学位論文要旨



No 127354
著者(漢字) 桑原,篤
著者(英字)
著者(カナ) クワハラ,アツシ
標題(和) Wntシグナルによる大脳皮質神経系前駆細胞の運命制御メカニズムの解明
標題(洋)
報告番号 127354
報告番号 甲27354
学位授与日 2011.06.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7522号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 鈴木,勉
 東京大学 准教授 上田,宏
 東京大学 教授 宮島,篤
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

高度な情報統合機能を持つ大脳新皮質の発達は、動物が哺乳類へ、さらにヒトへと進化する過程で特徴的な現象である。この大脳新皮質の発達の基盤として、ニューロンの数が増えたことが重要である。本研究では、大脳新皮質のニューロンの数を増やすメカニズムを解析した。大脳新皮質のニューロンは、胎生期に存在する神経系前駆細胞から生み出される。脳発生において、神経系前駆細胞はまず増殖してその数を増やし、その後ニューロンまたはグリアへと分化する。それゆえ、ニューロンの数を増やすための作用点としては、この増殖の促進と、ニューロンへの分化の促進の2つが少なくとも挙げられる。私は、この増殖とニューロン分化の両方ともを制御するシグナル伝達経路であるWnt-beta-cateninシグナルに注目して、その大脳新皮質発生における役割を検討した。

Wntシグナルの役割としては、当研究室を含むいくつかのグループは、これまでWntシグナルが神経系前駆細胞のニューロン分化を促進することを報告している(Hirabayashi, Y. et al. 2004など)。一方、Wntシグナルが神経系前駆細胞の増殖を促進し、脳を肥大させることも報告されている。Wntシグナルの効果を媒介する下流の標的遺伝子に関しては、当研究室ではニューロン分化を促進する転写因子Neurogenin (Ngn) 1と2をWntシグナルが直接制御することを見いだしている。一方、Wntシグナルによる神経系前駆細胞の増殖促進を媒介する標的遺伝子はわかっていなかった。本研究では、まず(1)Wntシグナルによる神経系前駆細胞の増殖促進を、転写因子N-Mycが媒介することを明らかにした。さらに、N-Mycが分化に与える影響を調べたところ、意外なことに (2) N-MycがWntによる神経系前駆細胞のニューロン分化促進をも媒介することがわかった。

本研究の後半では、Wnt-N-Mycシグナルの大脳新皮質発生における役割をin vivoで解析した。胎生期大脳の神経系前駆細胞は、細胞分裂の位置と遺伝子発現の違いなどに応じて、Ventricular zone (VZ、脳室帯)前駆細胞とSubventricular zone (SVZ、脳室下帯)前駆細胞に分類できる。そしてこれまでこのSVZ前駆細胞がニューロンの数を決定する作用点として重要であるという仮説が提唱されてきた。特に、動物進化に伴うニューロン数の増加は、SVZ前駆細胞の増加とよく相関することが示されている。それゆえ、SVZ前駆細胞の制御機構は、「なぜ哺乳類の脳はこのように発達したのか」、ひいては「なぜヒトはヒトになれたのか」という問いに対する1つの答えを提供する可能性がある。しかし、これまでSVZ前駆細胞を制御するシグナル伝達経路はほとんどわかっていなかった。そこでWnt-N-Mycシグナルがin vivoのどの前駆細胞に作用するか検討したところ、(3) Wnt-N-Myc経路はSVZ前駆細胞を増やし、大脳新皮質のニューロンの増加に貢献することを示した。

2.結果と考察

2-1 N-MycはWntによる神経系前駆細胞の増殖促進効果を媒介する

これまでWntシグナルが胎生期大脳新皮質神経系前駆細胞の増殖を促進する際の標的遺伝子はわかっていなかったのでまずこれを調べた。Wntシグナルを活性化する方法としては、精製したリコンビナントWnt3a(以下Wnt)を用いた。胎生10日目(E10)マウス大脳新皮質から採取した神経系前駆細胞の初代培養系を、Wnt刺激してRNAを抽出した。そして、他の系でWntによる増殖促進の標的遺伝子として知られているMycファミリーおよびCyclin Dファミリーの転写量を定量PCRで調べた。その結果、Wnt刺激によりN-Mycの転写量が増加することがわかった。

N-Mycは、ガン遺伝子として知られるMyc転写因子ファミリーに属し、脳の神経系前駆細胞の増殖に必要であることが報告されている。そこでN-MycがWntシグナルによる神経系前駆細胞の増殖促進を媒介するかを調べた。N-myclox/loxマウスから採取した神経系前駆細胞に、レトロウィルスベクターをもちいてcontrolまたはCreリコンビナーゼを遺伝子導入し、controlまたはN-Mycコンディショナルノックアウト(cKO)細胞をそれぞれ調整した。するとcontrolの神経系前駆細胞ではWntの添加により増殖を促進したが、N-Myc-cKO神経系前駆細胞ではWntの添加による増殖促進効果が見られなかった。すなわち、N-MycがWntによる増殖促進に必要であることがわかった。さらに十分性を調べたところ、N-Mycの発現が神経系前駆細胞の増殖を促進することがわかった。

次に、Wnt-beta-cateninによる神経系前駆細胞の増殖促進を、N-Mycがin vivoでも媒介するか検討した。まず神経系前駆細胞でCREを発現させるマウス(nestin-CREマウス)と、CRE依存的に活性型beta-cateninの発現が誘導されるマウス(beta-cateninlox(ex3)/+)を交配させたところ、過去の報告と同様に、活性型beta-cateninの発現は神経系前駆細胞の増殖を亢進して脳を肥大させた。この活性型beta-catenin誘導マウスにおいて、さらにN-Mycをコンディショナルノックアウトすると、活性型beta-cateninの発現による脳の肥大が緩和されることがわかった。これらの結果から、Wnt-beta-cateninシグナルによる神経系前駆細胞の増殖促進を媒介する標的遺伝子として、N-Mycが重要であることがわかった。

2-2 N-MycはWntによる神経系前駆細胞のニューロン分化促進を媒介する

N-Mycはc-Mycと代替可能な機能をもつことが報告されており、c-Mycは幹細胞の分化を抑制し自己複製を促進することがES細胞などで示されている。そこで、神経系でN-Mycが分化を抑制するか検討した。

まず、Wntによるニューロン分化促進にN-Mycが与える影響を検討した。N-myclox/loxマウスから調整したcontrolまたはN-Myc-cKO神経系前駆細胞にWntを作用させ、ニューロンマーカーbIII-tubulin陽性細胞の割合を調べた。controlではWntによりbIII-tubulin陽性細胞の割合が増加し、ニューロン分化の促進効果がみられた。一方、N-Myc-cKO神経系前駆細胞ではWntによるニューロン分化の促進が阻害されることがわかった。すなわち、意外なことに、Wntによるニューロン分化促進にN-Mycが必要であることがわかった。

細胞増殖を制御することがよく知られているN-Mycがニューロン分化を促進する方向で働くという新しい知見が得られたので、さらにN-Mycがニューロン分化を促進するか、十分性を検討したところ、N-Mycの発現がニューロン分化を促進することがわかった。

2-3 Wnt-N-MycシグナルはSVZ前駆細胞を増やす

次に、Wnt-N-Mycシグナルが、in vivoでどの前駆細胞を制御するか、すなわちVZ前駆細胞を制御するか、それともSVZ前駆細胞を制御するか、もしくはその両方を制御するか検討した。発生中の大脳の神経系前駆細胞にレトロウィルスを用いて活性型beta-cateninを発現したところ、VZ前駆細胞マーカーPax6陽性細胞が減少し、SVZ前駆細胞マーカーTbr2陽性細胞が増加した。同様に、N-Mycを発生中の大脳で発現したところ、VZ前駆細胞を減らし、SVZ前駆細胞を増やすことがわかった。これらの結果から、Wnt-N-Mycシグナルの活性化はSVZ前駆細胞を増やすことがわかった。

次に、N-MycがSVZ前駆細胞の産生に必要か調べた。nestin-CREマウスとN-myclox/loxを交配してN-Myc-cKOマウスを作成して解析したところ、N-Myc-cKOマウスでは、SVZ前駆細胞マーカーTbr2陽性細胞が顕著に減少することがわかった。この結果から、N-MycがSVZ前駆細胞の産生に必要であることがわかった。

SVZ前駆細胞は、動物の進化の過程でその数が増えたことがわかっており、ニューロンの数を増やすのに貢献すると考えられている。そこでN-Mycがニューロンの産生に与える効果を検討するため、先ほどと同じN-Myc-cKOマウスについて、大脳のニューロンの配置が終わる生後5日目で解析した。その結果、N-Myc-cKOマウスにおいてニューロンの数が減少していた。この結果から、N-Mycがニューロン産生に貢献することがわかった。

3.結論

本研究では、N-MycがWntシグナルの増殖促進とニューロン分化促進の両方の効果を媒介する重要な標的遺伝子であることをあきらかにした。さらに、Wnt-N-MycシグナルがSVZ前駆細胞の産生を制御しニューロン産生に貢献することを示し、大脳新皮質のニューロンの数を決める重要な因子の1つが初めてあきらかになった。動物進化による大脳新皮質のニューロンの数の増加に、このWnt-N-MycシグナルによるSVZ前駆細胞の制御が貢献した可能性があると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

Wnt-β-cateninシグナルは、ES細胞・組織幹細胞の増殖と分化を制御するシグナル伝達経路である。Wnt-β-cateninシグナルの制御の破綻は、組織の過形成や形成不全を引き起こす。大脳新皮質発生においてWnt-β-cateninシグナルは、神経系前駆細胞の増殖とニューロン分化を制御することが報告されてきた。しかし、増殖と分化の両方を制御する意義がわかっておらず、この経路のin vivoでの役割は不明な点が多かった。本論文は、Wntシグナルによる大脳新皮質神経系前駆細胞の運命制御メカニズムを解析したものである。

第1章は緒言であり、研究の背景と本研究の意義を述べている。

第2章では、大脳新皮質ニューロンの数を増やす新しい作用点として、Wntシグナルがニューロン前駆細胞の産生を促進することを明らかにした。高度な情報統合機能を持つ大脳新皮質の発達は、動物が哺乳類へ、さらにヒトへと進化する過程で特徴的な現象である。この大脳新皮質の発達の基盤として、神経幹細胞から産生されるニューロン数が増えたことが重要である。最近、神経幹細胞がニューロンへと分化する中間段階として、ニューロンへと分化決定し1-2回増殖する前駆細胞(ニューロン前駆細胞)を介する場合があることが報告された。そして動物進化に伴うニューロン数の増加は、胎生期のニューロン前駆細胞の増加とよく相関することが示されている。それゆえ、ニューロン前駆細胞を増やす機構は、「なぜ哺乳類の脳はこのように発達したのか」、ひいては「なぜヒトはヒトになれたのか」という問いに対する1つの答えを提供する可能性がある。これまでニューロン前駆細胞を制御するシグナル伝達経路はほとんどわかっていなかったが、第2章でWnt-β-cateninシグナルの大脳新皮質発生における役割を調べた結果、Wntシグナルがニューロン前駆細胞の制御において重要な役割を果たすことを明らかにした。まずWntシグナルの下流の標的遺伝子を検討している。精製したリコンビナントWnt3aをマウス胎生期大脳新皮質神経系前駆細胞に作用させ、下流の標的遺伝子を検討したところ、Wntが転写因子N-Mycの発現を亢進することを示した。そして次にこのN-Mycが、Wntシグナルによる神経系前駆細胞の増殖促進効果またはニューロン分化促進効果を媒介するかを、N-Mycコンディショナルノックアウトマウスをもちいて解析し、N-MycがWntによる増殖とニューロン分化の両方を媒介することを明らかにした。さらに、Wnt-N-Myc経路のin vivoにおける役割を調べるため、発生中の大脳の神経系前駆細胞において活性型β-cateninまたはN-Mycをレトロウィルスベクターをもちいて発現させたところ、活性型β-cateninまたはN-Mycの発現がSubventricular zone(SVZ)領域のニューロン前駆細胞(SVZ-ニューロン前駆細胞)を増やすことを明らかにした。逆に、N-MycをコンディショナルノックアウトするとSVZ-ニューロン前駆細胞が減少し、ニューロンの数が減少することを示した。以上の結果から、大脳新皮質ニューロンの数を増やす新しい作用点として、Wnt-N-Myc経路によるSVZ-ニューロン前駆細胞産生の促進という機構を明らかにした。

第3章では、Wnt-β-cateninシグナル経路のシグナルの入りやすさを制御する転写因子TCF3の大脳発生における役割を解析した。適切な数のニューロンを生み出すためには、発生の過程で神経幹細胞の数を維持することが重要である。そのメカニズムとして神経幹細胞では、なんらかの因子によってWnt-β-cateninシグナルに対して抵抗性をもっている可能性に着目し、その候補としてWnt-β-cateninシグナル経路の構成因子の1つTCF3に注目した。TCF3は転写因子TCF/LEFファミリーの一員であり、Wnt-β-cateninシグナルに対して抑制的に働くことが示唆されているが、大脳新皮質発生におけるTCF3の機能はわかっていなかった。そこで第3章では、大脳新皮質発生におけるTCF3の機能を、特に神経幹細胞のニューロン分化抑制機構に注目して検討している。まず胎生期大脳におけるTCF3の発現を免疫染色で調べ、TCF3は未分化な神経系前駆細胞で限局して発現していることを示した。さらに、TCF3の発現が、Wnt-β-cateninシグナル活性を抑制し、神経系前駆細胞のニューロン分化を抑制することを見いだした。さらに、TCF3をRNAiによりノックダウンすると神経系前駆細胞の分化が促進されることがわかった。これらの結果から、胎生期大脳においてTCF3がWnt-β-cateninシグナルに対して抑制的に働き、神経幹細胞の未分化性を維持することがわかった。

第4章は結言であり、本論文の総括と将来への展望を述べている。

以上のように、本論文では、Wnt-β-cateninシグナルによる胎生期大脳皮質神経系前駆細胞の運命制御について解析している。まず、Wntシグナルの下流の制御因子としてN-Mycが重要であることを明らかにした。さらにWnt-N-Myc経路のin vivoでの役割を解析し、この経路がSVZ-ニューロン前駆細胞の産生を制御することを示した。第2章の考察で申請者が言及したように、SVZ-ニューロン前駆細胞数は動物進化における大脳皮質の発達と相関することが示されており、Wnt-N-Myc経路が進化における大脳の発達に貢献した可能性も考えられる。次に、第3章の研究では、神経幹細胞の枯渇を防ぐ因子の一つとしてTCF3が重要である事が明らかになった。本研究により示されたWnt-N-Myc経路によるSVZ-ニューロン前駆細胞の制御と、TCF3による神経幹細胞の未分化性の維持は、アルツハイマー病などの中枢神経疾患をターゲットとした再生医工学・創薬研究に応用できることが期待される。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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