学位論文要旨



No 127386
著者(漢字) 福田,貴成
著者(英字)
著者(カナ) フクタ,タカナリ
標題(和) 両耳聴技法の形成 : 1810年代から1930年代にかけての聴覚性の変容について
標題(洋)
報告番号 127386
報告番号 甲27386
学位授与日 2011.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1086号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩佐,鉄男
 東京大学 教授 石光,泰夫
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 田中,純
 国際日本文化研究センター 教授 細川,周平
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、両耳聴すなわち「二つの耳で聞く」という営為が、19世紀から20世紀前半を通じてどのように変化し、どのような特殊性を帯びたものへと至ったのか、その歴史的形成過程を考察したものである。より具体的には、1810年代から1930年代にかけて、身体的実践であり、かつ理論的考察の対象でもあった両耳聴が、その両者の絡み合いを通じてどのような形象へと結晶するに至ったのかを、同時期における認識論的背景との関係性を踏まえつつ検討した。

この考察は、歴史的時期をおおよそ三つに分け、各々の時期に両耳聴がどのような営為として位置づけられたのかを記述する、という形で進められる。

はじめに対象とされるのが、1810年代から1850年代にかけてである(第一章、第二章)。第一章「片耳から両耳へ:聴診器の形態的変化と両耳聴認識」において、私は、聴診器という診断器具がこの時期に辿った形態的変化と、その変化に伏在する両耳聴認識の特質について考察した。ここで聴診器を取り上げたのは、それが「片耳」を対象とするものから「両耳」を対象とするものへと変化した最初期の聴覚器具であり、またその過程に付随して現れた諸言表の内に、この時期の両耳聴認識の典型が見られるためである。聴診器の片耳型から両耳型への移行は、外部からのノイズの排除とともに、「純粋」な音の「完全な伝達」を可能にすることを目的として進められた。このことが示しているのは、第一に、体内の音と聴取される聞こえとの「同一性」の認識が、「物理」的水準における伝達への信憑によって支えられていた、ということである。つまりそれは、「完全な伝達」が達成されるならば感覚的な聞こえもまた完全なものとなる、という信憑の様態である。こうした信憑は第二の帰結、すなわち両耳聴と単耳聴との差異は単に「量的」なものでしかない、という認識を導く。そこでは、「耳が二つあること」には、それが「ひとつ」であることの単純な「倍」であるということ以上の意味は見出されていない。換言すれば、ここでは両耳聴と単耳聴との間に、「質的」な差異の存在は認識されていなかった。

第二章「「二つの耳で聞くこと」への問い:1830年代から1850年代にかけて」において、私は、第一章で確認した両耳聴「実践」に関わる事象と並行して、「理論」的水準から両耳聴が問題化されてゆく過程を追跡し、そこで両耳聴が単耳聴との「質的」な差異において位置づけられていったことを確認した。ここでの考察対象は、示差聴診器という特殊な両耳聴器具を用いて聞こえの「質的」特性を観察した医師スコット・アリスンや、音叉を用いて両耳聴と単耳聴の「質的」差異を問うた、物理学者チャールズ・ホィートストーン及び生理学者エルンスト・ウェーバーらの仕事である。両耳聴をフィールドとする事で彼らの研究が明らかにしたのは、「物理」と「聞こえ」の非対称的な関係であった。音の物理的な所在は、主観的な「聞こえ」上の所在とは必ずしも一致せず、したがって、前章の議論で見出された「物理への信憑」という態度は、ここで根底から揺さぶられることとなった。

聞く営みにおける「物理への信憑に対する疑義」、換言すれば「〈音を〉〈耳で〉〈聞く〉」とはいかなることかについての反省的思考は、同時期にとりわけ生理学の領域から浮上した、感官の別を問わない「物理的世界と感覚的世界との断絶」を前提とする新たな認識枠組のただ中において生じた。そうした認識枠組を代表するのが、生理学者ヨハネス・ミュラーが唱えた感覚説「特殊神経エネルギー説」である。ジョナサン・クレーリーに従うならば、この説は「刺激と感覚との根本的に恣意的な関係」に帰結するものであり、従って感覚とはそこで、外的な刺激とのリニアな関係を持たない、徹底して「主観的」なものとして位置づけられる。上述のアリスンやウェーバーらの仕事は、この「根底的主観性」を露顕させる特権的トポスとしての特質が「両耳聴」にこそ存しているのだということを、期せずして前景化させたのである。

続いて対象とされるのが、およそ1880年前後の時期である(第三章、第四章)。第三章「「音源定位装置」の発見」において、私は、物理学者レイリー卿らの仕事の検討を通じて、両耳聴の特質がこの時期急速に「音源定位」という固有の能力との関連において理解されてゆくプロセスと、その認識論的背景について検討した。そこで二つの耳を備えた身体は、外部の音響の所在を「客観的」に突き止める「音源定位装置」として理解されてゆく事となる。しかしこの「客観」性は見かけ上のものに過ぎない。その根底に存在していたのは、前章で確認したミュラーらの仕事に由来する「刺激と感覚との恣意的関係」の認識であり、また聴覚現象が根本的に「主観的」なものでしかありえないという認識であった。音源方向の「同一性」は、各々の耳への刺激の「差異」から、「主観」的に構成されるのだが、聴取主体はあたかもその「主観」像が「客観的」なものであるかのように受容してしまう。この取り違えを理論的水準において可能にしていたのが、19世紀後半、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツによって「感覚の恣意性」の認識を上書きするかのように提示された、知覚の「無意識的推論」説である。外的世界の同一性は、感覚に与えられたデータの諸差異をもとに、意識されざる推論過程を通じて把握されるものだ、とするこの所説は、「音源定位装置」としての両耳聴観を保証する重要な認識論的背景を構成するものであった。

両耳聴によって獲得される聴覚的「客観」性とは、ジョナサン・クレーリーの言を借りれば「指示対象的錯覚」と呼ぶべきものであり、それは前章で扱った時期に生じた、「感覚の恣意性」に由来する「指示対象性の喪失」という事態を先行する条件として、事後的に仮構されたものであった。この仮構性は、同時期に物理学者シルヴァナス・トンプソンによって行われた諸実験の報告、すなわち差異を伴う刺激を両耳へと電話によって人工的に供給する事によって、頭骸の内側に「聴覚〈映像〉」と喩えるべき音響が「主観的」に現象してしまうという観察によって、経験的に裏づけられることになる。ここに生まれた「音源定位装置」としての身体像とは、外的空間の聴覚的把握という能動的オペレートの可能性と、人工的な刺激から主観的音響を産出してしまう受動的オペレートの可能性の両者によって二重拘束された、特異な聴取主体の姿であった。

第四章「両耳聴技法の形成」では、1881年に開催されたパリ国際電気博覧会における、電話回線を利用した劇場中継システムの記録を主に辿りながら、そこで感得された聴取経験の「質的」特性の記述を試みた。二つの送話器をいわば遠隔化された両耳として位置づけるこのシステムは後に「ステレオの起源」として語られる事になるのだが、受話器を耳にする来場客が耳にしたのは、単なる生演奏の中継という従属的身分に止まることのない、固有の聴覚的質感であった。

この質感の固有性は、第一に「可聴化された視覚性」として記述することが可能である。音源の視覚的不在にも関らず、或いはそれ故に、聴取される音響が「見える」かのように聴取者の主観において現象する。前章におけるトンプソンの比喩を用いるならば、それは「聴覚〈映像〉」の現前であった。私はここで、この「聴覚〈映像〉」を記号学者フェルディナン・ド・ソシュールの「シニフィアン」概念と類比的に捉え、聴覚的でありかつ視覚的でもあるこの奇態な聞こえの様相が、純粋なシニフィアンの戯れの経験的水準における出来として把握されうる事を示した。

第二の固有性は「触覚的」特質として記述される。そこで「聴覚〈映像〉」の聞こえが帯びる「固体性」の感覚は、聴取者のうちに存在の確実性を喚起するという点で、美術史の文脈においてアロイス・リーグルが用いた意味での「触覚的」性質として捉えられるものであり、また同時に、その固体性が具体的指示対象との連関を絶たれながら、音それ自体において聞く者を訪うという点で、ヴァルター・ベンヤミンが複製芸術の受容様態の特質として挙げた意味での「触覚的」性質に類似したものとしても捉えられる。つまりここでの触覚性とは、意識的な聴覚の外部から両耳聴をおこなう身体へともたらされる、硬質な音の直接的な「ショック」の謂いである。

上記の様な経験的特質は、前章で検討した「音源定位装置」としての両耳聴に関する理論的動向とは直接の関わりを持たないまま、ほぼ同時期に見出されたものである。この事から、1880年前後のこの時期は、両耳聴それ自体についての理論的考察と器具に媒介された聴取経験の双方から、特異かつ限定的な「両耳聴技法」のあり方が生成した、特別な一時期として位置づけられる。

終章「或る「聴覚性」の散種」で私が対象としたのは、1930年代及びそれ以降の事象である。この時期には、1880年代に形成された「両耳聴技法」が、より一般的に普及してゆくための技術的な礎が整えられた。その礎のひとつであるステレオ・レコードという聴覚メディアは、1930年代前半、「音源定位装置」としての両耳聴に関する「理論」に則ったテクノロジーとして生を享けた。そしてそれは、のち1950年代後半に市販されるに至って、聴覚における「指示対象的錯覚」の生成を、不特定多数における間主観的経験として「散種」するための端緒をひらくこととなる。「両耳聴技法」はここに、「理論」と「実践」との不可分のフィールドを舞台として成立したのであり、また聴覚的な「リアリティ」を巡る新奇な認識が、経験的水準において広く共有されてゆくこととなった。同時に、この「リアリティ」を産出する身体それ自体に関する認識も、特殊なかたちへと変貌する。複製を通じて「技法」が共有されるにあたっては、個別具体的な形状を持つ聴取者個々の物理的身体は、「技法」の純粋な共有を阻害する夾雑物、或いは抹消されるべき余剰物と見なされることとなった。ベル電話研究所が1930年代に行った、ダミーヘッド・マイクロフォン「オスカー」を用いた音声伝送実験は、この「身体の抹消」と「技法の純化」への欲望を、極端なかたちで伝えるものである。

以上の議論を通じて私は、「両耳聴」を宿命づけられた身体が、その身体自体についての反省的思考と具体的な聴取実践との交錯のなかから、歴史的に限定された固有の「聴覚性」を獲得してゆく一連の過程を跡づけた。この身体は、19世紀後半の一時期、より包括的な認識論的転回のただ中における理論的洗練と聴取実践とを通じて、「音源定位装置」と言うべき特殊なかたちへと結晶することとなった。この特異な「装置としての身体」は、およそ半世紀後の1930年代に生じた聴覚メディアの理論的・技術的進展と結びつくことで、のちに一般性を獲得してゆく可能性を胚胎することとなった。その可能性の種子が開花してから、すでに半世紀以上の年月が流れたが、今もって私たちは、さまざまな「両耳聴メディア」との接続のなかに生き続けている。その点で、私たちの内には、19世紀に醸成された「技法」の残滓が、いまも密かに息づいているはずであり、その意味で本論は、われわれ自身にとっての「〈二つの耳で聞くこと〉の来歴」を訪ねる試みとして位置づけられるべきものである。

審査要旨 要旨を表示する

福田貴成氏の博士学位申請論文「両耳聴技法の形成 1810年代から1930年代にかけての聴覚性の変容について」は、「二つの耳で聞く」という人間にとって当たり前の営みが、19世紀から20世紀前半にかけてどのように意識化され、歴史的特殊性を帯びた「技法」として成立していったかを、理論と実践の絡み合いを通して、精密に考証しようとするものである。論文は目的・背景・先行研究を叙述した序章にはじまり、聴診器からステレオにいたる技術の進展と理論的深化を背景とした聴覚性の変容を第1章から第4章で論じ、最後に現代にまで通じるこの「技法」の広がりを扱った終章で構成されている。以下、章立てにしたがって内容を概観する。

第1章「片耳から両耳へ:聴診器の形態的変化と両耳聴認識」では、1816年にフランス人医師ラエネックによって開発された間接聴診法、すなわち聴診器による体内音の聴取という方法が、円筒に片耳を当てる原初的な形から1850年代に両耳による聴取という現行の形に進化していくさまが、当時の文献資料をもとに丹念に記述される。片耳から両耳へというこの移行は、外部からのノイズを排除することによって体内からの「完全な伝達」を実現することを目的としていた。両耳聴のメリットは量的なものでしかなく、単耳聴とのあいだに質的な差異は認識されていなかった、というのがこの章の帰結である。

第2章「『二つの耳で聞くこと』への問い:1830年代から1850年代にかけて」では、聴診器による両耳聴の実践が、同時に質的な問題として理論面で顕在化してくることが、物理学・生理学における研究の進展から明らかにされる。音の「物理」が必ずしも人の「聞こえ」と一致しないという事実の発見は、「刺激と感覚との根本的に恣意的な関係」を導き出し、感覚の「主観性」を露呈させることになる。

第3章「『音源定位装置』の発見:1880年前後(1)」は、こうして獲得された「聴覚の主観性」の認識が、両耳聴の音源定位能力の研究を通して、ふたたび「外部」との「客観的」なつながりを見出していく過程を扱っている。レイリー卿による音源の方向知覚に関する実験、その基盤となったヘルムホルツの感覚と知覚をつなぐ「無意識的推論」説などが綿密に検討され、「指示対象的錯覚」として構成される聴覚空間の様相が示される。外部空間の「客観的」把握と考えられたものが、実は外部刺激によってもたらされる主観的「音像」であるとする論の展開は、示唆に富んだスリリングなものであり、能動性と受動性の両者によって二重拘束される特異な「聴覚性」の姿を十分に浮かび上がらせている。

この外部からの操作可能性を受けて、第4章「両耳聴技法の形成:1880年前後(2)」では、1881年にパリで開催された国際電気博覧会における劇場中継システムと、それをめぐる言説がまず取り上げられる。電話回線を利用して両耳に受話器を当てることで実現したこの劇場中継は、固有の聴覚的質感をもたらしたと福田氏は分析する。第一の固有性は前章の「音像=聴覚映像」につながる「可聴化された視覚性」であり、視覚的対象の不在にもかかわらず聴取者が体験した「パースペクティヴ」、「イメージ」の問題が、ソシュールの記号学における「シニフィアン」概念との類比で論じられる。第二の固有性は「触覚的」特質であり、「レリーフ」という比喩で語られる音響の「固体性」である。リーグルとベンヤミンを援用して展開される「触覚性」についての論述は、前章までの緻密な議論に比べるとやや粗雑であり、媒質の振動である音響がもつ触覚的特質の必然性も指摘された。しかしながら、前章で検討された理論的な動向とほぼ無縁のところで、このような聴覚装置の実践が同時期に行われたことは、ひとつの「両耳聴技法」の成立を示すものであるとの指摘は、十分に説得力をもつものである。

終章の「或る『聴覚性』の散種」においては、こうして形成された「両耳聴技法」が、20世紀に入って技術的な裏付けのもとに一般に普及していくプロセスが、ステレオ・レコードの開発(1938年)とその市販(1958年)を通して語られる。「音源定位装置」としての両耳聴が生みだす「指示対象的錯覚」の経験は不特定多数によって共有され、新たな「リアリティ」の認識を広めていくことになる、という考察で本論は結ばれる。

審査委員との質疑応答では、科学史的記述に限定したことによる広がりの乏しさ、とくに聴診器や電話中継によって聞こえてきた「音」についての言及が足りないことへの不満、第4章と終章のあいだの50年間の空白への疑念などが表明され、また精神分析やメディア論の成果を参照すべきだとの意見も出された。しかしこうした瑕疵は、福田氏が禁欲的なまでに対象を絞って厳密に議論を進めようとする真摯な態度ゆえに生じたものであり、「両耳聴技法」の成立過程を解明するという当初の目的は十全に達成されたと判断される。福田氏が行った聴くことをめぐる認識の変容プロセスの研究は、視覚に関するジョナサン・クレーリーの仕事に対応するものであり、現代社会で日常と化したヘッドフォン文化の淵源を明かし、聴覚メディアの将来についての展望を開くという意味でも、本論文の学術的意義はきわめて高いものと評価される。

したがって、本審査委員会は福田貴成氏の申請論文を、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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