学位論文要旨



No 127299
著者(漢字) 橋,英俊
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ヒデトシ
標題(和) 昆虫羽ばたき飛翔における翼面圧力差計測
標題(洋)
報告番号 127299
報告番号 甲27299
学位授与日 2011.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第337号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 知能機械情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 河内,啓二
 東京大学 教授 中村,仁彦
 東京大学 教授 神,亮平
 東京大学 准教授 竹内,昌治
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

羽ばたき飛翔を行う昆虫の翼面上の流れにおけるレイノルズ数は103~104程度であり,従来の航空機の翼面上流れと比較して小さい.また昆虫の翼面で発生する空気力は翼が羽ばたき運動することにより時々刻々と変化し,翼弦方向だけでなく翼長方向にも分布を持つ.低レイノルズ数領域の非定常な空気力の発生メカニズムは未解明な部分が多く,昆虫飛翔の研究分野において,多くの研究がなされてきている.これまで,昆虫の翼面に発生する空気力は生物学的観察,数値流体力学を用いた流れ計算,人工翼を用いた力計測などの手法によって数多く調べられてきた.しかしこれらの手法は間接的な手法であり,昆虫の翼面上に実際どの程度の力が発生しているかは分かっていない.

そこで本論文では自由飛行中の昆虫の翼面上の空気力を直接計測にするために,MEMS差圧センサを用いた羽ばたき翼面上の圧力差計測方法を提案する.昆虫サイズの翼面に取り付けても翼の変形や翼まわりの流れに影響を与えない小さいサイズの差圧センサをMEMSを用いて製作することで,自由飛行中の翼に働く空気力の計測が可能となる.さらにMEMS技術を用いることで,高感度なセンサを製作することができる.本研究では対象昆虫として飛翔昆虫の中で比較的大型で飛翔能力が高いと言われているクロアゲハ(Papilio protenor)を用い,離陸時における翼面上の圧力差分布から翼面で発生する空気力を明らかにする.

2.原理・設計・製作

本論文ではMEMS差圧センサとしてピエゾ抵抗型カンチレバーを用いる.図1に示すように,クロアゲハの翼面に穴を開け,その上にピエゾ抵抗型カンチレバー型の差圧センサを配置することで,圧力差を計測する.センサ原理として,ピエゾ抵抗型カンチレバーの上面と下面に圧力差が加わると,カンチレバー表面に力が加わり,カンチレバー自身が歪む.この歪みに応じて,ピエゾ抵抗型カンチレバーの抵抗値が変化する.したがって抵抗変化率から圧力差を計測することが可能となる.ピエゾ抵抗型カンチレバーを用いる利点として,出力インピーダンスが小さいことが挙げられる.またダイヤフラム型と比較するとカンチレバー型にすることで圧力差に対して歪み量が増え,羽ばたき翼面での微小な圧力差の変化の計測が可能になると考えられる.

差圧センサとして用いるピエゾ抵抗型カンチレバーの設計を図2に示す.カンチレバーの大きさは125 μm × 100 μm × 0.29 μmである.図3(a)にセンサチップの写真,図3(b)にセンサチップ上にあるカンチレバーのSEM写真を示す.差圧センサはdevice Si層が0.29 μmのSOI (Silicon on Insulator)基板上に製作されており,カンチレバー表面にはピエゾ抵抗層が形成されている.チップの中心にカンチレバーが配置されており,センサチップの大きさ及び重量はそれぞれ1.0mm × 1.0mm × 0.3mm及び0.7mgである.

3.差圧センサ基礎特性

試作したカンチレバーの上面と下面に圧力差を与えた際の変形量を計測し,カンチレバーが理論値通り歪むことを確認した.実験セットアップの概念図及び写真を図4に示す.差圧センサチップを2つのチャンバー間に取り付け,チャンバー間に圧力校正器を用いて圧力差を加える.このときのカンチレバーの変形量を3次元レーザー段差計で計測した(図5).圧力差をそれぞれ-20 Paから20 Paまで10 Pa刻みで加えたときの変形量をグラフ中に示す.また理論曲線をグラフ中に示している.実験値と理論値の2乗平均誤差は,それぞれ誤差は5%以内であった.したがってこの結果から,カンチレバーが圧力差に対して理論通りに変形していることが分かる.同様に圧力差を加えたときの抵抗変化率を計測した結果を図6に示す.-50 Paから+50 Paまでを5 Pa刻みで応答を計測した.抵抗変化率は,圧力差に対して直線的に変化し,圧力差に対する抵抗変化率の関係式は最小2乗法よりΔR/R=1.3×10(-4) ΔPとなった. S/N比が1以上の信号が計測可能であると仮定すると,試作したセンサの圧力差分解能は0.05 Paとなった.

4.人工翼を用いた圧力差計測

試作した差圧センサを翼長100mm及び翼弦長30mmの人工平板翼に取り付け,風洞において定常流れでの翼面で発生する圧力差を計測した.人工翼の中心である幅50mmの位置に翼弦方向に向かって等間隔で5点センサを配置した.迎え角を0 degreeから90 degreesまで15 degrees刻みで変化させ,そのときの圧力差分布を計測した.風洞内流速は4.0 m/sとし,人工翼周りのレイノルズ数を8.0×103とした.同様に,ロードセルを用いて翼面に発生する揚力及び抗力を計測し,差圧センサで計測した圧力差分布と比較した.その結果,揚力・抗力から求めた垂直力係数と圧力差分布から求めた垂直力係数がほぼ一致した.このことから,差圧センサによって実際に翼面で発生する空気力が計測できることを確認できた.

5.クロアゲハの離陸時の圧力差計測実験

試作した差圧センサのクロアゲハへの取り付け方法を図7に示す.始めに差圧センサチップをパターニングしたCu/Polyimideのフレキシブル基板上に取り付ける.次に配線の裏側に翼面の接着剤として密蝋を塗装する.また配線のセンサチップを取り付けた側と反対の端に直径50 μm,長さ25mmのAuの細線を半田付けする.配線を翼面に取り付けるために,翼面の燐粉を落とし,センサを取り付ける位置に直径0.5~1.0mmの穴を開ける.センサの中心と翼面に開けた穴が重なるように翼の裏側から配線を取り付け,配線の上から蜜蝋を溶かして配線と翼面を接着させる.センサを取り付けたクロアゲハ及びセンサチップを取り付けた基板の写真を図8に示す.センサは前翅の中心に配置され,基板は翅脈に沿って取り付けてある.また差圧センサの取り付け位置について図9に示す.前翅の翼長方向に3点,後翅の中心に1点,各飛行毎にそれぞれセンサを配置する.

クロアゲハとセンサの重量の比較を表1に示す.Au線を含めたセンサの総重量は約35mgであり,クロアゲハの重量に対して10%以下となっている.同様に片翼の重量に対してセンサチップ及び基板の重量は4.5mgとなり,10%以下の重量となっている.またクロアゲハが一回の食事で50~100mgのエサを摂取することが観察されており,センサの重量はクロアゲハが飛行する際,十分に許容できる積載重量であると考えられる.

差圧センサを取り付けたクロアゲハを用いて羽ばたき飛行中の圧力差計測を行った.実験にはメス5匹,オス3匹の計8匹のクロアゲハを用いて,FT, FC, FR, HCの各点にセンサを取り付けた場合の飛行について計測を行った.また自由飛翔運動として,離陸時の圧力差の計測を行った.使用したチョウの平均翼長及び平均体重はそれぞれ57.3mm及び433mgであった.また平均羽ばたき周波数は8.5 Hzであった.

圧力差計測と同期して高速度カメラで飛行運動を観察した.圧力差計測及び高速度カメラはそれぞれ1000 fpsで計測を行った.計測結果の一例を図10に示す.左翼のFTの点にセンサを取り付けており,カメラに向かって右上方に離陸した.計測した高速度カメラ画像においてチョウの特徴点をプロットし,飛行速度等を算出した(図11(a)).またこのときの圧力差変動を図11(b)に示す.圧力差は羽ばたき運動に同期し,打ち下ろしでは最大10 Pa,打ち上げでは最小-10 Pa程度の圧力差が発生していた.同様にFC, FR, HCの点にセンサを取り付けた場合についても離陸時の圧力差計測を行った.各点においても圧力差は羽ばたき運動に同期し,打ち下ろしで正の圧力差,打ち上げで負の圧力差が発生していた.

また図11(b)に示すようにFTの点にセンサを取り付けた場合の圧力差,空気の流入速度及び迎え角から空力特性として垂直力係数を算出した.垂直力係数は羽ばたき始め及び羽ばたき終わりにおいて増大し,最大5~10程度であった.また羽ばたき中では1~3程度であり,羽ばたき1周期で平均すると3.4となった.同様に打ち下ろし中の揚力係数・抗力係数を算出すると,図11(c)に示すようにそれぞれ最大で4.5程度となり,定常流れにおける値よりも大きい値となっていた.FC, FR, HCの点においても同様の傾向が観察された.

8匹のクロアゲハについて計測を行い,各点における1周期での絶対値平均の平均及び分散を図12に示す.それぞれΔPFT=7.4±1.6 Pa, ΔPFC=5.5±1.1 Pa, ΔPFR=2.1±0.7 Pa, ΔPHC=2.1±0.5 Paとなり,前翅において翼付け根から翼端方向に沿って発生する圧力差が増大しているのが確認できた.

6.結論

昆虫の自由飛翔中に翼面に発生する空気力を明らかにするために,MEMS差圧センサを実際の昆虫の翼面に配置し,飛行中の翼面の上面と下面の圧力差分布を直接計測することによって空気力を算出する実験方法を提案した.この方法によって,羽ばたき運動によって発生する圧力差分布を定量的に明らかにした.

実験対象として大型であり,飛翔能力が高いといわれているクロアゲハを用いた.差圧センサの取り付け位置として前翅の翼長方向に3点,後翅に1点を定義した.チョウの翼面の圧力差を計測するため,MEMSプロセスによってピエゾ抵抗型カンチレバーを用いた差圧センサを試作し,フレキシブル配線を用いることでクロアゲハの翼面への配置を可能とした. Au線を含めたセンサの総重量は約35mgであり,クロアゲハの重量の10%以下となった.差圧センサを取り付けたクロアゲハを用いて離陸時の圧力差計測を行う実験セットアップを構築し,実際に8匹のクロアゲハで離陸時の4点の圧力差分布を計測した.計測した結果から離陸時における翼面で発生する空気力分布及びその空力特性を明らかにした.

Figure l本研究で提案する昆虫の羽ばたき翼面に発生する空気力を直接計測する方法の概念図.

Figure 2差圧センサとして用いるピエゾ抵抗型カンチレバーの設計値.

Figure3(a)試作した差圧センサの写真.センサチップの大きさは1.Omm×1.0mmxO.3mm.センサチップの中心にカンチレバーが配置されている.(b)試作したカンチレバーのSEM写真.

(a)3D laser displacement indicator

Figure4(a)試作した差圧センサの圧力差に対するカンチレバーの変形を計測する実験セットアップの概念図.(b)3次元レーザー段差計上に設置した実験用チャンバーの写真.(c)チャンバー内のセンサチップの写真.

Figure5圧力差に対するカンチレバーの変形の実験結果.-20Pa~+20Paにおいてカンチレバーの変形は理論値と誤差5%以内であった.

Figure6圧力差に対するカンチレバーの抵抗変化率.-50Pa~+50Paにおいて抵抗変化率は線形に変化した.

(a)Attaching a sensor chip to Cu/Polyimide substrate

(b) Coating resin layer, making a through hole and removing scale of wing surface

(c) Attaching substrate to wing surface

Figure7差圧センサチップの翼面への取り付け方法.

Figure 8(a)差圧センサを取り付けたクロアゲハの写真.(b)基板に取り付けたセンサチップの写真.(c)拡大図.

Figure 9 差圧センサの取り付け位置.

Table 1差圧センサとクロアゲハの比較.

Figure 10 FTの点に差圧センサを搭載したクロアゲハ離陸時の高速度カメラの映像

(a) Flight trajectory

(b) Differential pressure and coefficient on forewing tip

(c) Lift and Drag coefficient during downstroke

Figure11 (a)離陸時の飛行軌跡.(b)離陸時の圧力差及び垂直力係数.(c)圧力差から求めた揚力係数・抗力係数.

Figure l2各点の羽ばたき1周期における圧力差の絶対値平均の8匹の平均と分散.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「昆虫羽ばたき飛翔における翼面圧力差計測」と題し、6章から構成される。

昆虫の羽ばたき飛翔において、翼面に作用する空気力には未解明な部分が多い。この発生メカニズムの解明のため、数多く研究が行われてきたが、研究方法として、シミュレーションや大型の人工翼を使った計測など間接的な手法しか存在しなかった。本論文では、自由に羽ばたき飛翔するクロアゲハの翼面に働く空気力による差圧を、直接計測することを目的としている。

第1章「序論」では、研究の目的、背景、意義と、従来の研究について述べている。

第2章「原理・設計・製作」では、MEMS差圧センサとして用いているピエゾ抵抗型カンチレバーの原理と設計と製作について述べている。ピエゾ抵抗型カンチレバーの上面と下面に圧力差が加わると、カンチレバー表面に力が加わり、カンチレバーが歪む。この歪みに応じて、ピエゾ抵抗型カンチレバーの抵抗値が変化するので、抵抗変化率から圧力差を計測することができることを示している。

第3章「差圧センサ基礎特性」では、試作した差圧センサの特性を計測している。抵抗変化率と圧力差との関係を実測するとΔR/R=1.3×10-4 ΔPとなり、S/N比が1以上の信号が計測可能であると仮定することで、試作したセンサの圧力差分解能を0.05 Paとしている。

第4章「人工翼を用いた圧力差計測」では、固定された人工平板翼に働く空気力を、ロードセルおよび差圧センサで計測して比較している。

第5章「クロアゲハの圧力差計測実験」では、クロアゲハの離陸時の圧力差計測を行っている。パターニングしたCu/Polyimideのフレキシブル基板上に差圧センサチップを取り付け、翼面に接着している。金線を含めたセンサの総重量は約35mgであり、クロアゲハの重量に対して10%以下であることを示している。使用したクロアゲハの平均翼長及び平均体重はそれぞれ57.3mm及び433mgであった。また平均羽ばたき周波数は8.5Hzであった。圧力差計測と同期して高速度カメラでクロアゲハの飛翔運動を観察し、これらを使って解析を行っている。羽ばたき運動に同期し、打ち下ろしでは最大10Pa、打ち上げでは最小-10Paの圧力差が発生していた。垂直力係数の平均値は3.4であり、定常流れにおける値よりも大きい値であった。

第6章「結論」では、本研究によって得られた結果をもとに結論を述べている。

以上要するに、本論文では、感度が0.1 Pa以下と非常に高く、重量が0.7mgと軽い差圧センサを試作し、これを、クロアゲハの翼面に貼り付けることで、昆虫の自由飛翔中の空気力を初めて直接的に計測した。計測結果から、離陸時の翼面の空気力分布及び空力特性を定量的に明らかにした。この結果は、これまでの数値計算や、テザードといわれる方法で昆虫を固定したときの計測に対して、自由飛行中の計測データを提示して、昆虫の飛翔研究やマイクロ世界での流体力の研究を進めるという意義をもつものである。この点から本論文は、知能機械情報学の発展に貢献したものであって、本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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