学位論文要旨



No 126988
著者(漢字) 氣駕,恒太朗
著者(英字)
著者(カナ) キガ,コウタロウ
標題(和) ピロリ菌感染におけるmiR-210の機能解明
標題(洋)
報告番号 126988
報告番号 甲26988
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3598号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊庭,英夫
 国立感染症研究所 教授 渡邉,治雄
 国立がんセンター 教授 中釜,斉
 東京大学 教授 東條,有伸
 東京大学 教授 北村,俊雄
内容要旨 要旨を表示する

ピロリ菌はヒトの胃に定着するグラム陰性細菌で、胃炎、胃潰瘍、胃癌そしてMALTリンパ腫の形成に深く関与している。ピロリ菌は主に幼児期に感染し、胃粘膜に定着し続け、胃粘膜上皮細胞に付着し、ウレアーゼ、空砲化毒素(VacA)、CagAなどを産生・分泌する。これらの分泌性病原因子、およびリポ多糖(LPS; lipopolysaccharide)、ペプチドグリカン、活性酸素(ROS)などにより、ピロリ菌の感染した胃粘膜局所では慢性的な炎症反応が惹起される。このようにして様々な因子と宿主の相互作用により生じる、胃上皮細胞の増殖と慢性炎症が、ピロリ菌の感染による胃癌発症の主因であると考えられている。これまでの臨床的な知見から、ピロリ菌と胃癌発症との関係が明らかになっているが、その詳細な分子メカニズムは未だ不明な点が多い。近年、microRNA(miRNA)による遺伝子発現制御が、癌を始めとするさまざまな生命現象に重要な役割を果たしていることが明らかになってきた。遺伝子発現調節におけるmiRNAの機能の重要性を考えると、胃粘膜上皮細胞へのピロリ菌の感染の際に認められる癌関連遺伝子の複雑な応答にもmiRNAが深く関与していることが推測された。また、miRNAとウイルス感染との関連性は多数報告されているものの、細菌感染症との重要性については未だ報告例は少ない。そこで私は、胃癌の発症に深く関与しているピロリ菌の感染現象に着目し、その過程で重要な役割を果たすmiRNAを同定し、その機能解明を行うことを目的とした。

私は、in vitroピロリ菌感染におけるmiRNAの網羅的発現解析の結果から、ピロリ菌感染で宿主胃上皮細胞のmiR-210が顕著に発現上昇することを突き止めた。さまざまなピロリ菌株をヒト胃上皮由来細胞株であるAGS細胞に感染させた場合あるいは、マウス胃上皮細胞に対するex vivoのピロリ菌感染においてもmiR-210の発現上昇が認められた。スナネズミにピロリ菌を経口感染させ、感染初期として知られる14日後と感染後期であることが知られる63日後の胃上皮細胞を回収し、miR-210の発現を解析した。その結果、感染14日後ではmiR-210の発現上昇が生じており、ピロリ菌の慢性感染期である63日後ではmiR-210の発現が減少していた。さらにピロリ菌慢性感染者のヒト胃上皮細胞においても、miR-210の発現低下が観察された。

私は、ピロリ菌の一過的感染で観察されるmiR-210の発現上昇について着目した。miR-210の発現はHIF-1α(Hypoxia Inducible Factor-1 alpha)という転写因子によって制御されるという報告、また本菌がHIF-1αの活性化することを示唆するという報告があったことから、ピロリ菌感染におけるmiR-210の発現にはHIF-1αが重要ではないかと推定した。miR-210の上流領域とレポーター遺伝子とをつなげたルシフェラーゼベクターを作成し、miR-210の発現上昇を解析した結果、HIF-1αの結合配列依存的にmiR-210の発現が誘導されていることが明らかになった。HIF-1αをsiRNAでノックダウンしたAGS細胞では、ピロリ菌感染によるmiR-210の発現が減弱した。興味あることに、HIF-1αはさまざまな細菌感染症で発現上昇が見られる共通の転写因子として知られている。また、ノックアウトマウスでは免疫反応が低下し易感染性になることから、感染におけるmiR-210の重要性が強く示唆された。

次に私は、初期感染でピロリ菌により活性化されていたmiR-210がなぜ慢性感染時には減少にしているのか、そのメカニズムを調べることにした。ピロリ菌の慢性患者では、CpGアイランドのメチル化によりいくつかの遺伝子がサイレンシングされていることが近年わかってきた。miR-210のゲノム上の配列を調べてみると、miR-210のコードされている領域周辺がCpGアイランドになっていることを確認した。CpGアイランドのメチル化はその直下の遺伝子のサイレンシングを引き起こすことから、ピロリ菌の慢性感染によるmiR-210の発現抑制にもこのCpGアイランドが重要なのではないかと考えた。そこで、この可能性を確かめるために、ピロリ菌が感染したヒト健常者由来胃上皮粘膜細胞と、非感染胃上皮粘膜細胞におけるmiR-210上のCpGアイランドのメチル化の程度を調べた。その結果、ピロリ菌感染者の胃では、非感染者と比較し、有意にメチル化の度合いが有意に高いことが認められた。次に、DNAのメチル化がmiR-210の発現に影響を及ぼすかどうかを調べるため、さまざまな細胞株にDNAメチル化阻害剤である5-aza-dC(5'-aza-2'-deoxycytidine)を投与し、miR-210の発現変化を観察した。その結果、miR-210の領域のDNAのメチル化度合いが高い細胞株であったK562、HL-60、U937細胞はmiR-210の発現上昇を示した。その一方で、メチル化の度合いが低いNCI-N87、MKN74細胞ではmiR-210の発現上昇は全く確認されなかった。これらの結果は、DNAのメチル化がmiR-210の発現に直接的に関与していることを示唆している。ピロリ菌の慢性感染で観察されるmiR-210の発現減少と同時に観察されるmiR-210上のDNAメチル化は、miR-210の発現制御に重要な役割を果たしていることが示唆された。

次に、miR-210の機能を調べるために、miR-210の強制発現並びに抑制実験を行った。miR-210を胃上皮由来細胞株に発現させると、細胞の増殖抑制が認められた。一方、miR-210の発現を抑制した細胞では増殖の亢進が確認された。事実、miR-210を強制発現させたMKN45細胞の細胞周期を計測すると、G1期の細胞が増加し、G2/M、S期の細胞が減少していた。私は、miR-210がどのような遺伝子を標的として胃上皮細胞の増殖抑制に作用しているのかを調べるために、マイクロアレイとバイオインフォマティクスを用いたシステマティックな遺伝子同定法を試みた。哺乳動物におけるmiRNAは標的遺伝子の3'UTRに直接結合することにより、mRNAの発現量を負に制御することが知られている。AGS細胞にmiR-210を強制発現させて発現減少した遺伝子をマイクロアレイで解析した結果、miR-210の標的配列をもつ遺伝子の中から最終的に23個の候補遺伝子を選定した。次に、これら23遺伝子の全siRNAを合成し、各々のsiRNAを用いて細胞増殖による影響を調べた。その結果、細胞増殖を抑制する遺伝子として、STMN1(Stathmin1)、DIMT1L(DIM1 dimethyladenosine transferase 1-like)、METTL13(Methyltransferase like 13)を同定した。この3つの遺伝子の3'UTR含んだレポーターベクターは、miR-210の存在により活性が抑制された。これらの結果からmiR-210はSTMN1、DIMT1L、METTL13を直接的に標的とし、胃上皮由来細胞株の増殖を抑制していることが明らかになった。さらに、miR-210の発現が低下しているピロリ菌保有者の胃上皮では、対照となるヒトの胃上皮と比較し、STMN1、DIMT1L、METTL13の発現量が増加していることが明らかになった。STMN1は胃癌を始めさまざまな癌細胞で発現上昇することが知られ、腫瘍形成の早期にも重要であると考えられている遺伝子であることから、miR-210の発現減少はSTMN1等を介した腫瘍形成を亢進する可能性が示唆された。

本研究で私は、ピロリ菌の感染に応答するmiRNAとして、miR-210を同定した。また、miR-210がSTMN1、DIMT1Lを直接的に標的とし、細胞増殖を制御していることをシステマティックな方法を用いて示すことに成功した。本研究で明らかになった知見は、(i)ピロリ菌感染でmiR-210の発現が上昇する、(ii)miR-210の発現上昇はHIF-1αを介して行われる、(iii)miR-210が胃上皮細胞の増殖抑制を行うであった。HIF-1αはさまざまな細菌感染症で発現上昇が見られる共通の転写因子であることから、一般的な感染現象とmiR-210の関連性が本研究から示唆された。一方で、ピロリ菌慢性感染期では、miR-210の発現は顕著に減少していた。慢性感染期では同時にmiR-210上のCpGアイランドがメチル化されていたこと、DNAメチル化がmiR-210の発現を抑制したことから、本菌の慢性感染によってもたらされるDNAのメチル化がmiR-210の発現抑制に関与していることが示唆された。この結果は、ピロリ菌の慢性感染者ではピロリ菌感染に対するHIF-1αを介した正常な免疫応答が破綻していることを強く示唆していると考えられる。また、miR-210の発現抑制が癌遺伝子STMN1の発現の誘導を引き起こし、胃上皮細胞の増殖を促進すること、そして、miR-210は癌のイニシエーターであるという報告から、ピロリ菌の慢性感染によるmiR-210のサイレンシングが胃上皮細胞の異常増殖とともに癌細胞のクローナルな増殖を育む環境を作る可能性を示唆している。さらに、STMN1と同様の胃上皮増殖作用を持つDIMTL1の発現についてもピロリ菌慢性感染者で上昇していたことは、DIMT1Lの癌遺伝子としての新しい機能を示唆している。

審査要旨 要旨を表示する

本研究はピロリ菌の慢性感染過程において重要な役割を演じていると考えられるmicroRNAの機能を明らかにするため、in vitro、in vivoにおける本菌の感染過程において、発現変動するmicroRNAの同定とその機能解明を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.in vitroピロリ菌感染において発現上昇するmicroRNAとしてmiR-210を同定した

in vitroピロリ菌感染におけるmiRNAの網羅的発現解析の結果から、ピロリ菌感染で宿主胃上皮細胞のmiR-210が顕著に発現上昇することを突き止めた。さまざまなピロリ菌株をヒト胃上皮由来細胞株であるAGS細胞に感染させた場合あるいは、マウス胃上皮細胞に対するex vivoのピロリ菌感染においてもmiR-210の発現上昇がreal-time PCR法により認められた。ピロリ菌の感染依存的にHIF-1αのタンパク質量が増強され、miR-210のpromoterを活性化することが、western blot、luciferase assayの結果から示された。

2.miR-210はピロリ菌の慢性感染時にはDNAメチル化によるサイレンシングを受ける

スナネズミにピロリ菌を感染させ、感染初期段階の14日後と、慢性感染期の63日後でmiR-210の発現量をreal-time PCR法で定量化したところ、14日後では発現上昇していたのに対し、63日後ではmiR-210の発現の減少が観察された。この結果を確かめるために、ヒト臨床検体の胃上皮細胞におけるmiR-210の発現量を調べた。その結果、ピロリ菌に感染した胃では、感染していない胃上皮細胞と比較し、miR-210の発現が減少していることが示された。また、ピロリ菌に慢性感染している胃ではmiR-210のCpG islandが高度にメチル化されていることがMethylation specific PCR及びBisulfite sequencingにより示された。CpG islandのDNAメチル化がmiR-210の発現を負に制御していることが、in vitro DNA methyltransferaseによるmiR-210発現アッセイと、DNAメチル化阻害薬を用いた実験から示された。

3.miR-210は胃上皮細胞の増殖を制御している

miR-210を胃上皮由来細胞株に発現させると、細胞の増殖抑制が認められた。一方、miR-210の発現を抑制した細胞では増殖の亢進が確認された。事実、miR-210を強制発現させたMKN45細胞の細胞周期をDNA染色薬であるPropidium Iodideを用いて計測すると、G1期の細胞が増加し、細胞分裂が抑制されていることが示された。

4.miR-210はSTMN1、DIMT1L、METTL13を標的として細胞の増殖を制御している

マイクロアレイとバイオインフォマティクス、レポーターシステムを用いたシステマティックな遺伝子同定法により、miR-210の直接の標的として、NDUFA4、FGFRL1、RPL22、INPP5A、ERP27、STMN1、DIMT1L、METTL13、VAMP7、NFIC、PPP1R2、RAB27、C22orf9、FOXN3、H2AFY、EHD2、SH3BGRL、ATP11Aを同定した。さらに、胃上皮細胞の増殖を制御する遺伝子として、STMN1、DIMT1L、METTL13を特定した。miR-210の発現が低下しているピロリ菌保有者の胃上皮では、対照となるヒトの胃上皮と比較し、STMN1、DIMT1L、METTL13の発現量が増加していることが示された。

以上、本論文はピロリ菌の感染において、miR-210の発現制御機構と機能を明らかにした。本研究は、ピロリ菌慢性感染における発癌メカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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