの課題をまとめ,Illusion-based Realityという考え方を軸にこれらの課題を解決する方法を検討している.

第3章「Perception-based Interface:感覚間相互作用を用いた嗅覚・味覚ディスプレイ」では,「感覚間相互作用」という知覚のメカニズムで発生するイリュージョンを利用したインタフェースについて論じている.具体例として,五感のうち多様な嗅覚・味覚を提示できるディスプレイが存在しないという"Presence"に関する問題を取り上げ,提案するイリュージョンベースの手法で,少ない種類の化学物質から多様な匂い・味を提示できる嗅覚・味覚ディスプレイを提案し,その評価をおこなっている.

第4章「Reflex-based Interface:五感情報提示による行動と心理の誘導」では,「反射」という行動に基づいたイリュージョンに着目し,不随意の反射的な行動を誘発するインタフェースを用いて人間行動を支援する手法について論じている.ここでは"Interaction"に関し,ユーザ負荷が低くインタラクティビティの高い行動支援を実現することを目標に,感覚情報提示によって人間に意識させることなく行動や心理的抵抗感に変化を起こす手法の提案と構築をおこなっている.

第5章「Illusion-based Reality」では, 二つのアプローチとその成果をまとめることで,本研究で提案したIllusion-based Realityという概念を整理している.また,この新しいVR構成法のメリットをまとめ,その可能性と今後の研究で明らかにすべきことの整理をおこなった.

第6章「結論と今後の展望」では,本論文で提案した潜在的な情報処理過程を含む人間モデルおよびIllusion-based Realityの応用先や今後の展望について述べている.

筆者によって提案されたIllusion-based Realityという概念を適応することで,従来のVR構成法では対応できなかった問題が解決され,より多様なリアリティを提示することが可能になった.そのため,これまでVRが積極的に導入されてこなかった領域でもVRの利用が進み,VR研究の新たなフィールドが切り開かれると考えられる.さらに,本論文を通して得られた知見は,ヒューマンインタフェースやロボット工学などに適用できるだけでなく,認知科学をはじめとする工学以外の分野の発展にも寄与することが出来ると考えられる.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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