学位論文要旨



No 127342
著者(漢字) 竜野,秀行
著者(英字)
著者(カナ) タツノ,ヒデユキ
標題(和) K 中間子ヘリウム原子X線の精密分光
標題(洋) Precision X-ray spectroscopy of kaonic helium atom
報告番号 127342
報告番号 甲27342
学位授与日 2011.05.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5712号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 櫻井,博儀
 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 准教授 浜垣,秀樹
 東京大学 准教授 上坂,友洋
 東京大学 准教授 森松,治
内容要旨 要旨を表示する

K 中間子原子とは、原子中の1 つの電子を負の電荷を持ったK 中間子と置き換えたエキゾチック原子であり、生成時は原子核とクーロン相互作用で束縛している。K 中間子原子は、K 中間子と原子核の間に働く強い相互作用を閾値近傍で実験的に知ることができる唯一のツールとして研究されてきた。K 中間子原子の低いエネルギー準位では、K 中間子と原子核との強い相互作用が影響し、エネルギー準位はクーロン相互作用のみで計算した値からあるシフトと幅を持って存在している。そのシフトと幅を特性X 線を利用して精密に測定することで、強い相互作用を評価することができる。

K 中間子原子のX 線は、1970 年代から今までに水素からウランという様々な標的で測定されてきたが、長い歴史があるにもかかわらずその相互作用の正確な理解はまだ得られていない。最も基本的なシステムであるK 中間子水素のX 線が正しく測定されたのは1990 年代の終わりであり、それまではその相互作用の符号さえわからなかった(K 中間子水素パズル)。その原因は、K 中間子水素X 線の強度がオーダー1% 程度と低く、K 中間子の吸収やハイペロンの崩壊によって発生するπ0 や高エネルギー光子によるバックグラウンドが大きいためで、精密測定実験が難航していたのである。K 中間子ヘリウムに関しては、2p 軌道のシフトの実験値と理論計算とに大きな不一致があることが知られていた。過去の実験値の平均は-43 ± 8 eV という大きな斥力的シフトであるのに対し、理論計算はほぼゼロのシフトを示していた。この5σに及ぶ不一致は"K 中間子ヘリウム原子パズル" として知られており、30 年以上もの間説明が付かない状態であった。

このK 中間子ヘリウム原子の問題を解決するべく、我々は数eV という高精度を目標にしK 中間子ヘリウム原子のバルマー系列X 線(3d → 2p, 4d→ 2p, そして5d→ 2p 遷移) を測定する実験を行った。実験は茨城県つくば市にある高エネルギー加速器研究機構(KEK) の12 GeV 陽子シンクロトロンで生成される二次K 中間子ビームを利用して行った。減速させたK 中間子を超流動液体ヘリウムに静止させK 中間子ヘリウム原子を生成し、発生するX 線を高分解能半導体検出器を用いて測定した。当時我々が利用できる大強度のK 中間子ビームはKEK のみで、低運動量(650 Mev/c) かつ大強度(~10 kHz) というKEK のK5 ビームラインはまさに我々の実験に合ったものであった。

我々の実験に特徴的な過去の実験に対する改善点として次の三つがあげられる。

1. 高分解能シリコンドリフト検出器(SDD) を加速器実験で初めて利用した。SDD は過去の実験で使用されたSi(Li) 検出器と比較しておよそ2 倍のエネルギー分解能を持ち、その薄さは10 分の1 程度である。測定器が薄いということは、測定器中における高エネルギー光子のコンプトン散乱によるバックグラウンドを抑えることができる。

2. 液体ヘリウム中に静止したK 中間子のイベントのみを選び出すことで劇的にバックグラウンドを抑制させることに成功した。K 中間子ビームだけを同定していただけの過去の実験とは異なり、我々の実験では静止したK 中間子と原子核との反応点をK 中間子ビームの軌跡と反応によって放出される陽子やπ中間子などの荷電粒子の軌跡により再構成し、それが標的内部に存在するという選別を行うことで目的の静止K 中間子イベントを選び出した。

3. 目的X 線のデータを取りながら同時にエネルギー較正用のデータを取得するという信頼度の高いエネルギー較正を行った(in-situ エネルギー較正)。純金属フォイルのチタンとニッケルをSDD から見える位置に貼り、大強度のビーム(主にK 中間子に混ざってくるπ 中間子) で金属を励起させ、発生する特性X 線をエネルギー較正に利用した。

我々の解析の特徴は、

1. フラッシュADC によってシグナルが二つ重なったようなパイルアップイベントを特定しその寄与を評価した。

2. 標的に静止したK 中間子の分布を用いてX 線を発生させるシミュレーションを行い、標的内部で起こる目的X 線のコンプトン散乱の寄与を正しく見積もった。

3. SDD の応答関数とサテライトX 線による特性X 線の非対称性まで考慮しフィット関数を構成し精確なフィットを行った。

これらの解析は系統誤差を取り除くためには必須の作業であり、強度が10% 以上もあるパイルアップや標的内部におけるコンプトン散乱の寄与は、正しく評価しなければシフトの中心値を±10eV もずらしてしまう程重要なものである。

これらの新しい実験手法と解析によって、我々はK 中間子ヘリウム原子の強い相互作用による2p 軌道のシフトを-0:3 ± 2:2 ±1:7 eV と決定した。始めの誤差は統計誤差、次は系統誤差を表している。系統誤差は、フィットで固定したパラメータの統計誤差、ADC の非線形性、コンプトン散乱シミュレーションにおける断面積の誤差、エネルギー較正の誤差、そしてクーロン相互作用のみのX 線エネルギーの理論的計算の誤差から評価した。また2p 軌道の幅として上限値18 eV(90% 信頼度) を得た。

我々の結果は過去の実験値とは一致しない値となった。その原因の一つはおそらくコンプトン散乱の評価にある。過去の実験ではK 中間子の静止位置を正しく得ることはできず、K 中間子がどこに止まったのかの情報は調べられなかった。一方我々の手法では、K 中間子が標的内部のどこの位置に止まったのかを再構成できるので、より正しくコンプトン散乱の寄与を計算することができた。また、我々のエネルギー較正の方法は、線源を利用せず目的のX 線と同じ環境でエネルギー較正用のデータも取得し、エネルギーの近い金属の特性X 線を利用して内挿するという手法なので、より正確なエネルギー較正となっている。

我々の結果は、すべての理論計算の値とエラーの範囲で一致しており、長い間問題とされていたK 中間子ヘリウム原子パズルを解決した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、7章からなる。第1章は、序文であり、K中間子原子を用いたこれまでのX線分光研究がまとめられ、本研究の背景、位置付け、目標および論文提出者の寄与について述べられている。第2章では本研究で利用した、高エネルギー加速器機構の加速器施設KEK-12GeV陽子シンクロトロンおよびK中間子ビームラインの構成と概要、実験(E570)の装置概要と検出器群・回路系の詳細が述べられている。第3章ではK中間子ビームおよびX線検出についての事象選択の方法がまとめられており、第4章では、X線検出器に関するデータ解析の詳細について記述されている。X線検出器で得られたX線のエネルギー分布の解析およびシミュレーション解析について、第5章に述べられている。第6章では、本研究で得られた実験値と従来の実験値・理論値との比較ならびに本成果の将来への波及効果などが議論・考察され、第7章では結論が述べられている。この他、付録として、ハドロン原子のカスケード時間、パイルアップ事象に関する考察、ADCの積分非線形性および微分非線形性などが収録されている。

本論文は、原子核物理学での主要課題のひとつ、K中間子と原子核との強い相互作用に関する実験研究である。運動量移行がほぼゼロでの研究は、K 中間子原子のX線分光がもっとも有力なツールであり、X線分光による原子準位のエネルギー精密測定と理論計算との比較により強い相互作用を評価することができる。このK中間子原子のX線分光は1970年代から水素からウランまでの様々な標的で測定されてきたが、その相互作用の正確な理解はまだ得られていない。最も基本的なシステムであるK 中間子水素のX 線が正しく測定されたのは1990 年代の終わりである。K 中間子ヘリウムに関しては、2p 軌道のシフトの実験値と理論計算との間に5σにおよぶ大きな不一致があることが知られており、「K中間子ヘリウム原子パズル」として、30年以上もの説明がつかない状況であった。

本研究ではこの「K中間子ヘリウム原子パズル」を解決するために、大強度K中間子ビームが得られる、高エネルギー加速器機構KEK 12GeV-陽子シンクロトロンを用いたK中間子ヘリウム原子X線分光を行っている。過去の実験に比べバックグランド事象の除去およびX線エネルギー測定の分解能向上が図られており、具体的には、薄い高分解能シリコンドリフト検出器(SDD)の採用、液体ヘリウム中での静止K中間子事象の選別、オンラインでの検出器較正法の開発などをあげることができる。

本研究でのデータ解析においても徹底したバックグランド事象の除去とシミュレーションを行い、X線エネルギー分布の完全理解を達成している。特に、パイルアップ事象や標的内部でのコンプトン散乱の寄与を詳細に評価し、特性X線のエネルギー測定での、系統誤差を小さくすることに成功している。これら新しい実験手法と解析によって、2p 軌道のシフトの実験値を詳細にもとめ、理論計算との比較を行ったところ、実験値は誤差の範囲内で理論値と一致しており、長い間問題となっていた、「K中間子ヘリウム原子パズル」が解決した。

以上の成果はK中間子とヘリウム原子核との強い相互作用に関する基礎的かつ重要な情報であり、Physical Review C誌に掲載を予定している。

なお、本論文は共同研究であるが、論文提出者が主体となって、本実験の主要検出器SDDの動作、調整、データ収集、およびこの検出器の新しい較正方法の発案と確立といったハード面での貢献とともに、シュミレーションなどのソフトウェア開発も行い徹底した解析を行っている。これらは本研究にとって不可欠な要素であり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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