学位論文要旨



No 126966
著者(漢字) 竹内,由則
著者(英字)
著者(カナ) タケウチ,ヨシノリ
標題(和) イヌの肥満細胞腫における分子標的治療に関する研究
標題(洋) Studies on molecular-targeted therapy in canine mast cell tumor
報告番号 126966
報告番号 甲26966
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3719号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 准教授 大野,耕一
 東京大学 准教授 内田,和幸
内容要旨 要旨を表示する

肥満細胞腫 (Mast cell tumor, MCT)は、発生頻度の高いイヌの皮膚腫瘍の一つであり、イヌに発生する皮膚腫瘍のうち7~21%を占めると報告されている。また、イヌにおいてMCTは結膜、唾液腺、鼻咽頭、喉頭、口腔粘膜、消化管粘膜、尿道、脊椎などの皮膚以外の場所にも発生する。本腫瘍は、緩徐に増殖して局所的な病変に留まる場合もあれば、高い悪性度を示して全身に播種する場合もあり、その臨床的挙動はきわめて多様である。一般的な予後因子として、WHO臨床ステージや組織学的グレードが存在し、これらに基づいて、外科的摘出、放射線照射、化学療法およびその併用療法の中からその治療法が選択される。

近年の研究により、イヌMCTの15~40%がKIT遺伝子の変異を有することが明らかにされた。KIT遺伝子は、受容体型チロシンキナーゼの一つであり、Stem cell factor (SCF)の受容体であるc-Kitをコードしている。イヌMCTに見い出されたいくつかのKIT遺伝子変異は、SCFとの結合を必要としないc-Kitの自己リン酸化 (活性化)を引き起こすことが知られている。SCF/c-Kitシグナルは肥満細胞の分化、増殖、生存と密接に関与していることから、恒常的にリン酸化されたc-Kitは腫瘍細胞の異常な増殖や生存に関与し、MCTの発生や悪性化に深く関わっているものと考えられる。近年、イヌのMCT症例において、この異常リン酸化c-Kitを標的する分子標的治療薬としてチロシンキナーゼ阻害剤 (Tyrosine kinase inhibitor, TKI)が使用され始めており、その有効性について報告されるようになった。

しかしながら、このTKI治療による奏功率は4割程度に留まっており、それぞれの症例における治療反応性はさまざまである。イヌMCTにおけるKIT遺伝子変異に関する研究の大部分は、KIT遺伝子膜近傍領域 (Exon11)にInternal tandem duplication (ITD)変異を有するC2株を用いて行われたものであり、症例の多様性に対応していないのが現状である。さらに、MCT症例においてKIT遺伝子変異を中心とした分子病態を解析した研究については限られている。そこで本研究においては、イヌMCTにおける分子標的治療を発展させるために、本疾患の分子基盤を明らかにする一連の解析を行った。

第1章: イヌMCT細胞株におけるKIT遺伝子変異およびc-Kitリン酸化の解析

本章においては、複数のイヌMCT細胞株について、KIT遺伝子変異、c-Kitのリン酸化およびSCF/c-Kit相互作用について解析した。細胞株としては、SCFを添加しない培地で培養したHRMC (皮膚型MCT由来)、VIMC1 (内臓型MCT)、CoMS1 (内臓型MCT) およびCMMC1 (皮膚型MCT)の4株を用いた。その結果、HRMC細胞は野生型c-Kitを発現していることが示された。VIMC1細胞とCoMS1細胞からは全く同じ配列のKITが得られ、これらは細胞外領域 (Exon9)に1アミノ酸置換を引き起こす点変異を有していた。CMMC1細胞からは3種のKIT配列が得られ、それぞれ、細胞外領域 (Exon5)の1アミノ酸欠失 (variant A)、細胞外領域 (Exon8)の1アミノ酸置換、および膜近傍領域 (Exon11)のITD (variant B)、およびナンセンス変異を有していた (variant C)。これら4つの細胞株においてc-KitはSCF非存在下でリン酸化されていることが示された。このc-Kitのリン酸化は、HRMC、VIMC1,CoMS1細胞においてはSCF添加により増強されたが、CMMC1細胞ではSCF添加によって増強されなかった。また、これらいずれの細胞株においても、SCF添加によってその細胞増殖は促進されなかった。HRMC細胞においてはSCFタンパクの発現を認めたため、この株についてSCFの自己分泌機構について解析を行った。その結果、HRMC細胞ではSCFが細胞内でc-Kitをリン酸化する内因性自己分泌機構の存在が示唆された。以上の結果より、HRMCではSCF自己分泌機構により、また、VIMC1、CoMS1、およびCMMC1ではc-Kitの構造的変異により、c-Kitのリン酸化が引き起こされているものと考えられた。

第2章: イヌMCT細胞株に対するTKIの効果に関する解析

本章では、第1章においてKIT配列およびc-Kitリン酸化が同定された細胞株に対する4種のTKIによる増殖阻害効果を検討するとともに、この阻害効果に対するABCB1の影響を解析した。ABCB1はABCトランスポーターファミリーの一種であり、抗癌剤を含む多数の薬剤を排泄することから、その過剰発現がさまざまな腫瘍の薬剤耐性に関与することが知られている。細胞株としてHRMC、VIMC1、CMMC1を使用し、TKIとしてAxitinib、Imatinib、Masitinib、Vatalanibの4剤を用いた。これら4剤のHRMC細胞に対するIC50値は、VIMC1、CMMC1と比べると明らかに高く、その増殖阻害には高い薬物濃度が必要であった。HRMCおよびCMMC1においては、c-Kitリン酸化を抑制する濃度で細胞増殖も抑制された。これに対し、VIMC1のc-Kitリン酸化を抑制するには、その増殖を抑制するよりもはるかに高い濃度が必要であった。機能的なABCB1はVIMC1にのみ発現しており、その基質であるシクロスポリンを添加することで、VIMC1に対するTKIの効果がやや増強された。以上の結果より、KIT遺伝子変異のない細胞株 (HRMC)はKIT遺伝子変異を有する細胞に比べてTKIに対する感受性が低いことが明らかにされた。また、VIMC1においては、TKIはc-Kit以外の標的に作用することによって増殖を抑制している可能性が高く、本研究において使用したTKIはABCB1の基質となりうることが示された。

第3章: イヌMCTに対する新規治療標的に関する探索的研究

本章では、c-Kitに加えて、新たな治療標的分子を見出すため、イヌMCT細胞株(HRMC、VIMC1、CMMC1)についてさまざまなキナーゼのmRNA発現をRT-PCRにより検出し、リン酸化の状態を特異的抗体アレイにより検討した。さらに、多数の特異的阻害剤による阻害効果も解析した。HRMC、VIMC1、およびCMMC1においては、14種の標的のうち、それぞれ11、7、7種のチロシンキナーゼのmRNAが発現しており、これら3株すべてにおいてVEGFR3、PDGFRα、SRC、YES、LCK、およびFYNの発現が検出された。また、今回評価した67種の標的のうち、HRMC、VIMC1、およびCMMC1においては、それぞれ12、8、7種のキナーゼのリン酸化が認められ、3株のいずれにおいてもDTK、EPHB6、AMPKα1、CREB、STAT5a、およびSTAT5bのリン酸化が認められた。さらに95種の阻害剤のうち、HRMC、VIMC1、およびCMMC1に対して、それぞれ10、9、17種の阻害剤が阻害効果を示し、これら3株のいずれにおいてもSB218078 (Chk1阻害剤)、PDGFR inhibitor IV (PDGFR阻害剤)、およびradicicol (Hsp90阻害剤)の増殖阻害効果が認められた。これら3つの細胞株で共通してその阻害効果が認められた3つの分子(Chk1、PDGFR、Hsp90)および共通してリン酸化されていたDTK、EPHB6、CREB等の分子はイヌMCTに対する有力な治療標的となるものと考えられた。

第4章: イヌMCT症例におけるKIT遺伝子変異およびc-Kitリン酸化の解析

これまでに、イヌMCT症例におけるKIT変異についての解析は数多く行われてきたが、KITの全塩基配列を解析した研究は少ない。そこで第本章では、33頭のイヌから得られたMCT臨床検体についてKIT塩基配列およびc-Kitのリン酸化を解析した。3頭のイヌに関してはMCTが寛解した後、再発が認められたときに再度腫瘍細胞標本を採取した。このうち35検体はKIT全塩基配列 (2928 bp)を解析することができた。再発後に再び解析を行った3検体におけるKIT配列は、再発前の腫瘍のものと完全に一致していた。33頭の症例のうち、9頭でKIT配列の変化が認められた。検出されたKIT遺伝子変異としては、Exon2におけるナンセンス変異、Exon5および6の完全欠失、Exon11におけるITD、1アミノ酸置換、1アミノ酸欠失があった。36検体のうち、13検体でc-Kitタンパクが検出され、このうち12検体でそのリン酸化が確認された。この12検体にはKIT変異が認められる場合と認められない場合があった。今回Exon2, 5, 6においてはこれまでに知られていない変異が同定され、イヌMCTではKITのさまざまなドメインに変異が存在することが明らかになった。また、KIT変異が存在しないMCTにおいてもc-Kitが活性化している可能性が示された。

現在、KIT遺伝子Exon11にITDを有するイヌMCT症例にTKIによる治療が有効であることが知られている。しかし、本研究の成果により、他のExonに変異を持つMCTに対してもTKI治療が有効である可能性が示され、さらにKITに変異を持たない場合でもHsp90阻害剤などの他の分子標的薬が有効である可能性が示された。イヌMCT症例に対するTKI治療に関する臨床試験はすでにいくつか実施されているが、それらの知見に加え、本研究により以下のような方針が重要であるものと考えられた。

1)イヌMCTの分子生物学的基盤をさらに解析し、分子標的治療に関わる予後分子マーカー (KIT変異、c-Kitリン酸化、SCF発現など)を同定する。

2)これら予後分子マーカーをもとに、症例をいくつかのサブグループに分類し、治療反応性や予後と関連する因子を探索する。

3)以上の結果を基に、予後分子マーカーによって症例ごとに最適な治療薬を選択し、治療を行う。

本研究における一連の成果は、イヌのMCTにおいては複雑な分子病態が存在することを明らかにしたものであり、有効な分子標的治療の発展に寄与する基盤を提供するものと考えている。さらに、これらをもとにして研究を発展させることにより、イヌのMCTに対するテーラーメード型治療が実現できるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

肥満細胞腫 (Mast cell tumor, MCT)は、発生頻度の高いイヌの皮膚腫瘍の一つである。本腫瘍はきわめて多様な臨床的挙動を取り、標準的な治療法として外科的摘出、放射線照射、化学療法およびその併用療法が用いられている。近年、イヌMCTの15~40%がKIT遺伝子に変異を有することが明らかにされた。KIT遺伝子はc-Kit受容体をコードしており、このようなKIT遺伝子変異は、リガンドであるStem cell factor (SCF)との結合を必要としないc-Kitのリン酸化を引き起こす。イヌのMCT症例に対し、この異常リン酸化c-Kitの分子標的治療薬であるチロシンキナーゼ阻害剤 (Tyrosine kinase inhibitor, TKI)の有効性が報告されるようになった。本研究では、イヌMCTにおける分子標的治療を発展させるために、本疾患の分子基盤を明らかにする一連の解析を行った。

第1章: イヌMCT細胞株におけるKIT遺伝子変異およびc-Kitリン酸化の解析

複数のイヌMCT細胞株について、KIT遺伝子変異、c-Kitのリン酸化について解析した。細胞株としてHRMC、VIMC1、CoMS1およびCMMC1を用いた。HRMCは野生型c-Kitを発現していた。VIMC1とCoMS1からは全く同じ配列のKITが得られ、これらは細胞外領域に1アミノ酸置換を有していた。CMMC1からは3種のKIT配列が得られ、それぞれ、細胞外領域の1アミノ酸欠失 (配列A)、細胞外領域の1アミノ酸置換、および膜近傍領域のInternal tandem duplication (ITD) (配列B)、およびナンセンス変異を有していた (配列C)。4つの細胞株においてc-KitはSCF非存在下でリン酸化されていることが示された。HRMC細胞においてはSCFの発現を認めたため、この株についてSCF自己分泌機構について解析した。その結果、HRMC細胞では細胞内自己分泌機構の存在が示唆された。以上の結果より、HRMCではSCF自己分泌機構により、また、VIMC1、CoMS1、およびCMMC1ではc-Kitの構造的変異により、c-Kitのリン酸化が引き起こされているものと考えられた。

第2章: イヌMCT細胞株に対するTKIの効果に関する解析

イヌMCT細胞株に対する4種のTKIによる増殖阻害効果を検討した。細胞株としてHRMC、VIMC1、CMMC1を使用し、TKIとしてAxitinib、Imatinib、Masitinib、Vatalanibの4剤を用いた。これら4剤のHRMC細胞に対するIC50値は、VIMC1、CMMC1と比べると明らかに高く、その増殖阻害には高い薬物濃度が必要であった。HRMCおよびCMMC1においては、c-Kitリン酸化を抑制する濃度で細胞増殖も抑制された。これに対し、VIMC1のc-Kitリン酸化を抑制するには、その増殖を抑制するよりもはるかに高い濃度が必要であった。以上の結果より、KIT遺伝子変異のない細胞株 (HRMC)はKIT遺伝子変異を有する細胞に比べてTKIに対する感受性が低いことが明らかにされた。また、VIMC1においては、TKIはc-Kit以外の標的に作用することによって増殖を抑制している可能性が高いことが示唆された。

第3章: イヌMCTに対する新規治療標的に関する探索的研究

新たな治療標的分子を見出すため、イヌMCT細胞株(HRMC、VIMC1、CMMC1)についてさまざまなキナーゼのmRNA発現およびリン酸化の状態、さらに多数の特異的阻害剤による阻害効果を解析した。HRMC、VIMC1およびCMMC1においては、それぞれ11、7、7種類のチロシンキナーゼのmRNAが発現していた。また、HRMC、VIMC1、およびCMMC1においては、それぞれ12、8、7種類のキナーゼのリン酸化が認められた。さらに95種類の阻害剤のうち、HRMC、VIMC1およびCMMC1に対して、それぞれ10、9、17種類の阻害剤が阻害効果を示した。これら3つの細胞株で共通してその阻害効果が認められた分子および共通してリン酸化されていた分子はイヌMCTに対する有力な治療標的となるものと考えられた。

第4章: イヌMCT症例におけるKIT遺伝子変異およびc-Kitリン酸化の解析

イヌMCT症例においてKITの全塩基配列を解析した研究は少ない。本章では33頭のイヌから得られたMCT臨床検体についてKIT塩基配列およびc-Kitのリン酸化を解析した。33頭の症例のうち、9頭でKIT配列の変化が認められた。検出されたKIT遺伝子変異としては、Exon2におけるナンセンス変異、Exon6および7の完全欠失、Exon11におけるITD、1アミノ酸置換、1アミノ酸欠失があった。また、13検体でc-Kitタンパクが検出され、このうち12検体でそのリン酸化が確認された。この12検体にはKIT変異が認められる場合と認められない場合があった。今回Exon2, 6, 7においてはこれまでに知られていない変異が同定され、イヌMCTではKITのさまざまなドメインに変異が存在することが明らかになった。また、KIT変異が存在しないMCTにおいてもc-Kitが活性化している可能性が示された。

本研究における一連の成果は、イヌのMCTにおいては複雑な分子病態が存在することを明らかにしたものであり、有効な分子標的治療の発展に寄与する基盤を提供するものと考えている。さらに、これらをもとにして研究を発展させることにより、イヌのMCTに対するテーラーメード型治療が実現できるものと考えられる。

本申請論文を審査した結果、博士(獣医学)の学位を授与するに値すると判断した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/48414