学位論文要旨



No 127387
著者(漢字) ポポヴィチ,エドアルド
著者(英字)
著者(カナ) ポポヴィチ,エドアルド
標題(和) 第二次世界大戦末期から日ソ国交回復までのソ連の対日政策の展開
標題(洋)
報告番号 127387
報告番号 甲27387
学位授与日 2011.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1087号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 石田,勇治
 東京大学 教授 安岡,治子
 成城大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 名誉教授 柴,宜弘
内容要旨 要旨を表示する

第二次世界大戦末期から日ソ国交回復までの時期においてソ連の対日政策の研究は学問的にも社会的にも重要な意義を持っている。第一に、本研究は、当該時期に端を発している日ロ間の最大の政治的懸案事項である「北方領土問題」の発生経緯とその背景、双方側の主張をより深く知る可能性を与えると思われる。これを知ることはこの問題を解決する道を探る上で重要である。

もう一つの意義は、上記の問題と密接に関係する日ロ平和条約の問題を検討できる点である。当該時期において日ソ両国は平和条約の締結を試みたが失敗に終わった。この問題の解決のためには、過去の試みから学び教訓を得る必要がある。

また対日戦後処理問題は米ソ冷戦の起源に関わる一つの問題であり、本研究は冷戦の起源の研究に貢献できると思われる。さらに、日本の占領期は戦後日本の基本的な枠組みの形成に決定的影響を与えた。この時期に連合国側の一員として対日占領に関与したソ連の政策の研究は、日本占領史及び日本現代史に対してより多面的な理解を与えると思われる。

以上のようにソ連の対日政策は重要な意義を有するテーマであるにも関わらず、ロシア語、日本語、英語の諸資料及び文献を総合的に検討し、当該時期のソ連の対日政策について詳細な解明を試みた研究はロシア側と日本側双方において現在なお数少ない。

そこで本論文はロシアの公文書館史料を含むロシア語、英語、日本語の諸資料及び文献、同時代の新聞・雑誌、また関係者の回想録を材料として、第二次世界大戦末期から日ソ国交回復までのソ連の対日政策の展開を総合的に検討することを目的としている。

本論文で用いた一次資料は、ロシア連邦外務省付属ロシア連邦外交公文書館、ロシア国立社会政治史公文書館、ロシア連邦国立公文書館、ロシア国立文学芸術公文書館、国立国会図書館憲政資料室、東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター図書室で収集したものである。

本論文は序章、第1章から第3章までの本論、終章で構成されている。序章では、まず本研究の意義と目的を明示し、先行研究を分析した上で、用いた諸資料や論文の構成について述べる。

第1章では、まず独ソ開戦までの日ソ関係史を概観した上で、ソ連が対日参戦に至った過程を再検討する。ここではシベリア出兵がソ連指導部に対日不信と警戒心を植え付けたことを指摘する。

独ソ戦の勃発後、ソ連にとって日本が対ソ攻撃に踏み切り、ソ連に二正面作戦を強いるかどうかは、戦争の行方を大きく左右する重大な関心の対象となった。また、ソ連は日本がソ連の太平洋への海路(宗谷海峡、千島の諸海峡、津軽海峡、対馬海峡)を完全にコントロールしていることに大きな不満を抱いていたことを指摘する。

続いて、対日参戦から9月2日(日本による降伏文書調印)までの時期におけるソ連の態度を分析する。対日参戦の結果ソ連は参戦の重要な動機でもあった極東におけるソ連の安全と戦略的な立場を著しく強化した。

さらにスターリンは日本本土の分割統治を望んだ。8月11日にモロトフは連合国軍最高司令官の地位にマッカーサーと並んで極東ソ連軍総司令官ヴァシレーフスキーもつけるという提案をハリマン米国大使に示した。しかし、強硬な抵抗に遭い、ソ連は複数最高司令官の提案を撤回し、マッカーサーを最高司令官とすることに同意した。日本本土を米ソによる分割統治することに失敗した後、スターリンはトルーマン宛の書簡の中で、北海道北半分の占領希望を表明したが、トルーマンはこれを拒否した。日本本土の分割統治あるいは分割占領を実現しようとするスターリンの企ては失敗に終わった。戦後の対日管理をめぐる米ソの確執が早くも露呈する中で、日本は8月14日に連合国にポツダム宣言受諾を通告した。アメリカは8月末から日本本土を事実上単独占領した。

続いて、連合国の対日占領管理体制の成立過程におけるソ連の動向を整理しながら、この問題に対するソ連の見解及びその背景を検討する。ソ連の方針は米国の単独対日占領管理に制限を加え、占領政策の実施においてマッカーサーの行動を出来る限り厳しい監視下に置き、占領管理におけるソ連の地位にふさわしい分け前を得ることにあったことを指摘する。さらに、ソ連は、アメリカの対日占領管理政策及び日本国内の情勢に対して不信と不安を抱いていたことを明らかにする。

対日占領管理体制の問題をめぐり米ソ間で展開された激しい論争の結果、1945年12月に極東委員会及び連合国対日理事会(以下対日理事会と略す)が設置された。ソ連はこれらの機関を通じて対日占領政策に関与し始めた。この章の最後ではソ連政府が極東委員会と対日理事会のそれぞれの代表に与えた指令を紹介し分析する。そのうえで対日理事会代表に与えられた指令からソ連指導部は特に旧日本軍(特に将校団)の武装解除及び復員状態問題を重視したことを明らかにする。

第2章では対日占領期におけるソ連の政策及び態度を考察する。ここでは、ソ連の方針は日本がソ連の安全にとって今後脅威とならないように徹底した非軍事化と民主化を行い、戦後の日本を特に軍事的に無力な状態に留めておくことであったことを指摘する。

そして、個別の占領政策に対するソ連の態度を明らかにする。その中で、対日理事会及び極東委員会におけるソ連代表の活動の検討を通してソ連の態度を考察する。これに加えて、これらの機関の初期の活動における連合国の占領管理政策の実施に関するソ連代表の具体的提案や声明が日本国内外の世論の注意をアメリカの対日占領政策の実施過程に向けさせ、日本の非軍事化及び民主化の促進に一定の貢献を行ったことを指摘する。さらに、ソ連は全ソ対外文化連絡協会を通じて日本におけるソ連の文化普及を重視したことを指摘する。

グローバルな冷戦の激化の影響を背景に1948年頃からアメリカは旧敵国としての日本の弱体化から冷戦下の友好国として経済再建と自立を図るという方針へ向かって対日占領政策の転換を行った。アメリカの対日占領政策の転換を背景に占領政策をめぐる米ソの対立は深刻化した。ソ連の関心は日本が政治・軍事的に完全にアメリカを中心とする陣営に入ることをできる限り回避することにあった。

続いて対日講和問題に対するソ連の態度を再検討する。ソ連代表はサンフランシスコ講和会議に参加したが、講和条約調印を拒否した。スターリンのこの判断に冷戦は決定的な影響を与えた。講和会議に参加したソ連代表グロムイコはソ連側の修正提案を行ったが黙殺された。一方サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約により日本とアメリカは同盟国となると共に、日本の独立後も日本に米軍を駐留させることとなった。

第3章では日ソ国交回復交渉におけるソ連の動きを考察する。日本では講和条約の発効によって条約に調印した諸国が正式な外交機関を設置した。しかしソ連は講和条約の調印を拒否したため対日理事会の消滅によって対日理事会ソ連代表部も存在の根拠を失ったという通告を日本政府から受け取った。結局、ソ連代表部は日本政府からソ連政府を代表する機関として認められないまま残留し続けた。

続いて、スターリンの死去という重要な国内要因を背景に西側との緊張関係を緩和する方向に転じたソ連の新政権は、日本との正常な外交関係が存在しないことが政治及び経済面でソ連にとって不都合をもたらすという認識に至り、日本との関係正常化を重視するようになったことを指摘する。続いてソ連の対日姿勢の具体的変化を示し、分析する。

この分析を踏まえて日ソ国交回復交渉の経過を整理し交渉の問題点を再検討する。その中で、最大の焦点であった領土問題に関して日ソ間で行われた交渉を整理し、考察する。鳩山内閣は領土問題をめぐる交渉が難航していたため平和条約ではなく暫定協定で国交の正常化を図ろうとし、領土問題は継続交渉とする方針に踏み切り、その趣旨を盛り込んだ「松本・グロムイコ往復書簡」を9月29日に取り交わした。しかし、松本全権がソ連に発った9月20日、自由民主党は歯舞と色丹の即時返還、国後と択捉の継続交渉という新党議を決定した。

訪ソした日本代表団は新党議に従い共同宣言に領土問題を盛り込ませようと努力した。その結果、河野一郎・フルシチョフ会談が開催され、領土問題が議論されることになった。錯綜した交渉の結果、ソ連は平和条約が締結された後に歯舞と色丹を日本に引き渡すという約束を共同宣言に盛り込むことに同意した。しかし、ソ連は「領土問題を含む平和条約締結に関する交渉を継続する」という文言から「領土問題を含む」という字句の削除を強く求めた。日本側はこれに応じ、「日ソ共同宣言」が調印された。

日ソ間の国際法上戦争状態を終了させ、外交関係を回復させた「日ソ共同宣言」という形をもって複雑な日ソ交渉はその幕を閉じた。そして領土問題は今日まで両国間の最大の係争点として残されることになった。終章ではこの問題を踏まえ、論文全体を総括する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は第二次世界大戦末期から1956年の日ソ国交回復までのソ連の対日政策をロシア語、日本語、英語の資料を綿密に分析することによって、詳細に論じたものである。本研究の意義を挙げると、第一に、当該時期に端を発している日露間の最大の懸案事項となっている「北方領土問題」の発生経緯とその背景、双方の主張、特にソ連側の主張をより深く知ることが出来る点である。第二に、失敗に終わった日ソ平和条約締結交渉の過程をソ連側の資料を使って明らかにしたことである。第三に、対日戦後処理問題は米ソ冷戦の起源に関わる一つの問題であるとの認識から、本研究は冷戦の起源についての研究に貢献している点である。第四に、日本側研究者はロシア語資料を殆んど利用せず、ロシア側研究者は日本語資料を殆んど利用してこなかったが、著者はその双方を参照しているため、研究は総合的なものになっている。特にロシア側資料に関しては、ロシアの公文書館資料及び最近刊行された資料集を利用することによって、本研究は世界的にみても最新の成果となっている。

本論文の構成は次の通りである。序章、第一章:第二次世界大戦期から1945年12月までのソ連の対日政策、第二章:占領下日本におけるソ連の政策、第三章:日ソ国交回復、終章で、巻末に人名解説、年表、参考文献が挙げられている。

まず序章で、論文の課題、先行研究、使用した資料の紹介が行なわれている。先行研究では、ロシア、日本、アメリカの主要な研究についてほぼ網羅的に言及している。資料については、ロシアの複数の公文書館のアルヒーフ資料、1999年に刊行されたロシア大統領府の新しい資料集、また、2005年にはじめて刊行された所謂「野口メモ」などを利用していることが特筆される。

第一章では、まず、ソ連・ロシアの対日不信の背景には1918年から1922年にかけての「シベリア出兵」が大きな影響を与えていたことが明らかにされている。さらにポツダム宣言に際してソ連が独自の対案を用意していたという興味深い事実を掘り起こしている。その後、ソ連が対日参戦して、初め日本本土の分割占領を目指したが、失敗し、さらに北海道北部の占領を計画し、部隊を集結させながら直前になってこれを断念した経緯をソ連側の資料を用いて詳しく明らかにしている。また、連合国軍総司令官の地位にマッカーサーと並んで極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキーもつけるという提案をしたことをソ連側の資料から明らかにした。また、ロンドン外相会議及びモスクワ外相会議において、対日占領政策全般についてソ連は独自の主張を展開したこと、特に「極東委員会」「対日理事会」の構成、役割、名称、議決方法等においてアメリカの譲歩を引き出したことを示している。本章の最後では、ソ連政府が極東委員会と対日理事会のそれぞれの代表に与えた指令を紹介し分析している。その結果ソ連指導部は特に旧日本軍(中でも将校団)武装解除を重要視していたことが明らかになった。

第二章では、対日占領期におけるソ連の政策を検討している。ソ連は日本の非軍事化と民主化を最重要政策としていたが、個別の政策、例えば農地改革や警察組織の改革等に関しても積極的に主張し、具体的に一定の影響力を行使した。農地改革に関しては、地主の保有地の上限はソ連の主張が受け入れられたのであった。本章は本論文の中でもオリジナリティーの高い部分である。通説では、ソ連の対日政策はことごとくアメリカに反対されるか無視され、全く影響力を持たなかったとされている。それ故研究もなされなかったのだが、著者はこれを覆し、部分的には影響力を行使した場面、分野があったことを明らかにしている。歴史叙述をバランス良く修正した点は意義が大きい。本章では続いて、対日講和問題に対するソ連の態度が再検討されている。ソ連政府はサンフランシスコ講和会議に代表団を派遣し、修正提案を行なったが、無視され、結局講和条約調印は拒否した。スターリンのこの判断に決定的な影響を与えたのは深刻化する米ソ対立、冷戦の進行であったことを著者はスターリンとグロムイコの電報のやり取り等から明らかにしている。

第三章では、日ソ国交回復交渉におけるソ連の動きが考察される。スターリン死去後のソ連新政権は、日本との正常な外交関係が存在しないことが政治経済面でソ連に不都合であるとの認識に立ち、日本との関係正常化を重要視するようになった。本章ではまず、ソ連の対日姿勢の具体的変化が分析されている。続いて国交回復交渉の過程と問題点が詳細に分析される。この交渉は極めて複雑なものであったが、最も大きな争点は「領土問題」であった。訪ソした日本代表団は、自由民主党の新党議に従い、共同宣言に領土問題を盛り込ませようと努力した。ソ連側は領土問題の議論には応じたが、「領土問題を含む平和条約締結に関する交渉を継続する」という文言から「領土問題を含む」という字句の削除を強く求めた。結局、日本側はこれに応じ、「日ソ共同宣言」が調印された。これによって日ソ間の戦争状態は終了し、外交関係が回復されたが、領土問題は今日にいたるまで、両国間の最大の係争として残されることとなった。著者は錯綜した交渉の過程を巧みに整理している。更に日本側通訳が残した「野口メモ」とソ連側の記録を照らし合わせることによって、両者の微妙なニュアンスの違いや、野口メモにはないソ連側の日本への譲歩があったことなどを指摘している。これはロシア語と日本語に堪能な著者ならではの貢献であると言える。

本論文は、ソ連の対日政策をソ連・ロシア側の資料も使って分析したもので、これまで、日米側に偏っていた研究を是正し、総合的な研究を目指すという著者の課題を満たした労作である。これに取り組んだオリジナリティーは審査委員全員が高い評価を与えた。また、「野口メモ」を初めて使ったロシア人研究者となったことも評価される。

もちろん審査委員から若干の不十分な点が指摘されたことも事実である。それは終章にもっと論文の意義について詳しく書くべきだったこと、日本の内政についてより詳しく書くべきであったこと、すなわち、国際冷戦と国内冷戦についてソ連がどのように考え、認識していたのかが書かれていれば日本現代史の理解により貢献していただろう、などである。しかし、これらは概ね論文の欠陥の指摘というよりは、今後研究を深めていく際の課題として指摘されたもので、本論文の価値を低めるものではない。審査委員会の評価は、殆んど瑕瑾のない優秀な論文という結論で全員が一致した。したがって、本審査委員会は、本論文の著者に対して、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク