学位論文要旨



No 127212
著者(漢字) 本林,健太
著者(英字)
著者(カナ) モトバヤシ,ケンタ
標題(和) STMによる非弾性的トンネル電子注入に誘起された単一分子の運動・反応についての定量的理解
標題(洋) Quantitative Understanding of Single Molecular Motion and Reactions through Inelastic Electron Tunneling by STM
報告番号 127212
報告番号 甲27212
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第659号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川合,眞紀
 東京大学 准教授 高木,紀明
 東京大学 教授 岡本,博
 東京大学 教授 森,初果
 東京大学 教授 高橋,敏男
 理化学研究所 准主任研究員 金,有洙
内容要旨 要旨を表示する

1. General Introduction

本研究は、分子の反応及び運動の確率・速度の測定を単一分子の振動エネルギーを始めとした物性測定に応用し、単一分子の化学分析及び構造解析、単一分子反応のメカニズム解析に応用するための枠組みを作る試みである。こうした測定が必要となるのは、分子デバイスのボトムアップ的構築法が求められている次世代ナノデバイス研究の分野、そして触媒反応メカニズムの完全理解を目指している表面化学の分野である。分子デバイスなどの構築の際には、構成要素や作成したナノ構造の分子・原子スケールでの化学的同定・構造決定が不可欠である。反応メカニズムはいかに原子を動かすか、つまり分子振動の誘起に帰着され、個々の分子内自由度間のエネルギー伝達過程が大きなカギを握る。こういった課題の解決のために、STMを用いた単一分子の運動・反応誘起と単一分子振動分光の確立が求められている。

STM(図1(a))を用いた振動分光法は、非弾性トンネル分光法(STM-IETS)という方法がよく知られている。しかしこれは分子の伝導度測定(図1(b))のため、振動励起により運動・反応が誘起される分子に適用できない。そこで、振動励起に誘起される分子の運動・反応の挙動から振動エネルギーを見積もるアクションスペクトル測定(STM-AS)が考案された。一電子あたりの反応(運動)効率の電圧依存性を測定し、効率が上昇する点から振動エネルギーを見積もる(図1(c))。しかし従来、振動のエネルギーの見積もりを経験的に行っていたため、振動エネルギーの算出が正確ではなかった。複数の振動シグナルが重なる場合、実験誤差の影響が大きい場合、多電子過程により反応が進行する場合などに誤差が大きかったため、汎用的なスペクトルの解析手法が求められた。またこれまでスペクトルの形状の議論がされてこなかったが、スペクトル形状の起源が分かれば他の分光法と同様、振動エネルギー以外の情報も得られるはずである。

そこで本研究は、STM-ASのスペクトルを汎用的な形で定式化し、実験結果のフィッティングによる定量的理解の方法の確立を目的とした。さらに、この解析方法と組み合わせたSTM-ASを実際に分子の構造決定や反応機構の解明に応用し、その威力を実証することをも目的とした。

2. Experiment

実験は、別の真空チャンバーに設置された超高真空・極低温対応型のOmicron社製LT-STM及びHREELS (IB 500)を用いた。真空度~10-11 Torr、基板温度はSTMでは4.7-40 K、HREELSでは10-300 Kで測定した。実験に用いた金属単結晶表面、Pt(111)、Pd(111)、Cu(111)はAr+スパッタと加熱による通常の方法で清浄化した。水分子及び(CH3S)2の吸着は、真空チャンバー内で10 Kから50 K程度に保った金属基板表面を10-10 Torr 程度の分子に暴露することで行った。

3. Theory

反応速度が振動励起速度に比例し、またpower law: R(I) ∝Inに従うことを基本原理として、STM-ASの定式化を行った。1) 弾性(非弾性)トンネル電流のサンプル電圧(V)に対する線形応答、2) 分子振動の状態密度のGauss関数による表現、3) 異なる振動モードが誘起する反応の独立性、の3点を近似した。結果、振動エネルギーΩ、反応次数n,、速度定数K、ブロードニング定数γをパラメータとする(1)式を得た。

一方反応次数は、反応に必要な電子数に対応し、整数値が自然である。非整数で観測された反応次数の解釈が長年の課題であった。本研究では、異なる反応次数を持つ複数の反応プロセスが同時進行し、各反応速度の和が測定された結果だと考えた。理論考察の結果、(2)式を得た。

4. Spectral fitting of STM-AS

(1)式はSTM-ASの過去の実験結果をよく再現した。解析結果を通じて各パラメータがスペクトル形状に与える影響を調べると共に(図2)、本解析が与える新しい情報を明らかにした。後者は、1) 振動モード間のエネルギー移動の時定数、2) 振動エネルギーと反応次数の同時決定、3) 振動由来の信号と誤差由来のartifactの判別、4) 重なった振動シグナルの判別、などである。

(2)式も、過去の非整数の反応次数が表れるR-I曲線をよく再現した。多くの結果が(2)式の特徴である下に凸なR-I曲線を示し、(2)式の妥当性を示唆している。(2)式により、個別の反応プロセスの速度の定量と、それによる反応メカニズムの推定が可能となった。

5. Isolated water molecules on metal surfaces

金属表面上に吸着した水分子の配向性は表面科学の分野で長らく議論の的であった。水分子の小クラスターに関しては、様々な大きさのクラスターが混在して判別が難しく、データ解釈自体に問題があった。この問題の解決を目的として、Pt(111)とPd(111)上の水分子モノマー及びダイマーのSTM-AS測定による構造解析を試みた。

水分子モノマー・ダイマーの両表面上のSTM観測により、水分子は常にオントップ吸着し、ダイマーでは一つの分子を中心にもう一つの分子が4.7 Kでも回転することがわかった(図3 (a), (b))。Pt(111), Pd(111)上の水分子モノマー・ダイマーの拡散に対するSTM-AS測定を行った。ダイマーのSTM-ASは多数のピークを示す複雑なスペクトルを与えたが、(1)式により全て振動由来のシグナルであることが示され、振動エネルギーが決定された(図3(d))。3種類観測されたO-H(O-D)伸縮振動と密度汎関数理論を用いた計算結果の比較から、回転する水分子の一つの水素原子が基板方向を向くことがわかった(図3(c))。一方Pd(111)上の水ダイマーのSTM-ASでは基板水分子間の水素結合由来の振動が検出されず、水素の配向性が異なる可能性が示唆された。

6. Reaction mechanism of dimethyl disulfide on Cu(111)

Cu(111)上における(CH3S)2の解離反応(図4(a))は、自己組織化単分子膜形成素過程のモデルとしてSTMにより研究されてきた。STM-ASでは、C-H(D)伸縮振動v(CH(D))の二段励起、及びS-S伸縮振動v(SS)とv(CH(D))の結合音の一段励起による反応の進行が観測された。しかしこの結果は反応障壁の議論に矛盾を生じる。従来の反応機構で説明できないこの問題の解決を通じた新しい反応機構の発見を期待して、STM-ASの定量解析及び反応次数の温度依存性の測定、また振動モード同定のためHREELS測定を行った。

従来考えられたv(CH(D))の2段励起による反応の進行を想定した場合、(1)式は、結合音の励起に伴う反応次数変化を説明できなかった(図4(b)橙線)。一方、2電子のうち1電子がv(CH)を、もう1電子がv(SS)を励起する想定では、(1)式は全ての実験データを再現した (図4(b)青線)。この結果から、v(CH)の励起はエネルギー供給源として働き、v(SS)の励起はv(CH)からv(SS)へのエネルギー移動の効率を上げるために必要で、結果生じるv(SS)の多段励起が反応を誘起する、というメカニズムを提案し(図5 (a), (b))、反応障壁の矛盾を解消した。STM-ASにピークが現れない隠れた振動モードの励起を(1)式による解析で検出できることを示した。

v(CH(D))は励起でき倍音は励起できない条件における反応次数の温度依存性の測定では、25 K前後で反応次数が2から1へ変化した。これは、束縛回転振動の熱励起とv(CH)の電子による励起が同時に起こることで進行する反応の影響と解釈できる。熱励起された振動モードのエネルギーは、25 Kで観測された非整数の反応次数を(2)式を用いて解析(図4(c))することで16±2 meVと算出され、反応のポテンシャル表面を変化させて反応を促進するメカニズムが提案された(図5 (c)-(f))。

2つの振動モードの同時励起による反応の観測は、CO分子以外で初めてである。特に異なる組み合わせの複数のモードが反応を進行させたのは初めてである。このような複雑な反応メカニズムに対し、熱エネルギーを併用して選択的な反応パスのコントロールに成功した。単一分子反応のメカニズムの理解、及び化学反応の選択的制御において重要な成果である。

7. Conclusion and Outlook

実験手法として提案されていたが解釈に課題のあったSTM-ASを、理論的な裏付けと定量的な解析手法を加えることで、単一分子振動分光手法として確立した。振動ピークの判別や正確な振動エネルギーだけでなく、反応次数や反応速度定数など、反応機構の理解のために重要な情報をスペクトルから取り出す方法を確立した。

STM-ASは従来あまり実用されてこなかったが、本研究によってスペクトルの解釈が保証され、詳細な吸着構造の決定や反応メカニズムの解析に有用であることが示されたので、今後は広く実用されることが期待される。分子素子の設計や分子・原子操作技術の発展に伴い、分子デバイスの作成技術等に応用されていくであろう。

図1. (a) STM, (b) STM-IETS, (c) STM-ASの動作原理模式図。

図2. (a) Pd(110)上のCOのSTM像。(b-d) CO拡散のSTM-AS。実験結果(赤丸)と理論予測。

図3. (a) Pt(111)上の水分子モノマー・ダイマーのSTM像。(b) Pt(111)上の水ダイマーのSTM像。(c) STM-ASと理論計算から得られた水ダイマーの吸着構造モデル。(d) 水ダイマーのSTM-ASの実験結果(●)とフィッティング(点線)。

図4. (a) Cu(111)上の(CH3S)2の解離前後のSTM像。(b) (CH3S)2解離のSTM-AS。実験結果(赤丸)とフィッティング(curve Bが正しい解析)。(c) 25 Kにおける解離反応の電流依存性。実験結果(赤丸)と(2)式によるフィッティング(黒線)。

図5. (a) (b) 2電子過程による(CH3S)2解離メカニズムの模式図。v(SS)が励起状態のときのみv(CH)からのエネルギー伝達が起こり反応が進行する。(c) (d) 束縛回転モードの励起により、(CH3S)2の配置が解離生成物の配置に近づく。これは、反応のポテンシャル表面を変化させ、反応バリアを下げて反応の効率を上昇させる。((e) (f))

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,走査トンネル顕微鏡(Scanning tunneling microscopy: STM)から注入したトンネル電子によって誘起される,固体表面上の単一分子の運動及び反応の速度を定量的に表現する理論の構築,及び構築した理論を用いて開発した反応速度の定量的解析手法と得られる成果について報告されている.論文は英文で7章からなり,第1章は研究の背景と本研究の目的を述べた序論,第2章は測定法の原理と実験方法,第3章は反応速度・頻度の理論,第4章は実験データの理論的な解析法とその成果,第5章はPt(111)及びPd(111)表面における孤立水分子・水分子ダイマーの吸着構造解析と振動分光,第6章はCu(111)表面における(CH3S)2の解離反応のメカニズム,そして第7章は結語である.以下,章ごとの内容をやや詳しく述べる.

第1章は,STMを用いた単一分子振動分光研究の歴史と,本論文の目的について述べられている.単一分子の振動分光法は,次世代ナノスケールデバイス作成技術の創成,及び表面化学反応のメカニズムの理解に必要不可欠である.Action spectroscopy (STM-AS)と呼ばれる、分子の反応速度の印加電圧依存性から振動エネルギーを求める手法が実験的に確立されつつあるが,得られるスペクトルの定量的理解が不十分で、正確な振動エネルギーが得られないのが現状であった。本論文ではスペクトルの理論的かつ定量的な理解を通じて、実験データから正確な振動エネルギーを求める方法、そしてスペクトル形状から種々の物理量を算出する方法について研究した.

第2章は,実験に用いた2種類の測定手法、STMとHREELS(High resolution electron energy loss spectroscopy)の原理と実験装置,及び試料調整について記述されている.STMを用いた分光法の原理については特に,最先端の情報も含めて詳しく述べられている.

第3章では,トンネル電子によって誘起される表面上の分子の運動及び反応速度の理論的な解析について述べられている.反応頻度の電圧依存性及び反応速度の電流依存性を表現する関数を,power lawと呼ばれる関係式に従う単純なモデルを元に反応速度論的解析を進めることによって求めることに成功した.実験データの解析への応用のため,多数の振動モードの励起が関与する反応メカニズムを想定するなど,モデルの一般化を進めた結果,汎用的かつ実用的な関数が得られている.分子の反応速度が,STMの印加電圧及びトンネル電流に加えて,振動エネルギー,反応に必要な電子数である反応次数,振動寿命などによって決まる速度定数,振動のエネルギー幅によって決まることが分かった.

第4章は,過去の実験データの理論的な解析を通じて,第3章で求めた反応頻度の電圧依存性及び反応速度の電流依存性を表現する関数が実際の実験データをよく再現していること,またこの関数を用いた実験データの解析から反応メカニズムに関する様々な情報が得られることについて詳細に論じている.STM-ASのスペクトル形状の定量解析から,正確な振動エネルギー,反応次数,速度定数,振動のエネルギー幅を決定できることが分かった.以上のパラメータをさらに解析することで,反応障壁高さ,及び振動モード間の非調和カップリングの速度定数の見積もりが可能であることも分かった.一方,反応速度の電流依存性の理論は,長年の疑問であった非整数の反応次数の起源の解明に用いられた.異なる反応次数を持った複数の反応プロセスが同時進行するのがその起源であることが提案された。また理論を用いた実験データの定量解析は,それぞれの反応プロセスによる反応速度を独立的に求めることができる.

第5章では,Pt(111),Pd(111)表面上の単一水分子及び水分子ダイマーの吸着構造と動的挙動の解析について述べられている。水分子の配向性は金属電極表面上の電気二重層の形成に関わるなど重要なテーマであり,表面科学の分野で長く議論されてきたが,水素原子の位置を決定することが難しかった。本論文ではSTM-ASによる単一分子振動分光とその理論的解析,及び量子科学計算を組み合わせることで、Pt(111)上の水分子ダイマーの構造解析に成功し、一つの水素原子が基板方向を向いた吸着構造を見出した。Pd(111)上の水ダイマーについては理論計算の結果の不足のため吸着構造の決定には至らなかったが,Pt(111)上の水ダイマーとは異なる吸着構造を持つことが示唆された.その他,孤立水分子の及びダイマーの吸着サイト,拡散挙動,極低温におけるダイマーの回転運動などがSTM観察によって明らかになった.

第6章は,Cu(111)上での(CH3S)2 (dimethyl disulfide: DMDS)の解離反応のメカニズムについて詳細に議論している.この反応は自己組織化膜形成の素過程の一つとして過去にもSTMを用いて研究されていたが,その反応メカニズムを完全に解明するには至らなかった.STM-ASの結果に本研究で開発した理論的解析を適用することで反応メカニズムの解明を試みた.この反応は2次の反応次数を示すことからC-H伸縮振動の2段励起が反応を誘起すると考えられていたが,実際には1電子がC-H伸縮振動を、もう1電子がS-S伸縮振動を励起することで反応が進行することを,理論的解析によって証明した.振動モード間の非調和カップリングの効率の変化が,両振動モードの同時励起に誘起される反応の起源として提案した.さらに,基板温度を変えながら反応次数の測定を行ったところ,25 Kで反応次数が1.4と求められたのを境に,反応次数が2から1に遷移することを発見した.これは基板温度の上昇により新しいメカニズムで反応が進行することを示している.25 Kにおける非整数の反応次数の解析の結果,高温では16 mVの振動モードの熱励起とC-H伸縮振動の電子による励起が同時に起きた時に反応が進行することが分かった.分子の感じるポテンシャル表面の二次元的な切り口を考えることで,基板に束縛された振動モードと思われる16 mVの振動モードの励起による反応の促進が説明できる.

第7章は,結語であり,本博士論文で解明されたことを簡潔にまとめている.

なお,本論文の第3章と第4章は金有洙,上羽弘,川合眞紀,第5章は石垣(旧姓松本)周子,金有洙,川合眞紀,第6章は荒船竜一,小原通明,金有洙,川合眞紀との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験と理論的解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.したがって,博士(科学)の学位を授与できると認める.

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