学位論文要旨



No 127209
著者(漢字) 松井,弘之
著者(英字)
著者(カナ) マツイ,ヒロユキ
標題(和) 電子スピン共鳴法による有機トランジスタの電荷輸送に関する研究
標題(洋) ESR study on the charge transport of organic transistors
報告番号 127209
報告番号 甲27209
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第656号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡本,博
 東京大学 教授 吉沢,英樹
 東京大学 教授 瀧川,仁
 東京大学 教授 齊木,幸一朗
 東京大学 教授 岩佐,義宏
 産業技術総合研究所・東京大学 グループ長・委嘱教授 長谷川,達生
内容要旨 要旨を表示する

概要

電子スピン共鳴法は電子の持つスピンをプローブとすることにより、電子をミクロな視点から観察・評価するための測定手法である。本論文ではこれを有機トランジスタのゲート誘起キャリアに対して適用することにより、有機半導体中における電荷輸送の微視的様相について議論する。

第1章 背景と目的

近年、フレキシブル/大面積/軽量などの特徴を持ったエレクトロニクス機器の実現を目指し、有機トランジスタの開発が世界的に進められている。その有機半導体層における電荷輸送は、バンドモデルやホッピングモデル、多重トラップ&リリースモデルによって基本的な理解が得られるとされるが、現実のデバイス特性との関連性は十分に明らかにされていない。そのような背景として、これまで電気伝導測定を中心とした研究が数多く成されてきた一方で、微視的な物性測定手法が欠けていたことが挙げられる。そのような中、2004年に丸本・黒田らによって考案された電界誘起電子スピン共鳴(ESR)法は、キャリアのもつスピンをプローブとする全く新しい測定方法として期待されている。これまでに電界誘起ESR法はいくつかの有機トランジスタに対して適用され、分子配向やキャリア密度などの静的物性の評価方法として成果が挙げられてきた。

本論文の第一の目的は、この電界誘起ESR法を用いて有機薄膜トランジスタ(TFT: thin-film transistor)におけるキャリアの動的物性(キャリアダイナミクス)を明らかにすることである。具体的にはキャリアの運動によるESRスペクトルの先鋭化の観測を行い、その結果をもとに有機半導体多結晶薄膜におけるグレイン内・グレイン間のキャリアダイナミクスを微視的視点から議論する。第二の目的は、キャリアの運動を律速している要因であるトラップについて、その微視的様相に明らかにすることである。

第2章 実験方法

有機半導体材料として図1(a)に示したペンタセン、dinaphtho[2,3-b:2',3'-f]thieno[3,2-b]thiophene (DNTT)、poly(2,5-bis(3-hexadecylthiophene-2-yl)thieno[3,2-b]thiophene) (PBTTT)を用いた。TFT試料の作製では、ESR測定の感度を損なわず、なおかつ素子特性が低下しないようにポリマー材料を基板と絶縁膜に用いた。典型的なデバイス構造を図1(b)に示す。ペンタセンTFTはp型特性を示し、移動度は過去の論文と比較して十分な0.6cm2/Vsが得られた(図1(d))。このデバイスに銅線を接続し、そのままアルゴンガスとともに石英管に封入してESR試料とした。ESR測定にはXバンド、CWのマイクロ波を用い、測定中はソース・ドレイン間を短絡してゲートにのみ電圧を印加した。ゲート電圧がゼロであるときにはESR信号は観測されなかったが、ゲートに負の電圧を加えるとともにESR信号が増加していく様子が図1(c)のように観測された。各電圧においてESRスペクトルを二階積分して得られるスピン数はキャパシタンスから予想されるキャリア数と良く一致し、(図1(e))、このESR信号が確かにゲート電圧によって誘起されたキャリアによるものと確認できた。

第3章 グレイン内の運動によるESRスペクトルの先鋭化

キャリアダイナミクスを調べるために、ペンタセンTFTのESRの温度依存性を詳細に測定した。図2(a)(b)に見られるようにESRスペクトルは温度の上昇とともに先鋭化する傾向を示した。この線幅変化の理由は運動による先鋭化である。すなわち温度の上昇に伴ってキャリアの運動が活性化し、その運動頻度が増加するのに反比例して線幅が減少していると解釈できる。高温領域においてスペクトル形状がローレンツ関数型であることも、この解釈と一致する。このような先鋭化はこれまでの低移動度TFTでは報告されておらず、高移動度TFT特有の現象である。運動によって先鋭化された線幅からキャリアの運動頻度を見積もった。その結果、ペンタセンTFTの場合のキャリアの運動頻度は室温で約670 MHz (約1.5 ns間隔)であり、熱活性型の温度依存性を示すことが分かった。活性化エネルギーが14 meVであることから、キャリアは浅いトラップに律速されながら運動していると考えられる。同様の結果はDNTTやPBTTTの場合にも得られたことから、このようなトラップ&リリースで表される電荷輸送が低分子・ポリマーに依らない普遍的なメカニズムであると期待される。

第4章 グレイン間の運動による多結晶パターンの消滅

DNTTとPBTTTは硫黄原子を含むため、g値異方性の大きな材料である。これらのTFTを用いて低温、磁場を基板に平行にした条件でESR測定を行ったところ、多結晶パターンと呼ばれる特徴的なスペクトル形状が見られた(図3(a))。これは多結晶薄膜に含まれるそれぞれの微結晶の向きがお互いに異なっており、結果として様々なg値を持つ吸収線の足し合わせとなっているためである。しかしながら、温度が上昇するにつれて多結晶パターンは消滅し、室温では1本の吸収線のみとなった。このようなスペクトルの変化は、キャリアが微結晶間を運動することによってg値が平均化されたことによるものである。これらのスペクトルを解析することによって各温度におけるキャリアのグレイン間の運動頻度を求めたところ、その温度依存性は見かけの移動度の温度依存性と良く一致した(図3(b))。このことからグレイン間のエネルギー障壁が見かけの移動度の決定要因であると考えられる。

第5章 超微細相互作用とトラップ分布解析

極低温でトラップに局在したキャリアのESRスペクトルは、トラップにおける電子状態を強く反映する。特に電子スピン‐核スピン間の相互作用(超微細相互作用)が支配的な場合には、線幅は波動関数の広がりの程度(N分子)に対してN-1/2に比例することが知られている。この仮定をもとに極低温のESRスペクトルを解析したところ、図4(a)のようにトラップにおける波動関数の空間広がりの分布を得ることができた。この結果が示すように、有機半導体中におけるトラップ状態とは必ずしも1分子に局在したものではなく、数分子から数十分子程度に広がっている。またHolsteinモデル計算から空間広がりNとトラップ深さEBの関係(図4(b))を求めることにより、トラップに関するエネルギー状態密度分布を求めた。これらのトラップ分布には3つの特徴的な構造が見られ、それぞれに固有のトラップ発生要因があると考えれる。

第6章 不純物に由来するトラップ準位

上記で議論したものは半導体分子それ自体が格子欠陥等によってトラップを生じた場合であるが、有機半導体層中に異種分子が存在する場合にはそれもトラップの要因となりうる。そのように分子種が異なる場合、ESR信号は異なる共鳴磁場位置に信号が現れる。電界誘起ESR測定をもとに、不純物由来のトラップの密度、分子種と分子配向、電子状態について議論する。

第7章 孤立分子のESRとDFT計算

分子固有のパラメータであるgテンソルや超微細結合テンソルを調べるには、ラジカル溶液のESR測定やDFT計算が有効である。それら実験および計算の結果をもとに、各種パラメータと分子内の電子密度分布について議論する。

第8章 総括

ESRスペクトルの運動による先鋭化を通して、グレイン内でキャリアがトラップ&リリースを繰り返しながら運動する様子、グレイン間でキャリアがエネルギー障壁を越えながら移動する様子が明らかとなった。これらの実験結果により、有機半導体における電荷輸送について、ミクロな物理現象とマクロな測定量とを総合的に理解することができた。また有機半導体中に存在するトラップには、半導体分子そのものがトラップとなる場合、不純物である異種分子がトラップとなる場合の2通りが考えられ、それぞれの場合に対しての電子状態の微視的様相を詳しく議論した。有機半導体における電荷輸送機構を理解することは、有機エレクトロニクスの応用に向けて材料・プロセス・界面・膜質などの諸性質とデバイス特性とを結びつけるための極めて重要な課題であり、本稿がその一助となることを期待する。

図1.(a)ペンタセン、DNTT、PBTTTの分子構造。(b)典型的なデバイス構造。(c)ペンタセンTFTの電界誘起ESRスペクトル、(d)伝達特性、(e)ESRから見積もられたスピン密度。

図2.(a)グレイン内運動によるESRスペクトルの先鋭化。試料はペンタセンTFT。(b)ESR線幅の温度依存性。×と+はそれぞれ運動による先鋭化による成分とスピン‐格子緩和による成分。

図3.(a)温度の上昇に伴う多結晶パターンの消滅。試料はPBTTT-TFT。静磁場は基板に平行。(b)各種TFT試料におけるグレイン内・グレイン間の運動頻度と移動度の温度依存性。

図4.(a)トラップ状態の空間広がりの分布。挿入図はエネルギー状態密度分布。(b)トラップ状態の空間広がりとエネルギー深さの関係。

審査要旨 要旨を表示する

近年、軽量・折り曲げ可能・大面積等の特徴を持った情報端末装置の開発を目指し、有機半導体を用いたエレクトロニクスの研究開発が活発に行われている。中でも有機薄膜電界効果トランジスタ(有機TFT)は、これらの装置の実現に不可欠なキーデバイスとして、その高度化が強く求められている。特に、最近の精力的な基礎研究により、新材料開発・電極技術・プロセス技術・プロトタイプ的な単結晶素子の開発等が進み、有機TFTの性能は着実に進歩してきている。しかしながら、デバイス動作の微視的な機構については、十分な理解が得られているとは言えない。これは有機半導体界面で生じるキャリヤ輸送が、界面に特有の様々な相互作用や乱れの影響を受けること、及び、これら相互作用と同程度の室温熱エネルギーのもとでの輸送現象が解明されていないことによる。このような特徴のため、デバイスの電気的特性にのみ頼った議論は全く不十分な一方で、半導体界面付近にのみ蓄積されたキャリヤの微視的情報を捉えるのは容易ではなく、これまでその様相を理解する端緒すら得られていなかった。本論文では、ゲート電圧印加により有機半導体界面に蓄えられたキャリヤによる電子スピン共鳴(ESR)スペクトルを用いて、有機TFT内のキャリヤ輸送機構を詳細に調べた研究成果がまとめられている。スピン軌道相互作用が弱い有機半導体では、電子スピンをキャリヤの鋭敏なプローブとして用いることが可能である。本論文においては、いくつかの典型的な有機TFTについて、有機薄膜界面でキャリヤが輸送される動的な様相と、これら輸送を主に阻害する要因となるグレイン境界・トラップ・不純物等の効果について、その全容を明らかにすることに成功している。

本論文は8章からなる。第1章では、序論として、有機半導体の紹介と有機TFT内のキャリヤ輸送に関する従来の研究の背景が述べられ、それに続いて研究目的と論文の概要が述べられている。第2章には、本研究で用いた実験方法、特に界面に蓄積したキャリヤによるESR信号を高感度に検出する実験方法が述べられている。第3章には、有機半導体多結晶薄膜を構成するグレイン内のキャリヤ輸送によるスペクトル先鋭化効果が述べられている。ここでは、先鋭化効果の解析をもとにキャリヤが一つのサイトに滞在する平均時間を見積り、キャリヤがトラップによる捕捉と解放を繰り返しながら運動する機構が述べられている。第4章には、グレイン間をまたぐキャリヤの運動によるスペクトル先鋭化効果が述べられている。ここでは、異方的gテンソルのためグレイン毎に異なるg値が観測される実験配置において、昇温とともに先鋭化効果によりスペクトルが一本に融合していく様子をもとに、グレイン間の障壁ポテンシャルを評価する新しい手法が述べられている。第5章には、低温でキャリヤが全てトラップに凍結された状態でのスペクトル解析から、トラップ状態を詳しく調べた結果が述べられている。ここでは、電子が分子内のプロトン等の核スピンとの超微細相互作用のため、トラップ状態の広がりと各スペクトル成分の幅に相関があることを利用し、トラップの空間的な広がりに対する状態密度分布を得る新しい解析手法が述べられている。第6章には、意図的に異なる分子を混入させた有機半導体薄膜についてESRスペクトルを調べた結果が述べられている。ここでは、異なる分子が深いトラップ準位として作用する様子がデバイス特性と関連づけて述べられている。第7章には、上記の全ての解析を行う上での基礎となる孤立分子のESRスペクトル測定と、これを解析するための密度汎関数法を用いた孤立分子のスピン-スピン結合定数とg値の量子化学的な計算結果が述べられている。第8章には、本論文の結論が述べられている。

以上のように、本論文は有機半導体に優位性があるESR法を駆使することによって、多面的かつ詳細なキャリヤ輸送の微視的様相を明らかにした研究成果がまとめられている。これらの成果は、活発な研究開発が進む有機TFTの動作を理解する上で、また有機TFTの新しいデバイス評価技術として、今後重要になると考えられ、有機エレクトロニクスの進歩に大きな貢献をなすものである。また本研究成果は、グラフェンやカーボンナノチューブを初めとする各種の材料において、現在進展しつつある電界効果型デバイス構造を用いた新しい物性研究の開拓にも貢献すると考えられる。なお、本論文は、長谷川達生、平岡牧、山田寿一、十倉好紀、Andrei Mishchenko、高橋永次、瀧宮和男、熊木大介、時任静士各氏との共同研究によるが、論文提出者が主体となって実験・解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。以上から、本論文は、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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