学位論文要旨



No 127388
著者(漢字) 大田,英昭
著者(英字)
著者(カナ) オオタ,ヒデアキ
標題(和) 明治日本における社会民主主義の形成 : 片山潜とその時代
標題(洋)
報告番号 127388
報告番号 甲27388
学位授与日 2011.07.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1088号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 森,政稔
 小樽商科大学 教授 荻野,富士夫
内容要旨 要旨を表示する

本博士論文は、片山潜(1859~1933年)の思想形成とその活動の歩みを追跡し、それを通じて彼を中心とする明治期の社会民主主義運動の形成と展開の過程を考察するとともに、この運動の思想史上の意義を解明することを目的とするものである。1901年の社会民主党の結成に端を発し、日露戦争期の平民社、日露戦後の新紀元社と日本社会党、そして社会主義運動分裂後の「議会政策派」へと連なる黎明期の社会民主主義の流れは、従来の歴史研究において、他の社会主義の諸思潮(アナーキズムや国家社会主義)の流れとともに、「初期社会主義」ないし「明治社会主義」として一括的に扱われてきた。だが、社会主義・民主主義・平和主義という三つの理念を掲げて出発した明治期の社会民主主義は、議会制民主主義の是非をめぐってアナーキズムと、また平和主義の是非をめぐって国家社会主義と、鋭い対立関係にあったのである。こうした思想的特質をもつ黎明期の社会民主主義を、他の諸思潮から区別される独立した研究対象として扱うことによって、日本における社会主義運動の原点としてのみならず、自由民権から大正デモクラシーへとつながる民主主義運動の媒介者として、また日露戦争期の非戦論に発する平和運動の起点として、日本近代の思想史上における明治の社会民主主義運動の重要な位置が浮かび上がってくるはずである。

このような黎明期の社会民主主義の思想と運動を創り出した中心人物が片山潜であった。片山は1884年に単身米国に渡り、十一年に及ぶ苦学生活の中で社会学とキリスト教神学を学んで、96年に帰国した。それはちょうど、日清戦後の産業革命の急速な進展に伴い、労働問題や都市問題など「社会問題」が日本にも出現し始めた時期であった。帰国した片山はいち早くこれらの問題に取り組み、キリスト教に基づくセツルメント事業の実践者として、また日本における最初の労働組合運動の指導者として、さらに都市改革の先駆的な提唱者として、活発に動き始めた。これらの活動を通じて片山は次第に、「社会問題」を根本的に解決にするには、生産手段の私有に基づく資本主義制度を根底から改め、社会主義のシステムへと移行させねばならないと確信するようになった。そしてこの理想の実現に向けて片山が打ち出したのが、労働者を政治的に結集しその力を背景に普通選挙を実現することによって議会に労働者の代表を送り込み、立法手段を通じてその権利を拡充し、徐々に生産手段を公有化して公正な生産と分配のシステムを確立することを目指す、社会民主主義の運動方針だったのである。国際社会主義(第二インターナショナル)運動と連絡を取り合いながら、片山は1901年の社会民主党の結成を主導し、以後十年に渡って社会民主主義運動のリーダーとして活躍した。この運動は、明治末の「大逆事件」を背景とする大弾圧の中で逼塞し、活動の道を絶たれた片山は1914年、亡命同然の形で米国へと去って、その後二度と日本の土を踏むことはなかった。

本博士論文は、こうした片山の半生の思想と活動の軌跡を丹念に跡付けることによって、黎明期の社会民主主義運動の形成と展開の過程を、その思想的源流から解明してゆくことを目指すものである。かかる研究目的と方法の下、本論文は大きく四つの課題を設定し、それぞれの課題に対応する四つの部から構成されている。以下、それを説明する。

第一の課題は、片山の思想形成のあり方を少・青年期に遡って明らかにし、後の社会民主主義運動につながってゆく思想的な基盤をそこに探り出すことである。この課題に取り組む「第1部 片山潜の思想形成」は、以下の三つの章から成る。第1章では、幕末・維新期の農村で庄屋の次男として成長した少年片山が、故郷の美作地方を襲う歴史的激動に翻弄されながら、やがて〈文明〉の中心へと向かう情熱に衝き動かされてゆく経緯について考察した。第2章では、1881年の上京から、84年の渡米を経て、96年の帰国に至る十五年間の片山の軌跡を追い、その間における彼の思想発展の過程を追究した。東京の漢学塾で国家意識を植え付けられた片山が、渡米後の苦学の中でキリスト教に入信し、その信仰を通じて「人類」という観念を得て、やがて国家を超える全人類の同胞としての一体性の実現を自己の任務とするに至る過程が、そこで跡付けられた。続いて第3章では、片山が米国の大学や神学校でキリスト教とともに摂取した社会学の内容を検討した。十九世紀末の米国で深刻化していた労働問題や都市問題など「社会問題」を、片山は先進諸国の産業文明の弊害たる暗黒面として理解し、その克服を目指して文明社会を改良する手段として諸種の社会事業を実地に学んだのである。

第二の課題は、社会民主主義の思想と運動が二十世紀初頭の日本に登場する思想史的背景として、資本主義的産業の発展に伴って現れる労働問題など「社会問題」への対処をめぐる諸見解が、日本社会の中でどのように形作られたかを解明することである。この課題に取り組む「第2部 明治日本と社会問題」は、第4・5章の二つの章から成る。第4章では、日清戦争前の日本で、来たるべき「社会問題」についてどのような議論が知識人たちによって行われていたかを検討した。そして、社会問題への対応策をめぐり、社会政策学・国粋主義(政教社)・資本家の金力による労働者鎮撫論(福沢諭吉)・労働者組織論・社会的キリスト教、という五つの思潮が当時存在していたことを明らかにした。また第5章では、いわゆる社会問題が日清戦争後に実際に出現するにあたり、それまでの議論では客体的対象にすぎなかった労働者自身がいかなる主体的意識を形成してゆくかを、初期労働組合運動に即して分析し、とりわけ同職集団の広範な連帯を支えた熟練工のエートスに光を当てた。

第三の課題は、1896年日本に帰国した片山の、日清戦後に出現した「社会問題」――労働問題と都市問題に対する取り組みを検討し、その理論と実践を通じて社会主義の思想がどのように結晶していったかを究明することにある。この課題に取り組む「第3部 片山潜と社会問題」は、第6~8章の三つの章で構成される。第6章では、労働問題への対応として片山が推し進めた労働運動の経過を追い、それとともに発展した彼の思想の動きを分析した。片山は労働問題の本質を「文明的工業制度」の賃労働システムに内在する労資間の分配の不公正として捉え、これを改善する手段として労働組合や協同組合の運動の実践に取り組み、さらに議会を通じた労働立法を目指す政治運動へと進んで、最終的に社会主義の立場に行き着いたのである。第7章では、都市問題を解決するための片山の都市政策論すなわち「都市社会主義」を考察した。「都市文明の賜」が少数の有力者に独占される一方、それに伴う弊害は多数の無力な市民の負担に押し付けられるという、文明の産物をめぐる分配の不公正に、片山が都市問題の本質を見ていたことを本章は明らかにした。そして、都市問題の解決策として彼の示した、民主主義に基づく都市政治論と公共的・独占的事業の市有に基づく都市経営論とを結合させた都市社会主義の論理構造を、詳しく分析した。第8章では、当初社会改良家として出発した片山が、社会問題を解決する唯一の道として資本主義システムの克服=「革命」を主張するに至る思想の過程を考察し、彼の到達した社会主義理論の内容を分析した。米国で学んだキリスト教と社会学に基づく進化ないし進歩の観念が彼の社会主義受容の土台となったこと、そして彼の社会主義革命論もまた基本的に進化論の枠内にあったことが、ここで解明された。

第四の課題は、以上三つの課題をめぐる成果の上に立って、本論文の主目的たる、黎明期の社会民主主義の思想と運動が片山を軸にどのように形成・展開されたかを明らかにし、その思想史上の位置を究明することである。「第4部 社会主義・民主主義と明治国家」は以下の三つの章から成る。第9章は、社会民主主義運動の源流として日清戦後の普選運動・労働運動・社会主義運動の三者が片山を中心として合流し1901年の社会民主党の結成へと向かう過程を追った。その際特に、社会主義と改良的社会政策および民主主義とがどのように結びついたかを検討することを通じて、この時期の社会民主主義の思想的特質を明らかにした。第10章では、1905年のロシア第一革命と日比谷焼打事件の衝撃をきっかけに、社会民主主義の運動と思想が日露戦後に再編されてゆく経過を跡付けた。そこでは特に幸徳秋水の「直接行動論」への移行に焦点を当て、幸徳が明治憲法体制のみならず議会制民主主義自体に対する懐疑を深めて、社会民主主義から離脱してゆく過程を追究した。第11章では、幸徳らの直接行動論ないしアナーキズムに対抗して社会民主主義運動を継承する片山ら「議会政策派」の、明治末期における思想と運動の展開を考察の対象とした。この章では、とりわけ明治憲法体制の枠内での民主化を通じて社会主義への合法的変革を目指すという、議会政策派の革命の論理を詳しく分析した。そして、苛烈な弾圧と迫害に粘り強く抵抗する片山たちの闘いの中にこそ、社会民主主義の思想を前進させる可能性の契機が含まれていたことを明らかにした。

終章では、まず本論で追跡してきた片山の半生の歩みの総括を試み、彼の思想と行動の基底に「文明」と「進歩」に対する一貫した信念が存在することを確認したうえで、この信念を軸として片山の足跡を再構成した。ついで明治日本における社会民主主義運動の総括として、a.民主主義、b.労働運動、c.人類同胞思想という三つの視角から、その思想史的意義および限界を次のように明らかにした。まずaについて、社会民主主義は、普選・政党内閣・言論思想の自由などを主張した点で大正デモクラシーの先駆としての意義をもつ。が、そこにはまた、明治憲法体制における天皇や軍隊の問題を軽視する傾向が一般にみられた。次にbについて、社会民主主義者の主張は単なる社会政策を超え、労働者自身によって労働問題を解決するという原則から、労働者の力で労働立法を勝ち取ることを目指すものだった。しかし労働組合運動の再建に失敗した彼らの主張はついに現実を動かす力を持ち得なかった。最後にcについて、明治期の社会民主主義者は、大日本帝国のアジアに対する侵略行動を批判し続けた当時唯一の勢力であった。しかし彼らの画期的な帝国主義批判の思想も、苛酷な弾圧の中で後退を余儀なくされたのであった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「明治日本における社会民主主義の形成――片山潜とその時代」は、幕末から明治末期まで、農民出身であった片山潜(1859-1933)が、どんな体験を経てキリスト者となり社会民主主義を求めて働いたか、そこで担った労働・組合・都市社会・国家といった問題は何だったかを、当の人物とその時代に具体的に踏み込んで思想史的に探究した論文である。従来の片山論を踏まえ更に乗り越えるべく、片山が懐いた時処と状況により深く入り込み、社会民主主義を希求する片山の活動形態を、出来る限り遡及し続けている。

内容に関わる要点をいくつか捉える。「第1部 片山潜の思想形成」では、誕生からアメリカ留学までの片山の人生を辿る。片山は生家と共に幕末明治初期の農村の一揆・騒動を体験し、応対する曽祖父への強い倫理意識をもちつつも、さらに文明に向けての学問と立身に向かった(第1章)。彼は上京するが挫折し漢学を学ぶなかで、「真の学問」を求めて貧者ながらも渡米する。そこでの援助・学問を機に「国体」を超え「全人類を同胞とする」「地球の生命」としてのキリスト教を、進歩・社会運動・社会福音観と共に抱く(第2章)。そこには、観念的ではない倫理的社会的な救済があり、実際、片山は、大学や神学校において労働や都市などの「社会改革」を行う社会学を学びまた実地調査を行い、また有機体論・進化論的社会観を持った。これらが、帰国後の片山の活動を準備したのである(第3章)。

「第2部 明治日本と社会問題」では、片山自身の体験から少し離れ、日清戦争以前・以後の日本における社会論の形態と労働の在り方を、大きく把握する。日清戦争以前に、まず先立って社会問題論が形成され始める。それは社会政策学、国粋的社会論、資本家労働者鎮護論、労働者組織論、社会的キリスト教など略五つの思潮として発生したといえ、これらは戦後の社会・労働問題の予防策でもあった(第4章)。日清戦争後になると実際の現実として経済発展とともに貧富隔絶があらわれ、これへの応対が課題となった。これに対して、以前の伝統とは異なった自主的連帯の組合を組成しようとする運動が、例えば鉄工組合として発生したことが可能性として指摘できる(第5章)。

「第3部 片山潜と社会問題」では、日清戦争後、明かに出現した日本の「社会問題」に対して、帰国後の片山がどう取り組んだかをとらえる。片山は、最初、社会改良事業を、セツルメントとして行ったが、直ぐ労働問題に向かい、そこから伝統的な組合をさらに組織化し、互助・教育・商議など協同組合を作る労働運動を行う。その運動は、当初、政治との関係は控えめであったが、憲政党内閣成立後(1898)、実際に政治に関与し始め、立憲政治下で「自治独立」する合法的な共働組合の全国化また国際化(人類・同胞)の方向を打ち出す。だが、「国家」への期待を懐くものの、治安警察法(1900)が強く相俟って、実際に行った鉄工の待遇改善の運動は結局敗北に終わる(第6章)。片山はまた、日清戦争前後の東京の変容における紛糾と汚染・環境悪化に対して、英国での認識を背景に、人々が集まるよりよき場所としての「都市」論を表わす。市民の生活・交通・瓦斯水道・土木等の形成を方向づける「都市社会主義」を論じ、また市会による「市民自治」、また「都市経営」を提言する(第7章)。

こうした片山の論理は、そもそも彼における社会主義思想の形成に結び付いていた。片山は、1898-99年頃、社会改良を論ずる際には、社会主義を福音として強調し、そこには「神の国」信仰に基づく目的としての進化論があった。ただ、その「楽観」は、1900年始めの治安警察法以後、打ち壊され、片山は、資本家制度への「革命」の必要を唱えるようになる。片山は、1901年5月、「社会民主党」の結成に与る。この党は即座に禁止されるが、片山はさらに『我社会主義』(1903)を記す。本著での片山の論理は、「福音」を語り「進化」をもった、労働問題を根源としての「社会的革命」論である。しかも片山は、それが大日本帝国憲法に抵触するものではない、と考えていた(第8章)。

「第4部 社会主義・民主主義と明治国家」は、片山の運動と思想とを、「社会民主党」や周辺の他の思想家たちと対比しまた明治国家観において、いわば全体的に位置づけている。そもそも片山の労働や社会主義の運動は、「普通選挙運動」と共にあり、これを支えまた目指す取り組みであった。そこにまさに「労働党」の考え方があったのである。これはまた、明治憲法の枠内での自由平等の民主主義の主張であり、木下尚江の、「帝国」の破壊さえ宣言するものとは違っている(第9章)。社会民主主義者たちの内外の差異は、日露戦争(1904-05)後、日比谷焼打事件またロシア第一革命(1905)においてより現れてくる。ただ、片山潜は1904-1906年、多くアメリカで活動しており思想内容の変容はあまり見えない。論文では、堺利彦(1871-1933)、木下尚江(1869-1937)、山路愛山(1865-1917)、北一輝(1883-1937)、幸徳秋水(1871-1911)に踏み込み、堺の民衆への関与や戦略的発想の無さ、木下の政治への断念、幸徳の議会否定と直接行動論などをとらえる。一端合法的に成立した「日本社会党」(1906-07)では、議会政治を選ぶ田添鉄二(1875-1908)が、片山に近い継承者・活動者だった。ただ党は議会政治より直接行動を選び、結社禁止となる(第10章)。

では、片山自身の論理・活動はどうか。それが「明治末期の社会民主主義の行方――片山潜における「革命」と「改良」の隘路」(第11章)である。このあたりを調べる際、従来、その社会民主主義からの流れが「革命」運動だったか、資本主義変革を視野外においた「改良」運動だったのかが問いの構造になる傾向があった。が、著者は、この二項対立を超えるべく、「片山たち議会政策派」について、隅谷三喜男による論を引きつつ、理念としての「革命」と政策としての「改良」が並存する形態としての「社会民主主義」の運動だとし、それを歴史的に詳述しようとする。

本章では、片山が、1900年に「労働運動を政治運動に編成替えすることを優先した」ことの「失敗」を、彼自身「無上の教訓」としていることを押さえ、1907年頃からの、労働自身から出発する活動を見い出す(同第1節)。また「憲法治下における社会主義」の実行を見る。ゼネスト・ストライキもそこにあり(第2節)、それはまた無政府主義とはまったく違う合法的な社会民主主義であり、かつ国際社会主義運動(第二インターナショナル)の「万国社会党」に与ることでもあった。が、結局は、直接行動派のみならずこの議会政策派も順次強く弾圧される(第3節)。「大逆事件」だけでなく、議会政策を説く片山も、その後逮捕・服役し、やがて米国へ出航する(第4節)。

終章では、全体を改めて振り返った後、片山の社会民主主義が、安部・堺、さらに大正デモクラシーに繋がること、キリスト教については、彼において信仰が冷却したより純化したと見るべきではないか、と指摘する。

片山潜は、社会民主党(1901)における最も高齢の創始者でまた社会民主主義の重要な論者だが、従来、彼の活動は十分とらえられるより敬遠される傾向すらあった。これは、片山が最終的にソ連で晩年を過ごしており、戦後の社会主義・共産主義からも、片山を敬うにせよ、明治期の行動は必ずしも重要な意味を持たなかったからだろう。初期社会主義研究においても、片山はやはり微妙な位置をもつ。

これに対して、本論文は、明治期50余歳までの片山潜の活動を深く辿り、その意味を改めて再構成する。これは近代日本社会民主主義史の空白を埋める作業として、大変高く評価できる。また、当時の社会民主主義の背景として、片山自身について、その少年期から留学期の体験、キリスト教社会思想との関連もよく押さえている。その片山の論理において、神の国、進化論、自立的社会論また都市論の形成があることも、従来あまり見出されなかったものに踏み込んだ仕事である。

片山たちが立ち上げた社会民主主義は、当時のみならず現在でも、政治的関心から消えているようである。本論は、その空白に介入しこれを改めて再考する優れた手立て・方向となるだろう。またその片山において根本的課題として現れる労働観も、いま改めて調べ考えるべきものと言える。

とはいえ問題はさらに残る。片山は「憲法下」の活動を説くが、その在り方は何か。特に、「天皇大権および軍隊の問題」については、触れられてはいるが、更に片山論として調べ位置づけるべき問題だろう。また、1903-07頃の何度かの渡米はどんな意味を持ったか。片山は最終的に出国後、国際的活動をし、晩年にソ連の人となるが、これらが一体何であったか。そこでの共産主義とかつての社会民主主義とはどんな差同があるのか。これら当該の日本を越えた状態についても、詳細に位置づけるに資料は少ないだろうが、課題が残っている。

片山以外の当時の思想家たちについて、よく触れているが、その評価・位置づけについて、さらに議論がまた叙述が必要だろう。これは結局、当の「社会民主党」が何であったか、「社会民主主義」と言えるものが何か、片山周囲の状態また後の歴史をどう見るか、といった問題になる。そこには日本史における社会運動が、いかに形成され、いかに断絶ないし継承されているか、といった課題が、世界史と共に現れている。

とはいえ、これらはやはり本論の次の課題だといえるだろう。本論文は、従来見落とされる傾向があった明治日本の社会民主主義またキリスト教思想といった重要な活動の可能性を改めてはっきりと見出している。それはおそらく20世紀末以後、21世紀初めにして漸く発生した優れた研究である。時代を遡及することで従来の近代史観を越え、そこに社会民主主義を見出す仕事であり、その問題意識も高く評価したい。本論文は、当該研究分野において画期的な地平を開くものであり、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定する。

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