学位論文要旨



No 126963
著者(漢字) 鎌田,正利
著者(英字)
著者(カナ) カマタ,マサトシ
標題(和) 犬と猫におけるオピオイドの中枢神経作用の比較
標題(洋)
報告番号 126963
報告番号 甲26963
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3716号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 准教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 望月,学
内容要旨 要旨を表示する

痛みは、実質的または潜在的な組織損傷に結びつく、あるいはこのような損傷を表わす言葉を使って述べられる不快な感覚および情動体験と定義される生体防御に不可欠な機構である。しかし、過剰あるいは持続する痛みは大きな苦痛であるばかりでなく、これを放置すると情動面に大きく影響したり、自律神経系刺激による心拍数や血圧の上昇、神経内分泌系刺激によるコルチゾールや異化反応を介する血糖値上昇など様々な反応を惹起したりするなど、生体に様々な負担をかける。また、痛みに対して適切な処置を行わないと、さらに痛みが増す増幅作用も示すことから、できるだけ早期から積極的に対処することも非常に重要である。

近年、家庭で飼育されている犬や猫は、伴侶動物として人間との結びつきがより強くなっており、これらの動物の疼痛管理に対す関心度あるいは重要性は非常に高くなってきている。現在、獣医療における疼痛管理は薬剤による鎮痛が主流であり、なかでも麻薬系オピオイドが最も広く用いられている。麻薬系オピオイドは中枢神経系に存在する3種類のオピオイド受容体(μ、κ、δ)に作用することで、強力な鎮痛作用を発揮する。しかし、中枢神経系に存在するオピオイド受容体は鎮痛作用以外に呼吸抑制、徐脈、鎮静、嘔吐などの作用をもたらし、さらに中枢神経系以外に存在するオピオイド受容体は消化管運動抑制などの多様な生理作用を発揮するなど、様々な副作用も伴う。オピオイドは犬に対しては強力な鎮痛作用だけでなく、鎮静作用も示すため、鎮痛薬あるいは麻酔前投与薬として積極的に広く用いられている。しかし、麻薬系オピオイドの作用には比較的大きな動物種差があるとされている。とくに猫では鎮痛作用の不確実性や中枢神経系興奮などの副作用に対する懸念が強く、積極的な使用が避けられる傾向が強い。事実多くの成書には猫に対するオピオイドの副作用ついての記述があるが、その根拠は曖昧であり、明確な情報がほとんどないのが現状である。

そこで、本研究では犬と猫におけるオピオイドの作用の違いについて明らかにするために、意識および行動上の変化ならびに呼吸抑制や嘔吐などの副作用について検討し(第2章)、さらに鎮痛作用について実験動物(第3章)ならびに臨床例(第4章)を用いて、主に侵害刺激に対する自律神経反応および神経内分泌反応から検討した。さらに作用の違いが生じる原因を明らかにする目的で、薬物動態学の観点から検討を加えた(第5章)。

第2章では、覚醒下の犬と猫に鎮痛薬あるいは麻酔前投与薬として一般的に用いられているモルヒネとフェンタニルを投与し、犬と猫の意識状態および行動におよぼす影響、さらに呼吸抑制や嘔吐などの副作用の発現について検討した。モルヒネの用量を変えて(0.3、0.6、1.2、2.4mg/kg)投与したところ、犬では用量依存性に活動性の低下や鎮静作用が認められ、高用量では腹臥位や横臥位になり意識を消失する個体も認められた。さらに用量依存性に呼吸抑制が発現し、高用量では嘔吐が高頻度で発現した。これに対して、猫では用量によらず不動化はみられたものの、明らかな鎮静や意識の消失は生じなかった。また、どの用量においても半数以上の個体が多幸感を示した。しかし何れの用量においても興奮や攻撃行動は認められず、明らかな呼吸抑制や嘔吐もみられなかった。一方、フェンタニルの用量を変えて(5、10、20、40μg/kg)単回投与したところ、犬では用量依存性に活動性の低下や鎮静作用が認められ、高用量では腹臥位や横臥位になり意識を消失する個体も認められた。また、用量依存性に呼吸抑制が発現したが、嘔吐は発現しなかった。これに対して猫では高用量のフェンタニルにより、一過性に活動性が上昇したが、不動化あるいは興奮や攻撃行動は認められなかった。また、何れの用量においても呼吸抑制や嘔吐は認められなかった。以上の結果から、オピオイドは犬では意識・行動を用量依存性に強く抑制して呼吸抑制も惹起するのに対し、猫では不動化傾向はあるものの、明らかな鎮静効果や呼吸抑制は示さないことが明らかとなった。

第3章では実験動物を用いて鎮痛作用の比較を行った。術中鎮痛に使用されることが多いフェンタニルの持続投与(5、10、20、40、80μg/kg/hr)が吸入麻酔薬イソフルランのMAC-BAR:MAC-blocking adrenergic responses(侵害刺激による心拍数と血圧の上昇を抑制する最小濃度)に与える影響を犬と猫で比較検討した。犬では、イソフルランのMAC-BARはフェンタニルの血中濃度依存性に約70%低下したが、さらに低下することはなく天井効果が認められた。一方、猫では約35%しか低下せず、天上効果が認められた。フェンタニルによるイソフルランのMAC-BARの低下効果は、侵害刺激が末梢神経から脊髄および視床を介して視床下部に達することで引きおこされる自律神経系の反応が抑制されることによると考えられることから、猫におけるオピオイド(フェンタニル)の鎮痛作用は、犬に比べて相当に小さい可能性が示された。

第4章では臨床例を用いて鎮痛作用の比較を行った。イソフルラン麻酔とフェンタニルの持続投与により手術を実施した犬と猫において、手術刺激に対する神経内分泌反応(血中コルチゾール濃度および血糖値)ならびに自律神経反応(心拍数と血圧の変動)に与える影響を比較検討した。犬では、術中の血中コルチゾール濃度と血糖値は安定しており、心拍数と血圧も安定していた。これに対して猫では、術中の血中コルチゾール濃度は安定していたが、血糖値は手術開始時より上昇を続けた。また、血圧は比較的安定していたものの、心拍数は手術開始時より大きく上昇する個体が多かった。このことから、猫では手術刺激による内分泌反応がフェンタニル投与によって十分に抑制できないことが明らかとなった。

以上の結果から、犬と猫におけるオピオイドの中枢神経作用には明確な違いが認められることが明らかとなった。そこで第5章で、中枢神経作用に種差が生じる要因を明らかにする目的で、薬物動態学の観点から検討を行った。実験動物を用いてモルヒネ(0.6mg/kg)、フェンタニル(10μg/kg)、および臨床応用されているレミフェンタニル(1.5μg/kg/min、5分間持続投与)の3つのオピオイドに関して薬物動態を犬と猫で比較した。また、薬剤投与に伴う大まかな意識状態および行動の変化も観察し、薬物動態との関連性を検討した。モルヒネについては、投与後猫の血中濃度は常に犬の血中濃度を上回り、クリアランス(mL/min/kg)は猫:35.3、犬:96.2であり、半減期(min)は猫:81.1、犬:69.6であった。一方、モルヒネの代謝産物M3G、M6Gのうち、犬ではM3Gが検出されたが、生理活性を持つとされるM6Gは検出されなかったのに対して、猫ではM3G、M6Gともに検出されなかった。同様にフェンタニルにおいても、投与後猫の血中濃度は常に犬の血中濃度を上回り、クリアランス(mL/min/kg)は猫:34.8、犬:65.1であり、半減期(min)は猫:82.5、犬:48.4であった。モルヒネ、フェンタニル投与後の意識状態および行動変化は第2章の結果と同様であった。レミフェンタニルについては、投与後猫の血中濃度は常に犬の血中濃度を下回り、クリアランス(mL/min/kg)は猫:288.7、犬:82.7であり、半減期(min)は猫:3.6、犬:6.1であった。レミフェンタニル投与後、犬は活動性が低下して鎮静されたが、猫では一過性の活動性の上昇が認められた。犬と猫における活動性の変化と血中濃度の変化には関連性が示唆された。主に肝臓で代謝されるモルヒネとフェンタニルの薬物動態に種差が認められたことから、肝臓における薬物代謝酵素の活性あるいは薬物代謝酵素の量や種類に違いがある可能性が示された。一方、血中の非特異的エステラーゼにより代謝されるレミフェンタニルの薬物動態種差が認められたことから、血中の非特異的エステラーゼの活性あるいは量や種類に種差がある可能性が示された。また、モルヒネ、フェンタニル、レミフェンタニル投与後の意識状態および行動変化との比較から血中濃度の高さが中枢神経作用の種差にある程度影響することが示唆されたが、血中濃度以外の要因がある可能性も示唆された。

以上の結果から、犬と猫におけるオピオイドの作用には、意識状態および行動変化や鎮痛作用等の中枢作用神経作用、あるいは呼吸抑制や嘔吐といった副作用に明らかな差があることが示された。オピオイドは、犬では十分な鎮痛作用と鎮静作用を発揮するものの、呼吸抑制や嘔吐などの副作用の危険性も用量依存性に高まった。一方、猫ではオピオイドの鎮痛作用は弱いものの、呼吸抑制や嘔吐などの副作用の危険性は低く、従来最も懸念されていた興奮作用も認められなかった。これらの違いには薬物動態の違いが一部関係しているが、その他の要因も大きいと考えられた。今後さらに、中枢神経系におけるオピオイド受容体の分布およびオピオイド受容体の機能などについても比較検討を加える必要があると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

痛みは生体防御に不可欠な機構であるが、過剰あるいは持続する痛みは情動面や生体に様々な負担をかける。獣医療で鎮痛薬の主流であるオピオイドの作用には種差があるとされ、とくに猫では興奮作用などの副作用に対する懸念が強く、積極的な使用が避けられる傾向が強い。多くの成書に猫に対するオピオイドの副作用が記述されているが、根拠が曖昧であり、明確な情報がほとんどない。

本研究では犬と猫におけるオピオイドの作用について、意識および行動の変化について検討し(第2章)、侵害刺激遮断作用について自律神経反応および神経内分泌反応から検討した(第3章、第4章)。さらに作用の違いが生じる原因を明らかにする目的で、薬物動態学の観点から検討を加えた(第5章)。

第2章では、覚醒下の犬猫に広く使用されるモルヒネとフェンタニルの静脈内投与が、意識や行動に与える影響について検討した。モルヒネは犬では活動性低下を引きおこし、高用量では姿勢の変化や意識レベルの低下も生じたが、呼吸抑制や嘔吐も用量依存性に生じた。一方、猫では活動性は低下したが、姿勢や意識レベルの変化を認めなかった。また、興奮や攻撃行動は認められず、呼吸抑制や嘔吐も認めなかった。フェンタニルは犬ではモルヒネと同様の活動性低下を引きおこし、用量依存性に呼吸抑制を生じたが、嘔吐は認めなかった。猫では一過性に活動性が上昇したが、興奮や攻撃行動は認められず、呼吸抑制や嘔吐も認めなかった。従って、オピオイドは犬では意識と行動を用量依存性に強く抑制して呼吸抑制や嘔吐も惹起するのに対し、猫では活動性に影響を与えるが、明らかな興奮作用や呼吸抑制などは生じないことが明らかとなった。

第3章では、術中鎮痛に使用されることが多いフェンタニルの持続投与が吸入麻酔薬イソフルランのMAC-BAR:MAC-blocking adrenergic responses(侵害刺激による心拍数と血圧の上昇を抑制する最小濃度)に与える影響を犬と猫で比較検討した。犬では、イソフルランのMAC-BARはフェンタニルの用量依存性に最大75%低下したが、猫では最大38%しか低下しなかった。猫では血漿中濃度を高くしても犬と同等のMAC-BAR低下効果は得られないことも明らかとなった。MAC-BARの低下はフェンタニルの侵害刺激遮断作用を反映すると考えられるため、猫におけるフェンタニルの侵害刺激遮断作用は、犬に比べて低い可能性が示された。

第4章では、イソフルランとフェンタニルの持続投与により麻酔下で手術を行った犬猫で、手術刺激に対する神経内分泌反応(心拍数、血圧、血中コルチゾール濃度、血糖値)の変動を比較検討した。犬では、術中の神経内分泌反応は抑制されていたが、猫では、血中コルチゾール濃度以外の神経内分泌反応は抑制されなかった。従って、手術による侵害刺激が犬では十分に抑制されていたのに対し、猫では十分に抑制されなかったことが示唆され、猫ではフェンタニルの侵害刺激遮断作用が犬よりも低いことが示唆された。

以上の結果から、犬と猫におけるオピオイドの中枢神経作用には明確な違いが認められることが明らかとなり、第5章では違いを生じる要因を明らかにする目的で、薬物動態学の観点から検討を行った。モルヒネ、フェンタニル、および臨床応用の始まったレミフェンタニルの薬物動態を犬と猫で比較した。モルヒネおよびフェンタニルの投与後の血漿中濃度は常に猫のほうが犬よりも高く、全身クリアランスおよび分布容積が猫では犬の1/2~1/3程度であることが明らかとなった。レミフェンタニルの投与後の血中濃度は常に猫の方が犬よりも低く、全身クリアランスおよび分布容積が猫では犬の2倍程度であることが明らかとなった。また、モルヒネとフェンタニルの投与による行動変化は第2章と同様であり、レミフェンタニルの投与によりフェンタニルと同様に犬では活動性低下、猫では活動性上昇が生じた。犬と猫ではオピオイドの薬物動態に違いが認められたが、レミフェンタニルの投与による行動変化から血中濃度の高さが中枢神経作用の種差に影響する可能性は低く、血中濃度以外にも種差に影響する要因がある可能性が示唆された。

以上、本研究ではこれまで明確な根拠なく猫ではオピオイドにより強い興奮状態を引き起こし、低用量でのみ使用すべきとされていた点を明確に否定し、同時に他の動物種のように強い侵害刺激作用を持たないことも明らかにした。また薬物代謝にも種差が存在すること、作用の違いにはオピオイド受容体の分布や機能の違いが関与している可能性が高いことを示した点でも学術上、臨床応用上貢献するところが多大であり、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の博士論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/48412