学位論文要旨



No 126862
著者(漢字) 喜多村,茜
著者(英字)
著者(カナ) キタムラ,アカネ
標題(和) イオンビーム照射による高分子材料表面の形状制御と生化学・医療分野への応用
標題(洋)
報告番号 126862
報告番号 甲26862
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7503号
研究科 工学系研究科
専攻 原子力国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 寺井,隆幸
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 上坂,充
 東京大学 教授 高橋,浩之
 東京大学 准教授 鈴木,晶大
 理化学研究所 専任研究員 小林,知洋
内容要旨 要旨を表示する

本研究は(1)イオンビーム照射によりフッ素系高分子材料表面に形成される三次元構造の形状変化メカニズムを解明し、(2)その形状制御法を確立させ、(3)細胞培養基材に有用な材料として提案するという3つの目的を持って行った。この背景と学術的・社会的意義を以下に述べる。

イオンビーム照射法は20世紀に革命的発展を遂げた半導体作製技術の一つである。高速に加速させたイオンを材料に照射するため、材料のバルク特性を維持したまま表層のみを物理的に改質することができる。そのため化学的修飾が困難な材料の表面改質には非常に有効な手法である。極めて優れた耐薬品性を持つフッ素系高分子材料もその対象材料の一つであり、撥水性や他材料との接着性の向上に利用されている。本研究の過程で、代表的なフッ素系高分子材料であるポリテトラフルオロエチレン(polytetrafluoroethylene:PTFE)表面がイオンビーム照射後に芝生状の凹凸構造面となる現象が見られた。一般的にシリコン等の表面にイオンビームを照射すると照射部分は井戸型にエッチングされていくため、この形状変化は特異的であることがわかる。したがって目的(1)には高分子材料表面へのイオンビーム照射に関する新しい知見の獲得という学術的意義があり、目的(2)は産業として発展させるために必要な技術である。

また半導体を中心とした科学技術は、21世紀に入った今日、医学・生物学と融合することによってバイオテクノロジーとして新たな分野を拓いた。特に創薬、診断、再生医療といった医療技術の発展に対する期待は大きい。その中心的技術である細胞培養に関し、目的に応じた細胞挙動の制御を実現するため、多様な細胞培養基材の開発が所望されている。これらの背景から、突起状PTFE表面が細胞培養基材として応用できれば、従来の平面培養基材では成し得ない三次元構造面独特の細胞挙動制御ができる手法を提供できる。よって本研究の目的(3)には、新しい細胞培養基材の提案という社会的意義がある。

したがって本研究は、目的(1)および(2)のためにフッ素系高分子材料にイオンビームを照射してその表面変化を解析し、目的(3)のために作製した試料の細胞培養基材としての評価を行った。全7章構成となっており、目的(1)は第2、3、4章で、目的(2)は第5章で、目的(3)は第6章にて達成した。

第1章では、研究背景としてイオンビーム照射法の概要、再生医療分野および医療診断分鵜で使用される細胞培養基材、フッ素系高分子材料の特徴について説明と紹介を行い、最後に本研究の目的について述べた。

第2章では、イオンビーム照射によるPTFE表面の形状変化と細胞接着性を調べることにより、形状変化メカニズムの手掛かりとするとともに、細胞培養基材としての可能性を探った。

厚さ0.5mmのPTFE表面にイオン注入装置を用いて加速エネルギー80keV、電流密度0.6mA/cm2でN2+イオンビームを照射し、照射量変化に対する表面形状を走査型電子顕微鏡(SEM)で観察し、化学結合状態を全反射フーリエ変換赤外分光法(ATR/FT-IR)および光電子分光法(XPS)で解析した。また水の接触角測定により表面の濡れ性を、細胞接着形態によって細胞接着性を評価した。

SEM観察より、表面は照射量の増加に伴って細孔と変質層の形成を経て突起状へと変化することがわかった。またATR/FT-IRおよびXPS分析により変質層部分にC=C結合やC=O基、CH2基、-OH基などの新規の官能基が形成されていることが確認された。チャンバー内が高真空であることを考慮すると、O原子やH原子との結合は照射後の大気暴露時に生じたと言えるため、この結果から照射中の変質層には反応性の高いラジカルが多数存在し、架橋反応が生じていることがわかった。また突起状表面は蓮の葉と同じ原理で超撥水性を示し、この表面上で細胞は突起先端を渡りながら膜のように伸展していた。こういった細胞形態は一般的な平面の細胞培養基材では得られない細胞挙動である。したがってイオンビーム照射によるPTFE表面の形状変化は細孔と変質層の形成が鍵となっていること、およびこの突起状表面は新規性の高い細胞培養基材となることが示せた。

第3章ではPTFEの表面形状変化とイオンビーム照射条件の関係について検討した。

第2章の実験条件および結果を基にN2+イオンビームの電流密度を0.3~1.0mA/cm2、加速エネルギーを40~80keV、試料背面の温度を25~350℃の範囲で変化させた時のPTFEの表面に形成される細孔の孔径と密度、および突起の形状と密度の変化を調べた。また試料表面の初期形状と照射後に形成される突起分布についても検討した。

結果として、電流密度・加速エネルギー・試料温度が高いほど細孔の孔径や密度は拡大・増加し、突起形成に必要な照射量は低減した。最も激しい形状変化が得られたのは試料温度を上昇させた時である。加速エネルギーや電流密度を増加させた際にも表面温度が上昇することから、照射中の試料温度は形状変化に最も密接に関係することがわかった。さらにこの実験で溶融した部分が変質層になる傾向も見られたことから、第4章にてさらに詳しい検討を行った。また試料表面の初期形状に関する実験では、照射前の表面の傷に沿って突起が形成されていたことから、突起の位置や形状の制御には照射前の試料表面にエッチングを誘導する溝を加工すればよいこともわかった。

第4章では、第2および3章の結果を基にイオンビーム照射によるPTFE表面の形状変化メカニズムの追究し、形状変化に関与する因子を検討した。

集束イオンビーム加工観察装置(FIB/SIM)を用いて第2、3章で得られた形状変化を再現し、照射中の表面のその場観察を行った。また未照射試料の加熱により細孔形成要因を、PTFE以外のフッ素系高分子材料へのイオンビーム照射によって分子構造や分子量と形状変化の関係を、そしてFIB/SIMを利用して変質層のエッチングに対する耐性をそれぞれ検討した。また得られた形状変化を、他の微細加工技術と比較することでその特異性を示した。

結果をまとめると、PTFE表面にイオンビームを照射すると、初め(1)試料の温度が上昇し、PTFE分子の低密度部分や低分子量部分が蒸発して細孔が形成され、同時にエッチング耐性の強い溶融部分(この時点で照射を中断すると変質層になる)が形成される。その後(2)細孔の縁からエッチングが進行し、やがて(3)変質層部分の消滅と同時に突起状となる。さらに照射が継続すると(4)突起の帯電によって突起間に生じる静電気的な斥力が、温度上昇によって運動性の増した突起表面のPTFE分子を突起先端方向に向かってすべらせるため、結果として突起は根元から伸長する。その後(5)先端部分は蒸発・飛散する、という過程を経ることがわかった。この形成過程は(1)~(3)の段階では試料表面のスパッタ収率の違いが反映されたエッチングによるトップダウン型であり、(4)~(5)の段階では自己組織化によるボトムアップ型であるという2段階過程を経ている。特に前者は同一物質の表面上にスパッタ収率の異なる物質が形成されるという点が他と比較して特異的であることがわかった。またフッ素系高分子材料の中でも分子内に極性を持つものは無極性高分子であるPTFEに比べて形状変化が遅かった。これは溶融部分に比較的多くの架橋構造が形成されるためエッチング耐性が増し、かつ溶融粘度が低いためにそれが試料表面に広がることで形状変化が抑制されることが原因である。さらにこの実験を通して突起の密度や形状の均一性を高めるためには、PTFEより分子量が小さく分子量分布の狭いFEPが適するという結果を得た。

第5章では突起の位置や形状を制御できる初期形状の条件を検討し、突起を列単位および1突起単位で規則的に配列した。

初期形状の加工にはマイクロメートルオーダーで高精度の加工が行えるFIB/SIMを用いた。FEP試料で制御できる突起列の間隔は1.0~2.5mmであり、初期表面として溝と凸部を加工すればよいことを示した。突起列上の突起間隔は自己組織化的に1.0~1.5mmとなるが、突起列の間隔は溝と凸部の和として制御できる。また1突起単位で作製する場合、制御できる突起底部の直径は1.5~2.0mmであり、初期形状として希望のサイズで正方形あるいは円形の凸部を加工すればよいことを示した。これらの条件を組み合わせることで等間隔に配列した突起や同一表面上に形状の異なる突起の作製ができた。

第6章では、第2~5章の結果を基に、イオンビーム照射によってPTFEやFEP表面に作製できる凹凸構造が再生医療分野や医療診断分野で有用な細胞培養基材であることを実証した。再生医療分野の応用としては、2次元(単層)培養用基材および3次元(スフェロイド)培養用基材として、また医療診断分野への応用としては、細胞を個々に配置できるマイクロチャンバーアレイ、同一平面上での細胞単離用培養基材、細胞配列用基材としての有用性が示せた。これらの表面は突起先端に細胞を配置させるため、細胞の下部から物理的・化学的アプローチが行えるという平面基材では成し得ない環境を作り出している。さらに化学的な表面修飾により細胞を配置させているのではなく、細胞と基板の接着力のみを利用しているという特徴を持つ。そのため本研究で作製した幾何学的構造を持つ表面は、新しい細胞-材料間相互作用を利用した新規性の高い細胞培養基材として提供できることを示せた。

第7章では、本研究で得られた成果を総括した。

以上をまとめると、本研究では、イオンビーム照射によるフッ素系高分子材料表面の形状変化の考察から形状変化メカニズムを明らかにし、それを基に突起形状の制御法を確立した。またこの手法により得られる突起状表面は細胞培養基材として再生医療分野や医療診断分野で有用であることを示した。今後、本研究を活かした新たな細胞操作技術や培養環境が構築されることを期待する。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、イオンビーム照射によりフッ素系高分子材料表面に形成される三次元構造の形状変化メカニズムを解明し、その形状制御法を確立させ、細胞培養基材に有用な材料として提案するという3つの目的を持って行ったもので、全体は7章から構成されている。

第1章は序論であり、本研究の背景とその学術的社会的意義について述べている。イオンビーム照射法は、高速に加速したイオンを材料に照射するため、材料のバルク特性を維持したまま表層のみを物理的に改質することができる。そのため化学的修飾が困難な材料の表面改質には非常に有効な手法である。極めて優れた耐薬品性を持つフッ素系高分子材料もその対象材料の一つであるが、代表的なフッ素系高分子材料であるポリテトラフルオロエチレン(polytetrafluoroethylene:PTFE)表面がイオンビーム照射後に芝生状の凹凸構造面となる現象が見られた。そのメカニズムを解明し、その形状制御法を確立することは、学術的に、また産業への応用を考える上で重要である。さらにバイオテクノロジーの中心的な技術である細胞培養に関し、目的に応じた細胞挙動の制御を実現するため、多様な細胞培養基材の開発が所望されているが、この突起状PTFE表面が細胞培養基材として応用できれば、従来の平面培養基材では成し得ない三次元構造面独特の細胞挙動制御ができる手法を提供でき、この点からの社会的意義も大きいと考えられる。

第2章では、イオンビーム照射によるPTFE表面の形状変化と細胞接着性を調べることにより、形状変化メカニズムの手掛かりとするとともに、細胞培養基材としての可能性を探った結果について述べている。厚さ0.5mmのPTFE表面にイオン注入装置を用いて加速エネルギー80keV、電流密度0.6mA/cm2でN2+イオンビームを照射し、照射量変化に対する表面形状を走査型電子顕微鏡(SEM)で観察し、化学結合状態を全反射フーリエ変換赤外分光法(ATR/FT-IR)および光電子分光法(XPS)で解析した。また水の接触角測定により表面の濡れ性を、細胞接着形態によって細胞接着性を評価した。その結果、イオンビーム照射によるPTFE表面の形状変化は細孔と変質層の形成が鍵となっていること、およびこの突起状表面は新規性の高い細胞培養基材となることが示せたとしている。

第3章では、PTFEの表面形状変化とイオンビーム照射条件の関係について検討している。第2章の実験条件および結果を基にN2+イオンビームの電流密度を0.3~1.0mA/cm2、加速エネルギーを40~80keV、試料背面の温度を25~350℃の範囲で変化させた時のPTFEの表面に形成される細孔の孔径と密度、および突起の形状と密度の変化を調べた。また試料表面の初期形状と照射後に形成される突起分布についても検討した。その結果、照射中の試料温度が形状変化に最も密接に関係すること、また試料表面の初期形状に関する実験では、照射前の表面の傷に沿って突起が形成されていたことから、突起の位置や形状の制御には、照射前の試料表面にエッチングを誘導する溝を加工すればよいことが結論されている。

第4章では、第2および3章の結果を基にイオンビーム照射によるPTFE表面の形状変化メカニズムの追究し、形状変化に関与する因子を検討した結果について述べている。集束イオンビーム加工観察装置(FIB/SIM)を用いて第2、3章で得られた形状変化を再現し、照射中の表面のその場観察を行った。また未照射試料の加熱により細孔形成要因を、PTFE以外のフッ素系高分子材料へのイオンビーム照射によって分子構造や分子量と形状変化の関係を、そしてFIB/SIMを利用して変質層のエッチングに対する耐性をそれぞれ検討した。結果をまとめると、PTFE表面にイオンビームを照射すると、初めに試料の温度が上昇し、PTFE分子の低密度部分や低分子量部分が蒸発して細孔が形成され、同時にエッチング耐性の強い溶融部分(この時点で照射を中断すると変質層になる)が形成される。その後、細孔の縁からエッチングが進行し、やがて変質層部分の消滅と同時に突起状となる。さらに照射が継続すると、突起の帯電によって突起間に生じる静電気的な斥力が、温度上昇によって運動性の増した突起表面のPTFE分子を突起先端方向に向かってすべらせるため、結果として突起は根元から伸長する。その後、先端部分は蒸発・飛散する、という過程を経ることがわかったとしている。またフッ素系高分子材料の中でも分子内に極性を持つものは無極性高分子であるPTFEに比べて形状変化が遅かった。これは溶融部分に比較的多くの架橋構造が形成されるためエッチング耐性が増し、かつ溶融粘度が低いためにそれが試料表面に広がることで形状変化が抑制されることが原因であるとしている。さらにこの実験を通して突起の密度や形状の均一性を高めるためには、PTFEより分子量が小さく分子量分布の狭いFEPが適するという結果を得た。

第5章では、突起の位置や形状を制御できる初期形状の条件を検討し、突起を列単位および1突起単位で規則的に配列した結果について述べている。初期形状の加工にはマイクロメートルオーダーで高精度の加工が行えるFIB/SIMを用いた。FEP試料で制御できる突起列の間隔は1.0~2.5mmであり、初期表面として溝と凸部を加工すればよいことを示している。突起列上の突起間隔は自己組織化的に1.0~1.5mmとなるが、突起列の間隔は溝と凸部の和として制御できる。また1突起単位で作製する場合、制御できる突起底部の直径は1.5~2.0mmであり、初期形状として希望のサイズで正方形あるいは円形の凸部を加工すればよいことを示している。これらの条件を組み合わせることで、等間隔に配列した突起や同一表面上に形状の異なる突起の作製ができたとしている。

第6章では、第2~5章の結果を基に、イオンビーム照射によってPTFEやFEP表面に作製できる凹凸構造が再生医療分野や医療診断分野で有用な細胞培養基材であることを実証している。再生医療分野の応用としては、2次元(単層)培養用基材および3次元(スフェロイド)培養用基材として、また医療診断分野への応用としては、細胞を個々に配置できるマイクロチャンバーアレイ、同一平面上での細胞単離用培養基材、細胞配列用基材としての有用性が示せた。これらの表面は突起先端に細胞を配置させるため、細胞の下部から物理的・化学的アプローチが行えるという平面基材では成し得ない環境を作り出している。さらに化学的な表面修飾により細胞を配置させているのではなく、細胞と基板の接着力のみを利用しているという特徴を持つ。そのため本研究で作製した幾何学的構造を持つ表面は、新しい細胞-材料間相互作用を利用した新規性の高い細胞培養基材として提供できることを示せたとしている。

第7章は結論であり、本研究で得られた成果を総括している。

以上をまとめると、本論文は、イオンビーム照射によるフッ素系高分子材料表面の形状変化の考察から形状変化メカニズムを明らかにし、それを基に突起形状の制御法を確立するとともに、この手法により得られる突起状表面は細胞培養基材として再生医療分野や医療診断分野で有用であることを示したものであり、原子力工学、特に応用放射線工学に貢献するところが少なくない。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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