学位論文要旨



No 127382
著者(漢字) スエナガ,エウニセ トモミ タカハシ
著者(英字)
著者(カナ) スエナガ,エウニセ トモミ タカハシ
標題(和) 平安王朝物語の親と子
標題(洋)
報告番号 127382
報告番号 甲27382
学位授与日 2011.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1082号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 品田,悦一
 東京大学 准教授 小林,宣子
 東京大学 教授 野村,剛史
 東京大学 教授 三角,洋一
 立正大学 教授 藤井,貞和
内容要旨 要旨を表示する

『源氏物語』をはじめとする平安王朝物語の主要なテーマは王権獲得や男女間の恋愛だと考えられている。本論の目的は、王権論や恋愛を中心にした論では見えてこない、物語における親子に関わる主題や論理の重要性を明らかにし、物語の新しい読みを提示することである。そのために、『源氏物語』や『狭衣物語』における親子を様々な観点から考察した。

まず親の子に対する教育を考えるために、第一部では貴族の姫君に仕える、「童」「童べ」と呼ばれる使用人の童女たちの役割を考察した。姫君の親や保護者の大切な役目の一つは、優れた乳母や女房、そして童女を姫君のために雇うことであった。物語で繰り返し語られるとおり、姫君が過ちを犯すのは男を手引きする女房がいるからであり、親が娘の性や身体を管理するためには、姫君に仕える乳母や女房を管理する必要があった。乳母や女房の論は多く存在するが、使用人の童女についての研究は少ないので、第一部ではそれの考察を試みた。まず「童」「童べ」と呼ばれる者が使用人であるか否かを確認し、使用人の場合はその性別や主人を確認した。この過程で、『源氏物語』胡蝶の巻で舞を行う「童べ」は「童女」だと従来から指摘されてきたが、それは「童女」ではなく、貴族の子弟である可能性が高いことが確認できた。

第二部では『源氏物語』の構造に関わる継子譚の話型と兼輔歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」や『伊勢物語』六十九段の伊勢の斎宮の禁忌の恋の引用であると指摘される「闇」表現を考察した。継子譚の話型でいえば、すでに指摘されているように『源氏物語』第一部は光源氏と紫の上の二人の継子が試練を乗り越え幸福になる構造である。本論では、二人の継子が幸福になる過程で、継母による虐めが少ない、もしくはないにもかかわらず、継子は継母の実子の結婚を何度も妨害していることを確認した。そして『源氏物語』第二部で朱雀院が娘の女三の宮を源氏に降嫁させるのは、継子譚の構造でいえば、理不尽なまでに結婚を妨害された継母(弘徽殿女御)の実子(朱雀院)が、継子(光源氏)に不幸な結婚をさせて報復しているのだと読めることを、そして女三の宮の観点から見れば、継母ならぬ実の父により年老いた男と不幸な結婚をさせられる構造であることを指摘した。「闇」表現の考察からは、「心の闇」「闇にくれまどふ」「子の道の闇」はある程度物語で使い分けられていること、物語第一部では「心の闇」表現は王権獲得の物語と強く結びついていること、物語第二部と第三部では「子の道の闇」は矛盾する期待や曖昧な態度で娘を不幸にする朱雀院や八の宮などの父の発言に見られることが確認できた。付論では、兼輔歌の意味やそれが詠まれた状況を考察し、それは従来指摘されているような和やかな場で親心を詠んだ歌ではなく、緊張した席で兼輔が時の権力者の忠平に、相次いで子や孫を亡くした忠平の姉妹の穏子に同情を示しつつ、「心の闇」、つまり疚しい心のないことを訴える歌であるという読みを提示した。

本論第三部では、『狭衣物語』における親子の葛藤を考察した。『源氏物語』をはじめとする平安王朝物語では、両親もしくは片親が不在である主人公が描かれることが多い。両親がそろった狭衣を中心に語る『狭衣物語』では、親の期待に添わない願いを抱く子の苦しみがクローズアップされ、親より優れた子に親への従順を要求する「孝」思想の矛盾が明らかになるが、親が子の優位性を認めた時点で物語は天照神の託宣という超越的な存在によって収束をはかると論じた。

本論第四部では、『源氏物語』に描かれる親子関係を再確認した。『源氏物語』第一部では皇権から疎外された光源氏が王権を獲得する物語が中心に展開されるので、親子の葛藤や対立は問題にならないが、物語第二部と第三部では、親の不適切な教育、矛盾する期待や曖昧な態度などに翻弄され、親の期待に応えられないことで罪悪感に苦しむ娘たちの主題がクローズアップされると論じた。第二部では新しい妻を迎えた夫の裏切りに苦しむ紫の上の苦悩が焦点化され、第三部では男君との関係で悩む宇治の姫君たちや浮舟の苦悩が描かれ、罪深い「女の身」という表現が繰り返されるので、第二部と第三部の主題は女の苦悩や女の生き難さだといわれている。本論では物語第二部と第三部で新しく登場する女三の宮、落葉の宮、宇治の大い君、中の君、浮舟などの女君たちは親と親密な関係にあり、女君たちの苦悩は男の頼りなさよりも、親の期待に反して「人笑へ」になることへの恐れからくるものであることを確認し、物語第二部、第三部の主要なテーマは女の苦悩ではなく、親の教育や態度に由来する娘の苦悩である、つまり親の矛盾する過剰な期待や曖昧な遺言などによって死を願うほど追い詰められる娘たちの物語であると論じた。

『源氏物語』最後の主人公である浮舟の物語の結末をどう解釈するかは、『源氏物語』全体を理解するうえでも重要な問題である。かつて浮舟は出家して救済されるという読みがなされていたが、最近では出家してもなお男の欲望の対象となる女の身から自由になれない浮舟は救済されないという意見が主流である。本論では、入水を試みたが横川の僧都に救われ、実の母とは違い、自分の性格や選択を認め受け入れてくれる横川の僧都の妹尼という新しい〈母〉とめぐり会い、新しい〈母〉のために生きたいと願うまでに快復している浮舟像を確認し、このような結末を用意する『源氏物語』は、浮舟、ひいては娘や女性の救済を志向して終っているという新しい読みを提示した。

審査要旨 要旨を表示する

スエナガ エウニセ トモミ タカハシの博士(学術)学位申請論文「平安王朝物語の親と子」について、論文の内容とその意義、および審査結果の概要を報告する。

本論文は、平安時代に成立した多くの物語について、親子関係という視座が新たな読みを切り開く可能性を示そうとしたものである。『源氏物語』に代表されるこれら物語は、主人公の恋愛が主要な筋立てとなっているため、男女の性差を基本的視座とする読みが古くから支配的であった。戦後の研究史・享受史を通じ、政治権力ないし王権という、もう一つの視座の有効性が広く認められるに到ったが、具体的な読みの次元では両者がなお乖離している観を否めない。スエナガがそこに「親子」を導入する意図は必ずしも明言されていないが、結婚が家の繁栄と密接に関わるとの指摘に照らせば、従来の二つの視座に橋を架けようとしたものと思われる。

論文は全四部から成り、第四部「『源氏物語』の親子」に全体の内容が収斂するような構成となっている。「平安王朝物語」全般を扱うとはいえ、論の照準は『源氏物語』に絞られていると見てよい。

便宜上、第四部の内容を先に見届けておこう。周知のとおり、『源氏物語』は本編第一部・第二部と宇治十帖(第三部)の三部構成となっている。第一部は、皇位継承権を失った光源氏が事実上の王権を獲得する物語であるが、それを裏側で支えるのは、桐壺更衣の父大納言、また明石入道が、娘の結婚に望みを託して家を繁栄に導こうとした物語である。それはまた、ともに継子である光源氏と紫の上が幸福を手にする物語でもあった。他方、第二部と第三部では、女の身の罪深さやそれゆえの苦悩が新たに主題化されると言われてきたが、彼女たちが苦悩する原因は、単に女に生まれた点にではなく、自分を育てた親の願望や期待に束縛されたり、翻弄されたりする点にある。 第二部では 、実の父(朱雀院)に初老の男(光源氏)と結婚させられて不幸になる女三の宮や、母の矛盾する期待に応えられず苦しむ女二の宮(落葉の宮)が描かれる。さらに第三部では、宇治の大い君が父(八の宮)の曖昧な遺言に呪縛され、結婚を拒否したまま死を迎えるのだが、その腹違いの妹、浮舟は母(中将の君)の過剰で理不尽な期待に押しつぶされ、ついに入水を試みる。これらはみな実の親が娘を不幸にする物語であり、第二部から第三部への流れは、この同一の主題が反復されつつ、深刻さを増していくものとなっている。

物語の表現を丹念に追いながら以上の把握を示したうえで、スエナガは、最後の主人公である浮舟の物語をどう読み解くかが『源氏物語』全体の解読に直結することを指摘する。浮舟は出家して救済されたという読みがかつては行き渡っていたが、最近の諸家は、出家してもなお男たちの欲望の対象でありつづけた点を重視して、浮舟救済説を否定する傾向にある。それでいて、救済されない浮舟を通して物語が描いてみせたものは何か、という問題には誰もが二の足を踏んでいる。

この件についてスエナガが提示するのは、非常に大胆かつ斬新な見解である。入水を試みた後に横川の僧都に救い出された浮舟は、僧都の妹尼と巡り会う。実の母と対照的に浮舟の人格と正面から向き合い、受け入れてくれる妹尼に、浮舟は新しい〈母〉を見出し、この〈母〉のために生きたいと願う。浮舟がこうして希望を手に入れた点を重視すれば、この先の成り行きとして、実母との再会の、したがってまた和解の可能性が見通せるではないか、とスエナガは主張するのである。浮舟の再生を最後に語った『源氏物語』は、従来も言われてきたように女性の救済を強く志向している次第だが、その救済は、女性が宗教にすがることによってではなく、自分の言葉を取り戻すこと、そして他者が押しつけてくる幻想をはっきり拒否することによって成就するのであった。

本論文の他の部分は、第一部「『源氏物語』の「童」」、第二部「『源氏物語』を展開させる話型・表現」、第三部「『狭衣物語』の父と母」となっており、それぞれが第四部の主張を導き、支える布石ともいうべき役割を負っている。

第一部では、平安貴族社会における娘の養育について、具体的に考察している。姫君が将来幸福な結婚生活を営めるよう種々の教育を授けるのは、周知のとおり、乳母や女房の役目だった。スエナガはさらに、「童」「童べ」と呼ばれていた年少の使用人に注目し、種々の事例を分析しつつ、結婚の候補者たちに対して姫君を魅力的に見せる役割が童らに期待されていたことを突き止める。当時の親たちは、有能な乳母・女房はもとより、美しい童女を雇い入れるためにも、とかく腐心したのであった。

第二部は、『源氏物語』の構造を縦横の二つの軸から分析しつつ、『源氏物語』第二・三部で親子の関係が主題的に浮上することを見届けていく。第一の軸は継子譚の話型であり、『落窪物語』などこの話型の典型的事例と丁寧に比較しながら、物語第一部は二人の継子が試練を乗り越えて幸福になる構造をもつことが確かめられる。ただし、通常の継子譚とは異なって、継母は虐待を働くことがなく、にもかかわらず継子は実子の結婚を再三妨害するのだという。物語第二部で朱雀院が女三の宮を光源氏に降嫁させるのは、自身の結婚を妨害された実子が、継子に不幸な結婚を強要して報復したことになるともいう。第二の軸は、『源氏物語』でもっとも頻繁に引かれる藤原兼輔の和歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」である。物語第一部に見られる「心の闇」表現は、秩序の侵犯を含意し、その裏面である権力志向とも結びついていて、しかも、闇に包蔵されたパワーこそ、光を生み出す源なのだという。桐壺帝と桐壺更衣、光源氏と藤壺、また光源氏と明石君との関係は、それぞれが「闇」のイメージを濃く纏いつつ、光源氏、冷泉帝、明石中宮という「光」を生み出すのであった。この「闇」表現は、物語第二・第三部では侵犯性を喪失して、家の栄えをもたらす暗い欲望から、子を不幸に追い込む親の惑いへと変質するのだという。以上の主張は、繰り返すが、論文第四部で示される物語構造論と相互に支え合う関係にある。

論文第三部「『狭衣物語』の父と母」は、『源氏物語』の影響下に成立した『狭衣物語』に父と息子の葛藤が執拗に描き込まれている点を、種々の角度から考察している。平安物語に描かれる親子の葛藤は、主人公の両親もしくは片親が不在の場合が多いのに対し、両親の揃った狭衣の場合は、親の子に対する期待の過剰さ、理不尽さが前景化され、親がよりどころとする「孝」思想自体が本質的に抑圧的なものとして描かれているという。『狭衣物語』は、『源氏物語』の開拓した主題を単に継承するだけでなく、ある面ではいっそう執拗に追求しているのであった。

本論文の公開審査会は、本年6月10日(金)午後4時30分より、18号館コラボレーションルーム2にて催された。席上相次いだのは、論の射程の大きさや独創性を高く評価する意見で、そのほかにも、中間発表の際に出された疑問や批判を誠実に受け止めて修正を試みた点や、用例を改めて調査して巻末付録とした点などが優れた点に数えられた。外国人留学生として日本の古典に取り組むのは、ことばの理解一つとっても多大の労苦を伴うのだが、しかも、『源氏物語』という質量ともにきわめて充実したテクストを中心素材とし、他のもろもろのテクストをもよく読み込んで論を立てた点、また膨大な先行研究を適切に咀嚼消化したうえで独自の見解を提出した点は、審査員5名が揃って評価した点である。

他方、否定的な意見としては、論の構成が十分練り上げられていないとの声や、各章の主張は納得できるものの、章と章とのつながりが見えにくかったとの声が複数の委員から出された。『源氏物語』の筋立てを継子譚の変型と捉えること自体を疑問視する意見、また「心の闇」の「闇」に過剰な意味を持たせすぎではないかとの意見もあった。

指摘されたような瑕疵や弱点を考慮するとしても、本論文は、研究史上の新たな局面の到来を予感させる優れた成果であることは疑いない。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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