学位論文要旨



No 127219
著者(漢字) 安藤,俊哉
著者(英字)
著者(カナ) アンドウ,トシヤ
標題(和) 鱗翅目昆虫に特有な触角の形態進化の解析
標題(洋)
報告番号 127219
報告番号 甲27219
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第666号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,晴彦
 東京大学 教授 野田,博明
 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 東原,和成
 東京大学 准教授 鈴木,雅京
内容要旨 要旨を表示する

序論

ダーウィンフィンチのくちばしの形態多型に代表されるように、生存に有利な形質の獲得には体の形態の変化を伴う。しかし、そのような形態進化の分子メカニズムはあまりよくわかっていない。私はそれを調べる対象として、鱗翅目昆虫(蝶や蛾からなる昆虫の一群)の触角に着目した。多くの蛾は性フェロモンを利用して暗闇で遠くのパートナーの居場所を見つけ、その受容器官の触角はフェロモンを効率良く受け取れるようにしばしば突起状の側枝を飛び出させている(図1A)。祖先的な鱗翅目昆虫や蝶などの昼行性の種の触角では側枝がないことから(図1B)、この構造はフェロモンの受容効率が次世代を残すのに重要な意味をもつ夜行性の種で獲得されてきたと考えられている。本研究では、側枝構造の進化をモデルとして形態進化に関わる分子メカニズムの解明を目指した。側枝を持つ種としてカイコBombyx moriを選び、側枝形成に関わる分子の同定とその機能解析を試みた。さらに、側枝を持たないヨトウガMamestra brassicae(図1C)を用いた近縁種間の比較解析により、形態形成に関わる分子メカニズムが側枝獲得に向けてどのように進化してきたのかを考察した。

本論

1.カイコ触角の側枝構造の形態形成過程

まず、ほとんど明らかになっていないカイコ触角の側枝の形態形成過程を詳しく調べた。昆虫の触角には種間で保存された3節構造が存在する。根元からa1節(柄節)、a2節(梗節)、a3節(鞭節)と呼び、a3節は複数の小節の繰り返しからなる。カイコではa3節の1小節あたり1対の側枝が生えており、その腹側は嗅覚を担う感覚毛で覆われている(図2A, A')。完全変態昆虫であるカイコは幼虫・蛹・成虫期で触角の構造が異なる。そこで、側枝構造が形成される蛹期に着目して側枝上皮の形態変化と細胞増殖を詳細に調べた。

蛹化直後の触角は中空の袋状であり(図2B)、触角の断面を経時観察すると、上皮の形態変化に先立って腹側に肥厚した部分(以下、肥厚上皮と呼ぶ)が現れ、この両端が突出して前後一対の側枝が形成されていた (図2C)。さらに詳しく形態形成前後の上皮の位置関係を調べるために、側枝の腹側と背側で発現する2種類の分子マーカーを用いて経時観察を行った。1つ目は側枝の腹側を占める神経細胞を可視化するマーカー(atonal (ato)、抗HRP抗体陽性神経細胞)で、観察の結果、神経に分化する領域が肥厚上皮上に小節ごとの間隔で並んでおり(図2D、ato、この領域を神経腹側領域と命名)、その領域が伸長して最終的に側枝の腹側を占めることが判明した(図2E、緑、間の領域は非神経腹側領域と命名)。もう1つの分子マーカーは側枝の背側で発現することが見出された転写因子aristaless (al)で、側枝の背側を占める上皮(側枝背側領域と命名)は初め神経腹側領域の両端に位置し(図2D、ato, al、白矢尻)、細胞増殖を伴って伸長していくことが判明した(図2E、紫)。

以上の結果は、神経腹側領域と側枝背側領域がそれぞれ伸長することが側枝の形成には重要であることを示唆する。

2. カイコ触角における転写因子・モルフォゲンの発現パターン

側枝形成に関わる分子を同定する方法の一つとして、昆虫共通の触角形成機構に着目した。触角の3節構造の形成機構は、ショウジョウバエで詳しく調べられており、Distal-less (Dll)やhomothorax (hth)といった領域特異的に発現する転写因子群が、a1節~a3節の予定領域を明確に3つに分ける。様々な昆虫における発現パターンの解析から、触角の3節構造の形成機構は広く昆虫間で保存されていることが示唆されている。また、ショウジョウバエではこれらの転写因子の発現はWnt やTGF-β、EGFR ligandsといったシグナル伝達系のリガンド(モルフォゲン)の濃度勾配に従って誘導される。

このメカニズムが側枝を持つカイコの触角にもあてはまるかを検証するために、転写因子・モルフォゲンの発現を幼虫の触角原基と蛹の触角においてin situ hybridizationにより調べた。その結果、ほとんどの転写因子は、終齢幼虫後期(5齢5日後、V5)までは他の昆虫同様3節の触角節を区切る発現パターンのみを示すが、V5以降a3節内で発現する転写因子は側枝形成と深く関連する領域(神経腹側領域、非神経腹側領域、側枝背側領域:以下、「側枝と関連した領域」と呼ぶ)と一致する発現パターンを示した(図3A)。一方で、モルフォゲンの中ではwingless(wg)とrhomboid(rho)がどの転写因子よりも早く側枝と関連した領域で発現し(図3B-E)、最終的に5つのモルフォゲンが側枝と関連した領域で発現していた(図3F)。

以上の結果から、カイコでも触角原基では昆虫間で共通の3節を作る転写因子群によって触角の3節が区分けされるが、終齢幼虫後期以降に側枝形成に向けてそのパターンを変化することが示唆された。さらに、その発現誘導には、より早い時期から側枝と関連した領域で発現するモルフォゲンwg、rhoが関与する可能性が考えられた。

3. 側枝形成に関わる未知の因子の探索

触角形成に関わる遺伝子を同定するもう一つ方法として、マイクロアレイを用いた未知の因子の探索を試みた。側枝形成前の蛹の触角では、側枝と関連した領域が触角の腹側部分に偏っていることに着目し、触角を腹側部分と背側部分に切り分けて遺伝子発現を比較した。その結果、側枝腹側で強く発現する機能未知の転写制御因子を36個見出した。一方で、反対に24個の腹側で発現が抑制されている転写制御因子も見出され、その中には脱皮ホルモン(エクジソン)応答性の核内受容体が含まれていた。クチクラタンパク質を含む多くの分泌タンパク質をコードする遺伝子も発現抑制されていたことから、側枝と関連した領域では、ホルモンに対する応答性が周囲と異なることが示唆された。

4. カイコの側枝形成におけるNotchシグナルの役割

他の遺伝子よりも早い時期から側枝と関連した領域で発現するモルフォゲン遺伝子wgは、他の昆虫の触角では、触角の腹側で一筋の途切れのない発現を示すのに対し、カイコではそれが等間隔に分断されるように発現パターンが特殊化したと推測される。このように発現領域を分断するには、a3節の小節ごとに発現する制御因子の影響を受ける必要がある。側枝のない他の昆虫でもa3節の小節構造は存在し、小節への分断化にはNotchシグナルが等間隔に活性化することが重要だと考えられている。そこで、RNAi法を用いてカイコ触角でNotchの機能を阻害し、wgの分断化した発現と側枝形成が抑制されるかを検証した。Notchに対する二本鎖RNAを、触角原基が形成される前の4齢幼虫に投与すると、a3節の小節の境が無くなり、隣り合う側枝同士が融合する表現型が見られた(図4A、B)。wgの発現に関しては、RNAi処理個体において、本来発現が分断される領域で異所的な発現が見られたことから(図4C)、wgの発現の分断にNotchシグナルが関与することが示された。以上の結果は、カイコの触角でもa3節内を等間隔の小節に区切るNotchシグナルを介したメカニズムが保存されており、その影響を受けてwgの発現が分断されることを示唆する。

5. 側枝のないヨトウガ触角における遺伝子発現

カイコ触角で側枝と関連した領域で発現するモルフォゲン遺伝子(wg、rho)や転写因子遺伝子(Dll、al)の発現は、側枝形成に重要な役割を果たす可能性が高い。これらの発現領域を、側枝を持たない触角を持つヨトウガと比較し、どのような発現パターンの違いが側枝形成に関わるかを推定することにした。その結果、転写因子はカイコとは異なり側枝と関連した領域を区切る明確なパターンを示さなかったが(図5、Dll, al)、意外な事に、モルフォゲンは小節ごとに分断化されたカイコ同様のパターンを示した(図5、wg、rho)。以上の結果から、カイコ・ヨトウガの鱗翅目の共通祖先において、他の昆虫では見られない分断化したモルフォゲンの発現パターンが出現したものの側枝の形成には至らず、さらに側枝と関連した領域を明確に区切って転写因子が発現するようになることで側枝構造が形成されると考えられる。

結論

本研究では、カイコなどの鱗翅目昆虫の触角発生では、肥厚上皮の神経腹側領域と隣接する側枝背側領域が伸張して側枝構造が形成されることが明らかになった。さらに、昆虫に共通した触角3節構造の形成に重要な転写因子・モルフォゲンの一部がそれらの領域の区画分けに利用されていることを見出した。他の昆虫の触角で見られないこの特殊なパターンは、昆虫共通の触角3節を区切るパターンが幼虫期に形成された後に出現し、その発現の開始にはwg、rhoの発現が重要であることが示唆された。一方で、マイクロアレイを用いた未知の因子の探索によっても、側枝形成に関与する複数の転写制御因子の候補を見出した。

RNAiの実験によりwgが等間隔に分断されるカイコ特有の発現パターンについては、Notchがa3節内を小節に区画化するメカニズムが転用されていることが示唆された。さらに、側枝のないヨトウガの触角との比較から、そのwgの発現制御の変化はカイコとヨトウガの共通祖先で起きたが、それだけでは側枝の形成には至らず、Dllやalへの発現制御の変化がさらに加わることで側枝構造が生じたことが示唆された。これらの結果は、鱗翅目昆虫の適応的な触角形態の進化においては、複数の発現制御の獲得過程が必要であったことを提示している。

図1 鱗翅目昆虫の触角構造

(A) カイコの触角(B) 祖先的な鱗翅目コバネガの触角(C) ヨトウガの触角

図2 触角の側枝構造とその形態形成

(A)カイコ成虫の触角 (A')側枝の近位側からの写真(B)蛹化直後の触角(C)側枝形成の間の上皮の形態変化(断面)、肥厚上皮部分(矢印)が大きくカーブして前後の側枝の腹側部分となる。P24h・P48h・P72h:蛹24時間・48時間・72時間(D)P24hにおけるato, alの発現領域、写真は図Bの四角部分に相当。横線で挟まれた部分全体が肥厚上皮、ato、alの写真で白矢尻(神経腹側)と黒矢尻(非神経腹側)は対応する位置を示す。(E)側枝背側と神経腹側、非神経腹側の位置の変遷

図3 触角形成に関わる転写因子・モルフォゲンの発現パターン

(A)側枝の形成に関連した転写因子の発現バターン、DIIの例とその他の遺伝子の発現のまとめ(B,C)V5触角原基でのwg、rhoの発現パターン (腹側) (D、E)図B,Cの四角の部分の写真。wgは上皮の凹凸の谷の部分、rhoは山の部分で発現し、発現領域が異なる。(F)側枝の形成に関連したモルフォゲンの発現パターン、wingless(wg)、rhomboid(rho)の例とその他の遺伝子の発現のまとめ

図4 Notch RNAi 固体の触角の表現型とwgの発現パターン

(A)RNAi 固体の表現型、Normal :正常、I:側枝が1ヶ所融合、II:側枝が複数ヶ所融合、III:3小節分以上の大き側枝の融合(B) Notch 二本鎖RNA処理、Ubx 二本鎖RNA処理、Buffer処理、各条件での表現型異常固体数の分布(C)Notch RNAi 処理固体と(D)未処理固体のwgの発現。矢尻は野生型では分断されて発現しないはずの領域での発現。

図5 側枝のないヨトウガにおける wg、rho、DII、alの発現パターン

蛹の触角 a3節における発現を示す。

審査要旨 要旨を表示する

本論文では、鱗翅目昆虫の触角における側枝構造の獲得進化をモデルとして形態進化に関わる分子メカニズムに関して解析した結果が述べられている。論文は5章からなり、第1章は、側枝構造の形態形成過程の基礎的な知識を得る目的で、カイコをモデルとして、発生過程における触角の形態変化について解析した結果が述べられている。第2章では、鱗翅目外の昆虫で触角の発生過程で共通に利用されている転写因子・モルフォゲン遺伝子に着目し、側枝形成に関わる遺伝子の探索を行った結果について述べられている。第3章では、側枝形成に関わる領域の位置決定に関わる未知の制御因子を探索する目的で、カイコマイクロアレイを用いて候補因子の探索を行った結果について述べられている。第4章は、触角におけるNotchシグナルの役割についての機能解析を行った結果について述べられている。第5章は、カイコと近縁で側枝を持たないヨトウガでの遺伝子発現パターンを調べており、その結果をもとに、鱗翅目内での触角の形態進化の分子メカニズムついて考察している。

第1章 カイコ触角における側枝構造とその形態形成過程の観察

鱗翅目昆虫は蝶や蛾からなる昆虫の一群であり、その一部の種の触角はフェロモンをより受け取りやすいように側枝構造を持つ。この構造がどの様に形作られるかを理解するために、カイコ触角の側枝構造をモデルとした形態形成過程の観察を行っている。その結果、側枝構造の形成に大きく寄与する側枝背側領域と神経腹側領域という2つの領域を見出している。さらに、細胞増殖と細胞死のパターンの観察から、これらの領域の拡大には領域特異的な細胞の挙動が重要だということを見出している。一方、側枝を持たない鱗翅目昆虫の触角との表面構造の形態学的な比較から、特に側枝背側領域を占める上皮の拡大が側枝を持つ触角特有の発生プロセスであることを提示している。

第2章 側枝形成と関連した領域での転写因子・モルフォゲン遺伝子の発現パターン

側枝形成に関連する領域がどの様に形作られるかを理解するには、触角内での領域決定に関わる分子メカニズムを理解する必要がある。そこで、昆虫共通の触角3節構造や、触角の先端部分の形成に重要なモルフォゲンと転写因子に着目し、側枝を持つカイコの触角と他の昆虫の触角で触角の基本構造の形成機構に違いがないかを調べている。その結果、終齢幼虫のワンダリング開始期(V5)を境に、多くの転写因子が他の昆虫と共通の発現パターンから、側枝形成と関連した領域を明確に区切るカイコ特有の分節状の発現パターンへと、大きく発現パターンが変化させることを見出している。さらに、その発現誘導にはモルフォゲン関連遺伝子wingless (wg)とrhomboid (rho)が関わることが示唆され、これらの遺伝子が分節状の発現を示すことが側枝形成に関わる領域の位置決定に重要だということを提示している。

第3章 マイクロアレイによる側枝形成に関わる因子の探索

第2章で解析した遺伝子以外にも側枝の形成に関わるカイコ特有の遺伝子がないかをマイクロアレイによって検索し、複数の側枝形成に関与する候補遺伝子を見出している。これらの遺伝子は、側枝形成の未知の側面を解明する上で重要な手掛かりとなることが期待される。

第4章 カイコの触角形成におけるNotchシグナルの役割

第2節で明らかとなったwgの分節状の発現が他の昆虫で見られないことに着目し、その発現パターンが生じる原因をRNAiにより調べている。その結果、wgの分節状の発現には他の昆虫にはないNotchシグナルによる抑制制御が関わることが示され、これがカイコで見られた特有の遺伝子発現パターンを引き起こす一つの原因となったと推察している。

第5章 側枝のない触角を持つヨトウガでの転写因子・モルフォゲン遺伝子の発現パターン

側枝形成に重要だと考えられる分節状のモルフォゲンの発現と転写因子の発現が鱗翅目内でどの様に獲得されてきたのかを、側枝を持たない近縁種ヨトウガを用いて調べている。その結果、カイコとヨトウガの共通祖先でモルフォゲン遺伝子の分節状の発現が現れたが、さらに、ヨトウガとカイコが分岐した後に、転写因子の発現パターンが変化し、側枝形成に適した領域が形成されるようになったと推察している。

以上の解析結果から、鱗翅目昆虫の触角の側枝の形態進化において、モルフォゲンや転写因子といった発生に重要な制御因子の発現領域を段階的に変化させて、最終的に形態形成に適した種特有の組織の区画分けを実現することが重要であることを提示し、形態進化に伴う分子メカニズムの変遷の一端を明らかにすることに成功している。

本研究は、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったものであり、博士(生命科学)学位を授与できると認める。

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