学位論文要旨



No 127308
著者(漢字) 岸,哲史
著者(英字)
著者(カナ) キシ,アキフミ
標題(和) 睡眠段階遷移のダイナミクス : ヒト睡眠研究への新たなアプローチ
標題(洋) Dynamics of Sleep Stage Transitions : A Novel Approach to Human Sleep Research
報告番号 127308
報告番号 甲27308
学位授与日 2011.04.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第184号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,義春
 東京大学 教授 佐々木,司
 東京大学 准教授 野崎,大地
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 教授 影浦,峡
内容要旨 要旨を表示する

睡眠はヒトに備えられた極めて精巧な生体制御の仕組みである。一般的に「良い睡眠」とは,「覚醒することなく一晩中眠り続ける」ものだと考えられる。一口に睡眠といっても様々な睡眠段階が存在することが知られており,睡眠はその状態が時間経過と共に常に変化し続ける動的なプロセスである。この「様々な状態(睡眠段階)間を移行し続けながらも,覚醒には辿り着かない」というプロセスを実現するメカニズムこそ,睡眠制御の本質的なメカニズムのひとつである。これはまさしく,睡眠段階の「遷移」の問題であり,睡眠段階遷移は睡眠の基礎的な現象を捉えるための方策である。しかしながら,この睡眠の遷移現象については近年注目され始めたところであり,まだ十分理解が得られていない。従来の睡眠研究の多くは,Rechtschaffen & Kalesによる睡眠段階の国際判定基準 (R&K) に基づく静的な睡眠評価,すなわち総睡眠時間や睡眠効率,睡眠潜時,各睡眠段階の持続時間などといった記述統計学的指標による評価にとどまっていたのである。

そのような背景のもと,本論文は,ヒト睡眠研究への新たなアプローチとして,睡眠の動的側面に着目した動的解析手法を提案し,その手法の有効性を検討することを目的としたものである。提案した動的解析手法を適用することにより,ヒトの睡眠段階遷移のダイナミクスの基礎的特性について検討するとともに,慢性疲労症候群 (chronic fatigue syndrome; CFS) や線維筋痛症 (fibromyalgia; FM) といった,睡眠感の悪さを主要な症状とする患者の睡眠の問題の同定に取り組んだ。

本論文では,まず,健常成人女性22名の睡眠の動的側面について検討した。具体的には,各睡眠段階間の遷移確率と各睡眠段階の持続時間分布について検討した。その結果,ヒトの睡眠段階間の遷移確率がはじめて明らかになり,また各睡眠段階の持続時間分布はそれぞれ特有の関数形に従っていることが明らかになった(図1)。覚醒,ノンレム睡眠(特に深睡眠;睡眠段階III・IV)の持続時間分布はべき乗分布 (power-law),睡眠段階I,レム睡眠の持続時間分布は指数分布 (exponential),睡眠段階IIの持続時間分布は伸張型指数分布 (stretched exponential) に従っていた。指数分布はポアソン過程の待ち時間分布として知られており,背後にランダムなプロセスが示唆される。伸張型指数分布は指数分布よりも裾の厚い分布であり,生存時間に複数の要素の結合確率といった概念が入ってくる。べき乗分布は複雑系や多くの自然現象でよく見られる非ポアソン的な裾の厚い分布であり,背後に複雑な制御メカニズムが示唆される。持続時間分布は睡眠が深くなるに従い指数分布,伸張型指数分布,べき乗分布と,裾の厚い分布型となっており,深い睡眠ほどより複雑な制御メカニズムが関与していることが示唆された。これらの知見は通常のR&Kによる静的な睡眠評価では決して明らかにされないことであり,睡眠の動的解析手法が睡眠の基礎的制御メカニズムの新たな理解をもたらす有用な手法であることが示された。

また,CFS患者女性22名の睡眠の動的構造についても検討し,従来のR&Kでは説明できなかったCFS患者の睡眠の問題を動的解析手法により同定できるか検証した。その結果,CFS群は健常群と比較して,睡眠段階I及びレム睡眠から覚醒への遷移確率が有意に高く,対照的に睡眠段階Iとレム睡眠間の遷移確率は健常群の方がCFS群よりも有意に高かった(図1)。このことから,CFS患者はレム睡眠と睡眠段階Iの間の通常の睡眠の継続プロセスに問題を有しており,覚醒への移行しやすさが患者の睡眠感の悪さにつながっていると考えられた。

そこで,次に,睡眠の動的解析手法を,FMを併発したCFS患者 (CFS+FM) と併発していないCFS患者 (CFS alone) に適用し,それぞれの睡眠の問題の区別に取り組んだ。CFSとFMは非常に似通った疾患であり,両者がオーバーラップして発症することも多い。CFSとFMの違いについても報告されているが,通常のR&Kによる記述統計学的な睡眠評価では両者の睡眠の問題は区別することができなかった。健常群26名,CFS alone群14名,CFS+FM群12名を対象とし,睡眠の動的構造について検討を行った結果,健常群と比較してCFS alone群はレム睡眠から覚醒への遷移確率が有意に高く(図2),これがCFS患者特有の睡眠の問題であると考えられた。CFS+FM群は健常群と比較して,覚醒,睡眠段階I,レム睡眠から睡眠段階II,深睡眠から覚醒,睡眠段階Iへの遷移確率が有意に高く(図2),睡眠圧の高さと同時に深睡眠が阻害されていることが明らかになった。また,CFS+FM群は睡眠段階IIの持続時間分布が健常群,CFS alone群と比較して有意に異なり,持続時間が短く,これはFM特有の睡眠の問題であることが示唆された。これらの結果から,CFSとFMは異なる睡眠制御の問題を持った異なる疾病であることが示唆された。このように,睡眠の動的解析手法は,睡眠の病態生理学的側面への示唆を得るためにも有用な手法であることが示された。

患者の睡眠感が睡眠の動的構造の変化と関与しているという結果を受け,次に,統合失調症などの治療に用いられ,睡眠改善効果が知られている非定型抗精神病薬(リスペリドン)が睡眠段階遷移のダイナミクスに及ぼす影響について検討した。リスペリドンはセロトニン5-HT2受容体とドーパミンD2受容体の拮抗作用を持つモノアミン系の拮抗薬である。10名の健常男性を対象として検討した結果,リスペリドンの服薬夜は,対照夜と比較して,睡眠段階IIから深睡眠への遷移確率が有意に高かった。この結果から,モノアミン系の拮抗薬は浅睡眠から深睡眠への遷移を促進することが明らかになり,睡眠段階遷移が神経プロセスと関与していることがはじめて示された。

リスペリドンの服薬は,遷移確率を変化させると同時に,REM-onset intervalにより定義された睡眠の90分周期のウルトラディアンリズムを有意に延長していた。この結果を受けて,続いて,睡眠段階間の遷移が睡眠のウルトラディアンリズムの形成に関与しているという仮説を検証した。具体的には,被験者内で対照夜と服薬夜の睡眠周期を対応させ,REM-onset intervalと遷移確率の直接の対応関係について検討した。また,遷移確率の背後にある遷移強度という概念を導入し,REM-onset intervalが延長していた際の遷移強度の時間的構造についても検討した。その結果,REM-onset intervalが延長していたとき,そのinterval内で睡眠段階IIから深睡眠への遷移確率が有意に増加していた。同時に,そのinterval内では,遷移強度のピークの個数が有意に増加し,ピークが現れるまでの時間も有意に延長していた。このことから,睡眠段階遷移の時間的構造は特定の神経伝達物質の影響を受けることが示唆された。以上より,睡眠のウルトラディアンリズムの形成と睡眠段階遷移のダイナミクスが関連していることが示された。

以上の結果から,本論文では,睡眠の動的解析手法がヒトの睡眠を評価する上で極めて有効な手法であることが示された。動的睡眠段階遷移という視点をもって今後さらに睡眠研究が進められることにより,未だ明らかでないヒトの基礎的睡眠制御メカニズムの解明や,睡眠に問題を有する患者の病態生理学的プロセスへの示唆が得られることが期待される。

図1:ヒトの睡眠段階遷移図

(a) CFS群の方が健常群より有意に遷移確率が高い。(b) 健常群の方がCFS群よりも有意に遷移確率が高い。W; 覚醒,R; レム睡眠,Stage I; 睡眠段階I,Stage II; 睡眠段階II,Stage III; 睡眠段階III,Stage IV; 睡眠段階IV。

図2:CFS aloneとCFS+FMの遷移ダイナミクスの違いを示す睡眠段階遷移図

(白矢印)CFS alone群の方が健常群より有意に遷移確率が高い。(黒矢印)CFS+FM群の方が健常群よりも有意に遷移確率が高い。W; 覚醒,R; レム睡眠,N1; 睡眠段階I,N2; 睡眠段階II,N3; 睡眠段階III+IV(アメリカ睡眠医学会による睡眠段階判定基準 (R&K) の修正を反映)。

審査要旨 要旨を表示する

睡眠中に脳の状態がどのように変化するのか、またその機序は何かを解き明かすことは、ヒトの生命機能の維持に重要な睡眠がいかにして継続的に行われるかを理解する上で、重要な問題の一つである。本論文は、ヒトの睡眠の動的側面に着目した解析手法を提案し、この問題に関する新たな理解を得ることを試みたものである。

論文は、全7章で構成されている。第1章では、ヒトにとっての睡眠の重要性について、社会及び教育との関連から論じている。その上で、睡眠研究における動的側面への着目の重要性を述べ、現在までの睡眠研究の多くが静的な記述統計学的指標による評価にとどまっている点を指摘している。第2章では、睡眠段階の国際判定基準や睡眠の神経科学的機序に関する知見を概説し、続いて物理科学の分野で研究が進んでいる状態遷移現象に関する基礎的知見を紹介し、本論文の分析の枠組みを提示している。

第3章では、ヒトの睡眠の動的性質について検討し、各睡眠段階間の遷移確率及び各睡眠段階の持続時間分布について明らかにしている。また、睡眠感の悪さを主要な症状とする慢性疲労症候群(CFS)患者の睡眠の動的構造を健常人と比較検討し、睡眠段階遷移の系列が患者の睡眠の質に影響することを明らかにしている。第4章では、この研究を拡張し、病態別の睡眠の問題の同定に取り組んでいる。CFSと類似した病態を持ち、同じく睡眠感の悪さを主要な症状とする線維筋痛症を併発したCFS患者、また併発していないCFS患者を対象とし、従来の静的な睡眠評価手法では明らかにできなかった両者の睡眠の特徴を、動的解析手法を適用することにより明らかにしている。

第5章では、睡眠段階遷移現象の神経科学的機序について検討し、モノアミン系の拮抗薬の投与により、健常人において、非レム(NREM)睡眠内での浅睡眠と深睡眠との間の遷移確率が有意に増加すること、同時に約90分の周期を持つ睡眠の日内リズムが有意に延長することを報告している。この結果を受け、第6章では、日内リズムの延長と睡眠段階遷移の直接の対応関係について検討し、従来のREM-NREM睡眠の周期的動態に加え、NREM睡眠内での遷移を新たな要因として睡眠動態研究を行う必要性を示唆している。

第7章では、本論文で得られた結果の総括、教育現場への示唆、今後の研究の展望を述べ、結論として、睡眠の動的解析手法がヒトの睡眠の制御機序を明らかにする上で、また睡眠の病態生理学的側面への示唆を得る上で有用であるとまとめている。

本論文は、ヒト睡眠研究への新たなアプローチとして睡眠の動的解析手法を提案し、ヒトの睡眠段階遷移の基本的性質を明らかにした点、病態別の睡眠動態の問題を同定した点、睡眠段階遷移の神経科学的機序についての知見を得た点(特に睡眠研究の古典的難問である日内リズムの形成に新たに睡眠段階遷移現象が関連していることを示した点)で、画期的な意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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