学位論文要旨



No 127385
著者(漢字) 井戸,美里
著者(英字)
著者(カナ) イド,ミサト
標題(和) 「月次風俗図屏風」の図像学的研究
標題(洋)
報告番号 127385
報告番号 甲27385
学位授与日 2011.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1085号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松岡,心平
 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 佐藤,康宏
 東京大学 准教授 桜井,英治
 東京大学 准教授 中島,隆博
内容要旨 要旨を表示する

「月次風俗図屏風」は、山口県岩国の吉川家に伝来した。本屏風の描写内容は典型的な京都の行事に限らず、京都以外の土地や史実・物語に取材した場面も絵画化しており、それらの週第がフォト・コレージュのように混ぜ合わされて一つの画面が国政されており、このような作品は、画面構成上また主題選択上の双方の点において他の同時代作品と一線を画している。にもかかわらず、先行研究では、本作品をそれぞれの学問分野において部分的に資料として扱うにとどまり、本作品の成立背景や描かれた主題・モティーフの意味などについては論じられてこなかった。博士論文では、「月次風俗図屏風」における基礎的研究から初め、その成立背景、描かれた画題やモティーフの個々の図像研究を行うとともに、伝来の地を共有する田植歌のテクストである『田植草紙』、さらに、山口県に伝来した「四季耕作図屏風」という三つの作品に描かれる風景の比較を行い、これらの作品の成立を導いた共通の土壌を明らかにすることを試みた。

第一章では、「月次風俗図屏風」について作品調査の結果をまとめるとともに、本作品の鑑定を極めた江戸の御用絵師、狩野探幽筆による極札と未紹介の東京国立博物館蔵の同じく探幽による本屏風の縮図を突き合わせることで、本作品が吉川家周辺で成立した可能性について論じた。制作年代はこれまで室町時代後期とされているが、本屏風の個々の主題(花見図、犬追物図、富士巻狩図など)の成立時期や、下降的なモティーフ(肩衣の描写、唐子・長小結など)が見られることから、一六世紀末、桃山時代まで成立を下げて考えた。また、描いた絵師については地方絵師の関与を想定した。

画題のなかで、〈大田植〉と〈富士巻狩〉という他の風俗画作品には描かれない、本作品に独特の場面は、吉川氏と関わる主題であると解釈した。他よりも多くの空間を割いて描かれた〈大田植〉と〈富士巻狩〉には、それぞれ吉川氏のその当時の支配下である広島県山県郡大朝、吉川氏興りの地である駿河の地が呼び込まれていると考えた。実際、吉川氏の先祖は建久4年の富士巻狩にも参加していたことが知られる駿河出身の東国武士であり、その後、広島の地に統治の場を移した。〈大田植〉は吉川氏の本拠地であった広島県山県郡大朝において現在でも行なわれている、中国地方に特有の盛大な田植の行事であるが、その地から第二章で考察した大田植のテクスト『田植草紙』が発見されていることも偶然ではないと考える。また他の画題に選ばれた行事や風景が、戦国武将の武家故実や年中行事と関わりの深いものであること、そしてより具体的には、吉川氏や毛利氏などの支配した国の風景の残像を留めていることを指摘した。そこには、西国において秀吉政権を支えてきた吉川氏や毛利氏のアイデンティティと深く関わる両者の共有する記憶や風景が可視化されたものであると思われる。

続く補論においては、「月次風俗図屏風」の画題のなかでもとりわけ珍しい〈富士巻狩〉が描かれた環境について、当時の戦国大名などによって享受されていた幸若舞曲「曽我物」の性格や上演の場との関わりという点から再考を行った。「月次風俗図屏風」に描かれる唯一の物語『曽我物語』の〈富士巻狩〉は、源頼朝が実際に行った大規模の狩猟であるが、王権的なテーマとしての側面のみならず、この巻狩の夜に実際に起こった曽我兄弟による父の仇射の物語が、文学、能や幸若舞などの芸能などの口承文芸に早くから取りこまれていた。さらにこの物語を絵画化した幸若舞曲に影響を受けた「曽我物語図屏風」の画面構成の分析を通して、幸若舞曲と同様このような屏風絵も、当時の武家たちが集う寄合の空間において披露された可能性を指摘した。仇射により非業の死を遂げた若い兄弟の物語は、このような場において、戦国期の武将たちの共同体の空間を支える装置となっていたと考えられる。

第二章では、大田植のテクスト『田植草紙』に歌われる詞章について考察した。「月次風俗図屏風」を他の作品と隔てるもっとも重要な画題がこの〈大田植〉であると思われるが、この歌謡には一見不可解な詞章が多く十分に解明されているとはいえない。しかしながら、「月次風俗図屏風」に描かれる風景を介することで、両者に共通するまなざしや、本歌謡の伝承圏である大朝という土地に根ざした歴史の記憶を読み解いていくことが可能になる。またこれまで、『田植草紙』は、概ねこれまでの研究では大田植において田植に参加する田人の視点を通して解釈されてきたが、大田植が民衆を主体とした行事ではなく、在地領主や名主などの地主的な立場の人々の田において催される行事であることに留意するならば、大田植の主催者の視点から編成されたテクストと考えることもできるだろう。吉川氏や毛利氏の戦国大名の領国下で歌い継がれてきた『田植草紙』には、田植とは無関係の富士巻狩、京上りと京下り、当時の商品の流通や蔵などを多く含む。『田植草紙』は、吉川氏だけでなく、彼ら戦国大名の保護のもとで活躍を遂げるような、在地の問丸的富裕名主層を田主とした大田植のためのテクストであると考える。

第三章では、「月次風俗図屏風」と同じ環境で描かれたとされる「四季耕作図屏風」(山口県某家伝来)がある。この山口県伝来「四季耕作図屏風」を現存する他の多くの「四季耕作図屏風」と比較して明らかに異なるのは、「月次風俗図屏風」にも描かれる大々的な大田植の風景を描いている点である。第二章の『田植草紙』も合わせれば、大田植を扱ったこれらの作品はすべて広島、山口などの地方と関わる場で成立したことになる。また、通常の「四季耕作図」には決して見られない、中国大陸や朝鮮半島を往来した唐船までも登場する海辺の風景が描き込まれ、塩田や海産業などさまざまな生業に従事する人々の姿が描かれる。『田植草紙』には京都や大陸に対する憧憬を交易品などとともに歌い込んでいる一方、山口県伝来「四季耕作図屏風」は、日本の風俗も描きつつ風景全体が中国もしくは朝鮮半島の建築や風俗となっており、そこは米や野菜、魚介類などの富が集積する場として理想郷的に描かれる。このような「和」「漢」が混在する現実には存在しない土地には、大陸や朝鮮半島への境界として、むしろ戦国時代の動乱を経た京都に代わる新しい土地としての瀬戸内の港湾風景が重ね合わされていたのではないだろうか。

審査要旨 要旨を表示する

井戸美里氏の博士学位論文「『月次風俗図屏風』の図像学的研究」は、東京国立博物館蔵「月次風俗図屏風」に関する、はじめての総合的考察である。この八曲一隻、押絵貼りの小屏風は、中世から近世初期風俗画への移行期の作品として、美術史はもとより、芸能史、日本史などさまざまな分野から大いに注目されてきた。楢崎宗重氏が1964年に『国華』誌上で紹介して以来、さまざまな本の口絵や插入写真に使われ、一般にも目に触れることが多かったにもかかわらず、野口剛氏により1990年の『美術史論叢』誌上で、様式的側面や、ある部分の主題やモティーフの引用・継承についての考察が行われた以外、ほとんど研究がなされていない状況にあった。

この状況を打破し、この作品に新しい視点からの解釈を与えつつ、はじめて正面から総合的に考察したのが井戸氏の論文である。

新しい視点とは、従来「月次風俗図屏風」は漠然と京都の大和絵系の絵師による作品と考えられてきたのに対し、鎌倉時代から中国地方の在地領主となり江戸期には岩国藩主となった吉川氏の文化圏で成立したという視点である。それは、吉川家文書中の極書類と狩野探幽による探幽縮図をつきあわせることで、この絵が確実に江戸初期から吉川家に伝来しているという事実を実証した新知見によって支えられている。また成立時期についても、今まで漠然と室町時代後期と考えられていたのを、吉川文化圏の成立という知見をベースに、さまざまな内部徴証から豊臣政権以後まもない時期に絞り込むという新見が提示されている。

この論文は、三章により構成され、第一章に補論が付されている。

第一章「『月次風俗図屏風』の成立と享受に関する一考察」では、この作品が「月次絵」「四季絵」「名所絵」といった従来のカテゴリーにおさまらない作品、ということは「月次風俗図」という題名を再考すべきという提言が述べられ、先に述べたこの作品の早くからの吉川氏伝来を実証する考察がなされ、「毬打・羽根突」「松囃子」「女の花見」「男の花見」「田植」「賀茂競馬」「呉服屋の店頭」「犬追物」「蹴鞠」「富士巻狩」「春日若宮おん祭」「雪遊び」といった各画面についての、ディテールにわたる詳しい分析がなされる。

この中で、特に井戸氏が注目するのは、他の画題が扇を上、下二つに分けて描かれるのに対し、「田植」図が第三扇・第四扇全体にわたって描かれ、「富士巻狩」図が第六扇全部を使って描かれていることである。井戸氏は、「田植」図の風景を「大田植」であるとし、大田植こそは、吉川氏の本拠地であった広島県山県郡大朝において現在に至るまで行われている行事であり、その吉川氏の戦国時代の領地の範囲内から『田植草紙』という田植歌謡のテクストが見つかっていることなどを理由に、「田植」図には吉川氏の統治の記憶が濃厚に込められているとしている。また「富士巻狩」図については、吉川氏の先祖が源頼朝の側近で、曽我兄弟の仇討から頼朝を護衛する側であって、そのような先祖賛美の絵様となっていると説いている。このほかにも、藤原氏としての吉川氏の氏族意識によって「春日若宮おん祭」の画題が選択されたことなど、吉川文化圏と画題との相関が濃淡さまざまに説かれている。

第一章の補論では、「富士巻狩」図と、「曽我物語図屏風」を合わせ考え、「曽我物語図屏風」には、中世後期の語り物幸若舞曲の影響が色濃くあらわれているとし、幸若舞曲と同様に、屏風絵が武家の寄合の空間で機能するあり様を指摘している。

第二章「『田植草紙』の成立背景について―「月次風俗図屏風」との関わりから―」は、大田植のテクストである『田植草紙』の分析である。従来、日本歌謡史の中だけで考えられてきた『田植草紙』が、吉川氏およびその麾下にあって大田植の主催者である名主層の意識という視点が導入され、新たな読みが展開される。

第三章「山口県伝来本「四季耕作図屏風」の風景をめぐって―理想郷としての異郷―」は、「月次風俗図屏風」と同じ環境で描かれたと考えられる「四季耕作図屏風」の分析である。「四季耕作図屏風」には、「月次風俗図屏風」中の「田植」図の反転図が描かれており、両者の密接な関係がうかがえる。「四季耕作図屏風」には、塩田や海産物の水揚げなど日本の風景だけでなく、唐船など中国、さらには朝鮮半島の風俗と思われるものまで描き込まれており、全体として異国憧憬に貫かれたユートピア図になっていると論じられる。これもまた近世初期の中国地方の特異な意識の表出とみなされる。

井戸氏の論文については、補論が全体から少し遊離していたり、「月次風俗図屏風」の表現の核心的部分ともいえる群集表現の図像分析にもの足りなさを覚えるといった意見も出されたが、「月次風俗図屏風」を吉川氏の視点を入れて総合的に考察した成果は高く評価された。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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