学位論文要旨



No 127131
著者(漢字) 坂井,千香
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,チカ
標題(和) ヒト ミトコンドリア呼吸鎖複合体IIフラボプロテインサブユニットアイソフォームの機能解析
標題(洋)
報告番号 127131
報告番号 甲27131
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3741号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 栗原,裕基
 東京大学 准教授 馬淵,昭彦
 東京大学 准教授 田中,輝幸
 東京大学 教授 門脇,孝
 東京大学 教授 山岨,達也
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

(1) 複合体 II

ミトコンドリアの呼吸鎖複合体 II (コハク酸-ユビキノン酸化還元酵素:SQR)はTCA回路中唯一の膜局在性酵素で、エネルギー代謝や低酸素適応に関与する非常に重要な酵素である。複合体IIは一般に4つのサブユニットからなり、フラボプロテイン (flavo protein : Fp)サブユニットと鉄硫黄タンパク質 (iron-sulfur protein : Ip)サブユニットは比較的親水性の触媒部位を形成しマトリックス側に突出している。そして二つの疎水性のシトクロムbサブユニット (Cyb L、Cyb S)が膜アンカーとしてFp、Ipサブユニットを結合している。

ヒト複合体 IIの4つのサブユニットのうちIp及び膜アンカーにおける変異は褐色細胞腫や傍神経細胞腫等の腫瘍形成に関連するという事実が数多く報告されており、これらのサブユニットはがん抑制遺伝子として機能していると考えられている。それらの変異は複合体IIの活性低下をもたらし、さらに基質であるコハク酸が蓄積するとHypoxia inducible factor-1α (HIF-1α)を介した低酸素応答を引き起こし、腫瘍形成に関連していることが示唆されている。また、腫瘍形成には変異をもつ複合体IIから発生する活性酸素種の関与も示唆されている。さらにコハク酸が複合体IとIIの相互作用を促し活性酸素種の発生に寄与しているという報告もある。一方、Fpの変異による腫瘍形成は報告されていないが、後述する様にヒトFpには二種類のタイプが存在するため変異が直接腫瘍形成に結びつかないと考えられる。一方Fpに変異が生じると心筋症、神経、臓器障害、代謝異常などの様々な症状が引き起こされる。またミトコンドリア病の一つであるLeigh症候群が報告されており、筋肉や脳に障害をもたらすことも知られている。さらに最近では複合体IIのアッセンブリーに関与するタンパク質が同定され、SDHAF1とSDHAF2 (SDH5)と命名された。SDHAF1はIpサブユニットに作用して複合体 IIのアッセンブリー及び安定化に関わると考えられており、変異が生じると複合体IIが減少し、乳児性の白質脳症を引き起こすことが報告されている。また、SDHAF2については、FpへのFADの挿入に関与すると考えられており、変異が生じると複合体IIが減少し、褐色細胞腫や傍神経細胞腫等を引き起こすことが判っている。

このように種々の変異により腫瘍や様々な疾患を引き起こす複合体 IIは多様な機能を有することが予想され、実際に複合体 IIが複数の機能をもつという報告がなされている。寄生性線虫である回虫Ascaris suumは複合体 IIの4つのサブユニットのうちFp、Cyb Sにアイソフォームを持ち、それぞれのアイソフォームから構成される複合体IIの機能は異なっている。発生に酸素を必要とする幼虫期には哺乳類と同じ好気代謝においてコハク酸からフマル酸への酸化を触媒するタイプの複合体IIを発現している一方、低酸素の宿主小腸内で生息する成虫では嫌気代謝を支えるフマル酸呼吸において逆反応を触媒するフマル酸還元を行う複合体IIを発現している。また、ヒトにおいても低酸素に適応するため、嫌気代謝として複合体IIがフマル酸からコハク酸への還元反応を触媒する可能性が示唆されてきた。そして最近、低酸素の腫瘍細胞において実際に複合体IIがフマル酸還元を行うことが明らかになった。さらに膵臓がんなどの一部の固形がんでは血流が乏しいために酸素及びグルコースの供給が不十分となっており、そのような低栄養の条件下で複合体IIがフマル酸還元を行うとコハク酸の蓄積が起こることが示されている。

(2) ヒト複合体II Fpアイソフォーム

2003年、冨塚らはヒトの複合体IIのFpサブユニットにおいてアイソフォームが存在することを明らかにした。二つのアイソフォームは6塩基、2アミノ酸が異なっていた (図)。Type I Fp遺伝子は染色体5p15に位置する一方、Type II Fp遺伝子の染色体上の位置は明らかではない。Fpアイソフォームの臓器における発現は、肝臓、心臓、骨格筋、脳、腎臓全てにおいてType I Fpの発現量がType II Fpより高いことが報告されている。培養細胞においても繊維芽細胞 (Fibroblast)、筋芽細胞 (Myoblast)、大腸由来腺がん細胞 (HT-29)、肺がん細胞 (A549)、ヒト臍帯静脈内皮細胞 (HUV-EC-C)など多くの細胞において同様の傾向が見られる一方で、大腸由来腺がん細胞 (DLD-1)、乳腺がん細胞 (MCF-7)、悪性リンパ腫由来細胞 (Raji)などのType II Fpの発現が優勢である腫瘍細胞の存在が明らかになっている。

3. 目的と方法

本研究の目的はなぜ二つのFpアイソフォームが存在するのかを明らかにすることである。臓器及び多くの培養細胞にType I Fpの優勢な発現がみられ、またアミノ酸配列の比較からType I Fpが多くの哺乳類に共通であることから、Type I Fpの発現が本来の複合体IIの機能に必須であることが考えられる。一方で腫瘍細胞において優勢に発現しているType II Fpは腫瘍などのように細胞増殖が盛んな組織に特徴的な低酸素や栄養飢餓などの環境やそのような組織特異的な代謝に関与している可能性が考えられる。そこで腫瘍とType II Fpの関連をより詳しく調べるためにがんの組織などをはじめとする組織や培養細胞におけるアイソフォームの発現比率を解析した。また、現在までにこれらのアイソフォームについての生化学的な解析はほとんど行われておらず、酵素学的な違いについては明らかではなかった。そこで、本研究ではアイソフォームの生化学的な特徴を明らかにすることにした。それぞれのアイソフォームを個別に解析するためには、完全に片方のアイソフォームのみを発現した細胞株を用いる必要があったが、現在そのような発現の細胞株は見つかっていない。そこで修士課程において作製した一方のアイソフォームを発現抑制の標的としたsiRNA安定発現細胞 (RNAi細胞)を解析に用いることにした。それぞれのアイソフォームを標的としたRNAi細胞からミトコンドリアを調製し、各アイソフォームから構成される複合体IIの酵素タンパク質としての解析を行った。

4. 結果と考察

ヒトの組織、及び培養細胞におけるアイソフォームの発現比率を調べた結果から、正常の組織や細胞ではType I Fpが優勢に発現しており、がんの組織やがん培養細胞、胎児の組織ではType II Fpが優勢に発現しているものがあるということが判った。よってType II Fpはがん組織や胎児の代謝に関与している可能性があると考えられる。

RNAi細胞の解析の結果、二つのアイソフォームから構成される複合体IIは同程度のSQR活性を有している事が判った。しかし、ミトコンドリアマトリックスの生理的pHとして知られるpH 8.0ではType I Fp、Type II Fpから構成される複合体IIのコハク酸に対するKmはそれぞれ0. 21±0.08mM、0. 75±0.14mMであり、Type I Fpの方がコハク酸に対する親和性が約3.6倍高いことが判った。さらに、至適pHはType I Fp、Type II FpでそれぞれpH 8.0、7.5であった。Type II Fpの至適pHであるpH7.5ではType I Fp、Type II Fpから構成される複合体IIのコハク酸に対するKmはそれぞれpH 8.0とは逆に0. 86±0.09mM、0. 23±0.07mMでありType II Fpの方の親和性が約3.7倍高いことが判った。

以上の結果から通常の組織においてはType I Fpから構成される複合体IIがSQRとして機能しており、ミトコンドリアマトリックスがやや酸性に偏った場合にType II FpがSQR活性を維持するために重要な役割を担っているのではないかと考えられる。生体内でミトコンドリアマトリックスのpHが低下する要因としては、低酸素、虚血等が示唆されている。さらに、がんや発生初期の組織は低酸素状態に暴露される事が知られている。以上の結果及びこれまでの知見からType II Fpから構成される複合体IIは細胞が低酸素や虚血状態に適応するために重要な役割を担っていると考えられ、特にがん組織の代謝やヒトの発生などへ関与している可能性が考えられる。

図. アイソフォームで異なるアミノ酸の位置 (ブタの複合体IIの結晶構造)

現在結晶構造が判っているブタの複合体IIの構造を示す。紫がFp、緑がIpであり、青がCybL, ベージュがCybSを示しており、赤い部分はキノンを示している。コハク酸結合部位はFpサブユニットに存在し、キノン結合部位はIp、CybL、CybSサブユニットそれぞれの一部が構成することが判っている。アイソフォームで異なる二つのアミノ酸に対応するアミノ酸は矢印で示した。これらの変異はFpのCターミナルドメインに存在し、Fpサブユニットの外側の表面に位置している。

審査要旨 要旨を表示する

ヒト呼吸鎖複合体II (コハク酸-ユビキノン酸化還元酵素 : SQR)のフラボプロテイン (Fp)サブユニットには構成アミノ酸が二つ異なるアイソフォーム (Type I Fp、Type II Fp)が存在する。本研究はアイソフォームの発現をヒトの組織、培養細胞において解析し、またそれぞれのアイソフォームから構成される複合体IIの生化学的な解析をRNAiを用いて行い、下記の結果を得ている。

1.これまでType I Fpが正常な組織において主要な成分として発現している一方で、Type II Fp が優勢に発現しているがん細胞があることが判っていた。本研究において、さらに詳しく組織や培養細胞におけるアイソフォームの発現比率を調べた。正常の組織や細胞ではType I Fpが優勢に発現しており、がん細胞、がん組織や胎児組織ではType II Fpが優勢に発現している例があるということが判った。膵臓がんなどの一部の固形がんでは血管新生が不十分であることでしばしば低酸素、低栄養状態に暴露されることが明らかになっている。また胎児の組織にいても、発生初期に低酸素状態に暴露されるということが報告されている。よってType II Fpは特にがんの組織や胎児の組織で低酸素、低栄養状態に適応するために重要な働きを担っている可能性が示された。

2.各Fpアイソフォームの発現を抑制したRNAi細胞における複合体IIのFpタンパク質当たりの酵素活性を調べたところ、ほぼ等しいという結果から各アイソフォームから構成される複合体IIはほぼ同程度のSQR活性を有することが判った。よってどちらかのアイソフォームに変異が生じた場合には、相手のアイソフォームが変異のある方を補償しSQR活性を維持することが可能であることが示された。

3.各アイソフォームから構成される複合体IIのSQR活性における至適pH及び基質であるコハク酸に対する親和性を調べたところ、ミトコンドリアの生理的pHであるpH 8.0においてType I Fpから構成される複合体IIは至適pHとなり、コハク酸に対するKmが0.21±0.08mMである一方、Type II Fpから構成される複合体IIではKmが0.75±0.14mMとなった。この結果から、pH 8.0においてはType I Fpから構成される複合体IIはType II Fpから構成される複合体IIに比べ約3.6倍、基質であるコハク酸に対する親和性が高いことが判った。よって通常の条件下のミトコンドリアにおいてはType I Fpから構成される複合体II がSQRとして主に働いている可能性が示された。一方、Type II Fpから構成される複合体IIはpH 7.5に至適pHを持ち、その時のコハク酸に対するKm値は0.23±0.07mMであり、Type I Fpの至適pHであるpH 8.0でのKm値とほぼ等しいことが判った。pH 7.5におけるType I Fpから構成される複合体IIのKmは0.86±0.09mMであり、pH 7.5においてはType II Fpから構成される複合体IIはType I Fpから構成される複合体IIに比べ約3.7倍、基質であるコハク酸に対する親和性が高いことが判った。したがってミトコンドリアのマトリックスのpHが比較的酸性に偏った際にType II Fpから構成される複合体IIはSQR活性を維持するために重要である可能性が示された。ミトコンドリアのマトリックスのpHが低下する要因の一つとしては組織が低酸素、虚血状態に陥ったときが挙げられる。よってType II Fpはそのような状況に細胞が適応するために重要な役割を持つ可能性が示された。

4.各アイソフォームから構成される複合体IIの阻害剤に対する感受性を調べたところ、コハク酸結合部位の阻害剤であるマロン酸、オキサロ酢酸及び3-nitropropionic acidに対しては異なるIC(50)値や阻害曲線が見られた一方、キノン結合部位の阻害剤であるAtpenin A5については各アイソフォーム間で相違が見られなかった。さらに測定時のpHを固定した際のコハク酸に対するKm値が各アイソフォーム間で異なる一方で、ユビキノンに対するKm値は同様であった。以上から、各アイソフォームはキノン結合部位ではなくコハク酸結合部位に相違がある可能性が示された。

本研究によってヒトのFpアイソフォームにおける生化学的な相違が明らかになった。さらにその生理的な役割の相違としてType I Fpから構成される複合体 IIが通常のミトコンドリア内でSQRとして主に機能しており、Type II Fpから構成される複合体 IIは低酸素や低栄養状態ヘの適応に関与していることが示唆された。さらにType II Fpはヒトの発生、がん組織の代謝など非常に重要な生体機能に関与している可能性が示された。よって本研究は低酸素適応やヒトの発生、がんの研究に対し重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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