学位論文要旨



No 126961
著者(漢字) 金,
著者(英字)
著者(カナ) キム,ヘス
標題(和) マウスにおける遅延型瞬目条件反射学習分子基盤の遺伝学的解析
標題(洋) Genetic dissection of molecular bases for delay eyeblink conditioning in mice
報告番号 126961
報告番号 甲26961
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3714号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 糸原,茂美
 東京大学 教授 中山,裕之
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 内藤,邦彦
 東京大学 特任教授 小野寺,節
内容要旨 要旨を表示する

学習・記憶は動物の生存に欠かせない能力であり、神経細胞および神経回路の機能不全によるその破綻は、先進諸国における近年の最大の問題の一つである。したがって、学習・記憶形成に関する分子・細胞機構の解明に多くの努力が払われている。マウスにおける逆遺伝学の発展は、学習・記憶など複雑な生命現象の機構の解明に有力な手段を提供している。

遅延型瞬目条件反射は古典的条件付けに分類される運動学習パラダイムであり、マウスやヒトなど高等脊椎動物で高度に保存されている。さらに、厳密に定義できる条件刺激と無条件刺激を用いる特徴を持ち、学習記憶機構を解析するモデルとして優れている。この学習記憶機構の素過程には小脳皮質における平行繊維・プルキンエ細胞間シナプスに誘導される長期抑圧や小脳深部核細胞に生じる長期増強現象などの関与が議論され、遺伝子変異マウスの利用も含めて、多面的に解析されてきた。しかしながら、記憶痕跡の実態や、遅延型瞬目条件反射の分子・細胞機構の詳細な理解には至っていない。この分子機構の理解を深めることを目的として、本研究では、アストロサイト特異的S100Bおよびαキメリンが遅延型瞬目条件反射機構で担う機能について、遺伝子変異マウスを用いて解析した。

第一章では、グリア細胞の機能の観点から研究に取り組んだ。グリア細胞は神経細胞と異なり興奮性を示さないので、古典的には脳の情報処理に直接的関与を担わないと考えられていた。しかしながら、近年、グリア細胞が脳の情報処理に積極的に関わる証拠が次第に蓄積され、大きな注目を集めている。その中には、アストログリア特異的に発現するグリア繊維性酸性蛋白質欠損変異マウスにおける小脳長期抑圧および遅延型瞬目条件反射の不全の観察や、同じくアストロサイト特異的S100B欠損変異マウスにおける海馬CA1領域の長期増強、海馬依存的空間学習および文脈依存的恐怖の条件付けの亢進などが含まれる。

S100Bは二つのEFハンド型カルシウム結合ドメインを持つS100ファミリー蛋白質の一員であり、アストロサイト選択的に発現する特徴を持つ。In vitroの実験系によると、S100Bは細胞内で多様な分子と結合し、多様な細胞質内機能を担う事が示唆されている。一方、S100Bは細胞外に分泌され、海馬ではReceptor for Advanced Glycation End products (RAGE)に結合し、神経細胞の興奮性あるいは可塑性に関わる事が示唆されている。S100Bが脳の領域を問わず、類似の機能を持つか否か明らかにする必要が有る。S100Bは小脳皮質のバーグマングリアでとりわけ高レベルに発現する。小脳においても海馬と同様の機能を担うとすれば、小脳依存的運動学習に異常を示すと推察される。

この仮説の下、S100B欠損変異マウスの小脳機能を解析した。このマウスは、小脳の形態に異常を示さず、協調的運動能力を評価するロタロッド試験および遅延型瞬目条件反射学習のいずれにも異常を示さなかった。これらはいずれも小脳機能依存的パラダイムである。これらの結果は、小脳のS100Bが担う役割が海馬での役割と異なる事を示唆した。

第二章では、αキメリンの役割に注目した。α-キメリンはRac GTPase活性化蛋白質であり、運動ニューロンの発達過程においては、EphA4を発現する成長円錐がEphrin-B3と遭遇した場合、EphA4の下流シグナルを伝達し、成長円錐の伸長停止を司る。in vivoにおける軸索投射制御に必須な役割を果たすことが明らかとされた分子である。GTPase 活性化因子であるα-キメリンは、脳の発達期から生体にかけて広範な領域で発現する。in vitroの実験系によると、アクチン重合の制御を介して多様な機能を持つことが示唆される。樹状突起にも発現し、シナプス形成および可塑性に関与する事が示唆されているが、in vivoでの証拠、成体脳での役割は明らかにされていない。

私は、α-キメリンが小脳プルキンエ細胞樹状突起に発現分布することを観察し、この分子が小脳プルキンエ細胞および小脳回路における運動学習に関連したシナプス可塑性に関与するのではないかと考えた。この仮説を検証するために、α-キメリン遺伝子の第9エクソンにトランスポゾンが挿入されたMiffyマウスおよび9-10エクソンを欠損させたα-キメリン-ノックアウト(KO)マウスの瞬目条件反射学習を解析し、これらがいずれも顕著な不全を示すことを明らかにした。これらのマウスは眼瞼への電気ショック感受性に異常を示さず、また、聴性脳幹反応にも異常を示さなかった。したがって、これら変異マウスは瞬目条件反射に関わる主要回路の基本特性に顕著な異常は持たず、瞬目条件反射回路の学習依存的プロセスに異常を持つことが示唆された。

α-キメリン遺伝子は3箇所の転写開始点をもち、各々α1, α2, α3のアイソフォームを産生する。この内、α1とα2の発現が主体であり、α3の発現レベルは極めて低い。α1は成体では最も高レベルで発現する。上述のMiffyマウスおよび9-10エクソンを欠損させたα-キメリン-KOマウスにおいては、全てのアイソフォームが消失する。α1アイソフォーム固有の機能を明らかにするため、α1プロモーター領域を特異的に欠損させたα1-KOマウスを作成した。このマウスにおいては、期待どおり、α1アイソフォームmRNAが消失した。一方、α2アイソフォームmRNAは増加した。類似の結果は、小脳でも前脳でも共通して得られた。しかしながら、このα1-KOマウスは瞬目条件反射学習に全く異常を示さなかった。これらの結果は、瞬目条件反射学習回路で主要な役割を担う分子がα2アイソフォームであることを示唆した。

α1-KOマウスおよび野生型マウスのin situハイブリダーゼーションの結果およびα-2特異的抗体による免疫染色の結果は、α1およびα2が共にプルキンエ細胞で有意に発現することを示唆した。プルキンエ細胞におけるαキメリン分子の選択的役割を明らかにするため、プルキンエ細胞特異的KOマウスを作成した。この目的には、L7-Creトランスジェニックマウスを用いた。プルキンエ細胞特異的α-キメリン-KOマウスでは、92%以上のプルキンエ細胞でα-2キメリンの発現が消失した。このマウスは瞬目条件反射学習を獲得するものの、瞬目反射のタイミングに異常を示した。これらの結果は、α2-キメリンがプルキンエ細胞と、それ以外の瞬目条件反射回路で独立した機能を担うことを示唆している。この回路におけるαキメリンの作用点の同定は今後の課題として残された。

本研究は、アストロサイトと神経細胞の相互作用の分子機構および役割に脳領域による多様性の証拠を示し、αキメリンが運動ニューロンの発達のみならず、運動学習回路の形成もしくは機能的発現に必須な役割を担うことを明らかとしたものであり、運動学習の分子機構に新たな知見をもたらした。

審査要旨 要旨を表示する

学習・記憶は動物の生存に欠かせない能力であり、神経細胞および神経回路の機能不全によるその破綻は、先進諸国における近年の最大の問題の一つである。したがって、学習・記憶形成に関する分子・細胞機構の解明に多くの努力が払われている。とりわけ、マウスにおける逆遺伝学の発展は、複雑な生命現象の機構の解明に有力な手段を提供している。

遅延型瞬目条件反射は古典的条件付けに分類される運動学習パラダイムであり、学習記憶機構を解析するモデルとして優れている。この学習記憶機構の素過程には小脳皮質における長期抑圧や小脳深部核細胞に生じる長期増強現象などの関与が議論され、多面的に解析されてきた。しかしながら、記憶痕跡の実態や、遅延型瞬目条件反射の分子・細胞機構の詳細な理解には至っていない。この分子機構の理解を深めることを目的として、本研究では、アストロサイト特異的S100Bおよびαキメリンが遅延型瞬目条件反射機構で担う機能を解析した。

第一章では、グリア細胞の機能の観点から研究に取り組んだ。近年の神経科学において、グリア細胞が脳の情報処理に積極的に関わる証拠が提示されるに至り、大きな注目を集めている。その中には、アストロサイト特異的S100B欠損変異マウスにおける海馬CA1領域の長期増強、海馬依存的空間学習および文脈依存的恐怖の条件付けの亢進などが含まれる。

S100Bは細胞外に分泌され、海馬ではReceptor for Advanced Glycation End products (RAGE)に結合し、神経細胞の興奮性あるいは可塑性に関わる事が示唆されている。S100Bが脳の領域を問わず、類似の機能を持つか否か明らかにする必要が有る。S100Bは小脳皮質のバーグマングリアでとりわけ高レベルで発現することが注目される。小脳においても海馬と同様の機能を担うとすれば、小脳依存的運動学習に異常を示すと推察される。

この仮説の下、S100B欠損変異マウスの小脳機能を解析した。このマウスは、小脳の形態に異常を示さず、小脳機能依存的パラダイムである協調的運動能力を評価するロタロッド試験および遅延型瞬目条件反射学習のいずれにも異常を示さなかった。これらの結果は、小脳のS100Bが担う役割が海馬での役割と異なる事を示唆している。

第二章では、αキメリンの役割に注目した。α-キメリンはin vivoにおける軸索投射制御に必須な役割を果たすことが明らかとされた分子である。GTPase 活性化因子であるα-キメリンは、脳の発達期から生体にかけて広範な領域で発現する。in vitroの実験系によると、アクチン重合の制御を介して多様な機能を持つことが示唆される。樹状突起にも発現し、シナプス形成および可塑性に関与する事が示唆されているが、in vivoでの証拠、成体脳での役割は明らかにされていない。

α-キメリンが小脳プルキンエ細胞樹状突起に発現分布することが観察され、この分子が小脳プルキンエ細胞および小脳回路における運動学習に関連したシナプス可塑性に関与する可能性が考えられた。この仮説を検証するために、まず、α-キメリンを欠損するMiffyマウスおよびα-キメリン-ノックアウト(KO)マウスにおける瞬目条件反射学習を解析し、これらがいずれも顕著な不全を示すことを明らかにした。

α-キメリン遺伝子は3箇所の転写開始点をもち、各々α1, α2, α3のアイソフォームを産生する。この内、α1アイソフォーム固有の機能を明らかにするため、α1プロモーター領域を特異的に欠損させたα1-KOマウスを作成した。このマウスにおいては、α1アイソフォームmRNAが消失した。しかしながら、瞬目条件反射学習に全く異常を示さなかった。α3アイソフォームの発現は極めて微量であるので、これらの結果は、瞬目条件反射学習回路で主要な役割を担う分子がα2アイソフォームであるか、あるいはα1アイソフォームとα2アイソフォームは相互補完的である可能性が示唆された。

α1およびα2が共にプルキンエ細胞で有意に発現する。プルキンエ細胞におけるαキメリン分子の選択的役割を明らかにするため、プルキンエ細胞特異的KOマウスを作成した。プルキンエ細胞特異的α-キメリン-KOマウスでは、90%以上のプルキンエ細胞でα-2キメリンの発現が消失した。このマウスは瞬目条件反射学習を獲得するものの、瞬目反射のタイミングに異常を示した。これらの結果は、α2-キメリンがプルキンエ細胞と、それ以外の瞬目条件反射回路で独立した機能を担うことを示唆している。この回路におけるαキメリンの作用点の同定は今後の課題として残された。

本研究の成果は、アストロサイトと神経細胞の相互作用の分子機構および役割に脳の領域による多様性が有る事の証拠を示し、αキメリンが運動学習回路の形成もしくは機能的発現に必須な役割を担うことを明らかとしたものであり、運動学習の分子機構の理解に大いに寄与すると思われた。よって審査委員一同は申請者が博士(獣医学)の学位を授与するに値すると認めた。

UTokyo Repositoryリンク