学位論文要旨



No 126938
著者(漢字) 張,采瑜
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,サイユ
標題(和) 台湾農業の構造変化の政治経済分析
標題(洋)
報告番号 126938
報告番号 甲26938
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3691号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 准教授 齋藤,勝宏
 東京大学 准教授 安藤,光義
内容要旨 要旨を表示する

台湾では,1970年代以降の急激な経済成長によって非農業部門が飛躍的な生産性の向上を果たしたのに対して,農業部門の生産性の上昇が著しく遅れている.台湾において貿易自由化が進展する中で農業生産の維持を図るためには,農業部門の生産性を上昇させるような政策を実行することが必要である.現在の台湾の農業は零細規模の経営が中心であり,稲作を中心とする台湾農業は国際競争力が欠けている.一方,WTOの農業交渉の圧力もあるため,国内農産物市場を海外に開放しなければならない.こうした中で台湾の農業をめぐる環境は昔と大きく変化があった.確かに利潤を追求し,生産性の高い作物に移行する農家が増え,国際化の流れに乗り,輸出を果たしている経営者も増えた.しかし政策環境に変化があっても台湾の農業の構造は依然として零細経営が中心であり,それは近年の農業生産性の向上を阻害する要因でもある.

本研究は,効率性の向上が発揮できない小規模経営が中心である台湾において以上のような農業調整問題が発生した原因を,経済学的モデルに対して政治的要因の重要性を訴える「政治経済分析」によって明らかにする.具体的な内容は農家および政策構成の形成と農業政策が農業生産資源の部門間の調整と資源利用の効率性に与える影響を扱った経済分析である.

第1章では,台湾の農業構造の改善を阻害する農業政策に関する従来の分析成果を整理し,農業部門と他部門の間の合理的な資源配分のための農業政策の分析についての従来の既存研究の不足を指摘した.

第2章では,台湾の農業政策の展開過程と直接的な農業保護政策の発生背景を紹介したうえ,農業予算と政府統計から台湾の農業政策が発展的搾取から農業保護へと変化した政治過程を分析した.さらに台湾と日本の農業財政支出の内訳の公共性について公共選択論により分析した結果,財政に占める農業財政支出のシェアが農業部門と他部門との相対的な集団規模と逆の相関を持つこと,また農協の活動規模・農業労働者に占める兼業農家の比率・経営規模のばらつきといった農業部門内の構成が財政支出の公共性の低下を及ぼすことが示された.

第3章では,台湾の農地に関する土地利用規制を検討したうえ,農地の転用収入の試算およびヘドニック・アプローチによる農地価格の形成要因の分析を行った.まず,台湾における1992年から2003年までの農地転用収入は農業のGDP額と同じ桁の転用収入が毎年発生していることが示された.また,2008年5月からの2年間の農地売買の取引価格を分析した結果,農業収益に関連する要因だけでなく,ゾーニングの転用規制の程度や人口密度などの農地転用に関連する要因が農地の取引価格に大きな影響を与えることがわかった.また,農地転用に関する規制緩和政策は農地の転用期待を増大させ,農地価格を引き上げる効果を持ったことが明らかになった.

第4章では,台湾における農業労働移動の統計的把握と農業経済成長への影響を要因分解により認識したうえ,台湾における農業労働の調整過程を農工間労働移動のモデルによって分析した.この分析により,今まで台湾の農業就業者の減少は労働生産性の向上には十分な効果を発揮しなかったことがわかった.また,農家のインセンティブに影響を与える価格支持政策,農地転用規制,農業財政政策は農業労働の部門間移動を阻害し,農業部門の構造調整を遅らせる効果を持つことが示された.つまり農工間の交易条件と生産性格差が賃金格差に反映されたとしても,その他の要因が農業労働の供給に影響を与えるのであれば,農工間労働移動が引き起こされるとは限らない.

第5章は確率的費用フロンティアの分析を稲作経営の長期と短期の費用関数に適用して,1980年から2008年まで各県における規模階層別の稲作経営の効率性を計測し,効率的な稲作の経営および非効率的な稲作の経営の間の地域格差と階層格差を分析した.第5章の分析により台湾の稲作経営では短期と長期の費用フロンティア上では規模の経済性が存在することや,人為的な費用非効率性が存在することを確認できた.また,短期と長期の効率性を向上させるためには基盤整備率の改善,農地流動化を進めることが重要であることがわかる.

本研究の各章の分析結果からは以下のような政策的含意が得られる.

第一の政策的含意は,農業部門の産業調整のためには,農家の生産インセンティブに直接の影響を与える政策だけでなく,農家の意思決定に影響を与える様々な政策を改革する必要があるということである.第4章の分析から,農業労働資源の移動は,価格支持政策のほかにも.農地政策とその他の補助金政策により影響されることがわかった.2002年のWTO加盟により,台湾政府は農産物の関税と生産刺激的な国内支持政策の削減を承諾したため,生産インセンティブに直接の影響を与える価格支持を削減することにより農業部門の構造調整は促進される.しかし,生産刺激的な保護政策の削減と農産物貿易の自由化が進められたとしても,削減義務の対象とならない形態で行われる財政支出や,農地転用期待など農家のインセンティブに影響を与える要因が存在する場合には,必ずしも農工間労働移動の遅れが解消されるとは限らない.したがって,台湾農業の構造調整問題を解決するためには,価格支持政策の撤廃に留まらない幅広い調整促進政策が必要である.実際台湾はWTO加盟後,雑穀の価格支持政策が廃止されたが,米の休耕補助金と高齢農業者補助金などの増額によって農家をさらに手厚く補助した.これらの補助金はいずれも生産構造向上のインセンティブを与えることがなく,生産性の低い農家を農業に滞留させる効果があることが本研究の実証でわかる.今後,農業の構造を根本的に改善するために,構造政策以外の農業政策が農業構造への影響を配慮しなければならない.

第二の政策的含意は,構造調整に対する農地問題の重要性とその解決策に関するものである.第5章の分析結果からは,台湾の稲作経営が効率的な場合には規模に関して収穫逓増である,すなわち稲作には規模拡大の潜在能力があることが明らかになった.しかし,特に大規模農家を中心に資源利用の非効率性が発生している.農地利用の非効率は台湾の稲作経営拡大の潜在能力が発揮できない最も重要な原因だと考えられる.また,第5章における効率性の決定要因の計量分析からは,生産の効率化のためには農地貸借の活性化や基盤整備事業などが有効であることが明らかになった.それに加えて,第3章の分析からは農地転用の規制を強化することにより農地転用に対する期待を縮小させることが明らかになった.台湾において小規模農家が資産保有目的で農地を保有して農業部門に留まっていることが先行研究によって指摘されているが,本研究では農地のゾーニング政策が農地価格に与えた影響を定量的に分析が明らかにした.第3章からは,営農意欲の高い経営体への農地の集積を促進するためには,農地転用の規制を強化することにより農地転用に対する期待を縮小させることが重要であることが政策的な含意として導かれる.以上の研究結果から,国家の発展にとって必要な農地転用もあるため,大規模経営が維持できるように農地の基盤整備とそれに合わせた圃場整備事業で優良農地を維持しながら,国土全体の都市計画に合わせる農地の秩序的な転用を見出す政策の重要性が明らかになった.

第三の政策的含意は,台湾農業の発展に必要な政策を実現するための政治的過程に関するものである.農業財政支出の果たすべき役割の一つは,民間の市場メカニズムによっては十分に供給されない公共財を供給することである.特に,試験研究,技術改良普及,基盤整備の関連支出や災害復旧などの公共投資は,比較劣位化が進む台湾の農業部門が生産性を上昇させるために重要である.現在の台湾では農業政策が農家所得の維持と農家の福祉向上のために行われる傾向が強まっており,農業生産性を上昇させるための公共投資は十分とは言えない.第2章では農家は政策によってインセンティブに影響を受けるだけでなく,集合行為を通じて政策決定にフィードバックを与えることができる概念をふまえて分析した結果,公共性の高い支出の不十分の背景として,農業部門内の構成の変化が私有財的な性質を持つ財を追求する集合行為を発生させた状況があることがわかった.よって,台湾における農業財政支出を社会的な必要性の高い財の供給に充てるためには,担い手支援や農地利用の効率化などの政策目標を明確にしたうえで,政策決定過程の透明性を増すことによって非効率的なレントシーキング活動を抑制することが必要になる.また,農地転用規制の改革は財政支出を必ずしも伴わないが,公共性の高い基盤整備やそれに合わせた圃場整備は優良農地の維持に貢献するため,農地制度改革にとって同様に重要である.また,農業の公共財的支出のシェアを増やすためには,第2章の分析の中でも述べたようにWTOなどの外圧が有効の他に,マスコミなどへの情報の開示により他部門の有権者の関心を農業部門に引き寄せ,また農業部門に新たな参入者を吸収し兼業農家を減らすことにより,根本的に農業部門の集合行為を変え,公共財の増加の方向に向かせて農業の財政支出の質を向上させることができる.

なお,本研究では貿易自由化の下で食糧の安全問題と農業分野の国内政策と諸外国の政策の間で協調性については十分な検討を行うことができなかった.これらの論点についての研究は今後の課題としたい.

審査要旨 要旨を表示する

本研究の課題は、台湾が経済発展する過程で生じる農業調整問題について、その発生メカニズムを理論と実証の両面から明らかにすることである。経済成長が進むと労働をはじめとする生産要素を農業から他の部門に移動する圧力が強まるが、農業の生産要素は労働であれ土地であれ、農業に特化したものが多い。そのため他部門への移動に抵抗し、低下する所得を補うための保護政策を政治的に訴えるようになる。これが「農業調整問題」である。したがって本研究の課題の解明には政治経済学的なアプローチが必要となる。

第1章ではこの分野における過去の研究成果を整理し、研究としてどのような部分が不足しているかを考察している。それを踏まえて、政府の公共財供給のメカニズムや農地価格の決定要因、農業の労働移動に影響を与える政策、経営効率の改善の追求などの研究が不足していることを明らかにし、本研究の具体的課題設定を行っている。

第2章では台湾の農業政策の展開過程を分析し、経済が発展途上段階にあったときの農業搾取的政策から経済成長につれて農業保護政策が採られるようになった政策過程を論じている。政策過程を分析するために、農業財政支出の項目を公共選択論の視点で公共財的支出から私的財的支出まで4分類し、それを日本と台湾で比較している。まず、両経済ともに、国家財政支出に占める農業財政支出のシェアは農業部門の集団としての規模と逆相関をもち、農業が集団として縮小傾向にあるとき、政治学でいう「集合行為論」が示すように集団へのタダ乗りが回避され、政治的結束が強化されるため政治力が高まることを示唆している。さらに、兼業化の進展や経営規模のばらつきなどが、農業財政支出の公共性を低下させるなどの興味深い結果が得られている。

第3章では農業における生産要素として重要な農地に関する分析を行っている。まず、台湾の農地規制を検討した上で、農地転用の分析を行っている。農地を農地として効率的に利用することは農地が限られている台湾や日本では必須のことであるが、一方、優良な農地ほど非農業用地としても使い勝手がよく、転用への圧力が高まる。分析では台湾の農地転用収入を推計しているが、1992年から2003年までに農業生産による付加価値と同じ桁の転用収入が発生していたことが明らかにされた。さらに農地価格の形成要因をヘドニック・アプローチで分析しているが、農業収益に関わる変数だけでなく、ゾーニング規制の程度や人口密度など農地転用期待を示す変数が農地の取引価格に大きく影響することが解明された。また、農地転用規制の緩和は転用期待を増大させ、農地価格の上昇をもたらす効果があったことが示されている。

第4章では農地と並んで重要な生産要素である労働についての調整問題を論じている。台湾における農業労働移動の統計を用いて農業生産への影響を要因分解で考察した後、農工間労働移動のモデルを構築し、計量的に台湾の労働移動問題を分析している。その結果、台湾の農業就業者の減少は労働生産性を向上させるには十分ではなかったことが示されている。また、価格支持政策、農地転用規制、農業財政政策は農業労働の部門間移動を阻害し、構造調整を遅らせる効果を持つことが実証的に明らかにされた。

第5章では確率的費用フロンティアの手法を用いて、台湾の稲作経営の長期と短期の効率性を規模階層別に分析している。その結果、短期と長期の費用フロンティア上では規模の経済性が存在することや、人為的な費用非効率性が存在することが明らかになった。これは効率的な経営は規模拡大により平均費用が低下しメリットを受けられるのに対し、非効率な経営にとっては効率性改善が当面する問題となり、規模を拡大し規模の経済を享受する誘因が低いことを意味する。したがって、台湾の稲作経営の長期の効率性を改善するためには、効率が低い農家の経営改善を図りつつ、農地流動化を進める必要があることが示唆される。第6章では要約と結論が述べられ、今後の台湾農業の生産構造についての展望が記されている。

農業調整問題は台湾に限らず、日本など経済発展を遂げた諸国に共通する問題であり、農業保護政策の蔓延を防ぎ、グローバル化に耐えうる農業構造を作っていくためにも、解決すべき重要な問題である。本論文では、農業保護の実態を政府の農業財政支出の側面から把握し、その上で農業投入要素として重要な農地と労働に焦点を当てて、台湾の農業調整問題を実証的に明らかにした、優れた論文である。対象とされているのは台湾農業であるが、日本の農業や政策との比較も随所にちりばめられており、日本の農業政策にとっても示唆に富む論述が多くなされている。

農業政策は制度論に終わる研究が多い中、数量的に農業政策を把握し、政策が農地と労働を通じてどのように農業生産に影響を与えているかを計量的に評価している点が、特に高く評価できる。また、これからの台湾農業ひいては経済発展をとげつつある他のアジア諸国の農業のあり方を考える上でも大いに参考になる結論が得られている。このように本研究は学術上かつ応用上の価値が高く、よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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