学位論文要旨



No 127011
著者(漢字) 井上,秀之
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,ヒデユキ
標題(和) 統合失調症における臨床病期と対応したグルタミン酸関連代謝物濃度変化 : 前部帯状皮質における3テスラMRスペクトロスコピーを用いた研究
標題(洋)
報告番号 127011
報告番号 甲27011
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3621号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 斎藤,延人
 東京大学 准教授 郭,伸
 東京大学 准教授 金生,由紀子
 東京大学 教授 大友,邦
 東京大学 准教授 國松,聡
内容要旨 要旨を表示する

【序文】

統合失調症は世界の人口のおよそ100人にひとりが罹患する頻度の高い病気であり、多くは思春期に前駆期を経て発症(初発期)し、慢性期には社会機能低下が長く残存する。わが国だけでも患者数は79万人にのぼり、19万人が入院生活を余儀なくされている。発症してから治療開始までの未治療期間が長いほど予後不良であることが確認されており、早期介入が叫ばれている。MRIによる脳形態計測の進歩により、前駆期から初発期にかけての前頭・側頭皮質の進行性体積減少を認めることが明らかとなり、グルタミン酸神経伝達異常仮説との対応が想定されつつあるが、エビデンスは皆無に近い。

近年、統合失調症の前駆期など、精神病に移行しやすい群をアットリスク精神状態(at risk mental state:ARMS)と定義し、そのような症例に対する早期発見・早期治療の試みがなされている。ARMSは症候学的診断基準により横断的に診断可能であるが、発症率は30-40%とされる。そこで、比較的短期間に症状が顕在化する群の検出や統合失調症に特異的な前駆状態の診断に寄与するための生物学的指標の探索が求められている。

生体内におけるグルタミン酸などの代謝産物濃度を測定する方法として、MRSがあり統合失調症においても検討がなされてきた。統合失調症の慢性期ではNAA、グルタミン酸及びグルタミンの低下を認め、遺伝的ハイリスク群では弱まった形でそれらの低下がみられる一方で、未治療や初発期の統合失調症、さらには前駆期の患者群においてはグルタミン酸及びグルタミンの上昇が報告されている。しかし、同一の条件下で統合失調症の臨床病期別(前駆期・初発期・慢性期)のグルタミン酸関連代謝産物濃度の比較を行った報告はわれわれの知る限りない。

本研究においては、1H-MRSを用いてグルタミン酸関連代謝産物濃度を測定し、ARMS群、初発期統合失調症患者(FES)群、慢性期統合失調症患者(ChSz)群と健常対照(NC)群における比較を行い、統合失調症における臨床病期と対応したグルタミン酸関連代謝物濃度変化を検討した。

【方法】

本研究は、東京大学医学部の研究倫理審査委員会によって承認されている(受付番号397-1、2226-1)。全ての被験者は東京大学医学部附属病院にてリクルートを行った。検査前に東京大学医学部倫理審査委員会によって承認されている方法に従って十分な説明を行い、対象者全員から書面での同意を得た。16人のARMS群、14人のFES群、31人のChSz群、82人のNC群に対し、東京大学医学部附属病院にてMRIを撮像した。

ARMSの診断には前駆症状に対する構造化面接(SIPS)を用いた。これは、短期間の間歇的な精神病状態、微弱な陽性症状、遺伝的なリスクと機能低下を含んだ診断基準であり、欧米で最も広く用いられている精神病の前駆症状評価面接の一つである。われわれは、FES群を1)15-40歳、2)抗精神病薬の累積内服期間が16週未満、3)1ヶ月から60ヶ月の精神病症状[陽性陰性症状評価尺度(PANSS)の陽性症状スコア4点以上]、の全てを満たす患者と定義している。また、疾患群の全例に対しStructured Clinical Interview for DSM-IV Axis I Disorder (SCID-I)を用いた診断をおこなった。NC群に対しては、SCID Non-patient Editionを用いて、精神疾患の有無をスクリーニングした。精神症状は、PANSS、機能の全般性評価(GAF)を用いて評価した。また、社会経済評価尺度(SES)、利き手、日本語版NARTを用いた病前推定IQも計測した。

頭部MRIは、東京大学医学部附属病院放射線部にて、GE社製の3テスラMR機器を用いて撮像した。MRS測定のための関心領域の位置決めのためにT2強調画像[TR 4400 msec、TE 82.32 msec、スライス厚 2.5mm、撮像領域24cm x 24cm、マトリックスサイズ 256 x 256、フリップアングル90°]を撮像し、CSF補正に使用するセグメンテーション及び粗大な形態異常の確認のために、3DSPGR画像[TR 6.8msec、TE 1.936 msec、TI450msec、スライス厚 1mm、撮像領域24cm x 24cm、マトリックスサイズ 256 x 256、フリップアングル20°]を採用した。MRSはSTEAM法を用いて測定した[TR 3000 msec、TE 15 msec、加算回数136回、関心領域は前部帯状回(脳梁膝前部中央、20mm x 20mm x 20mm)に設置]。全てのスペクトラムは、LCModelを用いて定量化した。代謝産物ピークへのフィットが優れない、%SD20以上の代謝産物は、以下の解析からは除外した。関心領域に含まれるCSFの割合の補正を行った。

ARMS群、FES群、ChSz群、NC群の4群比較を行った。デモグラフィックデータは、カイ二乗検定にて性別を、1元配置分散分析にて年齢、本人及び両親のSES、利き手、IQを検定した。下位検定にはLSD検定を用いた。代謝産物濃度の群間比較には1変量分散分析(年齢、本人及び両親のSES、IQ、関心領域内の灰白質体積及び白質体積を共変量)を用いた。有意差を認めた場合には下位検定にてNC群との比較を行った。有意水準はp<0.05とした。統計解析はPASW Statistics 18.0.0を用いた。

有意な群間差のあった代謝産物濃度に関して、症状の重症度との関連を調べた。ここでは、代謝産物濃度との関連の強い指標を探索的に検討するため多重比較補正は行わず、5%水準とした。その他の臨床指標は、各対象群において各代謝産物濃度との関連を調べた。ボンフェロニ補正を行い有意水準はp<0.00029とした。

【結果】

検定の結果、グルタミン酸およびNAAに有意差を認めた(Glu:F=2.95、p=0.036、NAA:F=3.93、p=0.010)。下位検定の結果、ARMS群ではNC群と比較して有意にグルタミン酸が上昇しており(平均値の差=-1.08、p=0.022)、ChSz群ではグルタミン酸及びNAAが有意に低下していた(Glu:平均値の差=0.79、p=0.037、NAA:平均値の差=1.20、p < 0.001)。

グルタミン酸とNAAについて、各疾患群における症状の重症度と関連がないか検定した。その結果、ARMS群においてグルタミン酸とPANSSの陽性症状に正の相関を有意に認めた(Pearson r=0.56、p=0.025)。他のPANSSスコア及びGAFスコアは各疾患群において有意な相関は認めなかった(p > 0.16)。デモグラフィックデータと代謝産物濃度の相関では、ボンフェロニ補正後には有意水準に達するものはなかった。

【考察】

本研究は、その形態異常が発症のリスクマーカーとも考えられている前部帯状皮質のグルタミン酸が前駆期において上昇していること、その値が臨床症状の重症度を反映していることを、我々の知る限り初めて示した。また、前駆期を含む臨床病期と対応したグルタミン酸およびNAA濃度の変化(ARMS群:グルタミン酸の上昇、慢性期群:グルタミン酸及びNAAの低下)を同一条件下において初めて報告した。これらの結果は、横断研究という限界はあるが、統合失調症の臨床病期の進行に伴うグルタミン酸神経伝達のダイナミックな変化と対応している可能性がある。

統合失調症は、死後脳におけるグリオーシス所見の欠如などから、いわゆる神経変性疾患とは異なり、発病後には、脳病態の進行性変化は起こらないとされてきた。しかしながら、すでにKraepelinが100年前に統合失調症を「早発性痴呆:dementia praecox」として記述したように、臨床的には少なくとも一部の患者で認知機能レベルが通常の加齢よりも急速に進行することが知られており、さらには進行性脳体積減少が数多く報告され、現在、統合失調症は何らかの微細な器質性の障害が存在すると考えられている。本研究で認めたような、グルタミン酸の緩徐な過剰放出が、神経細胞死を伴わない組織学的異常を引き起こし、MRIで同定されている進行性の脳形態異常をもたらすのかもしれない。さらには慢性期に認めたNAAの減少は神経細胞のサイズ(軸索終末、スパインなど)の減少を反映している可能性がある。

本研究における結果は、縦断研究の結果や、グルタミン酸神経伝達を反映する他の神経生理学的指標、血液生化学的指標と組み合わせることにより、発症予測、病態進行のマーカー開発につながることが期待される。さらに、MRSによるグルタミン酸濃度計測は、創薬を目指したヒトと動物のトランスレーション研究における有用な中間表現型となる可能性がある。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、統合失調症の前駆期から初発期にかけての前頭・側頭皮質の進行性体積減少の要因として想定されつつあるグルタミン酸神経伝達異常を検討する目的で、3テスラMRSを用いて、統合失調症の臨床病期別に前部帯状皮質におけるグルタミン酸関連代謝産物濃度の計測を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. 1変量分散分析を用いて統合失調症の前駆期群・初発期群・慢性期群と健常対照群のグルタミン酸濃度の比較を行った結果、有意差を認めた(F= 2.95、p= 0.036)。下位検定の結果、前駆期群では健常対照群と比較して有意にグルタミン酸が上昇し(平均値の差=-1.08、p= 0.022)、慢性期群では有意に低下していた(平均値の差=0.79、p= 0.037)。

2. 1.と同様の1変量分散分析によるNAA濃度の比較を行った結果、有意差を認めた(F=3.93、p=0.010)。下位検定の結果、慢性期群では健常対照群と比較して有意にNAA濃度が低下していた(平均値の差=1.20、p< 0.001)。

3. 代謝産物濃度に群間差を認めたグルタミン酸及びNAA濃度について、各疾患群における症状の重症度と関連がないか検定した。その結果、前駆期群においてグルタミン酸とPANSSの陽性症状に正の相関を有意に認めた(Pearson r=0.56、p=0.025)。

4. VBM(voxel-based morphometry)を用いた脳体積の検討を追加で行った結果、両側前部帯状皮質、両側島皮質、両側視床、右前頭眼窩野、左上側頭回、左下前頭回を含む領域に統合失調診断の主効果を認めた(uncorrected P<0.001、peak coordinate at [x, y, z]:[2, 49, 0]、F[3, 127]=7.95、cluster size 20以上)。すなわち、先行研究を追試する形で統合失調症診断と関連した体積減少を関心領域を設置した前部帯状皮質を含むこれらの部位で示した。

以上、本論文は、その形態異常が発症のリスクマーカーとも考えられている前部帯状皮質のグルタミン酸が前駆期において上昇し、その値が臨床症状の重症度を反映していることを、我々の知る限り初めて示した。また、前駆期を含む臨床病期と対応したグルタミン酸およびNAA濃度の変化(ARMS群:グルタミン酸の上昇、慢性期群:グルタミン酸及びNAAの低下)を同一条件下において初めて報告した。これらの結果から、MRSによるグルタミン酸濃度計測が発症予測、病態進行のマーカー開発につながることが期待され、さらには、創薬を目指したヒトと動物のトランスレーション研究における有用な中間表現型となる可能性があり、学位の授与に値するものと考えられる。

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