学位論文要旨



No 127328
著者(漢字) 秀野,泰隆
著者(英字)
著者(カナ) シュウノ,ヤスタカ
標題(和) 癌転移能および抗癌剤感受性に及ぼす分化抑制因子(Id)抑制
標題(洋)
報告番号 127328
報告番号 甲27328
学位授与日 2011.04.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3762号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 講師 重松,邦広
 東京大学 講師 別宮,好文
 東京大学 講師 村川,知弘
 東京大学 准教授 馬淵,昭彦
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景と目的

悪性新生物は本邦における死因の1位を占めており、その中でも膵癌や大腸癌は男女共に増加傾向を示している。

膵癌は早期発見が困難であり、進行した状態で発見されることが多く、予後不良で死亡率の高い悪性腫瘍である。また、化学療法や放射線治療などの治療に対して感受性が低いことが知られており、新たな治療法の開発が必要である。一方、大腸癌は早期の症例では予後良好であり、また進行癌においても化学療法の進歩により予後延長が期待でき、化学療法の果たす役割は大きくなってきている。しかし、薬剤耐性の出現が知られており、その克服が必要であると考えられる。

そこで本研究では、転写調節因子であり、癌の進行において重要な役割を果たす分化抑制因子Id(inhibitor of differentiation / inhibitor of DNA binding)蛋白に着目した。Id蛋白の構造は、へリックス・ループ・ヘリックス(HLH)蛋白のうちクラスVサブファミリーに属する。一般に転写調節因子であるHLH蛋白は、二量体を形成しDNAと結合して作用する。しかし、Id蛋白はDNA結合能を欠失しており、ベーシックHLH蛋白であるE蛋白などとヘテロ二量体を形成し、これらの蛋白がDNAへの結合を阻害して、転写活性を阻害する。このようにId蛋白はRunx2やMyoDなどといった分化誘導因子や、p16やp21などのCDK(cyclin-dependent kinase)インヒビターを抑制することにより、分化抑制・細胞増殖促進をさせる。

このように様々な機能を有するId蛋白であるが、成熟組織にはほとんど発現が認められず、胎児組織や腫瘍などの未分化細胞や増殖細胞において高発現し、卵巣癌、乳癌、前立腺癌、大腸癌、胃癌、膵癌など多くの癌種で発現が確認されている。以上のように癌組織において強発現し、正常組織で発現しないという特徴から、Id蛋白は癌治療の適切な標的となり得ると考えた。

本研究では、RNA干渉(RNAi)を用いてId1、Id3をダブルノックダウンした膵癌および大腸癌細胞株を使用し、新たな治療標的分子となり得るかについて検討を行った。第一章では、Id1/Id3ダブルノックダウンによる膵癌細胞のin vitroにおける性質とin vivoにおける転移形成能に及ぼすId蛋白の影響について、第二章では同様にId1/Id3ダブルノックダウンが大腸癌細胞の抗癌剤感受性に及ぼす影響について検討した。

方法・結果

膵癌細胞株MIA-PaCa2のId1/Id3ダブルノックダウンにより、マウスにおける腹膜播種転移形成能が抑制され、特に腫瘍結節の重量の有意な低下が確認された(親細胞群(P群);3.4 ± 0.9 (g)、Mock control群(M群);4.0 ± 1.2 (g)、Id1/Id3ダブルノックダウン群(IdKD群);2.2 ± 1.1 (g))。また、腹水中のVEGF濃度を測定したところ、IdKD群で低下傾向を認めた(P群;977. 5 ± 340.0 (pg/ml)、M群;735.5 ± 103.3 (pg/ml)、IdKD群;433.6 ± 162.3 (pg/ml))。in vitroの検討では細胞増殖能をMTS法で測定し、1日目の値に対する比率を計算したところ、5日目にIdKD群で低下を認めた(P群;46.5倍、M群;46.4倍、IdKD群;32.2倍)。また、細胞の遊走能をwounded monolayer repair assay で測定したところ、IdKD群のwound閉鎖率は低下していた(P群;76.9 ± 0.03%、M群;80.4 ± 0.04%、IdKD群;62.1± 0.03%)。次に細胞表面のインテグリン発現をフローサイトメトリーで測定したところ、IdKD群でα3β1およびα6β1の発現低下が認められた(M群の発現と比べ、IdKD群ではα3;88.3%、α6;83.9%、β1;90.8%)。これらはいずれも細胞外基質であるラミニンとの接着に重要な接着因子である。そこでラミニンへの接着能を検討したところ、IdKD群で接着率の低下を認めた(P群;87.33 ± 0.03%、M群;86.0 ± 0.04%、IdKD群;76.17 ± 0.03%)。

次にId1/Id3をダブルノックダウンした大腸癌細胞株HT29を用い、抗癌剤感受性への影響を検討した。今回の検討には、大腸癌の化学療法に広く使用されている5-fluorouracil (5-FU)、イリノテカン(SN38)およびオキサリプラチンを用いた。その結果、5-FUに対する感受性は、Id1/Id3ダブルノックダウンにより変化しなかったが、SN38およびオキサリプラチンの感受性は、IdKD群で有意に増強した。その機序を検討したところ、SN38においてはアポトーシスの割合が増加傾向を示していた(SN38 0.5μMでの細胞周期解析においてアポトーシスを示すsubG1期に分布する細胞の割合;P群:32.66%、M群:29.88%、IdKD群:41.76%)。一方、オキサリプラチンに関しては、IdKD群で他の細胞群と比べて、より低濃度で細胞周期の停止を起こしていた(オキサリプラチン 12μM作用時のG1期の割合;P群:29.75%、M群:26.27%、IdKD群:48.76%)。また、アポトーシスの誘導においてもIdKD群で増加が確認された(オキサリプラチン 12μM作用時のアポトーシスの割合;P群:15.08%、M群:18.82%、IdKD群:27.20%)。

考察

Id1/Id3ダブルノックダウンによる膵癌および大腸癌への影響を検討した。Id1/Id3ダブルノックダウンによって膵癌では、増殖能および遊走能の低下、ラミニン受容体の発現低下による腹膜への接着の低下といった直接的な影響や、VEGF産生低下による血管新生抑制といった間接的な影響により、マウスにおける腹膜播種転移結節形成能が低下したと推測された。したがって、Id蛋白を抑制することで膵癌の腹膜播種転移を抑制することが可能であり、Id蛋白は膵癌治療の新しい戦略を構築する上で有望な標的分子となり得ると考えられた。

一方、大腸癌の抗癌剤感受性に及ぼすId1/Id3ダブルノックダウンの影響を検討した結果、抗癌剤の種類によって影響が異なることが確認された。Id1/Id3ダブルノックダウンによる5-FUの効果に対する影響は認められなかったが、イリノテカン(SN38)およびオキサリプラチンに対する感受性は増強した。SN38に関しては、Id1/Id3ダブルノックダウンの細胞周期への影響は認められなかったが、アポトーシスの増加が確認された。このことから、Id1/Id3ノックダウンによるSN38の感受性増強はアポトーシス誘導が原因であると考えられた。一方、オキサリプラチンに関しては、Id1/Id3ダブルノックダウンすることにより低濃度で細胞周期が停止し、またアポトーシス誘導の増加も認められた。よって、オキサリプラチンにおいては細胞周期停止とアポトーシス誘導の両者への影響によって、感受性の増強が認められたと考えられた。今回の検討から、Id1/Id3ダブルノックダウンにより、イリノテカンやオキサリプラチンを用いた大腸癌化学療法の治療成績を向上させる可能性があると考えられた。また、切除標本におけるId蛋白の検出などを行うことにより、抗癌剤感受性を予測するマーカーとして臨床応用できる可能性が示唆された。

しかし、Id蛋白を抑制することは現時点では困難であり、抑制効率の良い方法を検討する必要がある。例えば、本研究で使用したRNA干渉を応用する場合には、siRNAを標的部位に選択的かつ効率的に到達させるための適切なドラッグデリバリーシステムが必要であり、実際に臨床応用を実現するためには今後、克服すべき課題は多い。

以上のように、Id蛋白の造腫瘍性や薬剤感受性を制御するメカニズムを解明することは、より合理的かつ効果的な治療プロトコールの開発につながると考えられ、またId蛋白の抑制は癌治療の新しい戦略の一つになりうると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、転写調節因子であり、癌の進行において重要な役割を果たす分化抑制因子Id(inhibitor of differentiation / inhibitor of DNA binding)蛋白に着目し、RNA干渉(RNAi)を用いてId1、Id3をダブルノックダウンした膵癌(MIA-PaCa2)および大腸癌細胞株(HT29)を用い、Id1、Id3の癌治療における新たな標的分子としての有用性について検討を行い、下記の結果を得ている。

1. 膵癌細胞株の腹膜播種に及ぼすId1/Id3ダブルノックダウンの影響

(1)Id1/Id3ダブルノックダウンにより、細胞増殖、細胞運動能が有意に低下した。

(2)Id1/Id3ダブルノックダウンにより、細胞表面のレセプターであるインテグリンα3β1、及びα6β1の発現が低下した。また、そのことにより細胞外基質蛋白であるラミニンへの細胞接着能が有意に減少した。

(3)マウス腹膜播種モデルにおいて、形成された腹膜結節の総重量は、Id1/Id3ダブルノックダウンにより、有意に減少した。また、腹膜播種マウスより採取した腹水中のVEGF濃度は低下傾向を示した。以上より、Id1/Id3ダブルノックダウンにより、腹膜播種が抑制されることが示された。

2. 大腸癌細胞株の抗癌剤感受性に及ぼすId1/Id3ダブルノックダウンの影響

(1) 5-FU投与により大腸癌細胞株の増殖は抑制され、細胞周期はS期停止を示した。しかし、Id1/Id3ダブルノックダウンの影響は認められなかった。

(2)SN38の濃度依存性に大腸癌細胞株の増殖は抑制されたが、Id1/Id3ダブルノックダウンにより増殖抑制効果が有意に増強した。SN38の作用により、細胞周期のG2/M期停止が認められたが、Id1/Id3ダブルノックダウンの影響は認められなかった。また、細胞周期の停止に加え、SN38作用によりアポトーシスの誘導が認められ、Id1/Id3ダブルノックダウンにより増強していた。これがId1/Id3ダブルノックダウンの細胞増殖抑制効果に及ぼす影響の機序であると考えられた。

(3)オキサリプラチンの濃度依存性に大腸癌細胞株の細胞増殖は抑制され、Id1/Id3ダブルノックダウンにより有意に増強された。オキサリプラチンの濃度によって細胞周期の停止部位が異なることが確認されたが、Id1/Id3ダブルノックダウンにより、コントロール細胞と比較し、より低濃度のオキサリプラチン処理で同様の作用が出現することが確認された。また、オキサリプラチン作用によるアポトーシス誘導も確認され、Id1/Id3ダブルノックダウンにより増強された。

以上、本論文はId1、Id3蛋白が膵癌細胞の増殖や腹膜播種の形成において重要な役割を担っていることを確認した。また、大腸癌細胞においてId1、Id3の抑制が薬剤の感受性を高める可能性が示唆された。本研究は、難治である膵癌の新たな治療戦略を提唱する重要な研究であり、また大腸癌治療において、抗癌剤感受性の予測マーカーとしての可能性、さらには化学療法の治療成績を向上させ得る新たな戦略を提唱する研究であると考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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