学位論文要旨



No 126896
著者(漢字) 前田,尚廣
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,ナオヒロ
標題(和) 味覚伝導路における遺伝子発現プロファイリングを基盤とした味覚識別機構の解析
標題(洋)
報告番号 126896
報告番号 甲26896
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3649号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 三坂,巧
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 特任教授 加藤,久典
 東京大学 教授 東原,和成
 東京大学 准教授 久恒,辰博
内容要旨 要旨を表示する

食品中の呈味物質は口腔内上皮層に分布する味蕾と呼ばれる組織中の味細胞により受容される。5基本味と呼ばれる甘味、旨味、苦味、酸味、塩味はそれぞれ異なる味細胞により受容され、それらの味の情報は、味蕾に投射する末梢神経である味神経に伝達される。味神経は3つの感覚性脳神経節に由来し、その由来は味蕾の空間的分布と対応している。舌前方の茸状乳頭と口蓋の味蕾には顔面神経膝神経節(Geniculate Ganglion, GG)、舌後方の葉状乳頭と有郭乳頭の味蕾には舌咽神経下神経節(Petrosal Ganglion, PG)、咽頭の味蕾には迷走神経下神経節(Nodose Ganglion, NG)にそれぞれ由来する神経が投射している。これらの神経節は伝達する情報が異なる様々な種類の神経細胞から構成されており、どの神経細胞が味情報を伝達するのかについては不明であった。味神経に伝達された味情報は、脳幹の延髄弧束核(Nucleus of the Solitary Tract, NST)、橋結合腕傍核(Parabrachial Nucleus, PBN)などを経由し、大脳皮質味覚野で認知される。こうした味覚伝導路の概要については分かっているものの、味蕾で異なる味細胞により受容された異なる味の情報が、異なる伝導路を辿って伝達されるのか、あるいは、複数の味の情報が統合されて伝達されるのかといった中枢における味覚情報の処理機構に関する知見は少ない。

小麦胚芽レクチン(Wheat Germ Agglutinin, WGA)はシナプス間隙のような非常に近接した場所で細胞と細胞の間を移動する性質を持ち、WGAをトランスジーンとして特定の細胞に発現させることで、特定の神経回路を標識することができる。この技術を味覚研究に応用し、当研究室では、甘味・旨味受容体T1R3のプロモーター制御下でWGAを発現するトランスジェニックマウス(t1r3-WGAマウス)を作製し、甘味・旨味細胞から末梢感覚神経節であるGGおよびNPG(マウスでは解剖学的にNGとPGを区別できないので、それらを併せてNPGと表記する)を経て、NSTに至るまでの甘味・旨味情報の伝達経路をWGAで標識することに成功している。このようなマウスは、味覚情報の伝達様式の解明に非常に有用である。本研究では、このような背景を踏まえ、味細胞により受容された味の情報がどのような経路を辿って神経系へ伝達され処理されるかといった、味覚のコーディング機構を明らかにすることを目的とした。第1章において、甘味・旨味とは異なる味の情報伝達経路を可視化するため、苦味受容体であるT2R5のプロモーター制御下でWGAを発現するトランスジェニックマウス(t2r5-WGAマウス)を作製し、苦味情報伝達経路の可視化を行った。第2章では、上記のt1r3-WGAマウス、t2r5-WGAマウスに加え、当研究グループで作製された一部の酸味情報の伝達経路が可視化されたマウス(pkd1l3-WGA)の3種類のマウスを用いて、末梢感覚神経節およびNSTにおけるWGA 陽性細胞の分子特性を解析することにより、味神経レベルにおける味情報のコーディング機構を解明することを試みた。第3章では、中枢における味覚情報の処理に重要な役割を持つと考えられるPBNの遺伝子発現プロフィール解析を行い、感覚情報を伝達する神経細胞の分子特性を明らかにした。

第1章 t2r5-WGAマウスによる苦味情報伝達経路の可視化 1)

苦味情報の伝達経路を可視化するため、マウスの苦味受容体の一つであるT2R5遺伝子の開始コドンの5'上流約12.7kbにWGAのコード領域を連結させたトランスジーンを有するマウス(t2r5-WGAマウス)を2系統作出した。そのうちの1系統において、苦味細胞特異的にWGA mRNAが発現していることが確認できた。抗WGA抗体を用いて、WGAタンパク質の分布を免疫組織化学的に観察した結果、苦味細胞と味蕾に投射する神経繊維にWGAのシグナルが観察されたが、甘味・旨味細胞やシナプス構造を持つ細胞(すなわち酸味細胞)にはWGAのシグナルは観察されなかった。これらのことから、苦味の情報は、甘味・旨味の情報と同様に、シナプス構造を持つ酸味細胞を介さず、直接味神経へ伝達されることが示唆された。次に、末梢感覚神経節や脳幹部におけるWGAの分布を調べたところ、GGおよびNPGの一部の細胞においてWGAタンパク質のシグナルが観察されたが、NSTでは観察されなかった。これは、t2r5-WGAマウスの味細胞におけるWGAの発現量が、t1r3-WGAマウスのそれに比べ少ないことが原因であると考えられる。以上より、本研究において、味神経までの苦味の情報伝達経路が可視化されたマウスを作出することができた。

第2章 味覚情報を伝達する神経細胞の分子特性の解析

第1章において、末梢感覚神経節までの苦味情報の伝達経路の一部が可視化されたマウスが作製された。また、当研究グループにおいて、甘味・旨味の情報伝達経路、舌後方で受容される酸味の情報伝達経路がNSTまで可視化されたマウス(それぞれt1r3-WGA, pkd1l3-WGAマウス)が作製されている。本章では、これらのマウスの末梢感覚神経節およびNSTにおけるWGA陽性細胞に発現する遺伝子を探索することにより、味覚情報を伝達する神経細胞に発現するマーカー遺伝子を取得すること、および、甘味・旨味、苦味、酸味の情報を伝達する神経細胞の比較により、味神経レベルにおける味覚コーディング機構を解明することを試みた。末梢感覚神経節に発現する遺伝子は当研究室で行われたDNAマイクロアレイ解析により、味神経細胞が投射すると考えられているrostral NSTに発現する遺伝子はAllen Brain Atlas (http://www.brain-map.org/)により、それぞれ探索を行い、各組織においてin situ ハイブリダイゼーション法と抗WGA抗体を用いた免疫染色を組み合わせた二重染色を行い、WGA陽性細胞とマーカー遺伝子と発現分布を比較した。

t1r3-WGA、t2r5-WGAマウスのGGおよびNPGにおいて、また、pkd1l3-WGAマウスのNPGにおいて、WGA 陽性細胞のほとんどがP2X2、Scube1、Eya1、Atp2b4を発現していた。これらは味覚情報を伝達する神経に共通して発現する遺伝子であると考えられ、味神経細胞を特徴づけるマーカー遺伝子を取得することができたと判断した。一方、各味質を伝える神経細胞を区別しうるマーカー遺伝子も同定された。t1r3-WGAマウスのGGではEya2発現細胞の約半数がWGA 陽性であったが、t2r5-WGAマウスのGGではEya2とWGAの重なりはほとんど観察されなかった。これらのことから、GGでは、甘味・旨味情報を伝達する神経と苦味情報を伝達する神経の少なくとも一部は異なることが示唆された。また、t1r3-WGAマウスのNPGにおいて、5-TH3B、VIPをそれぞれ発現する細胞中のWGA陽性細胞の割合は8割程度であったが、t2r5-WGA、pkd1l3-WGAマウスのNPGにおいて、5-TH3BやVIPを発現する細胞にWGAのシグナルはほとんど観察されなかった。t1r3-WGA、t2r5-WGAマウスのNPGにおいて、WGA陽性細胞の半数程度が5-HT3Aを発現していたが、pkd1l3-WGAのNPGにおけるWGA陽性細胞の2割程度の細胞しか5-HT3Aを発現していなかった。このようにそれぞれの味情報を伝達する神経細胞に特徴的な遺伝子発現パターンを一部見出すことはできたが、味情報の分離・統合の全容を明らかにするには至らず、今後の課題として残されている。

次にt1r3-WGA、pkd1l3-WGAマウスのNSTにおけるWGA陽性細胞の分子特性の解析を行った。味神経細胞が投射し、上記マウスにおいてWGAタンパク質のシグナルが検出されるrostral NSTに発現する遺伝子を探索したところ、Tac1、Nnat、Itih3の3つの遺伝子が同領域に高頻度に強く発現していた。これらの遺伝子の発現細胞とWGAの相関を調べた結果、t1r3-WGA、pkd1l3-WGAマウスともに、NSTにおいて、WGAのシグナルとTac1のシグナルの分布に重なりが観察され、WGA陽性細胞の7-8割の細胞がTac1を発現していた。一方、NnatおよびItih3を発現するWGA陽性細胞は観察されなかった。これらから、今までほとんど分かっていなかったNSTにおける味覚ニューロンの分子特性の一端を明らかにすることができたといえる。

第3章 橋結合腕傍核の遺伝子発現特性 2)

PBNは味覚情報を視床などの中枢へと中継する神経核であり、味覚以外に一般臓性感覚、一般体性感覚などの情報も中継することが知られている。PBNは解剖学的に十数個の亜核から構成されているヘテロな神経核であり、その内味覚の伝達を担う神経細胞はvl亜核、el亜核などのいくつかの亜核に存在することが電気生理学的な応答記録実験や活動依存的に発現上昇する極初期遺伝子のマッピングなどにより示されている。味覚の伝達に関与する亜核の遺伝子発現特性を知ることは、味覚情報の伝導路を解析する上で非常に有用である。本章では、ラットのPBNおよびPBNに隣接する体性感覚中継核である三叉神経主知覚核(Principal Sensory Nucleus of Trigeminal Nerve, Pr5)の遺伝子発現情報をDNAマイクロアレイにより取得し、PBNに特異的に発現する遺伝子を取得することを試みた。PBNに多く発現している遺伝子を抽出し、その中で40個の遺伝子についてISHによりPBNにおける発現分布を調べた結果、32個の遺伝子がPBNに豊富に発現しており、この中には、PBN全体に発現する遺伝子やPBNの特定の亜核に発現する遺伝子などが存在していた。各亜核における遺伝子発現の頻度を指標としてクラスタリング解析を行い、遺伝子発現特性からそれぞれの亜核の類似性を調べたところ、PBNにおける亜核の配置と遺伝子発現特性には強い相関があることが示され、味刺激に応答する亜核は遺伝子発現特性が類似していることが示唆された。

本研究は、末梢の味蕾中の味細胞により受容された味の情報を伝達する感覚性脳神経節、NST、およびPBNにおける神経細胞の分子生物学的解析を通じ、甘味・旨味、苦味、酸味を感じ、その情報を中枢へ伝達する仕組みを解明しようとしたものであり、味覚情報を伝達する神経細胞の分子知見を得ることができた。本研究で得られた知見を基盤として、食品の味の認知が生じる仕組みを分子・細胞レベルで理解することが進み、食品科学研究が大きく発展すると確信している。

1) Ohmoto M, Maeda N, Abe K, Yoshihara Y, Matsumoto I. Genetic tracing of the neural pathway for bitter taste in t2r5-WGA transgenic mice. Biochemical and Biophysical Research Communications. 400(4), 734-738 (2010).2) Maeda N, Onimura M, Ohmoto M, Inui T, Yamamoto T, Matsumoto I, Abe K. Spatial differences in molecular characteristics of the pontine parabrachial nucleus. Brain Research. 1296, 24-34 (2009).
審査要旨 要旨を表示する

食品中の呈味物質は口腔内上皮層に分布する味蕾中の味細胞で受容される。甘味、旨味、苦味、酸味、塩味はそれぞれ異なる味細胞で受容され、それらの情報は、顔面神経膝神経節(GG)、舌咽神経下神経節(PG)、迷走神経下神経節(NG)に由来する味神経に伝達され、延髄孤束核(NST)、橋結合腕傍核(PBN)などを伝達され、認識にいたる。異なる味情報が、神経系においても異なる細胞を介して伝達されるのか、部分的にも統合されうるのかという、味覚情報のコーディング機構に関する知見は少ない。小麦胚芽レクチン(WGA)はシナプスなど物理的に非常に近接した部位を介して連絡する神経細胞間を移動する性質を持ち、特定の神経経路の標識に有用である。当研究室では、甘味・旨味受容体T1R3のプロモーター制御下でWGAを発現するトランスジェニックマウス(t1r3-WGAマウス)を作製し、甘味・旨味細胞からNSTに至るまでの甘味・旨味伝導路をWGAで標識することに成功している。本研究では、このような背景を踏まえ、味覚情報のコーディング機構を解明することを目的とした。

第1章 t2r5-WGAマウスによる苦味情報伝達経路の可視化

苦味受容体T2R5の開始コドンの5'上流約12.7kbにWGAのコード領域を連結させたトランスジーンを用い、苦味細胞特異的にWGA mRNAが発現するマウス(t2r5-WGAマウス)を作製した。このマウスでは苦味細胞と味蕾に投射する神経線維にはWGAタンパク質が検出されたが、甘味・旨味細胞や酸味細胞にはWGAのシグナルは観察されなかった。これらより、苦味情報がシナプス構造を持たない苦味細胞から味神経へと直接伝達されることが示唆された。GGとNPG(マウスNGとPGが混成した組織のこと)の一部の細胞にWGAタンパク質が検出された一方、NSTでは検出されなかった。このように、味神経までの苦味伝導路の可視化に成功した。

第2章 味覚情報を伝達する神経細胞の分子特性の解析

当研究グループでは、t1r3-WGA、t2r5-WGAマウスに加え、酸味伝導路の一部がNSTまで可視化されたマウス(pkd1l3-WGAマウス)が作製されている。本章では、これらのマウスにおけるWGA陽性神経細胞の分子特性の比較により、味覚情報のコーディング機構の解明を試みた。

DNAマイクロアレイ解析や、Allen Brain Atlas (http://www.brain-map.org/)の検索により、感覚性脳神経節やNSTに発現する遺伝子の探索を行い、各組織におけるWGAタンパク質と各遺伝子のmRNAシグナルとの相関を解析した。

t1r3-WGA、t2r5-WGAマウスのGGおよびNPG、pkd1l3-WGAマウスのNPGにおいて、WGA 陽性細胞のほとんどがP2X2、Scube1、Eya1、Atp2b4を発現しており、これらは味神経細胞集団の全体に発現することが明らかとなった。t1r3-WGAマウスのGGではWGA陽性細胞の約半数がEya2を発現していたが、t2r5-WGAマウスのGGではEya2とWGAの重なりはほとんど観察されなかった。このことから、GGでは、甘味・旨味情報の一部は苦味情報とは異なる神経細胞を介して伝達されることが示唆された。NPGにおいても、5-HT3A、5-HT3B、VIPの発現様式の解析より、末梢のT1R3発現細胞に選択的に投射し、苦味細胞、酸味細胞には投射しない神経細胞集団が存在することが見出された。このように部分的にも甘味・旨味伝導路が苦味や酸味の伝導路と分離していることが明らかとなった。

次にt1r3-WGA、pkd1l3-WGAマウスのNSTにおけるWGA陽性細胞の分子特性の解析を行った。味神経細胞が最も多く投射する領域に高頻度に強く発現していたTac1、Nnat、Itih3とWGAの相関を調べた。その結果、t1r3-WGA、pkd1l3-WGAマウスともに、NSTに観察されるWGAのシグナルのほとんどにTac1のシグナルが観察された。一方、NnatおよびItih3を発現するWGA陽性細胞は観察されなかった。このように、NSTの甘味・旨味、苦味を伝える神経細胞の分子特性が明らかとなった。

第3章 橋結合腕傍核の遺伝子発現特性

PBNは十個程度の亜核から構成され、味覚以外の感覚を伝える神経細胞も存在する。本章では、ラットのPBNおよびその近傍にある三叉神経主知覚核のDNAマイクロアレイデータを比較し、PBNにより多く発現する遺伝子を探索した。各遺伝子の橋における発現分布を調べた結果、32個の遺伝子がPBNに豊富に発現し、PBN全体に発現するものや特定の亜核に発現するものが見出された。各亜核におけるシグナルの頻度を指標としてクラスター解析を行い、亜核間の類似性を調べた結果、亜核の配置と遺伝子発現特性には強い相関があり、味刺激に応答する亜核は遺伝子発現特性が類似していることが示唆された。

本研究は、味覚伝導路における神経細胞の分子生物学的解析を通じ、甘味・旨味、苦味、酸味を感じ、その情報を中枢へ伝達する仕組みを解明しようとしたものであり、味覚情報を伝達する神経細胞の分子知見をいくつか取得できたことも大きな成果の1つである。

結論

味覚研究分野において本研究は、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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