学位論文要旨



No 126878
著者(漢字) 橋,宏和
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ヒロカズ
標題(和) 低酸素環境下におけるイネの発芽伸長の調節機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 126878
報告番号 甲26878
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3631号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中園,幹生
 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 堤,伸浩
 東京大学 准教授 吉田,薫
 東京大学 准教授 伊藤,純一
内容要旨 要旨を表示する

植物は嫌気条件下で生存するために、特有の組織や器官を発達させてそのような環境に適応している。例えば、浮きイネに代表される茎葉部の著しい伸長、酸素運搬に必要な通気組織やRadial oxygen lossバリアの形成などはその代表的な例である。また嫌気条件下での発芽伸長においても、子葉鞘やメソコチルといった器官が酸素を得るために著しく伸長し、発芽を補助していることが知られている。そこで本博士論文では、この発芽期に着目して研究を行った。

イネを除いたオオムギやコムギなどのイネ科作物は酸素濃度に比例してその発芽率が著しく低下する。それに対して、イネの発芽能力は非常に高く、酸素濃度が非常に低い環境下においても高い発芽率を示す。オオムギやコムギのα-amylaseは、冠水条件下で誘導にされないのに対して、イネのα-amylaseは冠水条件下でも誘導されるという事実から、嫌気条件下における発芽能の有無は胚乳におけるデンプン分解が生じるかどうかに因ると報告されている。このように、イネは他のイネ科作物とは異なる冠水発芽機構を保持していると考えられる。しかしながら、イネの冠水発芽のメカニズムに関しては未解明な点も多い。また、農業の現場において、酸素が十分に供給される乾田直播では問題とならない発芽・苗立ち性が、湛水直播時に不均一性を示すことが問題となっている。したがってイネの好気条件下と嫌気条件下における発芽のメカニズムを明らかにすることで、他のイネ科作物の冠水発芽能を改善するとともに、イネの湛水直播にも貢献できると考えられる。

1.reduced adh activity (rad) 変異体における嫌気代謝経路に関する研究

嫌気条件下では、ミトコンドリアにおける酸化的リン酸化によるATP合成を行うことができない。そのため、嫌気条件下のエネルギー生産には解糖系と発酵系の活性化が必要不可欠である。発酵系にはアルコール発酵と乳酸発酵があり、解糖系にNAD+を供給するという重要な役割を果たしている。特にアルコール発酵は、解糖系によって生成されるピルビン酸の約90%を代謝していることから、嫌気代謝においては非常に重要な経路である。そこで、第1章ではこのアルコール発酵において重要な働きをもつ酵素であるalcohol dehydorogenase (ADH)の活性が低下したreduced adh activity (rad) 変異体を用いてADH活性の低下が他の嫌気代謝系へ及ぼす影響について調査した。その結果、rad変異体の種子胚では野生型に比べ乳酸が最大で約5倍多く蓄積していることが明らかになった。これはrad変異体では、ピルビン酸を代謝する反応系の一つであるアルコール発酵が阻害され、ピルビン酸が乳酸発酵へ流れた結果であると考えられた。また、グルコースやフルクトースといった解糖系に必要な単糖の蓄積量が変異体では減少していた。このことから、変異体において胚乳からの糖の供給が滞っている可能性が示唆された。そこで、胚乳におけるデンプン量を測定したところ、野生型では発芽後経時的にデンプン量が減少したのに対し、変異体ではデンプンの減少がほとんど観察されなかった。この結果から、変異体においては胚乳から胚への糖の供給が阻害されているのではなく、デンプンの分解自体が抑制されていることを示唆している。このようなrad変異体の種子胚における代謝産物の測定から、ADH活性の低下が胚乳におけるデンプンの分解や胚への糖の輸送に影響を及ぼすことが明らかとなった。

つまりrad変異体におけるADH活性の低下は、解糖系へのNAD+の供給を滞らせているのみならず胚乳によるデンプンの分解をも阻害することで、胚への糖の供給を滞らせ、解糖系によるATP合成を抑制していることが考えられる。

2.Laser microdissection (LM)を用いたrad変異体の遺伝子発現解析

rad変異体における代謝産物の解析から、ADH活性の低下が胚乳内のデンプンの分解や胚への糖の供給に影響を及ぼすことが明らかとなった。また、このrad変異体の特徴的な形質に、冠水発芽時の子葉鞘の伸長抑制がある。そこで第2章では、ADH活性の低下が冠水条件下の子葉鞘における遺伝子発現にどのような変化を与えているかを調査した。しかしながら、子葉鞘がほとんど伸長しないrad変異体から吸水直後に子葉鞘のみを回収し解析することは非常に困難である。そこでLaser microdissection (LM) 法をイネ種子胚に適用し、切り出した子葉鞘を用いて遺伝子発現の網羅的解析を行うことにした。LMを用いた遺伝子発現の網羅的解析において、高い再現性を得るためには高品質のRNAを回収することが必要である。しかしながら、これまで植物でLMを適用するための確立された手法の報告はなかった。これは、植物の種類や標的組織によって、最適な固定液の種類が異なることや特にパラフィン包埋切片では固定・包埋からLMによる切り出しまでのどの過程でRNAが分解するのかが明らかになっていなかったためである。そこでまず、イネ種子胚を用いてLM法に適した試料調製法の条件検討を行うことで、パラフィン包埋切片では切片作製時の伸展や乾燥がRNAの品質に大きな影響を及ぼすことを明らかにし、パラフィン包埋切片及び凍結切片で子葉鞘から高品質のRNAを回収できる実験系を確立した。この実験系を用いて吸水1日目の野生型及びrad変異体の子葉鞘からRNAを抽出し、マイクロアレイ解析を行った。マイクロアレイ解析の結果から、変異体の子葉鞘において細胞周期に関わる転写産物の蓄積量が減少していることが明らかとなった。古くから子葉鞘の伸長は細胞伸長によるということが報告されており、細胞分裂に関してはほとんど知見がなかった。そこで子葉鞘が細胞分裂を行っているか否かを検証するため、M期の細胞の測定とBrdUの取り込み実験によるDNAの複製後の細胞の検出を行った。これらの結果から、イネの子葉鞘は吸水後数日の間は細胞分裂を行っていることが明らかとなり、そしてrad変異体の子葉鞘において細胞分裂が抑制されていることが強く示唆された。また、rad変異体の子葉鞘ではABAにおいて転写が誘導されるOsWRKY24やOsWRKY71の転写産物量が増加していた。そのため、rad変異体の子葉鞘では野生型に比べ、ABAが蓄積していることが示唆された。これらの転写因子は、デンプンの分解に必要なα-amylaseの転写を抑制することが報告されていることから、第1章で示された、変異体におけるデンプン分解抑制の要因となっている可能性が考えられる。

3.低酸素環境下におけるイネの発芽伸長時の子葉鞘・本葉の遺伝子発現解析

イネは、他のイネ科作物とは異なり嫌気環境下でも発芽し、子葉鞘を伸長させることが可能である。しかしながらイネは嫌気条件下で発芽伸長できるものの、好気条件下と嫌気条件下で同じメカニズムを用いて発芽伸長しているという訳ではない。例えばADH活性の低下した変異体やCIPK15の変異体では、好気条件下では野生型と同様に発芽・生育するが、嫌気条件で発芽させた場合は子葉鞘を伸長させることができない (Matsumura et al. 1998, Saika et al. 2006, Lee et al. 2009)。このことは、嫌気条件下での発芽伸長に必要なプロセスは、好気条件下でのものとは異なることを示している。さらに、好気条件下と嫌気条件下における発芽伸長には、形態的に異なる点も存在する。好気条件下で発芽伸長させた場合、イネは子葉鞘と本葉の両方を伸長させるのに対して、嫌気条件下においては、子葉鞘は伸長するものの本葉は伸長しない。そこで第3章では、イネの好気条件下と嫌気条件下における発芽伸長のメカニズムの違いについて調査した。

そこでまず、吸水後1日以内の子葉鞘と本葉において遺伝子発現レベルでどのような変化が生じているかをマイクロアレイを用いて網羅的に調査した。乾燥種子、好気条件下または嫌気条件下で0.5、1日間吸水させたイネ種子胚からLM法を用いて子葉鞘と本葉を回収した後、回収した組織からRNAを抽出し、マイクロアレイ解析を行った。マイクロアレイ解析の結果、嫌気条件下の本葉において特異的に細胞周期関連遺伝子の転写産物の蓄積量が減少していることがわかった。この結果は、EdUの取り込み実験からも支持された。したがって嫌気条件下の本葉においては、細胞分裂自体が抑制されていることが示された。また、嫌気条件下の本葉で特異的に転写産物量が増加していた遺伝子の中には、糖飢餓状態で誘導される遺伝子が存在した。つまり、嫌気条件下では胚乳から胚へ供給された可溶性糖が本葉へと分配されていないため、糖の欠乏状態になりエネルギー生産が行えず、その結果細胞分裂が抑制され、本葉の伸長が抑制されている可能性が示唆された。

本研究のrad変異体を用いた解析から、ADHが関わる嫌気代謝が発芽に重要なABAの分解に何らかの影響を及ぼし、胚乳におけるデンプンの分解を制御している可能性が示唆された。これまでADHがこのような経路に関与しているという報告はなく、仮にこのような新たなADHの役割が存在するとすれば、そのメカニズムは非常に興味深い。また、好気条件下及び嫌気条件下の発芽伸長の解析から、子葉鞘及び本葉の発芽伸長に細胞分裂が大きく関わっていること、さらにデンプンの分解や嫌気条件下の種子胚における子葉鞘への糖の優先的な供給といった糖の分配が重要であるということが示唆された。嫌気条件下では、好気条件下のように十分なエネルギー生産が行えないため、エネルギー生産には限られた原料である胚乳を消費する必要がある。しかしながら、好気条件下のように様々な組織で細胞分裂や伸長を行えば、胚乳に蓄えられたデンプンはすぐに枯渇し、生存にとって不利な状況に陥ることとなる。そのような状況を回避するためにも、本葉の伸長抑制は嫌気条件下における効率良いエネルギー消費機構としても重要であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、好気条件下及び嫌気条件下におけるイネの発芽時期に着目し、子葉鞘および本葉の伸長のメカニズムについて明らかにしたものであり、次の3つの章から構成されている。

1.reduced adh activity (rad) 変異体における嫌気代謝経路に関する研究

嫌気条件下のATP合成に重要な解糖系にNAD+を供給する代謝経路にアルコール発酵と乳酸発酵がある。特にアルコール発酵は、解糖系によって生成されるピルビン酸の約90%を代謝していることから、嫌気代謝においては非常に重要な経路である。そこで、このアルコール発酵において重要な働きをもつ酵素であるalcohol dehydorogenase (ADH)の活性が低下したreduced adh activity (rad) 変異体を用いて、ADH活性の低下が他の嫌気代謝系へ及ぼす影響について調査した。その結果、rad変異体の種子胚では野生型に比べ乳酸が最大で約5倍多く蓄積していることが明らかとなり、ピルビン酸の代謝系の一つであるアルコール発酵が阻害されため、別のピルビン酸代謝系である乳酸発酵が活性化されていることが明らかとなった。また、グルコースやフルクトースといった解糖系に必要な単糖の蓄積量が変異体で減少していたことから、変異体において胚乳からの糖の供給が滞っている可能性が示唆された。そこで、胚乳におけるデンプン量を測定したところ、野生型では発芽後経時的にデンプン量が減少したのに対し、変異体ではデンプンの減少がほとんど観察されなかった。また、rad変異体の表現型は、外部から糖を与えても回復しないことから、変異体においてデンプンの分解や糖の代謝・吸収などが抑制されていることが示唆された。

このようなrad変異体の種子胚における代謝産物の測定から、ADH活性の低下が胚乳におけるデンプンの分解や胚における糖の代謝や輸送に影響を及ぼすことが明らかとなり、その結果として、変異体の種子胚におけるATP合成が抑制されていることが考えられた。

2.Laser microdissection (LM)を用いたrad変異体の遺伝子発現解析

rad変異体の特徴的な形質に、冠水発芽時の子葉鞘の伸長抑制がある。そこで、ADH活性の低下が、冠水条件下の子葉鞘における遺伝子発現にどのような影響を与えているかを調査した。吸水直後の種子胚から子葉鞘のみを回収し解析することは非常に困難であったため、Laser microdissection (LM) 法を用いることにした。しかし、植物のLM法は確立されていなかったことから、その実験系の最適条件を検討し、世界に先駆けて植物のLM法を確立させることに成功した。その方法を用いて、子葉鞘のみを単離後、マイクロアレイ解析を行った。その結果、変異体の子葉鞘において細胞周期関連遺伝子の転写産物の蓄積量が減少していた。さらに、M期の細胞の測定とBrdUの取り込み実験により、野生型のイネの子葉鞘では吸水後数日間は細胞分裂を行っており、rad変異体の子葉鞘では細胞分裂が抑制されていることが明らかとなった。また、rad変異体の子葉鞘ではABAにおいて転写が誘導されるOsWRKY24やOsWRKY71の転写産物量が増加していた。そのため、rad変異体の子葉鞘では野生型に比べ、ABAが蓄積していることが示唆された。これらの転写因子は、デンプンの分解に必要なα-amylaseの転写を抑制することが報告されていることから、変異体におけるデンプン分解抑制の要因となっている可能性が考えられた。

3.低酸素環境下におけるイネの発芽伸長時の子葉鞘・本葉の遺伝子発現解析

イネは、他のイネ科作物とは異なり、嫌気環境下でも発芽・伸長をすることが可能である。しかし、好気条件下と嫌気条件下で同じメカニズムによって発芽伸長しているわけではなく、好気条件下では子葉鞘と本葉の両方が伸長するのに対して、嫌気条件下では子葉鞘は伸長するものの、本葉は伸長しない。そこで、好気条件下と嫌気条件下での吸水後1日以内のイネ子葉鞘と本葉における遺伝子発現の変化をマイクロアレイ解析により網羅的に調査した。

乾燥種子、好気条件下または嫌気条件下で0.5、1日間吸水させたイネ種子胚からLM法を用いて子葉鞘と本葉を回収し、マイクロアレイ解析を行った。マイクロアレイ解析の結果、嫌気条件下の本葉において特異的に細胞周期関連遺伝子の転写産物の蓄積量が減少していた。この結果は、EdUの取り込み実験からも支持され、嫌気条件下の本葉において、細胞分裂が抑制されていることが示された。また、嫌気条件下の本葉で特異的に転写産物量が増加していた遺伝子の中には、糖飢餓状態で誘導される遺伝子が存在した。つまり、嫌気条件下では胚乳から胚へ供給された可溶性糖が本葉へと分配されていないため、糖の欠乏状態になりエネルギー生産が行えず、その結果、細胞分裂が抑制され、本葉の伸長が抑制されている可能性が示唆された。

以上、本研究では、低酸素条件下でのATP合成に重要なADH活性の低下は、解糖系だけではなく、胚乳におけるデンプンの分解や胚における糖の代謝・輸送にも影響を及ぼすことを明らかにした。さらに、好気条件下と嫌気条件下におけるイネの発芽伸長機構が異なることを遺伝子発現レベルで明らかにしたことは、学術上価値が高いといえる。したがって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものと認めた。

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