学位論文要旨



No 126881
著者(漢字) 前島,健作
著者(英字)
著者(カナ) マエジマ,ケンサク
標題(和) ウメ輪紋ウイルスの分子生物学的研究
標題(洋)
報告番号 126881
報告番号 甲26881
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3634号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 難波,成任
 東京大学 教授 岸野,洋久
 東京大学 教授 宇垣,正志
 東京大学 准教授 鈴木,匡
 東京大学 特任准教授 大島,研郎
内容要旨 要旨を表示する

ウメ輪紋ウイルス(plum pox virus, PPV ; ポティウイルス科ポティウイルス属)は、果樹生産に最も深刻な被害を引き起こす植物病原体の一つである。宿主範囲は広く、モモ(Prunus persica)、オウトウ(P. avium)、セイヨウスモモ(P. domestica)、アンズ(P. armeniaca)、ニホンスモモ(P. salicina)などの主要果樹を含む様々なサクラ属(Prunus)植物に感染する。感染すると葉に輪紋、斑紋、奇形を生じるほか、早期落果や果肉の変質、果実の輪紋、奇形を生じ、商品価値を著しく損なう。PPVはアブラムシを介して非永続的に伝搬されるほか、接ぎ木によっても伝染するため、感染穂木、感染苗木の流通が本病の拡大の原因となる。治療手段がなく、病徴からウイルス感染を判断することは困難である。従って、PPV防除のためには、高感度な検出法による早期診断や病樹の伐採が必須であるが、これまで簡便な高感度検出技術はなかった。

PPVによる病害は1915年頃にブルガリアで発生が確認されて以降、東欧を中心に急速に拡大し、1990年までにヨーロッパのほぼ全域に発生が認められたほか、トルコ、シリア、エジプトでも発生が確認された。また1990年以降、南米(チリ、アルゼンチン)、北米(アメリカ合衆国、カナダ)、アジア(インド、中国、カザフスタン、パキスタン、イラン)においても発生が確認されている。これまでの研究から、分子系統学的に判別可能な7系統のPPVが報告されており、それぞれ病原性、宿主範囲、抗原型、地理的分布等の特性が異なる。中でもD系統は最も主要な系統であり、世界で最も広く発生しているため大きな問題となっている。しかし、D系統の世界各地への拡散経路に関しては明らかになっていない。

我が国ではこれまでPPVの発生は報告されておらず、農林水産省指定の特定重要病害として特に侵入が警戒されていた。本研究では、日本におけるPPVの発生を初めて確認するとともに、PPVの防除に向けて各種分子生物学的解析を行った。

1. 我が国に初発生したPPVの検出と同定

東京都青梅市の複数の圃場において、1990年代からウメの葉に輪紋や斑紋症状を伴う原因不明の障害が多発し、生産者の間で長年問題視されていた。2008年7月に本件に対する診断依頼を受け、2008年から2009年にかけて発生状況の調査を行った。現地生産圃場では、葉の退緑輪紋や斑紋、奇形症状が認められ、花弁の斑入り症状、果実の輪紋、奇形症状も認められた。これらの症状は、海外で報告のあるPPVに感染したサクラ属果樹の諸症状と酷似していた。罹病組織の電子顕微鏡観察を行ったところ、幅平均12.5nm、長さ平均744nmのポティウイルス属のウイルス様ひも状粒子が観察されたため、PPVとの関連性が強く疑われた。そこで、抗PPV抗体を用いたAgriStrip(Bioreba社)による血清学的検定を行った結果、凍結保存試料では陰性となったものの、生試料では陽性反応を示した。さらに、PPVの外被タンパク質(coat protein: CP)遺伝子領域の一部を増幅するプライマーセットを用いてRT-PCRによる分子生物学的検定を行った結果、症状を呈する複数のウメから特異的な増幅産物が得られた。増幅産物の配列を解析したところ、データベース上のPPVのCP遺伝子の部分塩基配列と一致した。以上の結果より、青梅市のウメに対するPPVの感染が証明された。PPVはヨーロッパを中心に発生しているウイルスであったため、東アジアで主に栽培されているウメへの自然感染例はこれまでなく、本事例は世界で初の報告となった。また、日本におけるPPVの発生は初めてであったことから、その感染宿主と症状に因み、本ウイルスの和名として「ウメ輪紋ウイルス」を提案した。

2. イムノクロマトグラフィー法によるPPV診断系の開発

国内におけるPPVの発生を受け、農林水産省による全国規模での調査および防除事業の開始が決定され、実用的なPPVの診断手法の開発が必要となった。一般的に、ウイルス病の診断にはCPへの特異的抗体によるELISA法や特異的プライマーを利用したRT-PCR法が用いられるが、これらは迅速性に著しく欠ける上に複雑な操作と高額な専用機器を必要とし、栽培現場での即時診断は不可能であった。そこで本研究では、以上の問題点を解決可能な方法として、イムノクロマトグラフィー法に着目した。本法は、試験紙に予め抗体が含まれており、抗原の吸い上げと併行して抗原抗体反応が進行し、ラインの出現により目視で判定ができるため、非常に迅速かつ簡便に結果を得られるという特徴がある。

まず、PPVに対する抗体を作出するため、青梅市内で採集した6分離株のCP遺伝子全長領域(990塩基)の塩基配列を決定し、解析を行った。その結果、推定CP遺伝子領域は国内のPPV分離株間で塩基配列、アミノ酸配列ともに99%以上の極めて高い相同性を示した。決定した塩基配列をもとに分子系統樹を作製したところ、既報の7系統のうちD系統とクラスターを形成し、他の6系統とは独立した分岐を示した。従って、青梅市で発生したPPVの抗原型はD系統であり、D系統に対応する抗体により検出可能であると考えられた。

そこで、青梅市の1分離株(Ou1分離株)のCPを抗原としてポリクローナル抗体を作出した。ウェスタンブロットによりこの抗体がPPVのCPに対して高い特異性を持つことが確認できたため、本抗体によるイムノクロマトグラフィー試験紙を作製した。本試験紙を用いて、PPVに罹病したウメの葉、花弁、果実、枝について検定した結果、いずれの粗汁液からも15分以内に陽性を示す明瞭なラインが確認され、PPVの検出が可能であった。一方、健全なウメに対する非特異的反応は全く認められなかった。また、PPV感染ウメの凍結試料についても陽性反応を示した。さらに、市販のELISA法と検出感度を比較した結果、常にELISA法と同等以上の感度を示した。以上の結果から、イムノクロマトグラフィー法は栽培現場での簡易で迅速なPPV診断に有効であると考えられたため、本法によるPPV診断キットを製品化した。このキットは実際の調査に採用され、診断の簡易、迅速化に貢献している。

3. PPV日本分離株の分子疫学的解析

2009年の全国調査の結果、東京都青梅市に加えて、近隣のあきる野市、八王子市、日の出町、奥多摩町および神奈川県、茨城県の一部においてPPVの発生が確認された。PPVの日本への侵入経路は不明であり、国内での拡散経路に関しても、神奈川県、茨城県での発生が青梅市からの感染穂木に由来すること以外は不明であったため、防除上の基盤となるデータがなく大きな問題となった。一方で、上記のCP遺伝子領域のみを用いた分子系統解析ではD系統内の関係性を明らかにできなかったことから、全塩基配列に基づいた、国内外の分離株の分子疫学的解析を試みた。

まず、Ou1分離株について全塩基配列を決定した。Ou1のゲノムは 3'末端のpoly(A)配列を除いて9,786塩基のプラス一本鎖RNAからなり、147番目から9,569番目の塩基にかけて大きなopen reading frame(ORF)が見いだされた。ORFには既報のPPVと同じ自己切断サイトを含む、3,140アミノ酸からなるポリタンパク質がコードされていた。既報の7系統の塩基配列と比較解析を行った結果、D系統との間に最も高い相同性(98.1-99.4%)を示した。

同様に、国内の各発生地域から収集した36分離株についても全塩基配列を決定した。その結果、日本分離株間における塩基配列の多様性は最大で0.8%と低く、全てD系統に属することが明らかになった。これまで全塩基配列が報告されている海外のD系統25分離株との比較の結果、日本分離株特有の塩基配列が5箇所(いずれも同義置換)で検出された。

次いで、D系統(国内37分離株、海外25分離株)の全塩基配列を用いて、複数の樹形探索法により分子系統解析を行った。いずれの樹形探索法においても、高いブートストラップ値で支持される相同な分子系統樹が得られた。発生国間のPPVの系統関係を解析したところ、ヨーロッパの分離株は単系統群を形成しなかった一方で、アメリカ合衆国、カナダ、日本の分離株はそれぞれ高いブートストラップ値により支持される単系統群を形成した。このことから、日本に侵入したPPVはアメリカやカナダに由来するウイルスではないと考えられた。

国内における系統関係については、神奈川県、茨城県の分離株が、それぞれの青梅市の親木からの分離株と最も近縁であったことから、本解析による系統関係の再現性は高いと考えられた。東京都内の分離株は、系統樹上においても発生地域ごとに比較的まとまっており、各地域においてアブラムシによる漸次的な伝搬が起きていると考えられた。一方で、地理的に離れた分離株同士が分子系統学的に近縁である場合もあり、穂木等による人為的な拡大経路が複数存在している可能性が強く示唆された。また、いくつかの分離株に関しては伝搬経路の推定が困難であったが、さらに多くの分離株を解析することにより、推定できると考えられた。

以上を要するに、本研究では我が国におけるPPVの防除体制構築に向けた基盤的研究を行った。まず、我が国におけるPPVの発生を初めて確認するとともに、CP遺伝子配列の決定により抗原型がD系統であることを明らかにした。また、特異的抗体を作出し、これを用いてイムノクロマトグラフィー法による簡易、迅速、高感度なPPV診断系を開発し製品化した。さらに、国内の各発生地域から採集した37分離株に関して全塩基配列を決定し、分子疫学的解析をおこなうことにより、我が国への侵入経路および国内における拡散経路の一端を解明した。

審査要旨 要旨を表示する

ウメ輪紋ウイルス(plum pox virus, PPV)は、果樹生産に最も深刻な被害を引き起こす病原体の一つである。宿主範囲は広く、様々なサクラ属植物に感染する。感染すると早期落果や果肉の変質、果実の輪紋、奇形を生じ、商品価値を著しく損なう。アブラムシと接ぎ木により伝染する。治療手段がなく、病徴からウイルス感染を判断することは困難である。従って、防除のためには高感度な検出法による早期診断と病樹の伐採が必須であるが、これまで簡便な高感度検出技術はなかった。PPVによる病害はこれまでにヨーロッパのほぼ全域、中東、北アメリカ、南米、北米、アジアの諸国においても発生が確認されている。これまでの研究から、分子系統学的に判別可能な7系統のPPVが報告されており、D系統は世界で最も広く発生している主要な系統である。しかし、D系統の世界各地への拡散経路に関しては明らかになっていない。我が国ではこれまでPPVの発生は報告されておらず、特に侵入が警戒されていた。本研究では、日本におけるPPVの発生を初めて確認するとともに、PPVの防除に向けて各種分子生物学的解析を行った。

1. 我が国に初発生したPPVの検出と同定

東京都青梅市において、1990年代からウメの葉に輪紋や斑紋症状を伴う原因不明の障害が多発し、問題視されていた。2008年7月に本件に対する診断依頼を受け、2008年から2009年にかけて発生状況の調査を行った。現地生産圃場では、葉の退緑症状が認められ、花弁の斑入り症状、果実の輪紋、奇形症状も認められた。これらの症状は、PPVに感染したサクラ属果樹の諸症状と酷似していた。罹病組織の電子顕微鏡観察を行ったところ、PPV様のひも状粒子が観察されたため、PPVとの関連性が強く疑われた。そこで、PPVの外被タンパク質(coat protein: CP)遺伝子領域の一部を増幅するプライマーセットを用いてRT-PCR検定を行った結果、症状を呈するウメから特異的な増幅産物が得られ、データベース上のPPVのCP遺伝子の塩基配列と一致した。以上の結果より、青梅市のウメに対するPPVの感染を証明した。PPVはヨーロッパを中心に発生しているウイルスであったため、東アジアで栽培されているウメへの自然感染例はこれまでなく、本事例は世界初の報告となった。また、日本におけるPPVの発生は初めてであったことから、その感染宿主と症状に因み、本ウイルスの和名として「ウメ輪紋ウイルス」を提案した。

2. イムノクロマトグラフィー法によるPPV診断系の開発

国内におけるPPVの発生を受け、農林水産省による全国規模の調査および防除事業の開始が決定され、実用的なPPVの診断手法の開発が必要となった。ウイルス病の診断において一般的に用いられるELISA法やRT-PCR法は、迅速性に著しく欠ける上に複雑な操作と高額な専用機器を必要とし、栽培現場での即時診断は不可能であった。そこで本研究では、イムノクロマトグラフィー法に着目した。本法は、試験紙に予め抗体が含まれており、抗原の吸い上げと併行して抗原抗体反応が進行し、ラインの出現により目視で判定ができるため、非常に迅速かつ簡便に利用できるという特徴がある。

まず、青梅市の1分離株(Ou1分離株)のCPを抗原としてポリクローナル抗体を作出した。ウェスタンブロットによりこの抗体がPPVのCPに対して高い特異性を持つことが確認できたため、本抗体によるイムノクロマトグラフィー試験紙を作製した。本試験紙を用いて、PPVに罹病したウメの葉、花弁、果実、枝について検定した結果、いずれの粗汁液からも15分以内に陽性を示す明瞭なラインが確認され、PPVの検出が可能であった。一方、健全なウメに対する非特異的反応は全く認められなかった。また、PPV感染ウメの凍結試料についても陽性反応を示した。さらに、市販のELISA法と検出感度を比較した結果、常にELISA法と同等以上の感度を示した。以上の結果から、本法の有用性が確認されたため、本法によるPPV診断キットを製品化した。このキットは実際の調査に採用され、診断の簡易、迅速化に貢献している。

3. PPV日本分離株の分子疫学的解析

2009年の全国調査の結果、東京都西部地域および神奈川県、茨城県の一部においてPPVの発生が確認された。PPVの日本への侵入経路、国内での拡散経路は不明であったため、防除上の基盤となるデータがなく大きな問題となったことから、全塩基配列に基づいた、国内外の分離株の分子疫学的解析を試みた。

まず、Ou1分離株について全塩基配列を決定し、既報の7系統の塩基配列と比較解析を行った結果、D系統との間に最も高い相同性(98.1-99.4%)を示した。同様に、国内の各発生地域から収集した36分離株についても全塩基配列を決定した。その結果、日本分離株間における塩基配列の多様性は最大で0.8%と低く、全てD系統に属することが明らかになった。

次いで、D系統(国内37分離株、海外25分離株)の全塩基配列を用いて、複数の樹形探索法により分子系統解析を行った。いずれの樹形探索法においても、高いブートストラップ値で支持される相同な分子系統樹が得られた。発生国間のPPVの系統関係を解析したところ、ヨーロッパの分離株は単系統群を形成しなかった一方で、アメリカ合衆国、カナダ、日本の分離株はそれぞれ高いブートストラップ値により支持される単系統群を形成した。このことから、日本に侵入したPPVはアメリカやカナダに由来するウイルスではないと考えられた。

国内における系統関係については、神奈川県、茨城県の分離株が、それぞれの青梅市の親木からの分離株と最も近縁であったことから、本解析による系統関係の再現性は高いと考えられた。東京都内の分離株は、系統樹上においても発生地域ごとに比較的まとまっており、各地域においてアブラムシによる漸次的な伝搬が起きていると考えられた。一方で、地理的に離れた分離株同士が分子系統学的に近縁である場合もあり、穂木等による人為的な拡大経路が複数存在している可能性が強く示唆された。また、いくつかの分離株に関しては伝搬経路の推定が困難であったが、さらに多くの分離株を解析することにより、推定できると考えられた。

以上を要するに、本研究では我が国におけるPPVの防除体制構築に向けた基盤的研究を行った。まず、我が国におけるPPVの発生を初めて確認するとともに、CP遺伝子配列の決定により抗原型がD系統であることを明らかにした。また、特異的抗体を作出し、これを用いてイムノクロマトグラフィー法による簡易、迅速、高感度なPPV診断系を開発し製品化した。さらに、国内の各発生地域から採集した37分離株に関して全塩基配列を決定し、PPVにおいて初めてとなる分子疫学的解析により、我が国への侵入経路および国内における拡散経路の一端を解明した。本研究の成果は、学術上また応用上きわめて価値が高い。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)に値するものと認めた。

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