学位論文要旨



No 127379
著者(漢字) 西﨑,実穂
著者(英字)
著者(カナ) ニシザキ,ミホ
標題(和) 描画と痕跡 : 表面における表現の発生
標題(洋)
報告番号 127379
報告番号 甲27379
学位授与日 2011.07.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第185号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,正人
 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 教授 岡田,猛
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 准教授 能智,正博
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,表面における「表現(depiction)」について,行為者の身体と対象となる表面(surface)の変化に焦点を当て,その発生と過程を実証データから明らかにしたものである。表面の変更による表現の一つに,描画という視覚表現が挙げられるが,視覚がどのように表現に関わっているかを明らかにすることは,視覚表現を為す表面の情報とその知覚を理解することを課題とする。従来の視知覚の理論は,物理的世界と知覚世界とを区別し,視覚を網膜像,神経系、あるいは心的像によって仲介された間接知覚の結果として捉えられる。これに対して,生態心理学者のギブソン(James. J. Gibson)は,視知覚には介在するものがないという直接知覚論を主張する。本論文は, Gibsonの生態学的アプローチを柱に議論を展開した。

Gibsonは「情報」,「知覚システム perceptual systems」,そして「表面」を重視している。この三つは,それぞれ「視覚」,「身体」,「表現」の概念を再定義するアイデアとして,本論文の議論に用いられた。本論独自な点は,環境にある表面において出会う,生態学的「情報(生態光学 ecological optics)」と「知覚システム」を基に,「表現」を検討することにあった。それは,表面に定位して視覚表現を問題とする試みであり,表面の変更を行う行為者とその周囲の記述を目的とした。

表面に変更を加える方法は,(1)表面の配置を変える(レリーフや彫刻など)、(2)表面の反射率を変える(絵画など)、(3)平らな表面に影を落し、表面の照明に変化を与える(影絵や映画など)の3つに大分される(Gibson, 1966, 1979/1986)。本論文では,画像・絵画による表現(depiction)と人の手による意図的な変更を加えた表示(display)の変更を対象とした。したがって,本論文で取り上げる表面における表現とは,環境の中から有効な情報を抽出するために表面を探索する知覚システムの機能の結果である。表面における探索のひとつは,高度な経験者によるデッサンである。他は,視覚表現の原初的な行為としての乳幼児による反復的変更行為とその「痕跡」である。

第I部 研究の背景――視知覚の諸理論と視覚表現

本論文は、4部構成となっている。第1章では,はじめに遠近法を軸に伝統的な視知覚の諸理論の変遷を生態学的アプローチと比較することで,本論文の土台となる理論的枠組みを示した。まず「視覚」を再定義するものとして,光の中にある知覚に有効な情報をまとめた「生態光学」の理論を取り上げた。次に情報を利用する動物の「身体」活動を説明する「知覚システム」論について述べた。最後に動物,ここでは人間の「表現」を,人間が定位し,活動を行う「表面」に求める枠組を示した。

第II部 描画の研究

第II部は二つの章から成る。表面における表現のひとつとして,遠近法に基づいたデッサン(素描)を取り上げ,高度な描画経験をもつ描画者による制作過程を検討した。

第2章では,描画研究からデッサンの位置付けを確認し,その課題を示した。本論文は,完成された絵画の芸術性について検討することを目的とするものではなく,描画者がどのように制作をすすめ,完成させていくのかという過程を明らかにするものである。したがって,制作物ではなく数時間に及ぶ制作過程の全容から,高度な描画経験をもつ行為者の身体技法を捉えることを目的とした。ここでいう身体技法とは,第1章で示した情報の概念に基づく知覚システムによる探索的な行為を指す。この目的のため,本論文に全体的視座を与えるGibsonの生態学的アプローチの展開に,次の二つの観点を求めた。第一が身体と視知覚の関係を捉えた近年の知覚研究で,第二が最新の運動研究である。

第3章では,実証研究としてデッサンの制作過程の分析を行った。デッサンは、従来の静止点からの行為ではなく,動的観察行為として検討された。さらに,視覚を動的な知覚システムとして捉え,身体に現れる姿勢の変化から,描画における視覚の役割を明らかにした。結果,描画行為を構成する複数の描画動作パターンの存在とそれらの時間経過に伴う特徴を確認した。特に,観察を前提とした客観描写に重点を置くデッサンにおける,「見る」ことの役割を,「画面に近づく/離れる(頭部―体幹の前後動)」という姿勢・動作として報告した。デッサンの制作過程を通じて,視覚は,姿勢の変化に現れ,姿勢が描写の進行を支えていることが確認された。システムとしての視覚が,描画という表現活動を可能にしていることが示された。

第III部 痕跡の研究

第III部も二つの章から成る。行為が表面につける「痕跡」という事象に着目し,乳幼児の日常生活の中から変更行為とその「痕跡」を縦断的に観察した。研究の対象を日常へおくことは,断片視ではなく,周囲を見回す「環境視」や「移動視」を含めたより探索的な表現の発生を問題とすることを意味する。

第4章では,まず従来の子どもの描画研究を概観し,初期描画の位置づけを再確認した。これまでの描画発達研究において,描画のはじまりは「なぐり描き」であるとされてきた。「なぐり描き」は,1歳を過ぎた頃から3歳にかけての「初期描画」と捉えられており,それ以前の時期についての詳細な検討はなされていない。また,描画研究の多くは,現在も対象を画面に再現する表現が中心である。表面の変更方法の多様さを考慮すると,その範囲は極めて限定的と言える。こうした「描画」における手と眼の協応が、これまでどのような関心と方法で記述されてきたのかについて概観し、本論文が対象にするべき日常生活における表面に対する変更行為とその「痕跡」の課題の独自性を明らかにした。この目的のため,本論文が依拠する生態学的アプローチから乳児の知覚と運動発達を結びつける理論的な視座を導入した。

第5章では,実証的研究として,生後1ヶ月から18ヶ月までの約1年半,乳幼児2名の日常生活で見られる「痕跡」をつける自発的な変更行為の縦断的観察を行った。本論文で着目した「痕跡」とは,乳幼児が跡を生じさせる対象を選択し,その対象の表面を変更させようとする自発的行為から生じる。観察の結果,(1)初めて「痕跡」をつける変更行為が出現したのは生後2ヶ月頃であり,その後も継続することがわかった。これは,乳幼児が描画行為開始以前に全身を用いた知覚システムの働きによって表面の特性を知覚し,その利用に有効な情報を抽出することと,「痕跡」を生成することが同時に行われていることを明らかにした。さらに,(2)乳幼児にとって「痕跡」をつける変更行為は,対象とする物質の表面を変化させ,変形させる技能の習得の機会となっていた。これは,乳幼児の身の回りにある日用品とよばれる物の性質と,それに応じて自己の動きを制御する方法の学習が,「痕跡」を通して獲得されることを意味していた。以上の結果は,「表現」という活動が,ある特定の活動領域から発生するものではなく、広い日常生活における様々な知覚・身体技能の向上を図る活動のリソースの一つであることが示された。

第IV部 総合的考察

第IV部,第6章では,第I部で示した生態学的アプローチに基づき,視覚表現の見解を再検討し,第II部,第III部の実証研究の結果から総合的な議論を行った。本論文が研究対象としたデッサンと痕跡という視覚表現活動において,表面の変更に必要な情報の探索的過程が記述され,知覚システムの活動の様態の一部が明らかになった。各知覚システムは,いずれも「姿勢」をつくる基礎定位システムと関係している。身体の動きと姿勢は分離できない。本論文の2つの研究において知覚システムの機能を,姿勢の変化に確認することができた。その機能は,対象とする表面の変更状態に応じて変化する。つまり本論文において知覚システムは,表面の視覚的な情報による身体の制御として説明できることを示した。身体(姿勢)と表面を軸に分析した結果,2つの研究は,一方は,単一事例による情報を得るための身体の協調と描画を成立させる組織化の過程を,もう一方はさらに,単一事例毎の縦断的な変化から得られる周囲環境の多様性を分析に含めることによって,視覚表現の二つの側面を示した。

以上より,本論文は,視覚表現を私たちの周囲の世界におけるさまざまな表面の変更として再定義し,その意味を生態学的アプローチの観点から検討した。生態学的アプローチは,既にある事物に対し,その存在と可能性を私たちに気づかせる一つの見方を提供する。それは,特殊な過程や関係を創造するのではなく,すでに環境にある事実が行為によって顕在化する。人間とその周囲の環境を相補的に捉え,行為者の知覚に適した情報の利用という点で,本研究が着目した姿勢の変化(例えば上体の前後動)や痕跡の変形行為はすでに日常の中にあった。こうした何ら特別ではない行為の意味と価値を,表現という問題の中で実証的に指摘したという意味において,本論文は生態学的アプローチの有効性の一端を示したと言えるのである。したがって,本論文は,表面における変更としてデッサンと痕跡を捉えることで,描画研究の枠に留まらない表現を問うことを可能にし,これまで明らかにされてこなかった日常的な環境における縦断的な表現の発生を記述した。デッサンと痕跡,両者に共通するのは,知覚システムによって表面に新たな情報を表示させることを学ぶ機会であり,それは同時に,行為の機会を多様かつ柔軟にすることでもある。本論文は,表面における表現活動を,情報に基づく知覚システムという生態学的な知覚理論の枠組みから再検討することによって,表現について考える一つの方向性を示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文では、表現(depiction)を、表面(surface)の情報を変更する知覚行為として研究する可能性を問題にしている。そのために、ジェームス・ギブソンの知覚への生態学的アプローチから、「情報」、「知覚システム(感覚器官を含む身体協調)」、「表面」の用語を導入している。

第I部第1章では、遠近法に基づく伝統的な視覚論(間接知覚論)との対比で、「直接知覚論」の立場が概説されている。

第II部では、デッサンが、動的視覚行為として検討されている。2章では、デッサン研究が展望され、3章では、熟練した描画者を対象として、デッサン過程で現れた数種の描画動作の推移が分析されている。結果は、とくに頭部―体幹の前後動、即ち「画面に近づく/離れる」動きが、約2時間半に及ぶ描画の後半に増加すること、また、その変動が、全体の構図決めから、細部の描写へと至る、描画工程の転換部に見られることが示されている。画家の「姿勢」が、描画の進行を多重に支えている可能性が考察されている。

第III部では、行為が表面につける「痕跡」を対象としている。まず、移動視が可能な場面で、表現の発生を検討する必要性が述べられている。4章では、従来の描画発達研究が「なぐり描き」に先行する時期の検討をしていないことを指摘している。5章では、誕生後18ヶ月齢までの乳児が、家庭内で、周囲を改変するために行った、自発的な反復行為が「痕跡」と定義され、縦断的に分析されている。結果は、痕跡は、「(シーツなどの表面の)肌理の変更」、「(玩具などの)物のレイアウトの変更」、「(食物などの)物質状態の変更」のほぼ3種に分類できること、そして3種の痕跡の出現が、寝返りから、ハイハイ、座位、歩行へと至る、初期運動の獲得過程と関係していることを示している。知覚方法の洗練や、物に応じた動作制御が、痕跡行為と共に獲得される可能性が考察されている。

第IV部6章綜合考察では、デッサンと痕跡の共通性が議論され、表面に情報を探る多種の知覚システムの活動に基づく点、さらにこの過程が行為に柔軟性や発達をもたらす点などが指摘されている。

本論文は、環境と身体の二項から表現を捉えるという独自な観点を、両者の相補性を詳細に観察することで具体化できる可能性を示しており、表現の本性や、その発生・発達の研究領域にオリジナルな貢献をしていると評価された。よって博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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