学位論文要旨



No 127210
著者(漢字) 松永,宗一郎
著者(英字)
著者(カナ) マツナガ,ソウイチロウ
標題(和) 表面ナノスケール分析手法による細胞膜上生理反応の解明
標題(洋) Nanometer-scale Discernment of Biological Reactions on Cell Membrane
報告番号 127210
報告番号 甲27210
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第657号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川合,眞紀
 東京大学 准教授 高木,紀明
 東京大学 教授 佐々木,祐次
 東京大学 准教授 横山,英明
 東京大学 准教授 松田,康弘
 理化学研究所 専任研究員 山田,太郎
内容要旨 要旨を表示する

序論

近年、Simonsらにより、細胞膜上での生体反応には二次元流体的にふるまう脂質分子膜内の局所相分離構造である「脂質ラフト」が重要な役割を果たしていると提唱され、多くの研究がなされてきた。しかし脂質ラフトの本質的役割はおろか、脂質ラフトのサイズさえも未だ活発な議論が行われている段階である。その原因として、脂質膜の局所構造をナノスケールの空間分解能を持って画像化できる測定手法を生体環境に適用することが難しかったことが挙げられる。

私は脂質膜のナノスケール可視化のための技術として走査トンネル顕微鏡(scanning tunneling microscopy; STM)に着目し研究を行った。STMは「単分子スケールの空間分解能」を持つ顕微鏡でありながら、生体分子に必須の「水溶液中、常温」下での観測、また生体その場観測で常用される蛍光分子などの「ラベルが不要」といった特徴を持ち、生体分子が実際に動作している現場の単分子スケール観測への有効性が大いに期待される。しかしSTMによる細胞膜の観測は既存研究例がなく、世界初の試みである。私は測定試料としてのモデル細胞膜作製から研究をはじめ、その表面のナノスケール可視化を行うことで、単分子スケールでの生理反応メカニズムの解明をめざした。

研究方法

原子スケールの超高空間分解能を有するSTMを水溶液中で動作させることで、生体類似環境下にある脂質分子膜の動的挙動をナノスケールで画像化する。

STM観測に好適な二層モデル細胞膜として、一方を金(111)表面上に自己組織的に形成した1-オクタンチオール(1-OT)単分子膜、もう一方はその上に形成された脂質の単分子膜から構成した。原子レベルで平坦な1-OT/金(111)疎水基板を水溶液中に設置した後、所望の濃度に調整した脂質入り水溶液を注ぐことによって、疎水相互作用により基板上に脂質単分子膜が形成される。

STMによる分子スケール可視化に加え、全反射赤外吸収分光法(Attenuated total reflection infrared absorption spectroscopy; ATR-IR)を用いて分子構造について研究を行った。試料はATR用の台形Siプリズム上に金を蒸着し、その上にSTM測定と全く同じモデル細胞膜を構築した。Siプリズムと金蒸着膜の密着性の向上のためにシランカップリング法により有機単分子層をバッファ層として作製したことが新規な点として挙げられる。

研究結果

STM観測のためのモデル細胞膜作製方法の確立から始め、脂質膜自身の性質、脂質膜―タンパク質間の相互作用、脂質膜―イオン間の相互作用を分子スケールで可視化することで生理反応メカニズムに含まれる物理的プロセスの解明を行った。

1.モデル細胞膜の作製

モデル細胞膜は「STM観測に耐えうる平坦性」と生体膜に必須の「二分子膜構造に由来する流動性」を両立する必要がある。そこで基板の上に1-OTのSAMを作製し、その上に脂質分子膜を作製したわけであるが、実際にSTM観測を行うことで、我々のモデル細胞膜が流動性を保持していることを示せた。STMによる脂質膜の観測は世界初であり、本研究によりSTMによる細胞膜の分子スケール観測が可能であることが示され、ラフト構造の解明へ向けた光明を示した研究となる。

2.細胞膜に電位勾配を与えたときのナノスケール構造変化

基板の電位を制御することで疑似的な膜電位をモデル細胞膜に与え、その様子をSTMで観測した。基板の電位は+0.22±0.2V (vs. Ag/AgCl)の範囲で正負電位を交互に与えながら観測を行った。図1に各電位におけるモデル細胞膜表面のSTM像を示す。それぞれA)0.22 V, B)0.02 V, C)+0.42 V, D)二回目の0.02 Vを示す。0.22 Vのときは流動構造"Fluidic I構造"を取っていた脂質膜が、初回の負電位のときは流動性を失い固化した"Striped構造"を示した。その後+0.2 Vをかけると流動構造を取り戻したが、その膜の厚みは最初に観測されたモデル細胞膜と異なっていた。これを"Fluidic II構造"と呼ぶ。次に再び0.02 Vをかけたときは流動性の低い4nm×10nm程度の"Grainy構造"を取った。この後基板の電位変化に対してFluidic IIとGrainy構造は可逆的に変化した。初回に負電位をかけたときのStripeの間隔は約4nmであり、これは脂質分子の一分子列であると考えられる。この一連の構造変化はSTMによって初めて観測された現象であり、分子細胞生物学的にも非常に興味深い。

そこでこれらのナノスケール構造変化の原因を化学変化に求め、その化学結合状態を追跡するためにATR-IRによる振動分光法を用いた。部分的に重水素化された脂質を用い、STMで観測された構造変化に脂質分子のどの官能基が寄与しているのかを詳細に調べた。炭化水素基(2000-2300cm-1)、C=O基(1730cm-1)、リン酸基(1260cm-1)のピークを精密に解析することで、リン酸基の結合の変化、コリン基の脱離が起こっていることが明らかとなった。以上の実験結果より、STMで観測された構造変化において、リン酸部位の化学変化やコリンの脱離が起こっていることが明らかとなった。STMによる画像化に加え、分光法によって水溶液中の単分子膜内の反応のメカニズムを解明したことは分子スケールにおける細胞膜の研究において非常に意義深い。

3.異なる種類の脂質分子を用いて作製したモデル細胞膜の物性

脂質分子は疎水性尾部(アシル基)と親水性頭部(グリセロリン酸+α)をもつ両親媒性分子である。+αがコリンの脂質をphosphocholine(PC)、エタノールアミンである脂質をphosphoethanolamine(PE)と呼ぶ。これらの脂質の存在場所は異なっており、PEは細胞膜の内側に局在している。STMを用いて、これらの脂質から構成されたモデル細胞膜を観測することで、それぞれの脂質膜の物性をナノスケールにおいて明らかにすることができる。PCとPEの混合比を変えてモデル細胞膜を作製することにより、組成比が膜の物性に与える影響を可視化した。PE膜はPC膜の約3倍の厚みを持って観測されること、また、PEのみの膜では探針の走査によって脂質分子膜が引っかかれて、膜が乱れていく様子が観測された。つまりPE膜はPC膜よりももろいことを意味する。これは水相との水素結合、脂質分子自体の構造によってPE分子は平面膜というよりも少し凹面の膜を形成しやすいことなどが原因と考えられる。従来の生物学的マクロなスケールの実験で提唱されていたモデルをSTMナノスケール可視化により実際に画像化することができ、マクロ-ミクロスケールで同様の物理が支配していることを示した好例といえる。

4.脂質ラフトとイオンの相互作用

脂質ラフトのモデルとして異なる脂質を混合して、自発的に起こる相分離構造を調べた。ある種の脂質分子は帯電しており、帯電脂質とイオンの相互作用は脂質ラフトなどのヘテロ構造体の形成の駆動力の一つであると考えられている。そこでPCと帯電脂質phosphatidylserine(PS)の混合膜を作製し、STMで観測を行った。図2AにPS-PC混合膜のSTM像を示す。図中の輝点は直径5nm程度であり、今までに観測された最小の脂質ラフトである。またPC:PS混合比を変えた膜を作製することにより、このナノドメインはPSから構成されていることが分かった。このPC-PS系のバッファ溶液にCa2+イオンを加えた後のSTM像を図2Bに示す。輝点が消えて平坦な膜が形成された。この平坦膜にAnnexin Vと呼ばれるたんぱく質を加えたところ図2Cのように輝点が観測された。Annexin VはPS-Ca2+共存系にのみ結合することが知られているタンパク質である。つまりCa2+添加後の平坦膜においてもPSは膜内に存在しており、annexin Vが表面に結合したと考えられる。

本研究の重要なポイントは二つある。1.Ca2+の添加によりPSのドメインが解離した。これは従来のマクロスコピックな実験とは逆の結果であり、STM可視化によって初めて明らかにされた。2.X線構造解析によるannexin Vのサイズは約5nmであり、STMで観測された輝点はannexin V一分子であると考えられる。つまりたんぱく質の脂質膜への結合を一分子スケールで観測した初の例といえる。このように単分子スケールで脂質ドメインやタンパク質を画像化することが示せ、本研究で用いたSTMによる画像化がラフト構造の解明に非常に大きな役割を果たすことを期待させる。

5.細胞膜および極小脂質集合体とタンパク質の相互作用

均一な脂質ベシクル分散液を得るために、超音波によるsmall uni-lamella vesicle; SUVの作製がよく行われる。SUVは数多くの研究に使われ、その直径は約30nmと見積もられてきた。私はSTMを用いてこのSUVを実空間可視化することにより、実際にはSUVよりも小さい極小脂質集合体(MLP)が形成されていることを発見した。さらにPCのみからなるMLP、PC+PE混合のMLPを作製し、それぞれにduramycinと呼ばれるPE特異結合ペプチドを加え、その様子をSTMで可視化した。PCのみの系においてはMLPに何の変化も見られない一方、PEを含むMLPはduramycin添加によって崩壊し膜状の構造を形成している様子が観測された。この結果はMLPはPEを含む集合体であることを意味し、さらにはMLPのような小さな脂質集合体においてもその特異結合性は失われていないことを示している。さらに動的光散乱法(DLS)を用いることで、これらの現象が基板上に展開された特定の状況ではなく、水溶液中に分散した系においても同様の現象が起こっており、PEを含むMLPが融合し巨大な直径を持つ膜が形成されていることがわかった。STMではナノスケールの構造体一つ一つを画像化できるのに対し、測定対象は表面に限られ局所的な構造のみを観測している可能性がある。一方DLSは溶液中に分散した試料から試料全体の平均の情報を得られる反面、散乱光の強度変化から流体動力学的に形状を見積もるので、得られる構造情報は必ずしも比較可能ではない。現にこの実験ではDLSではMLPの粒径は30nmと見積もられた。つまりSTMとDLSは相補的な測定手法であるといえる。STMとDLSを用いることでお互いの欠点を克服し、タンパク質特異結合について新しい知見を得ることができた。

本研究によりSTMが細胞膜における生理反応の分子スケール観測に効果的であることを示すことができ、今まで可視化技術の不足のためにブラックボックスとされてきた分子細胞生物学における生理反応のメカニズムの解明が、STMを用いた実空間可視化によって次々と明らかにされることが期待される。

図1.基板電位を変化させたときのモデル細胞膜のSTM像。スキャンサイズ50×50nm。トンネル電流値=1 nA, Bias=0.4 V。0.05 M, pH =7.0 NH4ClO4水溶液中。A) 0.22 V DHPC "Fluidic I構造"、B) 0.02 V"Striped構造"、C) 0.42 V "Fluidic II構造"、D) 0.02 V "Grainy 構造"。

図2.PC+PSの混合モデル細胞膜のSTM像。スキャンサイズ50×50nm。トンネル電流値=1 nA, Bias=0.4 V。0.05 M, pH =7.0 NH4ClO4水溶液中。A) PC:PS=10:1、B) A)にCa2+を添加した後。輝点が消え平坦な膜が形成されている。C) B)にさらにAnnexin Vを加えた様子。Annexin V一分子が輝点として観測される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文では走査トンネル顕微鏡(STM)を用い、金属基板上に展開した脂質膜(モデル細胞膜)上の生理化学反応をナノメートルの空間分解能で可視化することでその生理反応メカニズムの解明にせまった研究成果について報告されている。

論文は8章からなる。

第1章は本研究の背景、目的から構成され、生理活性を維持した状況下での細胞膜のナノスケール観測の重要性について述べてある。

第2章では本研究中で用いられた測定装置である水溶液中STM、赤外吸収分光法(ATR-IR)、動的光散乱(DLS)などについて測定原理やその特徴が述べられている。また測定試料として用いたモデル細胞膜としての金属基板上に展開した脂質分子膜の作製法やその特徴が詳細に述べられている。

第3章では水溶液中STMによるモデル細胞膜の観測に関する結果が述べられている。生理活性を維持した状況下におけるSTMによる細胞膜のナノスケール観測は既存の報告例が全くなく、本研究においてSTMによるモデル細胞膜の観測が成功したこと、およびモデル細胞膜が細胞膜に必須の流動性を保持していることを観測できたことが特筆すべき点である。

第4章ではモデル細胞膜に電位刺激を与えたときの脂質膜の挙動を分子スケールの空間分解能を持って詳細に観測した結果について述べられている。本研究ではSTMによる可視化に加えATR-IRによる振動分光の手法を用いることで、分子スケールでの脂質分子の動的挙動に加えて脂質分子の構造変化を詳細に追跡している。生体系の反応メカニズムを解明するためには、ナノスケール領域の動的構造変化に加えて分子構造や化学組成も追跡することが必要不可欠であり、STMとIR観測を組み合わせることによってもたらされた本研究の結果は非常に意義深い。

第5章では親水基の違う脂質分子で構成されたモデル細胞膜の物性の違いをSTMで観測した結果が述べられている。脂質二重膜の厚さ、柔らかさの違いをSTMを用いて可視化できたことが新規な研究結果である。

第6章では本研究の主要な研究対象といえる細胞膜中の局所構造体である「脂質ラフト」を実際に可視化した研究について述べられている。ホスファチジルコリン(PC)とホスファチジルセリン(PS)の混合膜においてPSが直径5nm程度の脂質ラフトを形成し、カルシウムイオンやアネキシンVと呼ばれるPS特異結合タンパク質と反応する様子をSTMを用いて実空間可視化した。この5nm脂質ラフトは約40分子程度の脂質分子から構成されていると見積もられ、現在報告されている中で最小の脂質ラフトである。脂質ラフトのようなナノメートル局所構造体はSTMによるナノメートルスケールの顕微手法を持って初めて明らかなるものであり、細胞膜上生理反応メカニズムの解明にSTMが大きく寄与できることを実際に示した研究成果である。

第7章では実際の生体内にみられる長鎖の脂質分子を用い、水溶液中に分散した脂質の集合体についての研究を行った。超音波処理により極小まで小さくした脂質の集合体を基板上に展開することにより、極小脂質集合体の可視化を行っている。実際に実空間可視化を行うことで、従来光散乱などの情報により見積もられていたものよりも小さい直径8nm程度の脂質集合体(minimal lipid particle; MLP)を新規に発見した。またDuramycinと呼ばれるホスファチジルエタノールアミン(PE)特異結合たんぱく質とMLPの相互作用を可視化することで、Duramycinの毒性メカニズムが脂質膜の融合にあることを突き止めている。

第8章では本論文の結論が述べられており、STMによるナノスケール観測によって初めて明らかになった現象についてまとめられ、STMによる可視化技術がもたらす分子細胞生物学分野への展望についての総括が述べられている。

以上のように本論文で著者はSTMを用いてモデル細胞膜としての脂質膜を可視化することで、種々の生理反応メカニズムの解明にSTM可視化が有効であることを示した。ナノスケールの局所構造体の観測が生理活性を維持した水溶液中で達成されたことは非常に意義深く、生物学をボトムアップ的な手法で研究するための大きなきっかけとなる研究成果である。

本論文の内容においては川合眞紀、山田太郎、小林俊秀との共同研究、第7章ではさらに岩本邦彦、松永拓郎、柴山充弘との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験、解析を行ったものであり論文提出者の寄与が十分であると判断とする。よって本論文は博士(科学)の学位論文として合格と認められる。

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