学位論文要旨



No 127279
著者(漢字) 黒木,忍
著者(英字)
著者(カナ) クロキ,シノブ
標題(和) 初期触知覚過程における低周波振動覚の機能モデルの研究
標題(洋)
報告番号 127279
報告番号 甲27279
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第317号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 システム情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 満渕,邦彦
 東京大学 教授 石川,正俊
 東京大学 准教授 篠田,裕之
 東京大学 准教授 渡邊,克巳
 東京大学 講師 鈴木,隆文
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目標は,未だ理論の確立されていないヒト脳内の初期触知覚過程について,物理次元の「現象」と知覚次元の「感覚」の対応関係を体系付ける知覚心理の手法によって,機能モデルを構築することである.我々の皮下に埋まっている複数の受容器は,それぞれ異なる法則に則って皮膚表面の変形を符号化しており,中枢はこの複数の符号化された情報を適宜個別に,あるいは組み合わせて処理し,外界情報を解読する仕組みを持っている.異なる受容器-神経系(チャネル)では異なる時空間精度で皮膚変形の符号化が行われているにもかかわらず,特定のチャネルに絞って議論した触知覚心理の研究はそれほど多くなく,入力としての皮膚変形は物理的な軸に沿って変更され,生じる知覚との対応が解釈されてきた.しかしチャネルごとに異なる時空間精度で皮膚変形の符号化が行われている以上,中枢においてもチャネルごとに異なる処理が行われている可能性がある.

より厳密に触知覚過程について記述するためには,視覚や聴覚の研究と同様,触覚の知覚心理においてもチャネルごとに機能モデルを構築していくことが必要と考えられる.ここで,末梢のみならず中枢の構造においても,初期体性感覚野ではチャネルごとの情報が別の部位に投射されることが知られている.またチャネルごとの処理に言及した知覚心理においても,別のチャネルに対し加えられた情報は「順応」「遮蔽」「増強」「学習」のような基本的な干渉を起こさない事が示されている.これらの事実から,特に初期触知覚処理においてはチャネルごとに異なる処理メカニズムを持つ可能性があるという仮説を立て,末梢において時間精度の高い速順応系のRA/PCの2チャネルに対し,入力信号の時間・空間周波数を制限してチャネル選択刺激を行うことで情報処理過程の分離を行い,2信号の時空間的な解釈について調べた.

RAチャネルを反映すると考えられる低周波振動覚とPCチャネルを反映すると考えられる高周波振動覚について,「皮膚上の異なる位置に短時間間隔で加えられた刺激がどの様な関係にあると知覚されるか」を調べるため,片手の人差し指と中指に対し2つ振動を加え,知覚される状態の「同時・運動・別々」といった分類と「左・右」といった方向の判断について,刺激時間差による時間的遷移を心理実験によって調べた.実験結果より,(i)低周波振動覚と高周波振動覚では知覚される状態の分類・及び遷移のタイムスパンが異なること(ii)低周波振動覚においては知覚状態の分類が方向判断の正誤に影響しないこと(iii)高周波振動覚においては知覚状態に依存して方向判断が悪化する状況がある事(iv)その結果として,高周波振動覚においては低周波振動覚よりも2信号の時空間的関係性を取ることが困難であること,が示唆された.低周波振動覚においては知覚状態の分類の遷移が時間の関数になっており,時空間判断である方向知覚とは異なるメカニズムに基づく可能性が示唆される.その一方で,高周波振動覚においては知覚状態に依存して刺激位置が知覚空間において縮退し,方向が判断し辛くなる現象が観察され,両者は一部従属関係にある事が示唆される.

受容器の存在密度の低さから空間分解能は高くない事が知られるPCチャネルであるが,高周波振動覚においては2指に渡る空間情報が1点に縮退することが先行研究及び今回の実験において示されており,これは解剖学的な事実だけからは説明することができない.この縮退現象については,時差が小さな場合に生じる現象として従来報告のあったものであるが,実際には時差が大きく仮現運動が知覚されるような場合においても生じることを今回初めて報告した.この事実は,高周波振動覚においては空間的な2点が1点に縮退するのみならず時間的な2点も1点に縮退することを意味しており,一般に空間精度ならばRAチャネル,時間精度ならばPCチャネルとされてきた従来の解釈に疑問を投げかける結果でもある.PCチャネルを主に活動させる高周波振動によっては,ヒトに対して時空間情報の提示を正確に行うことが難しいことが示され,これは情報提示の観念からは大きな問題と考えられる.また,情報処理過程の機能モデルを立てる上でも,高周波振動覚においてのみ生じる空間縮退現象の実態には不明瞭な部分が多く,モデルが複雑化する恐れがある.以上の問題点より,以後低周波振動覚について重点的に調べ進めた.

触覚野においては,皮膚感覚を符号化した信号と姿勢を符号化した信号は別の部位に投射され,段階的に統合されることがわかっている.そこで異なる姿勢下で2信号入力を行った際の知覚状態の分類と方向判断への影響を検証した.片手系において指を交差させ,皮膚座標での2指/3指と環境座標での左/右の関係性を逆転させたところ,方向判断は大きく悪化するという従来研究に即した結果が観測された一方で,知覚された状態の分類に大きな変化は生じなかった.これは状態の分類という時間判断が姿勢覚を入力として持たない一方,方向という時空間判断は姿勢覚統合後に判断されている事を示している.この現象は提案された機能モデルに良く合うものであるが,時空間判断に関しては皮膚座標で判断された後に指姿勢の影響を受けているのか,判断そのものが指姿勢を入力として持つのかが明確に示されていない.よって,被験者の主観報告ではなくメカニズムそのものが表象される座標を調べる必要がある.

視知覚の分野では,順応・遮蔽・閾下加算といった手法によりメカニズムに関してその存在や特性を定量的に調べる事が可能となっている.そこで本研究では運動残効のアナロジを触覚に適用し,指間運動においても運動残効が生じることを示した.このことは,入力信号の特性が大幅に異なるにもかかわらず,方向判断については触覚系にも視覚系と似たメカニズムが存在することを示唆している.この方向判断メカニズムについて,指姿勢を変更して順応して元の姿勢でテスト刺激の方向を答えることで,残効の生じる座標すなわちメカニズムが表象される座標を調べた.結果,指姿勢の統合が必要となる環境座標での残効が強く,皮膚座標での残効は表出しなかった.方向検出メカニズムが複数存在する場合,高次のメカニズムが低次のメカニズムの残効を打ち消してしまっている可能性がある.そこで被験者の方向感を妨害刺激により抑制して実験したところ,残効そのものが安定して生じなかった.一方で,このメカニズムが触覚特有のものではなく,マルチモーダルであるが故に皮膚座標での順応が効いていない可能性も考えられた.しかし順応効果は対側に伝搬しなかったため,今回の残効生成には皮膚に対する局所入力が必要であることが示唆される.これらの実験結果より,低周波振動覚の時空間判断は,メカニズムそのものが姿勢情報を入力として持つ事可能性が示唆された.一般に順応は低次のメカニズムに対して影響し易く,残効の効果も強いことが知られており,今回の実験結果は触覚における低次の方向検出メカニズムの不在ないし脆弱性を示す驚くべき結果である.方向の判断が環境座標である事や被験者の主観と深く関係することからも,時間判断とは異なる機能的な流れを持つことが予想される.

触覚野では片手系の皮膚感覚と姿勢覚が投射される部位よりも上流において両手系の皮膚感覚が投射されているため,両手系で必ずしも片手系と同じ処理が行われるとは限らない.そこでまず,片手系と両手系の時間判断精度の差について,低周波振動よりも時間的に局在した信号を提示可能な電気刺激法を用いたRAチャネル選択刺激法によって確認し,その上で入力精度だけではなくメカニズムそのものが片手系と両手系で異なる可能性について検証を行った.腕を非交差・交差して実験を行ったところ,方向判断だけではなく知覚状態の分類に関しても姿勢による変調が観察された.この事実は両手系の状態分類メカニズムが片手系とは異なる事を示唆している.

片手系の低周波振動覚においては,``時間判断''においては皮膚感覚のみで``高速な処理''が行われており,一方の方向判断は他モーダルとの整合性の高い座標において``ロバストな処理''行われている可能性が考えられ,異なる目的のために両者が検出されている事が予想される.この分業の妥当性について考えると,時間判断によって例えば滑りなどの状態を迅速に判別する事で器用な操作が可能になっており,また時空間判断をロバストに行う事でリーチングタスクなどにおける正確な動作が可能になっていると考えられる.

以上の議論より,選択刺激を用いることで人間の初期時空間触知覚の情報処理過程を心理実験により解析し,低周波振動覚片手系における時間判断と時空間判断について両者の独立性を捉え,姿勢覚の及ぼす影響に基づいて検証を行った.初期時空間触知覚の情報処理過程を知覚心理によって動的に捉え,機能モデルを構築することでその処理の意味合いを明らかにするという本論文の目的は,ここにおいて達成される.同時に,初期触覚情報処理機能モデルに対するチャネルごとの解明の必要性の提起と,姿勢覚統合の状況から処理段階を考察する枠組み,そして電気刺激法・運動残効といった新しい手法の導入は,今後の触覚知覚心理の発展に大きく貢献するものである.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は人間の初期触知覚において最も基本的な機能である短時間に加えられた2信号の関連付けを取り上げ,その情報処理過程を心理実験により解明し,機能モデルを構築することを目指したものである.

これまでに提案されている触覚における簡単な時空間判断についての機能モデルの多くでは,知覚の違いは入力皮膚変形の物理的なパラメータとの対応づけのみで解釈されてきたが,本研究では触知覚の基本的な判断に関しては受容器-神経系(チャネル)ごとに異なる機能メカニズムを持つ可能性があるという仮説を立て,末梢において時間精度の高い速順応系のRA/PCの2チャネルについて比較を行っている.具体的には、低周波振動するピンないし高周波振動する円柱を用いて選択刺激を片手の人差し指・中指の2か所に対して短時間間隔で加え,その2つの刺激が「同時」「どちらからどちらかへ運動」「別々」のいずれと感じるかという主観的な知覚状態と,「右」「左」という方向を調べた結果,低周波振動覚と高周波振動覚とでは、この状態と方向それぞれの判断傾向が異なり,また両者の関係性も異なる事を明らかにした.即ち,振動周波数に依存して知覚状態の推移する時間帯そのものが変化する事が実験的に示され,振動周波数に依存して振動そのものがもつ"粗さ"のような知覚だけでなく,2信号の関係性の解釈までもが変化する事が示唆された.また,高周波の方向判断精度が低い事も示され,小型にデバイスを設計可能なことから商業的に多用されてきた高周波振動が時空間情報提示に不向きである可能性を示した.

高い時空間判断精度を持つ低周波振動覚においては,被験者の知覚がどの状態に分類されるかが方向判断の精度に影響を与えないという結果が示された事から,状態の分類と方向の判断という2つの処理が独立に処理される機能モデルを構築し,これら2処理について,入力が皮膚感覚のみであるのか,あるいは姿勢覚を持つのかを調べる事でその独立・従属の可能性について検討を行なっている.その結果,低周波振動覚において指を交差した際には,方向判断は大きく悪化する一方で,知覚状態には大きな変化は生じないという結果が得られている.この方向判断への姿勢の影響が機能モデルの入力として表現されるのか,出力への変調として表現されるのかを明確にするため,運動知覚メカニズムに関してその存在や特性の調査に有効である事が視覚研究において知られる"運動残効"を触覚に適用し,方向判断メカニズムへの入力を検証しているが,今回観測した指間運動による触運動残効の存在は,触覚系において生理学的な裏づけの未だ取れていない指間運動の処理メカニズムが存在していることを示唆している.更に,順応時の指姿勢が残効の方向を変調するという結果が示されたが,この結果は,従来,被験者の主観報告によって間接的に示されて来た方向判断への指姿勢の影響について,方向判断メカニズムが指の姿勢を入力に持つ事を直接的に示している.更に,この指間運動残効について詳しく調べた結果,この残効が反映するメカニズムは運動知覚(高次)と局所への入力(低次)のどちらが欠けても消失してしまう事から,状態の知覚は皮膚感覚のみを入力として持ち,一方,方向判断は皮膚感覚に加えて指姿勢覚と高次の運動感覚を入力に持つ事が示され,入力についても両者の乖離が示された.

以上は片手に対する入力系についての実験であるが,片手系よりも上位に受容野に持つ両手系についても,腕姿勢を変更した際に判断に対するどのような影響が生じるのかを調べており,方向判断だけではなく状態の知覚も姿勢により変調される事が示された事から,今回立てた低周波振動覚の機能モデルは両手系を入力に持たない可能性を示唆している.

以上,片手系では,触覚においては状態の分類のような"時間判断"は初期触覚野の早い段階に"高速な処理"が行われている可能性が,一方,方向判断のような"時空間判断"は他モーダルとの整合性の高い座標において"ロバストな処理"が行われている可能性が示され,この分業化により,時間判断によって例えば滑りなどの状態を迅速に判別する事で器用な操作を可能とし,また時空間判断をロバストに行う事で視覚的なCueを元にするリーチングタスクなどにおける正確な動作を可能としている事が示唆された.

要約すると,本論文では,電気刺激による選択刺激,運動残効といった新しい手法を触覚知覚心理へ導入する事により人間の初期時空間触知覚の情報処理過程を心理実験により解析したものである.低周波振動覚片手系において時間判断と時空間判断の機能的な独立性を捉え,各判断への皮膚感覚と姿勢覚の入力の有無を検証し,その結果をもとに機能的なモデルの構築と,初期時空間触知覚における情報処理過程の知覚心理による動的解析を行なったものであり,人間が外界の物理次元の情報をどのように知覚次元の情報と結びつけているのかを知る事で,今後の効率的な情報提示への応用や,脳内信号処理の理解・解明などに対する大きな貢献が期待される.

よって本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク