学位論文要旨



No 127024
著者(漢字) 長島,優
著者(英字)
著者(カナ) ナガシマ,ユウ
標題(和) 位相コントラスト増強によるシングルビームCARS顕微分光法の開発と生物領域の研究への応用
標題(洋)
報告番号 127024
報告番号 甲27024
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3634号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 尾藤,晴彦
 東京大学 准教授 郭,伸
 東京大学 教授 廣瀬,謙造
 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 教授 五神,真
内容要旨 要旨を表示する

【背景】

CARS (coherent anti-Stokes Raman scattering)顕微分光法は、非染色下で分子特異性のある画像を得る技術として、一分子計測技術の標準である蛍光顕微鏡の弱点(低分子の標識ができない問題・蛍光色素褪色の問題・同時標識できる分子種の数が限られる問題)を克服できる可能性がある。

【目的】

第一の目的は蛍光顕微鏡の弱点を克服できる顕微鏡の開発である。分子特異的な振動スペクトルを分子の内因性標識として利用するCARS分光法はこれらの問題を解決できる。

第二の目的は、複雑な生体組織中の環境において、CARSスペクトルを用いて分子の存在判定を行うための戦略を考案し、そのための基盤技術を開発することである。

将来的には、神経変性疾患関連タンパク質封入体の観察、イオンや神経伝達物質の画像化による神経活動の可視化、水の移動の可視化などを行い、生理的な神経活動の研究や病気の原因解明のための研究に、CARS顕微鏡で得られる新しい知見を役立てることを目指す。

【方法】

位相コントラスト増強によるシングルビームCARS分光光学系を構築し、それを応用したCARS顕微鏡を開発した。本測定法は、非共鳴信号を参照信号として、相対的に強度の弱い共鳴CARS信号をヘテロダイン検出する。空間光変調器を用いた4f 干渉系に入射したフーリエ変換限界のフェムト秒パルスは、光源スペクトル帯域の短波長側で短冊型πシフト位相変調を受ける。このときCARS電場の非共鳴成分と共鳴成分は、短冊型位相変調の短波長側では建設的に、長波長側では破壊的に干渉しあう。その結果、なだらかな非共鳴信号のスペクトル上に、共鳴CARS由来の変調信号が比較的鋭い山と谷をもつ二相性の波形成分として重畳して観測される。このとき、この二相性波形が零点を横切る周波数がラマン振動準位に相当する。二相性波形の幅は短冊型位相変調の幅で決まるため、広帯域レーザーを用いた場合でも共鳴CARS 信号を高スペクトル分解能で選択的に計測できる。

本方法論に基づいた顕微鏡を実際に作製し、(将来の生体応用への第一歩として)イカ巨大軸索内でハロゲン化吸入麻酔薬の測定を行った。また生体組織における物質の空間分布のモデルとして複数の混合物スペクトルを測定し、Blind Source Separationによるスペクトルの線形分離を行った。

【結果】

測定系の性能評価

非共鳴信号を最小限に抑え、ハロゲン化有機化合物のCARSスペクトルを高スペクトル分解能で測定できた。パルス時間幅30fsのフェムト秒パルスを用い、約100-1000cm-1の波数領域のmultiplexな信号取得ができた。さらに測定信号の振幅が物質量と比例することを確認した。

低分子のCARSスペクトル

生理活性を示す低分子としてハロゲン化吸入麻酔薬(sevofluraneとisoflurane)をとりあげ、低波数領域のCARSスペクトルを測定、初めて報告した。量子化学的な分子振動解析から、低波数領域の振動モードに、生体組織中で稀なハロゲン原子が複数関わることが推定された。次にsevolfuraneを注入したイカ巨大軸索の観測を行い、発見した分子特異的スペクトル波形が、生体組織中で実際に検出できることを確認した。

混合スペクトルのBlind Source Separation

細胞質における物質の空間的濃度勾配のモデルとして、2~3種類の物質を様々な比率で混合した溶液を測定した。測定データに独立成分分析によるBlind Source Separationを適用し、事前情報が無い条件下で、混合物質数・混合比・純物質のラマンスペクトルの3つの情報を求めた。

【考察】

本測定法の特徴

本測定法は、広帯域単一パルスの帯域内で分子の振動励起を行うため、低波数側の振動モードほど励起しやすく、結果として共鳴CARS信号の測定がしやすい。また複数の振動モードの振動励起を同時に行うためmultiplexな信号取得が可能である。さらに本来測定の妨げになる非共鳴信号をヘテロダイン検出の局部発振器として利用するため、非共鳴信号による信号劣化を回避できる。

一般に低波数領域の振動モードは重たい原子や大きな官能基の関わる分子振動に相当し、相対的に分子特異性が高い。本測定法で測定した低波数領域のスペクトルは、分子の内因性標識として高い分子特異性を発揮することが期待できる。

また測定信号が物質量と比例するため、微量の分子種の検出に有利であると同時に、既存の顕微鏡画像deconvolution手法がそのまま適用可能である。

これらの特徴、即ち、

・非共鳴バックグラウンドの回避

・低波数領域の測定

・multiplexな測定

・物質量に比例する測定信号

の4点はいずれも、CARSスペクトルを用いて生体組織中で分子の存在判定を行う際に極めて有利に働く。これらの特徴は本測定法の原理とも密接に関わっており、本研究ではその由来を数値シミュレーションを交えて論じた。

低分子の標識としてのラマンスペクトル

低分子は生理的機能に影響を与えずに標識する方法が限られ、生体内の挙動や生理的機能を知るのが従来困難だった。ラマンスペクトルを分子の内因性標識として利用すれば、この問題を解決できる。

しかし現実の細胞は数万を越える分子種の混在した環境である。このような複雑な環境において、スペクトル特徴を手がかりに標的となる分子種の存在判定をする場合、非共鳴信号だけでなく、標的以外の分子からの共鳴CARS信号が、バックグラウンドとして測定の妨げになる。従って、十分な分子識別能を得るには、観測する共鳴CARS信号の分子特異性を高める工夫が必須である。このような工夫として本研究で重視したのは、低波数領域の測定とスペクトルのmultiplexな取得の2点である。

前述のように低波数領域のCARSスペクトルは分子の内因性標識として高い分子特異性を持つ。しかしたとえ低波数領域内であっても、測定対象が複数の分子種の混合溶液である場合、単一モード測定のみでは標的分子の存在判定は行えない。即ち、低波数領域での測定に加えて、スペクトルのmultiplexな取得が分子の識別に必須である。複数のラマンピークの周波数・強度情報を全て合わせたスペクトル波形全体を一つのsignatureとして扱えて初めて、振動スペクトル情報を分子の存在判定に有効活用できる。また生体組織中の計測ではそのようなsignatureの発見が有益である。

本研究では、標識困難な生理活性低分子の例としてハロゲン化吸入麻酔薬を測定した。観測した低波数領域の振動モードには生体組織中に稀なハロゲン原子が複数関わり、分子特異性の高い標識として機能することが期待された。また、スペクトル波形の特徴全体を一纏まりのsignatureとして扱うことで、測定CARSスペクトルは、低分子であるハロゲン化吸入麻酔薬の内因性標識として、他の分子の混在する環境でも分子特異性を発揮できると考えた。

以上の考察のもと、イカ巨大軸索中でのsevoflurane滴の測定を行った。sevofluraneの低波数領域のスペクトル波形は、イカ軸索質という複雑な環境でも、sevofluraneの存在を示す分子内因性標識として機能し、分子の存在判定に有効であることが実証できた。

混合物スペクトルの分離

上記のような分子特異的なsignatureがいつも見つかるとは限らない。生体組織中の全ての分子種について事前にラマンスペクトルを取得することも現実的でない。また、細胞局所に存在する分子種の数と濃度をあらかじめ知ることも容易ではない。たとえ特徴的なsignatureを持つ分子種でも、濃度が薄く、他の分子種由来のCARS信号に埋もれてしまう場合は、signatureの特徴を活かしきれない可能性もある。即ち、生体組織のような複雑で不確定情報の多い状況では、前述した特異的signatureの発見とは別の戦略が必要になることもある。

本研究では複数物質の混合溶液の複数の測定スペクトルに対し、独立成分分析によるBlind Source Separationを適用した。その結果、事前情報無しに混合物質数・混合比・各物質のスペクトルの3つの情報を推定できた。これは、事前に分子特異的なsignatureを知らなくても、複数の分子種が異なる比率で混合されていると想定される多点観測データがあれば、対象の物質組成についての情報を得られることを意味している。

上記のような線形分離問題を扱うには、複数の物質を同時に計測・識別するのに十分なだけの広いスペクトル帯域と高いスペクトル分解能が実現されていることに加え、測定信号の振幅の定量性と線形性が保たれていることが不可欠である。本測定法はこれらの要件を満たし、実際の生体観察でもCARS スペクトルが提供する分子特異性を最大限に引き出せる。

【結論】

位相コントラスト増強によるシングルビームCARS分光法を用いたCARS顕微鏡を開発した。これを生物学研究で活用するには、単に振動スペクトルの測定だけでなく、数万を超える分子種の混合溶液である細胞という系に対応できるアプリケーション戦略が必要である。本研究では(1)分子特異的signatureの発見、及び(2)系の事前情報が無い状況でのBlind Source Separationの二つの戦略をとりあげ、複数の分子種が混合した生体試料中でCARS顕微分光法の計測データから実際に分子の存在判定が行えることを示した。本測定法はこれらの戦略の実現のための必要条件を備えており、生物学的応用に最適な測定系である。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、非染色下で分子特異性のある生体画像を得る技術として有望視されているCARS(coherent anti-Stokes Raman scattering)顕微分光法を、医学・生物学研究に活用するための方法論の提案を行うことを試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. 複数の物質が混在する生体組織中の環境において、CARSスペクトルを用いて分子の存在判定を行うためには、「(1)非共鳴バックグラウンドの回避」、「(2)低波数領域での測定」、「(3)multiplexな信号取得」、「(4)物質量に比例する測定信号」の4つの必須条件を満たした測定を行う必要があると考えた。これらの条件を満たす実験系として、本研究では「位相コントラスト増強によるシングルビームCARS顕微分光法」を開発し、光学系を実装した。

2. 本測定法が生体組織の観測において有利な上記の4条件を備えている理由は、光源パルスの位相変調に同期した共鳴CARS信号の電場変化を、相対的に強度の大きな非共鳴CARS信号を参照信号としてヘテロダイン検出するという測定原理に密接に関連している。測定原理について数値シミュレーションを交えた考察を行い、上記4条件が達成される様子を理論的に考察し、確認した。

3. 上記の測定系を用いて、CARSスペクトルが既に知られているハロゲン化有機物の測定を行い、本研究で開発した方法論が上記の4条件を備えていることを実際に確認した。

4. 本測定系を用いて生体組織中の分子の存在判定を行い、生物学的研究に供するためのアプリケーション戦略として、「(i). 分子特異的signatureの発見」、「(ii). 系の事前情報が無い状況でのBlind Source Separation」の二つの方法論を提案した。また、下記に示すようにそれぞれの戦略が実際にworkすることを実証した。

5. 第一の戦略「(i). 分子特異的signatureの発見」の例として、生理活性を示す低分子であるハロゲン化吸入麻酔薬(sevofluraneとisoflurane)をとりあげ、その低波数領域のCARSスペクトルを測定、初めて報告した。これらの分子は分子量が小さく、従来蛍光標識が困難であった。観測できた低波数領域の振動モードには、生体組織では比較的まれなハロゲン原子が複数関わっており、高い分子特異性を持つ標識として機能することが期待された。さらにsevofluraneのスペクトル波形の特徴が、イカ巨大軸索の軸索質という生体試料中でも、sevofluraneの存在を示す分子内因性標識として機能することを実証した。

6. 第二の戦略「(ii). 複数の分子種が混合している状況でのBlind Source Separation」の例として、2種類あるいは3種類の物質の混合溶液の複数の測定スペクトルから、独立成分分析によるBlind Source Separationを用いて、事前の情報無しに混合物質数・混合比率・各物質のスペクトルの3者の情報が推定できることを示した。

以上、本論文はCARS顕微分光法を用いて生体組織中の分子の存在判定を行うための方法論を提案し、それを実現する測定系の開発を行った。また提案した方法論が実際に有効であることを実証する実験を行った。CARS顕微分光法は、非染色下で分子特異性のある生体画像を得る技術として有望視されているが、現実的に医学・生物学的研究で活用されるには至っていなかった。本研究は、今後CARS顕微分光法を医学・生物学的研究に本格活用していく上で重要なmilestoneとなる提案であり、学位の授与に値するものと考えられる。

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