学位論文要旨



No 127349
著者(漢字) 吉永,匡史
著者(英字)
著者(カナ) ヨシナガ,マサフミ
標題(和) 律令軍事構造の研究
標題(洋)
報告番号 127349
報告番号 甲27349
学位授与日 2011.06.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第815号
研究科 人文社会系
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大津,透
 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 教授 橋場,弦
 東京大学 准教授 佐川,英治
 工学院大学 教授 榎本,淳一
内容要旨 要旨を表示する

本稿は古代日本を主たる検討対象として、国家と軍事力、および法と軍事力の関係について考察した。具体的には、日本古代国家の基本法典である律令に軍事力がどのように規定され、実際に行使されたのかという点の解明を目的とし、古代国家の支配体制における軍事力の位置と機能を実証的に明らかにした。また、従来あまり顧みられなかった交通と軍事の関係や、治安警察機能などに焦点を当て、国家的軍事力のあり方を複合的かつ全体的に描くことを試みた。

序章では、研究の視角と手法を提示した上で、律令軍事制度の性質にかかわる研究史の整理を行い、その問題点を指摘した。

第一部は「日本古代の軍事構造」と題し、日本古代の軍事体制とその特質について、律令軍団制の性質の解明を主軸として検討を進めた。

第一章「日本古代における兵役の形成 ―七世紀中葉以前の軍事力の諸形態―」は、考古学的成果を踏まえつつ『日本書紀』の記載を批判的に検討し、日本古代の軍事徴発の具体的なあり方を明らかにした。七世紀中葉以前において、一般農民を法に基づいて画一的に徴兵し、その時々の政治的要請の有無にかかわらず維持されるような常備軍は存在しなかったと考えられる。当該時期における徴兵方式は、力役と渾然一体となった徴発形態の範囲を出るものではなかったと位置付けられる。

第二章「律令軍団制の成立と構造」は、第一章の結論を踏まえて、律令軍事構造の基本を為す軍団制の成立過程と性質・意義について論じた。軍団制は大宝律令の施行を以て成立したが、七世紀以前の地方軍事力とは異なり、中央政府が恒常的に使用可能で、様々な政治目的に対し即座に行使できる基礎的な常備軍を、はじめて国司の強力な指揮下に創出した点に、大きな意義があると考える。白村江の敗戦と壬申の乱という性質の異なる戦争を踏まえて成立した軍団制は、対内・対外的脅威を問わず、現行政府による支配体制の維持・展開を阻害する一切のものに対応する基本的な武力手段であったと位置付けた。

付論「八世紀における「糺察所部」について」は、第二章で論じた「糺察」活動に関連して、国司の職掌である「糺察所部」の内実について、補足検討を行った。

第三章「日唐屯田制の構造 ―財政面からみた律令軍制の特質―」は、律令国家の軍事財政について、屯田制の継受という観点から検討を行った。唐では屯田が辺要における重要な軍事財源となっていたが、日本では皇帝の供御料田という性質のみを継受し、軍糧田としての屯田を設置しなかった。本章ではこの理由を、軍団が国司の下部機構であることから、国衙財政によって軍事費が捻出されるべき構造になっていた点、そして辺要である西海道においては、田地が有事の際の軍糧田としての性質を帯びていた点に求めた。以上から、日本の軍事財政のあり方は国司制と軍団制に大きく規制されており、独立した軍事費は存在せず、財政面においても地方支配構造の中に取り込まれていたと位置付けた。

第二部「律令関制度の研究」では、律令国家の関のシステムを解明することを通じて、国家体制の防備という観点から律令軍事体制の一側面を明らかにした。また、唐関市令の復原を行うことにより、唐令復原研究の手法の深化を図った。

第一章「律令関制の特質」では、北宋天聖関市令という新たな法制史料を用いて、律令関制度の基本構造を解明すべく、日唐の関について比較検討を行った。具体的には、唐関市令の条文排列を復原し、その構造を明らかにした上で、関市令の根幹規定である唐関市令第一条の復原と比較検討を行った。日本では壬申の乱を経て三関を頂点とする独自の関のあり方を形成し、その本質を唐と同じく京師防衛に措定したと考えられる。また日唐律令制比較研究における新たな視点として、従来のように両者の差違のみを評価するのではなく、同質性についても重視することを提言した。

第二章「日唐関市令の比較研究 ―特に関にかかわる法規を中心として―」は、日本と唐の関市令について、篇目そのものの歴史を辿り通時的にその性質をうかがう手法をとり、唐令条文の復原、そして日唐令の比較検討を行った。日本の大宝関市令が、養老令に比して篇目順が上昇し営繕令の次篇に位置していたことは、当時において関と市の造営・整備が急務であったことを背景としていた。これは日本における関という交通検察施設の歴史の浅さのあらわれであり、大宝律令の施行によって関のシステムが完備されたことを示している。そして関の通行という点では、唐令に存在した便宜規定を削除し、関司へ厳密な勘過業務を求めることで、シンプルであるがゆえの厳しい姿勢を示していると評価できる。以上を踏まえつつ、日本では関と縁辺の結びつきを解消していたことを明らかにし、日本関市令が内地の関を主眼とすることを指摘した。

第三章「日本古代における関剗の機能」は、第一章・第二章の検討を踏まえて、日本古代における関剗の機能と軍事力との関係を検討した。八世紀以後のセキは、京師防衛のために設置された国家的重要拠点である律令の「関」と、地域支配の必要性に基づき国司によって設置された往来の検察施設である「剗」の二重構造をとっていた。関の管理官司である「関司」は、国司・軍団官人・兵士によって構成されており、大宝律令施行当初において具体的に想定されていた関は、主として三関であったとみてよい。三関には軍団の軍事力が不可欠であったように、関の設置は軍団の存在が前提となっており、関の設置と軍団制とは密接にかかわっていたと考えられる。律令関制度は、叛乱対策という国内要因に主軸を置きつつも、対外的脅威も包括した京師防衛を根本的性質にもち、現行政府による全国支配を保持するための防備体制であったと結論できる。

第三部「追捕制度にみる軍事力の諸形態」は、平時における軍事力発現の最たる例である犯罪者追捕のあり方に焦点を当て、地方軍事力が治安維持システムの中で果たした役割について、日唐捕亡令の比較検討を通じて明らかにすることを目的とした。

第一章「捕亡令からみた日本古代の軍事意識」は、日中における捕亡令の変遷を辿りつつ、北宋天聖捕亡令の構造を明らかにした上で日本捕亡令の特質を指摘し、捕亡令条文からうかがえる律令国家の軍事意識を検討した。その結果、大宝律令編纂段階における地方軍事力の構想に、軍団以外の恒常的な軍事単位を設置しない方針があったことや、中央政府が征討軍(外征軍)の派遣に対して緊迫した意識を持っていなかったことを明らかにした。そして養老令における第一条の改変は、大宝律令施行後に実施された征討行動の経験を踏まえて為されたものと考えた。ここから、養老令には大宝令の不備を修正する積極的側面が存在すること、そして日本律令国家の軍事構想もまた、制度面においても固定的ではなく可変的な性質をもっていたと位置付けた。

第二章「律令国家と追捕制度」は、地方軍事力の関与が明確に規定されている日本捕亡令の第二条・第三条について、復原した唐令との比較検討を行い、法に規定する地方軍事力のもつ治安維持機能の具体像を明らかにした。治安維持活動の第一である犯罪者の追捕は、国司・郡司・軍団が相互に連携を取って行われていた。軍団は地方において恒常的に兵力を有する唯一の官司として、律によって厳しく制限されつつも、捕亡令の追捕構造に組み込まれていたと考えられる。したがって平時において軍団は、現行政府による支配のための軍事力として機能することを、その設置時点から想定されていたと位置付けられる。特に養老捕亡令有盗賊条は、同令追捕罪人条とより一層の円滑な運用を目指して養老令編纂段階で修正が施され、地方の軍事システムの変化に柔軟に適応し得る形態へと変化した。ゆえに両条は、辺要を除く地域で軍団制が停廃された九世紀以降も、罪人追捕の根幹規定として命脈を保ち続けたと結論した。

終章では上記の検討を総括した上で、日本律令制のもつ軍事的性格について検討を加えた。日本律令制が唐令に比して一見軍事色が弱く見受けられるのは、軍事に対して消極的であったからではなく、大宝律令施行後、政治状況に応じて改変を加えることを前提として、あえて基礎的な規定に留めたことに起因すると考えられる。律令軍事構造は、八世紀初頭の大宝律令段階において、外征あるいは防備といった、ただ一つの指向性をもった形で成立したのではなく、叛乱鎮圧、対外的防備、夷狄の征討といった国内外で予想される軍事行動に柔軟に対応しうるシンプルな基本構造を目指していたのであり、律令制に規定する軍事力の性質は金科玉条のような固定的なものではなく、可変的であったと結論できる。これを踏まえ、さらに八世紀以降の軍事行動や軍事政策を個別に考察し、展望を示した。

以上のように本稿では、国家的軍事力の基盤である律令軍団制を中心にして、三部を通じて律令軍事構造の検討を行い、その本質を明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

吉永匡史氏の論文『律令軍事構造の研究』は、古代律令国家の軍事力について、律令法の日唐比較など制度的視点から解明を試み、軍団制を中心に、関制度や追捕制度を取りあげ、軍事力のあり方や機能を明らかにしたもので、貴重な実証的研究成果である。

第一部「日本古代の軍事構造」では、軍団制について、大宝律令とともに常備軍として成立し、国司の下部機構として「糺察」活動の実行手段として機能したことを明らかにし、戦時には征討軍の主力にはなったものの、朝鮮半島への侵略戦争を軍団制の主目的と想定する説を否定した。また日唐田令の屯田制を比較分析し、唐では辺要における重要な軍事財源として設定されたのに対して、日本では皇帝の供御財源という面だけを継承したことを明らかにし、財政面でも軍事費が地方支配構造のなかに組み込まれていたと論じる。

第二部「律令関制度の研究」では、日唐の関市令の詳細な分析から関のシステムを解明し律令軍事体制を明らかにする。従来古代の三関は日本独自のものと考えられてきたが、唐令が規定する京師防衛という関の性質を継受して大宝律令によって構築されたことを明らかにし、こうして規定された国家的「関」のほかに、国司により設置される「〓」が並立する二重構造があったと論じ、関の管理に軍団が大きな役割を果たしたとする。

第三部「追捕制度にみる軍事力の諸形態」では、日唐の捕亡令をとりあげ、犯罪者の追捕のあり方から法と軍事力の関係を考える。八世紀初頭には外征軍が想定されていなかったが、征討の実施にともない条文の変更が行われたことや、実際の治安維持は国司・郡司・軍団の連携によって行われたことなどを指摘する。終章では日本律令に軍事色が弱いことに注意し、九世紀以降に国司が中心となる軍事力編成に変化することを述べる。

古代軍事史についての先行研究を総括した上で、それに正面から向き合い、軍団制を基軸に堅実な結論を示していて、誠実な研究姿勢がうかがわれる。方法的論には、とくに関市令・捕亡令について最新の北宋天聖令を参照して緻密に分析し、中国史料も取り上げて仁井田陞以来日本学界で進められてきた唐令復原研究の発展にも貢献していることが特記できる。律令軍制全体の解明のためには軍防令の検討が残されていることや、軍団の動態的・実態的分析など今後の検討を期待したい点もあるが、高度な研究成果であることは言うまでもない。

以上より本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するのにふさわしい独創性の高い業績として認めるものである。

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