学位論文要旨



No 126958
著者(漢字) 北郷,潤
著者(英字)
著者(カナ) キタゴウ,マサル
標題(和) 雄効果フェロモンの産生機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 126958
報告番号 甲26958
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3711号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 准教授 高橋,伸一郎
 東京大学 准教授 田中,智
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

嗅覚コミュニケーションは、主に揮発性の化学物質を介する個体間の情報伝達手段であり、哺乳類を含む様々な動物種において幅広く利用されている。そしてフェロモンとは、この嗅覚系コミュニケーションのうち、生殖行動など重要な生得的行動発現の局面において同種個体間での情報伝達に用いられる特異的な生理活性物質の総称である。哺乳類フェロモンはその作用機序から、受容した個体にただちに特定の行動を引き起こすリリーサーフェロモンと、受容個体の神経内分泌系に作用してより長期的な生理作用をもたらすプライマーフェロモンの、主に2つのカテゴリーに分類される。反芻動物のヤギやヒツジで"雄効果"として知られている雄由来のフェロモンによる雌の性腺機能の促進作用は、プライマーフェロモンによってもたらされる代表的な生理現象の一つである。このフェロモンは雄の皮膚においてアンドロジェン依存性に産生・分泌されることは知られているが、産生機序は不明である。そこで本研究では、独自に開発した生体および培養細胞を用いた実験系により、雄効果フェロモンの合成経路についての検討を行った。

第1章の総合緒言では、生物におけるフェロモンの意義および現在までに明らかにされているフェロモンの産生機構について概観し、またシバヤギにおいてフェロモンを産生すると推測される皮脂腺について説明するとともに、本研究の目的について記述した。

第2章では、雄効果フェロモンの合成経路を解明するための第1段階として、合成に関与する遺伝子群の探索を行った。雄効果フェロモンはシバヤギの皮膚においてアンドロジェン依存性に産生されることから、雄効果フェロモンの産生に関与する遺伝子群がアンドロジェン投与により発現上昇を示すであろうことが推測された。そこで、去勢雄シバヤギを供試し、代表的なアンドロジェンであるテストステロン (T)を持続投与する処置を行った前後における頭頚部皮膚、およびTよりも生理活性の高いアンドロジェンであるジヒドロテストステロン (DHT) 処置前後の臀部皮膚で、それぞれ発現が大きく変化する遺伝子群をサブトラクション法により検出し、両実験モデルの結果を比較検討することでフェロモン産生と同期してアンドロジェン依存的に発現上昇を示す遺伝子すなわちフェロモン合成酵素遺伝子候補の同定を行った。さらに、第三の実験モデルとして卵巣摘出雌にDHT投与する系を準備し、サブトラクション法により検出された遺伝子についてReal-time PCR法を用いてアンドロジェン依存性の発現上昇を確認することで、フェロモン合成に関与する可能性の高い遺伝子の絞り込みを行った。これと並行して、DHT処置前後の去勢雄シバヤギの頭部皮膚で発現する遺伝子をマイクロアレイ法により網羅的に解析し、アンドロジェン処置に伴い発現を変化させる遺伝子のライブラリーを作製した。これらの実験を行った結果、10の既知遺伝子および1つの未知配列が2種類のサブトラクション法から抽出され、また10の既知遺伝子のうちの8つについてはマイクロアレイ法においてもアンドロジェン依存的に発現上昇を示すことが確認された。これらの遺伝子のうち、long-chain fatty acid elongase, family member 5 (ELOVL5) およびstearoyl-CoA desaturase (SCD)の2つの既知遺伝子、および1つの未知配列gH325はReal-time PCR法でアンドロジェンに伴い特に顕著に発現上昇を示したことからフェロモン合成に関与する可能性が高いとみなし、第1候補遺伝子群とすることにした。皮膚におけるELOVL5、SCDおよびgH325の発現部位をin situ hybridizationにより確認したところ、3遺伝子とも共通して、生物検定でフェロモン活性を有することが判明している頭頚部皮膚の皮脂腺細胞において強い発現シグナルを示す、という結果が得られた。

第3章では、雄効果フェロモンを産生する細胞の培養方法について検討を行った。まずその第1段階として雄効果フェロモンの産生組織と推測される皮脂腺の組織培養方法について検討を行った。雄シバヤギの皮膚から皮脂腺を単離して培養したところ、シャーレに植え付けた組織から増殖してくる細胞が観察された。増殖した細胞はEpidermal growth factorによりその増殖が促進され、またInsulin (INS)を処置すると細胞増殖能および脂質産生能の両方が促進されることが示された。培養した細胞が産生する物質をジエチルエーテルで抽出しさらにメチルエステル化処理を行った後にGas Chromatography/Mass Spectrometry (GC/MS)により分析したところ、メチルエステル化されたパルミチン酸およびステアリン酸が主成分として同定され、またヤギ特有の匂いの主成分である4-エチル脂肪酸なども検出された。これらの結果を踏まえ、次に第2段階として培養細胞に対する分化誘導の影響を検討した。その結果、INSおよびDexamethasone (DEX)、またはDHTの処置により誘導をかけられた培養細胞は、その後に処置された因子に対する脂質産生における反応性を大きく変化させることが明らかとなった。

第4章では、第3章で培養系を樹立したシバヤギ皮脂腺組織由来の細胞を用いて、フェロモン合成に関与する遺伝子を特定する方法について検討することにした。まず第2章の研究から見いだされたELOVL5およびSCDの培養細胞における発現を確認した後、その遺伝子発現制御に伴う培養細胞の産生する脂質成分への影響を解析した。その結果、培養細胞においてこれら第1候補遺伝子の発現が確認されるとともに、ELOVL5はDEX、SCDはINSの処置に伴い、それぞれ発現を増加させることが示された。続いて、培養細胞においてsmall interfering RNA (siRNA)を用いた遺伝子発現制御法の検討を行ったところ、ELOVL5およびSCDの塩基配列を基に作製したsiRNAによりそれぞれの遺伝子で約80%のmRNA発現抑制が可能であることが確認された。また、siRNAの処置に伴う産生物質の変化をGC/MSにより解析したところ、SCDの発現抑制に伴いステアリン酸の産生量に比べてオレイン酸の産生量の割合が増加するという結果が示され、siRNAの発現制御により長鎖脂肪酸に2重結合を1つ修飾するというSCDの既知機能を阻害できることが示された。

以上の第2章から第4章の実験結果に基づき、第5章では総合考察を行った。本研究室で行われている雄効果フェロモン分子の同定研究により、現在4-エチル脂肪酸関連物質(4-EFARS)がフェロモン候補分子の最有力候補として挙げられている。4-EFARSの分子構造、および本研究の第2章で作製した遺伝子ライブラリーから、雄効果フェロモン合成経路について現時点で想定しうる2つの仮説を立てた。1つは本研究で検出された第1候補遺伝子SCD、ELOVL5により修飾された長鎖不飽和脂肪酸が分解される際にヤギ特異的な代謝メカニズムにより4-EFARS が産生されるという合成カスケードであり、もう1つは脂肪酸伸長反応においてマロニル酸の代わりにエチルマロニル酸が取り込まれることでエチル基を持つ脂肪酸が形成され4-EFARSに至るというカスケードである。また、本研究で確立した培養法により増殖が観察された細胞では少量ではあるものの4-エチル基を持つ脂肪酸類が産生されており、それらはTAGに含有されていることが示されたことから、培養細胞には4-EFARSの前駆物質を産生する能力があるものと推察される。ただし、生体の皮脂腺に比べるとその量は少ない。皮脂腺細胞は段階的に分化し成熟しており、皮脂腺組織はこれら全段階の細胞群から構成されている。組織培養により増殖する細胞はその大部分が分化の途中段階にある細胞と推測されるため、培養細胞において4-EFARSの前駆体となる物質の産生能を向上させるためには、皮脂腺細胞への分化を最終段階まで誘導する方法の確立が不可欠であろうと考えられる。また、培養細胞にsiRNAを導入することにより、翻訳タンパク質の量を減少させその酵素活性能を阻害しうることが示されたことから、今後はこうしたsiRNAによる遺伝子発現操作を組み入れた実験系の応用がフェロモン産生機序の解明に有用となろう。本研究ではELOVL5、SCD以外にもフェロモン合成に関与する可能性のある複数の遺伝子が同定され、また推定されたフェロモン合成経路から関与が予測される遺伝子も多数存在することから、今後は本研究で開発した実験手法をもとに更なる技術的改善を重ねながら、こうした候補遺伝子ひとつひとつについてフェロモン合成における役割を吟味していく必要があろう。

以上、本研究では、これまで不明であった反芻動物の雄効果フェロモン合成経路に関する検討を行い、以下の成果を得た。まず生体における実験からフェロモン合成酵素の候補遺伝子を同定した。次にフェロモン産生細胞と推定される皮脂腺細胞の培養実験系を確立し、同定された遺伝子についてsiRNAによる遺伝子発現抑制法を利用して培養細胞によるフェロモン関連物質の産生量を抑制することに成功した。本研究で開発したこのシステムを基盤としてフェロモン合成経路が特定されれば、これまで不明であった雄効果フェロモン産生メカニズム解明への道が大きく拓かれるものと期待されよう。

審査要旨 要旨を表示する

哺乳類フェロモンはその作用機序から、受容した個体にただちに特定の行動を引き起こすリリーサーフェロモンと、受容個体の神経内分泌系に作用して長期的な生理作用をもたらすプライマーフェロモンの、主に2つのカテゴリーに分類される。反芻動物のヤギやヒツジで"雄効果"として知られている雄由来のフェロモンによる雌の性腺機能の促進作用は、プライマーフェロモンによってもたらされる代表的な生理現象の一つである。このフェロモンが雄の皮膚においてアンドロジェン依存性に産生・分泌されることは知られているが産生機序は不明である。本研究では、雄効果フェロモンの合成経路についての検討が行われた。本論文は5章から構成され、第1章は総合緒言であり、第2章から第4章が実験の説明、そして第5章は総合考察である。

第2章では、雄効果フェロモンの合成経路を解明するための第1段階として合成に関与する遺伝子群の探索が行われた。雄効果フェロモンはシバヤギの皮膚においてアンドロジェン依存性に産生されることから、去勢雄シバヤギにテストステロン (T)を持続投与する処置を行った前後における頭頚部皮膚、およびTよりも生理活性の高いアンドロジェンであるジヒドロテストステロン (DHT) 処置前後の臀部皮膚で、それぞれ発現が大きく変化する遺伝子群をサブトラクション法により検出することで、フェロモン合成酵素遺伝子候補が同定された。さらに、第三の実験モデルとして卵巣摘出雌にDHT投与する系を用いてReal-time PCR法によりフェロモン合成に関与する可能性の高い遺伝子の絞り込みが行われた。また並行してマイクロアレイ法によりDHT処置前後の去勢雄シバヤギの頭部皮膚で発現する遺伝子が網羅的に解析され、アンドロジェン処置に伴い発現を変化させる遺伝子のライブラリーが作製された。これらの解析の結果、long-chain fatty acid elongase, family member 5 (ELOVL5) およびstearoyl-CoA desaturase (SCD)の2つの既知遺伝子、および1つの未知配列gH325が候補遺伝子群として同定された。皮膚におけるELOVL5、SCDおよびgH325の発現部位がin situ hybridizationにより検討され、3遺伝子とも共通して、生物検定でフェロモン活性を有することが判明している頭頚部皮膚の皮脂腺細胞において強い発現シグナルを示す、という結果が得られた。

第3章では、雄効果フェロモンの産生組織と推測される皮脂腺の組織培養方法について検討が行われ、Epidermal growth factorにより増殖が促進され、Insulin (INS)を処置すると細胞増殖能および脂質産生能の両方が促進されることが示された。また培養細胞が産生する物質を抽出しさらにメチルエステル化処理を行った後にGas Chromatography/Mass Spectrometry (GC/MS)により分析したところ、メチルエステル化されたパルミチン酸およびステアリン酸が主成分として同定され、また雄ヤギ特有の匂いの主成分である4-エチル脂肪酸なども検出された。これらの結果を踏まえ、培養細胞に対する分化誘導の影響が検討された結果、INSおよびDexamethasone (DEX)、またはDHTの処置により誘導をかけられた培養細胞は、処置因子に対する脂質産生における反応性を大きく変化させることが明らかとなった。

第4章では、第3章で培養系を樹立したシバヤギ皮脂腺組織由来の細胞を用いて、フェロモン合成に関与する遺伝子を特定する方法についての検討が行われた。Small interfering RNA (siRNA)を用いて遺伝子発現制御法が検討された結果、ELOVL5およびSCDそれぞれの遺伝子のmRNA発現を約80%程度抑制できることが判明し、これら酵素の機能を阻害しうることが示された。

以上、本研究では、反芻動物に雄効果をもたらすフェロモンの合成経路に関する検討が行われ、フェロモン合成酵素の候補遺伝子が同定されるとともにフェロモン産生細胞と推定される皮脂腺細胞の培養実験系が確立されるなど、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対し博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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