学位論文要旨



No 127122
著者(漢字) 井上,彰臣
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,アキオミ
標題(和) 企業における組織の公正性と心理的ストレス反応との関連 : 前向きコホート研究
標題(洋) Organizational justice and psychological distress among Japanese employees: findings from a prospective cohort study
報告番号 127122
報告番号 甲27122
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3732号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 笠井,清登
 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 特任講師 長瀬,敬
内容要旨 要旨を表示する

(1) 緒言

近年、職場組織が従業員を公正に扱っているかどうかに着目した、組織の公正性(組織的公正)が、従業員の健康に影響を及ぼす心理社会的要因として注目されており、ヨーロッパ諸国では、多くの前向きコホート研究によって、組織的公正と健康影響との関連が調べられている。

組織的公正は、(1)分配的公正(職場組織における意思決定の結果に関する公正性)、(2)手続き的公正(職場組織における意思決定のプロセスや手続きに関する公正性)、および、対人的公正(上司の部下に対する接し方に関する公正性)の3つの構成要素からなる。これらのうち、分配的公正は、手続き的公正と対人的公正によって生み出されること、また、古典的な職業性ストレスモデルの1つである、努力-報酬不均衡モデルとほぼ同義であることから、産業保健研究では、主に、手続き的公正と対人的公正に着目して、健康影響との関連が調べられている。

これまでに、ヨーロッパ諸国では、多くの前向きコホート研究によって、組織的公正(手続き的公正、および、対人的公正)が損なわれた状態が、(医師の診断による)うつ病や、(自己記入式調査票による)心理的ストレス反応をはじめとする、各種メンタルヘルス指標に影響を及ぼすことが明らかになっているが、日本においては、これらの関連は、横断研究による検討にとどまっており、因果関係を推定するには限界がある。

また近年では、産業保健において取り組むべき課題として、不安定雇用問題が挙げられており、これまでの研究で、非正規社員は正規社員に比べ、抑うつ気分や心理的ストレスをより多く経験し、同時に、職の不安定さをより強く感じていることが明らかになっている。また、疫学研究と実験研究によって、職の不安定さを強く感じている人や、不安定な状況下に置かれている人は、組織的公正に対する、心理的・行動的反応が強いことが明らかになっている。これらの先行研究の知見から、非正規社員は正規社員に比べ、組織的公正が損なわれた状態に対し、より強く心理的ストレスを感じる可能性が考えられるが、雇用形態に着目し、組織的公正と従業員のメンタルヘルスとの関連を調べた疫学研究は行われていない。

以上のような先行研究の限界点を踏まえ、本研究では、前向きコホート研究によって、企業における組織的公正と心理的ストレス反応との関連を、雇用形態別(正規社員、非正規社員別)に検討することを目的とした。

(2) 方法

製造企業の5つの支社に勤務するホワイトカラー従業員1,017名(男性373名、女性644名)を対象に、1年間の前向きコホート研究を実施した。ベースライン時(2009年8月)に、組織的公正(組織的公正尺度日本語版)、心理的ストレス反応(K6日本語版)、神経症傾向(改訂版アイゼンク性格特性検査日本語版)、その他の職業性ストレス要因(仕事の要求度、仕事のコントロール、上司・同僚の支援、努力-報酬不均衡)(Job Content Questionnaire日本語版、および、努力-報酬不均衡モデル調査票日本語版)、人口統計学的指標に関する変数を、1年後のフォローアップ時(2010年8月)に、心理的ストレス反応(K6日本語版)、および、過去1年以内のライフイベントの有無に関する変数を自己記入式調査票で取得した。雇用形態の情報は、企業の人事データから取得した。ベースライン時の手続き的公正得点、または、対人的公正得点の三分位点で対象者を3群に分け、男女×雇用形態別に多重ロジスティック回帰分析を実施し、高群に対する、中群、低群の1年後の心理的ストレス反応(K6得点が5点以上と定義)のオッズ比を算出した。また、手続き的公正、対人的公正と心理的ストレス反応との間に、直線的な用量-反応関係があるかを検討するために、傾向性検定を実施し、正規社員と非正規社員との間で、これらの関連の強さに差があるかを検討するために、「手続き的公正×雇用形態」および「対人的公正×雇用形態」の交互作用項の有意確率を算出した。更に、追加の解析として、ベースライン時に心理的ストレス反応のなかった者(K6得点が4点以下の者)のみを対象として、これらの一連の解析を実施した。有意水準は両側5%とした。

(3) 結果

女性の非正規社員において、手続き的公正、および、対人的公正(が損なわれた状態)と1年後の心理的ストレス反応との間に有意な関連が認められた。この関連は、基本属性、ベースライン時の心理的ストレス反応、神経症傾向を調整後も有意であった。とくに手続き的公正については、追加でその他の職業性ストレス要因(仕事の要求度、仕事のコントロール、上司・同僚の支援、努力-報酬不均衡)を調整後も、有意な関連が認められた。また、ベースライン時に心理的ストレス反応のなかった者のみを対象とした場合、手続き的公正については、有意な関連が認められたが、対人的公正については、有意な関連は認められなかった。

一方、女性の正規社員においては、前述の共変量で調整後、手続き的公正、対人的公正と1年後の心理的ストレス反応との間に有意な関連は認められず、その関連は、女性の非正規社員に比べ弱かった。また、ベースライン時に心理的ストレス反応のなかった者のみを対象とした場合も、有意な関連は認められなかった。

男性の正規社員においても、前述の共変量で調整後、手続き的公正、対人的公正と1年後の心理的ストレス反応との間に有意な関連は認められず、ベースライン時に心理的ストレス反応のなかった者のみを対象とした場合も、同様であった。尚、男性の正規社員と女性の正規社員を比較した場合、女性の方が男性に比べ、手続き的公正と1年後の心理的ストレス反応との関連が若干強かった。男性の非正規社員については、対象者数が極めて少数(8名)のため、解析不能であった。

(4) 考察

女性の非正規社員において、手続き的公正、および、対人的公正(が損なわれた状態)と、1年後の心理的ストレス反応が有意に関連しており、その関連は女性の正規社員に比べ強かった。この結果は、職の不安定さを強く感じている人ほど、組織的公正とストレス反応との関連が強いとする疫学研究・実験研究と一致していた。身分が不安定な非正規社員にとって、職場組織における公正で透明な意思決定スタイルや、上司の公正な態度は、精神健康を高めるのに有益である可能性がある。今後、男性においても同様の傾向が見られるかを検討する必要がある。尚、女性の非正規社員において、ベースライン時に心理的ストレス反応のなかった者のみを対象とした場合、手続き的公正については、有意な関連が認められたが、対人的公正については、有意な関連は認められなかった。対人的公正は、上司の公正な態度に着目しているため、職場組織の意思決定に着目した手続き的公正に比べ、より日常的で、短期的に心理的ストレスに影響する可能性があり、対人的公正が損なわれていると感じていた人の多くは、ベースライン時に既に心理的ストレスを感じており、解析対象から除外された可能性がある。

男性の正規社員においては、手続き的公正、対人的公正と1年後の心理的ストレス反応は、有意に関連していなかったものの、関連する傾向は認められ、これらの傾向は国内外の先行研究と一致していた。また、男性の正規社員と女性の正規社員を比較した場合、女性の方が男性に比べ、手続き的公正と1年後の心理的ストレス反応との関連が若干強かった。女性は、たとえ正規社員でも、補助的な業務を任される傾向があり、職場組織の意思決定への参加機会が少なく、手続きの公正性に対し、より敏感に反応した可能性がある。

女性の非正規社員において、追加でその他の職業性ストレス要因(仕事の要求度、仕事のコントロール、上司・同僚の支援、努力-報酬不均衡)を調整後、手続き的公正と1年後の心理的ストレス反応との関連は弱まったものの、なお有意に関連し、これらの関連は、ベースライン時に心理的ストレス反応のなかった者のみを対象とした場合も同様であった。一方、対人的公正は有意な関連が認められなかった。手続き的公正は、対人的公正に比べ、組織の公正性をより幅広く捉えており、その要素の多くは、その他の職業性ストレス要因を媒介せず、より直接的に心理的ストレス反応に影響した可能性、あるいは、役割の曖昧さや、職場での心理的嫌がらせなど、本研究では調査しなかった職業性ストレス要因を媒介して、心理的ストレス反応に影響した可能性がある。

(5) 結論

女性の非正規社員において、手続き的公正が損なわれた状態は、その後の心理的ストレス反応を高める要因となる可能性がある。今後、多様な属性別にこれらの関連を検討していく必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、近年、従業員の健康に影響を及ぼす心理社会的要因として注目されている、企業における組織の公正性(組織的公正)と心理的ストレス反応との関連を、雇用形態別(正規社員、非正規社員別)に検討することを目的に、製造企業の5つの支社に勤務するホワイトカラー従業員1,017名(男性373名、女性644名)を対象とした1年間の前向きコホート研究を実施し、下記の結果を得た。

1. 女性の非正規社員において、手続き的公正(職場組織における意思決定のプロセスや手続きに関する公正性)が損なわれた状態と1年後の心理的ストレス反応との間に有意な関連が認められた。この関連は、ベースライン時に心理的ストレス反応のなかった者のみを対象とした場合も有意であった。

2. 女性の非正規社員において、対人的公正(上司の部下に対する接し方に関する公正性)が損なわれた状態と1年後の心理的ストレス反応との間に有意な関連が認められた。しかし、ベースライン時に心理的ストレス反応のなかった者のみを対象とした場合は、有意な関連は認められなかった。

3. 女性の正規社員において、手続き的公正、対人的公正と1年後の心理的ストレス反応との間に有意な関連は認められず、その関連は、女性の非正規社員に比べ弱かった。

4. 男性の正規社員において、手続き的公正、対人的公正と1年後の心理的ストレス反応との間に有意な関連は認められなかった。男性の非正規社員は、対象者数が極めて少数のため、解析不能であり、更なる検討が必要と考えられた。

以上、本論文は、企業における組織的公正(手続き的公正および対人的公正)と従業員の心理的ストレス反応との関連を雇用形態別に検討した初めての疫学研究であり、女性従業員において、これらの関連の強さは、雇用形態によって差があることを明らかにした点で独創的である。とくに女性の非正規社員にとって、手続き的公正が損なわれた状態は、その後の心理的ストレス反応を高める予測因子となる可能性が示唆された。雇用形態の多様化に伴い、不安定雇用問題が深刻化している昨今において、本研究は、女性のみの知見という限界はあるものの、職場組織における公正で透明な意思決定システムの構築は、とくに非正規社員の心の健康の保持増進に有用である可能性を示唆した点で実践的な有用性も兼ね備えており、学位の授与に値するものと考えられる。

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