学位論文要旨



No 127318
著者(漢字) 岩田,遼
著者(英字)
著者(カナ) イワタ,リョウ
標題(和) 線虫C. elegansの感覚行動可塑性を制御するイノシトールリン脂質シグナルの遺伝学的解析
標題(洋) Genetic analysis of inositol lipid signaling involved in chemotaxis plasticity of C. elegans
報告番号 127318
報告番号 甲27318
学位授与日 2011.04.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5710号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 飯野,雄一
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 准教授 榎森,康文
内容要旨 要旨を表示する

線虫は塩(NaCl)を感受し、塩の方向へ向かう行動(誘引行動)を示すが、飢餓条件下で塩に曝された後には塩から逃げる行動(忌避行動)に切り換わる(以下、塩走性学習と呼ぶ)。この切り換えは可逆的に起こり、塩を感じる単一の味覚神経ASERにおいて、2つのイノシトールリン脂質シグナル経路が働くことにより制御される。すなわち、DAG(ジアシルグリセロール)シグナルによって誘引行動が促進される一方、PIP3(ホスファチジルイノシトール3リン酸)シグナルは忌避行動を引き起こすために必要である。

本研究では、誘引と忌避が調節される仕組みを理解するために順遺伝学的解析を行い、塩走性学習の制御に関与する新奇の遺伝子を探索した。その結果、味覚神経のシナプスにおいてDAGの産生を制御する遺伝子として, pitp-1とplc-1を同定した。

pitp-1は、イノシトールリン脂質シグナルの原料となるホスファチジルイノシトール、またはホスファチジルコリンを膜間輸送するクラスIIAホスファチジルイノシトール輸送タンパク質をコードする。pitp-1変異体では、条件によらず常に塩への弱い誘引行動が観察され、塩への走性にほとんど可塑性がみられない。これらの行動を制御するために、PITP-1は主に味覚神経ASERで機能するが、ASER神経は塩濃度変化に対して正常にカルシウム応答を示す。さらに、PITP-1はASERにおいてプレシナプス部位に局在すること、およびdgk-1変異によってDAGシグナルを活性化すると塩誘引行動異常が抑圧されたことから、PITP-1はDAG産生を助けることでシナプス伝達を制御する可能性が考えられる。

plc-1は、DAGの産生に直接関わるホスホリパーゼCεをコードする遺伝子である。私は塩走性の制御に関わる10kbの巨大アイソフォームplc-1(L)を新たに発見した。plc-1変異体は塩濃度に関する嗜好性に異常を示した。スクリーニングから得られたミスセンス変異体は野生型よりも高い塩濃度を好むが、一連の欠失変異体はすべて野生型よりも低い塩濃度を好む。plc-1(L)は味覚神経ASEに加え、温度感覚神経や酸素感覚神経などの感覚神経に発現する。また、PLC-1のVenus融合タンパク質は感覚神経の軸索に局在しており、感覚神経のシナプス部位が嗜好性の調節場所である可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

神経系は感覚情報を受容して行動を生み出し、過去の経験に依存してその活動を変化させる。本論文は、線虫C. elegansをモデル動物として用い、行動可塑性を生み出す神経系の仕組みに関する新たな知見を得るための研究を記載したものである。線虫C. elegansでは、経験に応じて塩に対する誘引行動が忌避行動に切り換わる(塩走性学習)。本論文では、この行動可塑性に関して分子遺伝学を駆使した遺伝子および細胞レベルでの研究を行い、感覚神経のシナプス部位が、塩走性学習における重要な制御部位であることを明らかにしている。

全5章からなる本論文のうち第1章は序論であり、線虫C. elegansの化学走性行動について、感覚入力が行動へと出力される仕組みが述べられている。特に塩走性学習に関与する分子、神経回路、さらには行動のメカニズムが幅広く記述されている。次に第2章では、本論文で用いられた実験手法として遺伝学的手法からカルシウムイメージング技術に至るまで多くの方法論が説明されており、論文提出者の幅広い知識が技術的な側面にまで深く及ぶことが読み取れる。

本論文の第3章では、塩走性学習に関与する遺伝子が順遺伝学的手法により多数同定されている。行動変異体スクリーニングと、獲得された各々の変異体が持つ変異の同定について順次述べられており、膨大な探求活動によりイノシトールリン脂質シグナルに関与する遺伝子pitp-1及びplc-1が、塩走性学習の新たな制御因子として同定されたことが記載されている。

第4章ではpitp-1遺伝子の解析について述べられている。pitp-1は動物界で高度に保存されたクラスIIA ホスファチジルイノシトール輸送タンパク質(PITP)ファミリーに属する遺伝子である。本論文ではpitp-1は塩走性学習の必須因子として同定され、ジアシルグリセロール(DAG)経路とPIP3経路の上流因子として、感覚神経のプレシナプス部位で働くという仮説が提唱された。塩走性学習におけるDAGとPIP3の関与は以前から知られていたが、本論文において2つの経路がプレシナプス部位で機能する可能性が間接的に示唆された事は、この分野における大きな進展である。クラスIIA PITPファミリーでは、ショウジョウバエのRdgBについて光受容における機能が古くから知られている。ショウジョウバエの視神経細胞ではRdgBは光シグナル伝達経路上で機能すると考えられてきた。これに対して本論文では、PITP-1が味覚神経のプレシナプス部位に局在し、味覚神経からのシナプス伝達を制御することが示唆された。プレシナプスにおけるクラスIIA PITPの機能はこれまで知られていなかったもので、あらゆる生物種を通じて新しい知見である。

第5章ではplc-1遺伝子の解析について述べられている。plc-1は、哺乳類のPLCイプシロンに相同な線虫遺伝子である。線虫ではplc-1が産卵行動に必須であることは以前より知られていたが、本論文では既知のplc-1アイソフォームが5'端側にさらに5kb伸びた構造を持つアイソフォームplc-1(L)を新たに同定した。このアイソフォームは感覚神経特異的に発現しており、その変異体は塩走性行動に異常を示すことが観察された。詳細な行動解析の結果、plc-1変異体は塩濃度嗜好性に異常を示すことが明らかになった。これまで線虫の塩走性行動におけるDAG経路の重要性は認識されていたものの、実際のDAG産生に関わるPLC遺伝子の同定は本論文が最初である。したがって第5章の内容は、DAG産生の制御機構を今後解き明かすための基盤として大きな意義を持つ。

以上、本論文はpitp-1とplc-1を同定し、線虫の行動可塑性におけるイノシトールリン脂質シグナル伝達経路の重要性を明らかにしたものである。本審査委員会では、この2つの遺伝子の解析において、遺伝学的手法とカルシウムイメージングを縦横に駆使することで、感覚神経のプレシナプス部位が行動可塑性の重要な制御部位であるという示唆を与えた一連の研究成果は極めて意義深いものであると評価した。

なお、本論文第4章は、小田茂和氏・國友博文氏・飯野雄一氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。第4章の内容からなる論文は、権威ある米科学誌Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America (PNAS)に投稿され受理されている。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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