学位論文要旨



No 127252
著者(漢字) 主原,愛
著者(英字)
著者(カナ) シュハラ,アイ
標題(和) 大学の実験研究における危険予測を目指した実験作業の構造化
標題(洋)
報告番号 127252
報告番号 甲27252
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第699号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大島,義人
 東京大学 教授 森口,祐一
 東京大学 准教授 徳永,朋祥
 東京大学 准教授 大友,順一郎
 東京大学 准教授 布浦,鉄兵
 大阪大学 教授 山本,仁
内容要旨 要旨を表示する

1. 研究の背景と目的

分野の細分化や目的・専門性の多様化から、実験研究には新規性・独創性・先端性が強く求められ、また、育成した人材が科学技術発展の質を左右することから、大学は研究と教育の両立という難しい使命を負っている。研究で成果が上がる一方で、その過程では事故が生じており、解析手法などの事故防止にむけた対策が提案されている。主に産業界への適用を目的として提案されている既往の事故分析手法や安全管理手法は、個々人が千差万別な研究テーマを有する大学での実験研究においては必ずしも効率的ではなく、大学の特徴を反映した対策が求められている。対策立案に必要不可欠な大学での実験研究の特徴として、目的達成のために自ら手順を構築し、最適な方法論の試行錯誤的な探索自体に価値のある研究も多くあること、型にはまらない自由な発想が研究の独創性の源であることが挙げられる。大学の実験研究における危険予測手法構築には、個々の作業者と作業の相対的な関係性を一般化して整理することが必要である。さらに本論文では、「危険」を「作業者の想定と作業結果との相違」と定義した上で、作業者の想定と作業結果の関係性を実験作業の構造として捉え、両者の相違が発生する要因を科学的に解明することを本研究の目的として述べた。具体的には、第2章から第5章までにおいて、実験操作における作業者の認識や作業実施の仕方、作業者の意識に影響する背景的要因、作業の巧拙を特徴づける作業者の判断指標の抽出、作業者の認識と行動への影響についての検討を行い、第6章において作業者の想定と作業結果との関係性の観点から実験作業の構造化をはかり、この構造に基づく危険予測手法構築に向けた議論を行った(図1)。

2. 実験操作に及ぼす作業者の認識の影響

~事故事例の解析にみる作業者の作業に対する認識のパターン~

第1章で定義した「危険」が顕在化した例として事故事例を取り上げ、報告された事故事例を実験作業の構造と照らし合わせて、作業と作業者の構造のどこに原因があるのかについて解析を行った。対象には、2004-2008年度に東京大学構内で発生し同大環境安全本部に報告された457件のうち、実験研究に関する272件の事故・ヒヤリハット事例などを用いた。本章では特に、事故発生の背景的要因を、作業者の作業に対する「認識」と「実施」の2段階で分類することにより、作業者の想定と作業結果との相違の発生パターンについて考察した。結果から、背景要因は、(1)作業の認識、(2)作業の実施のやり方、(3)作業の作業全体の中での位置づけの、いずれかにある場合として整理された。この事故の分類を通して、関連する物質や作業によってではなく、作業者と作業の関係における作業者の状態によって、危険の発生パターンについて議論した。

3. 作業者の安全意識に影響する背景的要因の解析

~大学の実験作業に関するアンケートを用いた安全意識に関する因子分析~

作業者が実験を行う際には、作業者の操作や対象に対する認識が作業のなされ方に影響すると考えられる。そこで、大学で実際に実験研究を行う学生や研究者の安全意識を調べる目的で、実験時の行動や習慣、研究室内の安全管理体制などについて、国内8大学・高専の理系学生406名を対象にアンケート調査を試みた。得られた回答について探索的因子分析により統計学的に解析し、被験者の安全意識の背景的因子として「安全教育・安全体制」「手順」「自己防衛」「自己満足感」の4因子が抽出された(表1)。検証的因子分析から、この4因子により安全意識の構造を比較的よく記述できること(適合度指標CFI=0.966)を確認した。また、大学や研究室の安全体制に対する意識についての質問項目結果との相関分析から、「安全教育・安全体制」の因子に強い相関を示すことを明らかにした。この検討では、実験研究における安全を、作業者の潜在意識において具体的に表す指標として明らかにし、その因子の負荷量により事象を理解する手法を提案した。

さらに、母集団の違いに基づく安全意識の相違を考察するべく、生命系研究室所属の学生に同一の調査・分析を行なった。回答内容や抽出された因子に明らかな相違が見られたことから、分野による特徴的な安全意識が存在する可能性があることなどを明らかにした。

4. 実験操作における作業の分類法の提案

~学生実験における作業のなされ方を特徴づける因子の抽出とそれに基づく作業の分類~

危険予測を目的とした実験作業の構造化には、作業者によってどのように行なわれるのかという観点で作業を評価することが必要であり、その観点で作業の巧拙を特徴づけるような因子を抽出することが望ましい。そこで、作業がうまくなされるための指標を明らかにすることを目的として、点数化した作業結果に因子分析を適用して考察した。対象には、化学系の学生実験(学部学生の実験講義)を例として取り上げ、同一の実験を行う複数の作業者の行動をビデオ解析することにより、実験作業がうまくなされるための指標の抽出を試みた。工学部化学生命系の学部3年生の学生実験のうち、Friedel-Crafts実験を行う学生17名の実験の様子をビデオ撮影し、実験全般に関わる50項目について学生の行動を、実験経験豊富な元研究者である評価者に5段階で採点してもらい、その評点結果について項目毎に平均と標準偏差を求めた。標準偏差の大きい15項目について、探索的因子分析を行った(表2)。抽出された因子は「予測力」「技術的再現力」「同一性の認識力」に関連した独立の指標であり、全分散の69.4%を説明可能であった。これらの指標は、学生実験のようなテキスト化された比較的簡単な実験を遂行する上でよく言われる注意事項と一致した。本手法で得られた因子は、「上手にできるか否か」の観点で、Friedel-Crafts実験の作業全般に関する内容について質問した項目の回答から抽出したものであり、また、採用した評価者の作業の上手下手を評価する指標であることから、抽出された因子は、一般的なものであると考える。さらに、実験の巧拙を左右する因子で作業を分類できること、作業における負荷量の高い因子を認識しているのかどうかで作業の上手下手が決まることは、学生実験でも研究室での実験でも適用される特徴であると考える。

さらに、テキストで指示されている実験手順中の9工程に区切って実験行動の出来を採点し、先の因子との関係性をPearson's相関係数で評価した。この結果から、一部の作業工程に上記の3因子のいずれかに有意な相関を示すものが含まれることが明らかとなった。学生実験の一般的な注意事項として説明される事柄が、具体的にどの実験工程で強く要求されるかを示すデータと解釈できる。さらに、作業内容が類似の作業工程であっても、手順中の位置関係によって、巧拙に関する因子への負荷量が異なることが示された。このように、相関分析から抽出した各指標への因子負荷量の大小によって、作業工程を分類できることを明らかにした。この手法は、実験研究の多様性を反映する作業一般化のための評価手法として期待される。

5. 作業者の危険認識と行動への影響の評価

~歩行作業の視線解析による危険認識と行動の関係性~

作業者の想定と作業結果の関係性を明らかにするべく、実験室内の歩行における視線解析実験を行い、被験者へのヒヤリングと組み合わせて解析することにより、危険に関する作業者の認識と注視行動に表れる作業結果との関係性について議論した。ここでは、実験で得られた結果を、危険と認識する人数と注視時間のマトリックス(図2)で表すことにより、危険に関する認識と注視時間の間に発生するミスマッチについて考察した。また、同じ物でも置かれる場所によって作業者の危険認識や注視時間に相違があることから、注視時間のうち危険と認識して注視されている時間の割合を危険認識度として定義し、歩行における物の危険性を表す定量的指標として提案した。加えて、ヒヤリングを通した意識付けには、全体的な注視行動を増加させる効果があることが示された。

6. 実験作業の構造と作業者の想定との関係

第2章から第5章までで得られた知見を基に、作業者の想定と作業結果との関係性の観点から実験作業を構造化した。まず、科学系実験の特徴をふまえ、実験手順とは、「着目する対象に、道具を使って、目的の状態変化を生じさせるための順番」であり、その単位構造は、「対象にエネルギーや物質が加えられることにより、ある状態から異なる状態への変化と定義できる」と定義した。実験では、作業者がエネルギーや物質を投入するという単位構造が、連続的に引き続いて並んだ手順を実施することから、この現象全体が、すなわち実験作業であり、「作業者が、実験手順を実施する行為」と定義できる。

このことをふまえ、各章での検討で明らかになった事柄が、作業者の作業想定と作業実施の相違で捉える危険の構造において有する意味について考察を行った。また、その構造に基づく新たな危険予測手法の可能性について論じた。特に、実験研究における危険予測は、事象の担い手である作業者が作業をどう認識し実施するかという作業者と作業との関係性で議論することが重要であり、各章の検討結果がこの関係性の議論に有用な知見を与えることについて述べた。実験を行う際には、作業者は実験開始前に行う手順を定め、それに従って実験を進めること、作業者の行動は認知・判断・操作で構成されること、手順遂行に際して遭遇する状態に応じて作業者が想定を変更していることから、実験作業は、静的な部分と動的な部分によって構成されていることを示した。すなわち、定まった静的な作業手順をベースに作業者が実験を進行させる一方で、作業者が目前の対象に対して認知・判断・操作を繰り返し、フィードバックに応じて作業手順の変更が生じ得るような動的な作業者行動が行われるという構造である。このようなスキームに基づけば、危険が、静的な部分である「初めに定める作業手順」、もしくは、動的な部分である「実験の進行に伴って遭遇する一瞬一瞬での作業者行動」のどこに発生しそうであるのかについて整理することが可能になると考えられる。

7. 総括と今後の展開

以上の検討から、大学の実験作業において、作業者の想定と作業実施の相違として捉えるという全く新しい視点で、大学の実験研究における危険を考察し、危険の予測につながるような実験作業の構造化を行ってきた。得られた結果は、実験研究の安全管理に対して非常に新しい切り口であり、また、大学の実験作業環境の改善に直結する知見が得られており、日本の理工学研究を支える実験研究における教育や管理手法への応用可能性も考えられる。

今後、危険の予測を目指して作業者の想定と作業結果との関係性をさらに深く検討していく上では、作業者が作業者自身を評価する手法を確立することが必要であると考える。すなわち、作業手順中の、潜在的な危険要素の認識の有無と実際の作業者の行動との関係性を評価し、その方法論の妥当性を検証することが重要であると考えられる。潜在的な危険要素の認識の有無に関しては、各要素の認識を可視化する手法の構築が求められる。また、実際の行動に関しては、刺激と行動変化の関係性について検討を行う。そして、両者を合わせて評価するのである。これらの検討により得られた知見を基に、よりよい予測手法の開発が実現できることが期待される。

図1 本論文の危険の定義

表1 探索的因子分析の結果

表2 探索的因子分析の結果

図2 危険認識と注視時間

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「大学の実験研究における危険予測を目指した実験作業の構造化」と題し、大学の実験研究現場の事故や災害について、研究分野の細分化や研究目的の多様化が進む中で、個々の実験研究の独創性や先端性を確保しつつ、実験を安全に遂行するための新たな方法論の提案を目的とした研究であり、全7章から成る。

第1章は緒言であり、研究の背景や目的が述べられている。まず、研究機関と教育機関の二つの側面を有する大学の役割と、そこで行われる実験研究の特徴に触れ、法人化に伴う安全管理体制が整備される一方で、依然として実験研究中の事故が少なからず発生している現状について述べている。次に、主に産業界への適用を目的として提案されている既往の事故分析手法について、その特徴と問題点をまとめた上で、大学の実験研究における危険予測手法構築には、個々の作業者と作業の相対的な関係性を一般化して整理することが必要であると論じている。さらに本論文では、「危険」を「作業者の想定と作業結果との相違」と定義した上で、作業者の想定と作業結果の関係性を実験作業の構造として捉え、両者の相違が発生する要因を科学的に解明することを本研究の目的として述べている。

第2章では、第1章で定義した「危険」が顕在化した例として事故事例を取り上げ、東京大学で2004年から2007年に報告された全457件のうち、実験研究に関する272件の事故・ヒヤリハット事例について解析を行った結果を述べている。特に、事故発生の背景的要因を、作業者の作業に対する「認識」と「実施」の2段階で分類することにより、作業者の想定と作業結果との相違の発生パターンについて議論している。

第3章では、大学で実際に実験研究を行う学生や研究者の安全意識を調べる目的で、実験時の行動や習慣、研究室内の安全管理体制などについて、国内8大学・高専406人を対象にアンケート調査した結果について述べている。得られた回答について探索的因子分析を行い、被験者の安全意識の背景的因子として「教育」「自己防衛」「手順」「自己満足感」の4因子が抽出されたこと、大学や研究室の安全体制に対する意識は「教育」の因子に強い相関を示すこと、さらに、母集団を特定の研究分野に限定して同じ調査を行ったところ、回答内容や抽出された因子に明らかな相違が見られたことから、分野による特徴的な安全意識が存在する可能性があること、などを明らかにしている。

第4章では、化学系の学生実験を例として取り上げ、同一の実験を行う複数の作業者の行動をビデオ解析することにより、実験作業がうまくなされるための指標について議論している。まず、ビデオ映像から各作業者の作業行動を点数化し、その結果を探索的因子分析することによって、作業の巧拙を判定する指標として「同一性の認識力」「技術的再現力」「予測力」を抽出している。次に、テキストで指示されている実験手順中の9つの作業工程について、各作業者の作業結果と先に抽出された指標との相関より、各指標への因子負荷量の大小によって作業工程を分類できることを明らかにしている。さらに、作業内容が類似の作業工程であっても、手順中の位置関係によって、巧拙に関する因子への負荷量が異なることがあると論じている。

第5章では、実験室内の歩行における視線解析実験を行い、被験者へのヒヤリングと組み合わせて解析することにより、危険に関する作業者の認識と注視行動に表れる作業結果との関係性について議論している。ここでは、実験で得られた結果を、危険と認識する人数と注視時間のマトリックスで表すことにより、危険に関する認識と注視時間の間に発生するミスマッチについて考察している。また、同じ物でも置かれる場所によって作業者の危険認識や注視時間に相違があることから、注視時間のうち危険と認識して注視されている時間の割合を危険認識度として定義し、歩行における物の危険性を表す定量的指標として提案している。

第6章では、第2章から第5章までで得られた知見を基に、作業者の想定と作業結果との関係性の観点から実験作業の構造化をはかるとともに、その構造に基づく新たな危険予測手法の可能性について論じている。特に、実験研究における危険予測は、事象の担い手である作業者が作業をどう認識し実施するかといった、作業者と作業との関係性で議論することが重要であり、各章の検討結果がこの関係性の議論に有用な知見を与えるものであることを述べている。

第7章では、以上の結果を総括するとともに、教育や管理手法への応用可能性を含め、今後の展望について述べている。

以上要するに、本論文は、実験研究の安全管理に対して全く新しい切り口から最適化を目指す点で研究としての新規性も高く、また日本の理工学研究を支える大学の実験作業環境の改善に直結する知見が得られた点で、社会的意義も大きいと考えられる。

よって本論文は博士(環境学)の学位請求論文として合格と認められる。

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