学位論文要旨



No 127035
著者(漢字) 河原崎,和歌子
著者(英字)
著者(カナ) カワラザキ,ワカコ
標題(和) 腎障害におけるRac1-ミネラロコルチコイド受容体系の役割についての検討
標題(洋)
報告番号 127035
報告番号 甲27035
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3645号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 特任准教授 山内,敏正
 東京大学 准教授 野入,英世
 東京大学 特任准教授 安東,克之
 東京大学 准教授 久米,春喜
内容要旨 要旨を表示する

本研究では遺伝子改変により先天的にレニン・アンジオテンシン・アルドステロン系(RAAS)が亢進したツクバ高血圧マウスにおいて、食塩負荷によりリガンド非依存性にRac1-ミネラロコルチコイド受容体(MR)系が活性化し、腎障害発症に関わることを示し、Rac1制御が食塩感受性腎障害の治療に有効であることを示した。RAAS亢進モデルにおける食塩感受性腎障害でRac1-MR系活性化が腎障害発症に関与することや、Rac1の活性化因子としての食塩の同定は新しい知見であり、本研究が、慢性腎臓病の新たな治療戦略としてRac阻害薬の臨床応用を実現する上で有用と思われここに報告する。

まず、実験1において、RAASの亢進のない野生型C57群とRAAS亢進下であるが厳格な減塩下にあるLS群、RAAS亢進と過剰食塩の併存するHS群を設定したところ、C57群に対し、THMのLS群では高血圧や腎障害が出現しなかった。一方、THMに食塩を負荷すると、驚くことに、高血圧とともに、著明な腎障害を生じた。また、MRの下流または関連遺伝子発現も、厳格な減塩下では変化しないが、食塩負荷により有意に上昇しており、本モデルにおいては、食塩感受性に高血圧と腎障害を呈し、食塩は腎障害促進因子であること、食塩過剰下の腎組織ではMR活性が亢進し、腎障害発症に関与している可能性が示唆された。しかし、このときの血漿アルドステロン濃度(PAC)を見てみると、LS群では有意に上昇していたが、HS群ではLS群に比し減少していたことから、本モデルの食塩感受性腎障害において、アルドステロン非依存性機序が腎障害形成の病態に関与している可能性が示唆された。

このように、アルドステロンが低値にもかかわらず、MR活性が亢進し、食塩感受性腎障害を生じることは、他のモデルでも経験されており、本モデルにおいても、MR活性亢進にアルドステロン以外のリガンドまたは、リガンド以外の因子の関与が想定された。リガンド以外のMR活性化因子としては、酸化ストレスなどが推測されていたが、我々は低分子量G蛋白質Rac1がリガンド非依存性にMRの活性化を介して腎障害を惹起することを報告してきた。しかし、Rac1-MR系活性化による腎障害の存在が判明するも、Rac1が生体内のどのような環境や刺激にて活性化するかは不明であった。本モデルの食塩負荷群における腎障害はアルドステロン非依存性に生じており、同時に、減塩下では認めないが、高食塩負荷で、腎組織におけるRac1とMRの活性亢進を認めたことから、アルドステロンが低値の状況でも、食塩負荷が引き金となりRac1-MR系の活性化を介した腎障害が惹起されていることが想定された。そこで実際に食塩負荷により腎障害を生じている時の腎組織において、Rac1活性とMR活性を測定してみると、両者が共に亢進していた。

このように、本モデルの食塩感受性腎障害発症にRac1-MR系亢進が関わり、それに食塩の存在が必須であることは新しい知見であると考えられたが、実際に治療への臨床応用できる可能性としては、食塩負荷時のRac1やMR活性の制御が、生体内で腎障害を抑制しうるかを、Rac1及びMR阻害薬投与により確認する必要があると考え、実験2を行った。

実験2においては、野生型C57群と食塩感受性腎障害モデルであるTHMを厳格な減塩下おいたLS群、食塩過剰下においたHS群、食塩過剰下に選択的MR拮抗薬エプレレノンにて介入したEpl群およびRac1阻害薬EHT1864投与にて介入したEHT群を設定した。C57やLS群に比し、HS群では有意な血圧の上昇、著明なアルブミン尿、糸球体硬化や尿中蛋白円柱形成、尿細管間質障害を呈したが、Epl群は軽度血圧が低下し、有意に腎障害を抑制した。EHT群も軽度血圧が低下したが、Epl群と同等以上の腎障害抑制作用を示した。また、糸球体濾過装置の蛋白漏出防御機構を糸球体内皮細胞や基底膜とともに構成する糸球体上皮細胞の障害は蛋白尿の重要な原因とされているが、足細胞を電子顕微鏡下で観察した所見では、LS群では足細胞障害をほぼ認めなかったのに比し、HS群では明らかな障害が存在し、これらはEpl群や、EHT群では著明に改善していた。足細胞機能はRAASをはじめとする血管作動性物質や機械的刺激、酸化ストレス、核内リガンドなどに調整されており、我々の研究室でも、アルドステロンが足細胞のMRを介して酸化ストレスを惹起し、足細胞障害に関与することを報告してきた。本研究でもMR拮抗薬及びRac1阻害薬投与により足細胞保護作用があること示された。次に、MRの下流遺伝子であり、MRの活性化を表現するとされるPAI-1やCTGFの発現はHS群で有意に亢進していたが、EplやEHT投与で抑制されていた。これらのことより、本モデルの食塩感受性腎障害においては、食塩負荷が引き金となり、Rac1-MR系が亢進し、腎障害に関与していることが示唆された。また、本モデルでは、T細胞やマクロファージの活性化も食塩存在下で増強、MR拮抗薬やRac阻害薬にて改善したことより、炎症細胞の浸潤も食塩存在下ではRac1-MR系の亢進に伴って出現しており、腎障害形成に関与している可能性が考えられた。

一般的にRac1を活性化する刺激因子については、cAMP, cGMP, superoxide, stretch, Vascular endothelial growth factor (VEGF)などが報告されている。Rho ファミリーsmall GTPaseにはRac1のほかRhoA、Cdc42などがあり、時間・空間依存的に細胞骨格すなわち細胞形態の制御に関わっている。RhoファミリーGTPase間で各々が互いにどのように統制し合うかに関しては刺激により異なり、多彩な機能保持につながっていると考えられる。

本例のTHMにおいては、食塩存在下でRac1が活性化しているわけであるが、このモデルにおいてRac1を活性化しうる因子について考察してみると、食塩以外にも、体液増加による血管壁伸展、血管内皮透過性の変化、レドックス状態によるROS供給の変化、RAAS亢進による恒常的AngII刺激の存在等が考えられる。そして、実際にはGTP結合型の活性型Rac1とGDP結合型の不活性型Rac1のスイッチングを統制しているGEFやGAP、GDIの活性を、これらの刺激が、単独で、あるいは複合的に調整していると思われる。つまり、Rac1制御の手段としては、Rac1活性化因子の制御以外に、GEFやGAPの制御が考えられる。例えば、Rac1の活性化に特異的なGEFであるTiam1はRac1の活性化を介して、膵β細胞のグルコース刺激依存性インスリン分泌に関わっており、Tiam1特異的阻害薬の投与により、インスリン分泌が阻害される。実際、Rho ファミリーGEFの異常は、発生異常やがん、神経疾患などに関わることが知られ、生体での役割は重要と考えられている。多数知られるGEFやGAPの中から、食塩負荷時に活性化しているものを同定できれば、食塩感受性腎障害の新治療につながるかも知れない。

また、本モデルのTHM食塩負荷群における腎障害はMR拮抗薬やRac阻害薬では完全に抑制できないことより、THMへの食塩負荷によるRac1-MR系の活性化以外に、AngII、食塩, 高血圧による直接的な腎障害惹起の可能性があることについて触れておきたい。なお、過剰な循環血中のAngIIがどれだけ腎障害に関与しているかについては、THMの食塩負荷群に副腎摘出を行い、その腎障害や腎組織MR活性がどの程度の影響を受けるかを検討する必要があり、今後の課題としたい。

ところで、なぜ非リガンド依存性のMR活性化機構は存在するのであろうか。その存在意義について考えてみると、厳しい生物の進化過程が想像される。RAAS系がなくとも塩分や体液環境の調整が容易であった水中生活から、塩分がなく乾燥の取り巻く陸上生活に移行する上で、RAASの発達とアルドステロン-MRの存在は不可欠であっただろう。RAAS系が未発達な生物にが、そのような環境を生き抜いて進化していく過程で、塩分が存在すればリガンドがなくともMRが活性化し、塩分と体液の保持に働く機構は大いに有用であったのかもしれない。本来は体液保持のために発達したRAAS、アルドステロン-MR系のように、Rac1-MR系においても食物による塩分摂取が容易になった現代では、塩分という重要なシグナルに対する感受性は、過剰なMR活性化と腎障害の発症という期待外の結果として表れてしまうのかもしれない。

以上、本研究では、先天的にRAASが亢進した食塩感受性腎障害モデルマウスであるTHMでは、食塩負荷により、リガンド非依存性にRac1-MR系が活性化し、腎障害発症に関与することが示された。また、本モデルではRac1の活性化には食塩の存在が必要であることを示した。THMへの食塩負荷による腎障害には、Rac1-MR系の活性化以外に、AngII、食塩, 高血圧による直接的な影響の可能性について検討の必要があるが、RAAS亢進モデルにおける食塩感受性腎障害でRac1-MR系活性化が腎障害発症に関与することは報告されておらず、また、Rac1の活性化因子として食塩を同定したことは、Rac1-MR系の制御戦略に有用であり、かつ新規性の高いものとしてここに報告した。

また、RAAS亢進下の食塩感受性腎障害モデルにおいて実際にRac阻害薬が腎保護に有効であることを示し、生体反応のスイッチングを担う低分子量G蛋白質とその調節因子を治療のターゲットとする新しい視点を食塩感受性腎障害の治療に提示した。今後、未知のRac1の活性化因子を始め、その活性化機構をより明らかにすることが、Rac1阻害薬が有用な病態を解明し、臨床応用を実現するうえで必要と思われ、慢性腎臓病の新たな治療戦略のひとつとして、今後の課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

本研究では慢性腎臓病の発症に深く関与していると考えられているレニン・アンジオテンシン・アルドステロン系(RAAS)及びミネラロコルチコイド受容体(MR)に注目し、特に食塩感受性腎障害の発症機序において、Rac1-MR系の役割を解明すべく、遺伝子改変によりレニン・アンジオテンシン・アルドステロン系(RAAS)を亢進させたツクバ高血圧マウス(THM)に食塩負荷を行い、腎障害を惹起する系を用いて、下記の結果を得た。

1.RAA系亢進モデルであるTHMにおいては、野生型のC57に比し、食塩過剰摂取により高血圧、著明な腎障害が惹起され、MRの活性化が示唆されたが、厳格な減塩状態では若干の腎組織障害を認めることを除いては、C57と同程度まで抑制されており、Rac1やMRの活性化も認めなかった。

2. THMでは、食塩負荷により著明な腎障害やMRの活性化を認めた一方で、血漿アルドステロン濃度は低下しており、アルドステロン非依存性機序が腎障害の病態に関与している可能性が示唆された。この時、腎臓ではRac1が活性化すると同時に、MRが活性化し、腎障害発症に関わることが示唆された。

3. THMにおいては食塩の存在がRac1の活性化に必要であることを新規に示し、食塩負荷が、Rac1活性化を介してアルドステロン非依存性にMR活性化を生じ、腎障害発症に関わる可能性が示唆された。

4. THMに食塩を負荷することにより生じた腎障害やMR活性亢進は、MR拮抗薬やRac阻害薬の投与により有意に抑制されたことより、腎組織におけるRac1活性化やMR活性化が腎障害に実際に関わっていることが示唆された。

5.本モデルのTHM食塩負荷群における腎障害はMR拮抗薬やRac阻害薬では完全に抑制できないことより、THMへの食塩負荷によるRac1-MR系の活性化以外に、AngII、食塩, 高血圧による直接的な腎障害惹起の可能性がある。

以上、本論文は、RAASが亢進したTHMの食塩感受性腎障害発症機序に、リガンド非依存性のRac1-ミネラロコルチコイド受容体(MR)系の活性化が関わり、Rac1制御が食塩感受性腎障害の治療に有効であることを示した。Rac1の活性化因子としての食塩の同定は新しい知見であり、本研究が、慢性腎臓病の新たな治療戦略としてRac阻害薬の臨床応用を実現する上で有用と思われ、学位の授与に値するものと考えられる。

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